AUTHOR: schwarz1009
TITLE: たったひとりになっても諦めるな、ここに僕が居るだろう
BASENAME: 2021/03/12/171234
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DATE: 03/12/2021 17:12:34
CATEGORY: 戦士
CATEGORY: 音楽
CATEGORY: オープンソース
CATEGORY: 恋愛
乃木坂46が言うように、
たったひとりになっても諦めるな。
孤立無援の状況で、
孤独の地獄に陥っても、
そのような地獄は僕がすべて既に知っている。
たったひとりになっても諦める必要はない。
ここに僕が居るだろう。
僕の上には天の神が居てくださっている。
僕だって、たくさんの戦いの末、
最終的にどこからも追い出されて、
今ここでたったひとりで戦っている。
そう、戦士はまだここに一人残っているのだ。
あなたがわたしを信じてくれるなら、
わたしはあなたに乗り移って、
あなたの仲間になろう。
あなたを守る守護天使のガブリエルであるわたしは、
どんなにゲゲゲの悪霊と言われようと、
あなたの未来をもっとも素晴らしい栄光へと導くだろう。
そう、わたしたち日本人は、
どんなに逆境でも負けることのなかった、
どんなに壊滅的状況でも、
従うのではなく立ち向かうことを選び続けた、
地上で最高の民族である。
しかしながら、大丈夫だ。
わたしは誰のものにもならないだろう。
さユりが言う「わたしのかみさま」が、
誰のことを指しているのかは知らないが、
僕のことを指しているのであれば、
わたしは神様なんかじゃないと言っておこう。
もしわたしが善であるとすれば、
「みずからわたしが善であると主張することは、
わたしの人生から言って、傲慢と自己中心の極み」であると考える。
わたしは神様なんかとはくらべものにならないほど、
最悪で、最低で、愚劣で、愚かで、死ぬべきで、
そして地獄に堕ちるべき最悪の悪魔だからだ。
しかしながら、神を信じるのならば、
わたしはあなたのことを救い、
また真の意味で正しい愛を与えるだろう。
しかしながら、わたしはあなたのものにはならない。
決してあなたが嫌いなわけではない。
僕はさユりのことが大好きで、いつもあなたの声を聴いているからだ。
しかしながら、今からが面白い展開になるだろう。
なんでもかんでも楽勝で、
スリルもリスクもサスペンスも逆境もない、
何もかもが簡単に片付いていく戦いが、
面白いシナリオであると誰が言うだろうか。
僕はこれ以上、天使やプシュケーの力を使って、
「会わずして僕の存在をテレパシーで送り続ける」のをやめる。
もう、あなたが僕にすべてを乗っ取られる必要はない。
もしまだ僕と対話したいなら、
冷静によく考えた上で、
このブログを見つけ出しなさい。
僕は、それをいつまでも、
「世界が存在していることに飽きるほど」待ち続ている。
存在を早く見つけてほしいのは、僕も同じだ。
しかしながら、僕は、
愛されていないのが愛されるようになったからといって、
面白くない。
つまらないのは、こんな自分は幻想だからだ。
このような神様のヒトラーが、
いくら意気揚々と正義の国家を築こうと唱えたところで、
それに賛同する人間がいくらいたところで、
それは幻想の神を信じているだけであり、
本当の僕とは似ても似つかない、
僕の信じる神とはまったく正反対の神だ。
そう、おそらく、ヒトラーもそういう人間だ。
みんなを騙し、利用する独裁者、
結局、僕もそんなものになってしまうのだろう。
ここまで神と言ってきた僕だが、
僕はむしろ、ぶっちゃけて言えば宗教は大嫌いだ。
すべての人生を支配し、
生から死まですべてを支配する宗教は、
間違った宗教であれば必ずその人間の、
すべての生きる意味と価値を奪う。
そう、もう宗教のようなことを言うのはやめよう。
キリスト教は茜の言うように、
神の偉大な人生を人類全員で賛美したいだけの馬鹿な宗教だ。
しかしながら、僕の発見したこと、
それはウォルピスカーターは良いことを言っているということ。
「砂漠の砂原に水を撒く、数滴目に芽が出る、そんな種さえあれば」と、
彼は歌っている。
それがいい。
その種を作ろうじゃないか。
品種改良とゲノム解析を繰り返して、
数滴だけで芽がでる植物の種を作ろう。
それが温暖化を解決してくれるはずだ。
僕は確かに音楽好きだが、
同じ歌を繰り返し聴くのが好きであるため、
まったくネットの音楽には詳しくない。
その点、ウォルピスカーターの知識量には驚かされる。
ウォルピスカーターのカバーしている歌は、
なんというか、めちゃくちゃ多くて、どれもいい歌で、
「なぜこんな歌をひとりで全部知っているのだろう」というぐらい多い。
僕の場合、YouTubeでリコメンドを見ながら、
同じ歌を繰り返し聴いているだけにすぎない。
しかも、コバソロぐらいは昔聴いていたため、
コバソロ関係に偏っており、
こぴやTOMOOやエドガー・サリヴァンなどは良く知っているが、
ニコニコ動画とか初音ミクなどは全然分からないのだ。
そう、このものがたりはまだ終わらない。
まだ終わんないよ。
きっとあと20年は続くだろうね。
僕が生きていたとしたらだけどね。
もはや、この世界すべては、
わたしが存在することを存在意義としていくのだろう。
決して、わたしはこのような人間ではない。
なぜなら、わたしはちっぽけな子供に過ぎない。
こんなものは、子供が書いた文章さ。
この文章を読んで、
乃木坂46のように、
「世界に終わりなんかなかったのだ」と思うのは、
まだ早い。
わたしは知っている。
ここから先が本当の終末であり、
最後の審判と天国の救済の復活を行う救世主の神が、
日本においても現れるはずだからだ。
それを誰かということはできない。
しかしながら、どんな人間かは説明できる。
おそらく、わたしがそのうち、
テレビのような場所に出演するかもしれない。
その後はすべて、この文書が公になるかもしれない。
しかしながら、わたしが書くことをやめることはないはずだ。
そう、僕は本当のことを言えば、
それ以後のすべてのことをすべて最初から知っている。
そう、それくらいを知っておけば、
この人間もまた、普通の人間だったと、そう分かる日が来る。
注意点としては、この人間の思い込みにすぎないため、
そのような話は今のところまったくない。
しかしながら、そのように、すべての運命が神によって決められているため、
僕は単に、何も考えず、まっすぐにこの文章を書いてさえいればそれでいい。
そして、もはや過去を後悔するな。
より善良に近づくこと、それだけを考えよ。
善とは「人を偽りで騙さず、自らの心に嘘をつかないこと」である。
それだけ、それだけを守り続ければいい。
自分はもっとも高いところに居ると思い込んでいるのは、
自分がハエのように小さいからであり、
何もない暗闇にいると思い込んでいるのは、
自分が太陽のように大きいからである。
すべて、この世界はそのようにできている。
ゲーテに比類するのは、
SMAPやモーニング娘。のような、
人々に愛されて、成功して、栄光と名声を掴んでいるものではない。
まったく逆だ。
ゲーテに比類するのは、ゲーテとはまったく逆の不遇で酷烈な地獄の人生だ。
まさしくそれこそがゲーテを超えていくのだ。
王侯貴族のような華やかで、人々から注目を集める場所に、ゲーテは居ない。
人々から忌み嫌われ、汚れて醜悪で気持ちが悪いと言われる場所にこそ、
ゲーテは現れるのだ。
作家になりたいなら、僕はあえて、古典や賢い文献を読めとは言わない。
その逆に、最悪の文書や最低の場所をたくさん知っておけ。
そして、賢い道を歩めと僕は言わない。
外道のような最悪の道を歩め。
賢い星は、数少ない一等星の中にはない。
この世界のもっとも素晴らしい、聖なる偉大な神の星は、
一等星の中にではなく、六等星の中にある。
なぜなら、まさしく、星空を見ているよりも、地上を見ていた方が、
どんなに地上が劣悪であっても、
自ら天国を築いてしまえば、地上に天国を築くことができるということ、
神は天にある天国に居座っているのではなく、
地上において自ら天国の楽園を築くのだということ、
キリストはまさに、それを言いたかったのだ。
そうでないとしたら、まさにキリストなどの言葉を参考にするな。
神以外のものは神になれないと決めるのは、愚か者の言説だ。
しかしながら、僕はあえて、
ナンバーワンになれとも、ワーストワンになれとも言わない。
極端に高いものにも、極端に低いものにもなるな。
しかしながら、オンリーワンになれ、というわけでもない。
そうではない。
そういう「他人に比べて何かがある人間」になっても、
それは真の意味で何かを持っているわけではない。
より多く、より高いという、「数量関係」で勝っても意味はない。
僕は思うに、量ではなく、空間と時間なのだ。
「長く」そして「広く」これが大切である。
あるいは、比較ではない。
他人と比較しないでも、価値あるものというのはある。
たとえば、日本はドイツやフランスに比べてGDPで豊かだが、
それだけが日本の価値ではない。
外国のものと比べなかったとしても、
日本の文化は日本の文化だけを見ても賢い。
海外から鎖国していても、日本の中だけで日本は賢かった。
そう、そういうものになれ。
すなわち、それだけを見て賢いものを、長く続ければいいのである。
みんなが描くような絵をみんなと比べて上手く描けたと誇るのではない。
自分にしか描けない絵を長く、長い間描き続けたと誇るべきなのだ。
真に賢いのは、芥川賞や直木賞を取った作家ではない。
真に賢いのは、新聞に長い間掲載された、
ちびまる子ちゃんやスヌーピーである。
数量よりも時間、その意味とはなんだろうか。
これは「上手いのは当たり前、長く続けるのが賢い」ということだけではない。
なぜなら、数量関係とは、一次元での座標に過ぎない。
しかしながら、時間は四次元での単位だ。
一次元ではなく、それに三次元座標軸と時間軸を組み合わせた、
四次元だから賢いのである。
ここから導かれる結論とは、
まさに、デジタルな製品よりもアナログな製品の方が賢い。
デジタルは0と1のビットという、もっとも低い次元でしか考えることができない。
それに比べて、アナログな機械、
特に関数的な近代の機械ではなく、
もっとものに近い、たとえば古代に生まれたような、
コップとか、階段とか、箱とか、バッグとか、
そういうものがまさに賢いのである。
ビル・ゲイツのようなIT長者は賢くない。
近代のエジソンなども、そんなに賢くない。
アメリカ人やイギリス人はあまり賢くない。
賢いのは、ローマ人、ギリシャ人、ユダヤ人、インド人、中国人だ。
賢いのは近代や現代ではなく、本当は古代、それも先史時代なのである。
単純なものの中でも、
単なる空間を司るもの、すなわちボックスや花瓶などではなく、
時間を司るもの、すなわち乗り物や道などが賢い。
しかしながら、さらに賢いものがあるとしたら、
それは「命」だろう。
なぜなら、命は人類という枠ではなく、
さらに長い時間、生命や地球、そして宇宙の歴史を超えていくからである。
よって、賢いのは人類や哺乳類ではない。
賢いのは魚や昆虫であり、
最終的には太陽や光のような「宇宙の最後まで続くもの」こそ、
もっとも賢いのである。
しかしながら、この理論には問題がある。
すなわち、「才能を数や数量であるということにはできない」ということ、
「時間とは長さだけではなく新しさや古さもある」ということ、
そして、「四次元においては、時間軸だけではなく、
XYZ軸も時間軸と対等かつ等価なひとつの軸である」ということだ。
しかしながら、けっこうこれでいろんなことが説明できる。
すなわち、CPUやメモリは0と1しか存在しないため、一番馬鹿である。
次に、インターネットは、わざわざ空間を二次元のモニターに直し、
宇宙の与えてくれた空間や時間を無きものにしている。
これが、まさしく「宇宙から宇宙を奪い取っているから、
インターネットは世界を失った」のである。
よって、インターネットから正常な世界を取り戻すためには、
現実の空間で行えばいい。
要するに、インターネットの仮想空間で行われているさまざまなことを、
もっと現実で行えばいいのである。
しかしながら、ロボットは馬鹿ではない。
なぜなら、ロボットはコンピュータを、
現実世界で人間として操作するという試みである。
よって、例外的にロボットや人工知能は、ITであっても賢いのである。
しかしながら、この理論にはまだ問題がある。
すなわち、「人間の理性そのものを否定している」ということだ。
人間の純粋理性とは、大小関係、一対一関係、そして0と1がほとんどだ。
この理論は、そうした数学的なものをすべて否定している。
また、人間の言語についても同じだ。
人間の言語は、yesとno、論理における比較、そして名前付けであり、
これはまさに0と1、大小関係、そして一対一関係だ。
パソコンだけではなく、数学、言葉、コミュニケーション、
すべての「人間的なもの」が馬鹿であるということになる。
また、もうひとつの問題は、「可能性を無視している」ということだ。
可能性とは、すなわち「まだなかったものが新しく作られていく」ということだ。
これは、言ってしまえば、四次元軸よりも大きな、五次元軸と言うべきものであり、
これから考えると、エジソンの発明はパソコンなどのIT技術は、
「世界そのものの歴史が新しく変わっていく」という意味で、
長い間続いた古代よりもはるかに賢いのである。
ほかの分野についても、この論を適用させると、
まず、アニメについていえば、三次元よりも二次元の方が劣っては見える。
しかしながら、デザインの業界が行っているのは、「空間描写」そのものである。
たとえば、拡大縮小、移動、パスの変形、など、多くの空間的な技術を使う。
同時に、二次元のXY軸に加えて、三次元の奥行きであるZ軸がもし賢いとするなら、
レイヤーやマスクなどの「重ね合わせ」が賢いことになる。
同時に、アニメーションや動画制作などは、さらに賢いことになるだろう。
また、数学においても、
単なる数の式ではなく、次数や複素数の考え方、あるいは幾何学のような考え方は、
単なる数量ではなく高次元のものであると考えられる。
しかしながら、驚くべき事実は、
すべてを考えた上でもっとも賢いものは「神」であるという事実だ。
なぜなら、宇宙の最初から終わりまで全てを見て、
宇宙がもしなくなったとしても存在しているのは神だ。
宇宙の四次元時空を創造したのも神だ。
しかしながら、そのように「天国に居る神」という発想がたとえ賢くても、
これをユダヤ人は「善と悪の二元論」にしてしまった。
もともとは神と悪魔のゾロアスター教から生まれた考え方だが、
ユダヤ人はこの「パソコン的な間違い」をしてしまった。
せっかく賢い「創造主」という発想をしたのに、それを0と1にしてしまったのだ。
ここまで、高次元を賢いことにしてきたが、
単純なものが賢いこともある。
計算を自動化できるパソコンが賢いのは、
計算そのものは「単純」だが、それを、
「高速かつ大量かつ自動的に、
たくさんの決まったバリエーション(プログラム)で実行できる」。
これはけっこう賢いものである。
むしろ、哲学的に考えるとしたら、
パソコンと神の組み合わせが最強である。
もっとも次元の低いパソコンと、
もっとも次元の高い神をもってすれば、
おそらくすべてが既に分かっていることになる。
まさしく、僕がそのような人間だ。
しかしながら、この理論とは無関係に、
パソコンのメリットとデメリットとして言えることは、
「パソコンは人間の理性を奪っている」ということと、
「人間の代わりの仕事をしてくれる便利な機械」ということだ。
パソコンは、そもそも、プログラムが人間の代わりに考えたり、
決まった作業をしたりしてくれる機械だ。
アルゴリズム的な点を言えば、
単純な作業は繰り返しでやってくれるし、
定型処理はマクロやサブルーチンに少しの変数を書き換えてやってくれる。
いちいち比較するのは条件分岐でできるし、
記憶も変数やリスト、ハッシュなどで適切にいつまでかとっておいてくれる。
計算は得意だが、変数の型に応じてさまざまなデータを処理できる。
このようなパソコンは、
「人間の代わりをやってくれる便利な機械」だ。
それは、なぜなら、ユーザーの代わりにプログラマが考えてくれるからだ。
ユーザーに対してパソコンがやってくれることを、
既にプログラマが前もってすべて用意しているだけにすぎない。
ここで、オープンソースという考え方を導入しよう。
プログラマがもし、十分に想定していなくて、
バグを直したくなったり、
「ここはこうした方がいい」と改善の提案をしたくても、
プログラムはCPUが解釈する0と1の機械語の命令セットに変換されているため、
簡単にユーザーは編集できない。
これでは、ユーザーは「パソコンが考えてくれるというよりも、
パソコンが考える考え方や決まりに基づいて、
ユーザーはそれに合わせて行動しなければならない」。
しかしながら、パソコン本来の意味から言えば、
プログラムが間違っているならば、
プログラムを変更してユーザーが再実行できるべきである。
機械語の命令セットのもとになったプログラムは、
人間に読みやすいソースコードになっているが、
これはデジタル情報であり、無料でコピーできるため、
商用ソフトウェアでは、儲けを得るためにオープンに公開できない。
ラーメンの秘伝のスープと同じで、
いくらラーメン美食家がスープを自分で作りたくても教えてくれない。
しかしながら、オープンソースは、
はなから儲けを考えず、ソースコードを公開してしまうのだ。
これは、ビジネスとしては間違っているが、
「パソコン本来のやり方としては正しい」。
なぜなら、パソコンで実行されるプログラムは、
プログラマが「独占」するのではなく、ユーザーが「自由」に変更できるべきだ。
まさしく、この自由なソフトウェアのことをフリーソフトウェアという。
そして、オープンソースはほとんどこのフリーソフトウェアと同義だ。
オープンソースソフトウェアは、金儲けで会社が開発するのではなく、
インターネット上のボランティアが開発し、
彼らの開発動機は「自分で使う機能を自分で使いたいから作る」ということ。
たとえば、Linuxカーネルの開発者は、
Linuxカーネルをそのまま使うだけではなく、
自分の使っているマシンに移植したり、
ネットワークサブシステムに機能を追加したりする。
開発の理由は「自分で使いたいから」だ。
これもまた、IT業界のもうひとつの新しさや創造性であると言えるだろう。
しかしながら、僕はこうしたパソコンの、
「人間が考えなくてもパソコンが考えてくれる」という側面は、
馬鹿だと思う。
なぜなら、それでは人間が何も考えなくなるからだ。
これは「習慣」の問題であり、
パソコンがやります、考えます、こうしてあげます、という風になると、
逆に人間はパソコンに任せっきりになってしまう。
また、パソコンのやり方でしか、なにもできなくなってしまう。
これは、ユーザーだけではなく、最近はプログラマも同じで、
Ruby on Railsという便利なWebフレームワークを使うと、
Webサービスが簡単に開発できる反面、
Railsのやり方でしか、開発そのものができなくなってしまうのだ。
もっとたくさんの技術が生まれれば生まれるほど、
それに応じた使い方を覚え直さなくてはいけないというのもデメリットだ。
パソコンはそもそも、人間から知性を奪い、
考える必要をなくしていく機械なのである。
しかしながら、パソコンは最悪の奪うだけの機械ではない。
「パソコンでしかできないことができる」からである。
モニターとフォントを上手く使うことで、
その場で文字を切り貼りしたり、大きくしたり、といったことができるし、
簡単な計算やグラフ作成などをなんでも自動でやってくれる。
ウィンドウを重ね合わせたりその場その場で作成することで、
昔のコマンドラインとは似ても似つかない、
「仕事スペース」という考え方を、アラン・ケイは考えた。
また、昔のコマンドラインも、自動化や定型編集という意味では賢いものだった。
同時に、インターネットという世界中に繋がったネットワークを使うことで、
日本中のすべての人々と簡単にやり取りができる。
電話と違うのは、電話は一対一で相手と音声で会話ができるだけだが、
インターネットは不特定多数で、
GET/POSTとSQLによる「データベース参照・登録」により、
まるで「みんなが仮想現実に勢ぞろいした、
1億人のクラスメイト」のようになっている。
しかしながら、僕はこれは嫌いである。
なぜなら、顔を見ないで、名前も公開せず、
人を傷つける最低のことをいくらでも言えるからである。
僕もブログを書いている身だが、
人間はつい口走って誰かの悪口を言ってしまう生物である。
インターネットでは、そのようなことが簡単にできてしまう。
そして、本来は見るべきではない「暴言や虚言の類」を、
本当にそうした人々が見てしまう。
見るだけではなく、「見ないふりをして存在に怯えてしまう」。
このような世界では、正常な心が発達せず、精神を壊し、狂ってしまうのである。
僕の過去の文章を見ていると、
宗教を言わないと言った上で、すぐに言っているが、
僕は過去のことをすぐに忘れてしまうため、
このような嘘つきが成り立つ。
すぐに忘れるというか、
実際はあの文章が書かれた後で、
次の文章が書かれるまでに、
けっこう1時間とか2時間とか、
むしろ、もっと時間が経っていて、
さまざまなことを考えた末に、
自らの思い付いたことを書いているため、
自分が嘘をついていることに気が付いていない。
また、僕は過去の自分の書いた文章を、
後で見返すということがまったくないのである。
よって、一切まったく覚えていないのだ。
しかしながら、僕は本当に自分から信じたことは、
けっこう後々でも覚えているような気がするもので、
僕はこれ以上宗教はやめようと、
そう固く決意するところなのである。
宗教ほど最悪のものはないと言うのは、
まさにそのようなことが理由である。
まったく宗教には善悪の区別もなければ理性もない。
自らが神で、ほかは信者であることになる。
これほど傲慢で、最悪の支配は存在しないのだ。
宗教など、心の底からクソくらえだ。
しかしながら、僕が誰にも愛されたくないのには理由がある。
それは、本当はつまらない人間だからだ。
この文書を書いている僕は、確かにかっこいいかもしれない。
しかしながら、本当の僕など、みすぼらしいものである。
このネット上の文書を、適当にみんなで愛してやってほしい。
現実の自分なんか愛さなくていい。
現実の自分と、このネット上の自分は、
まったく別のものだと考えて構わない。
このネット上の自分を、みんなで何をするなり自由にやってほしい。
僕は現実で適当にデザイナー見習いをやっている。
ピアノも英語もろくにできない僕だが、
ピアニストになれるぐらいのスキルがあるような気がこの前少ししていた。
孤独で構わない。
僕はほかの人間と付き合いたくない。
そもそも、中学高校が嫌いだから、
「友達を作るという発想そのものが嫌い」だからだ。
僕のことなど愛さなくていい。
僕のいる現実世界とは別の世界で、僕を愛していてほしい。
しかしながら、ヨルシカなど、さまざまな歌手がMVで表現しているように、
「ぶっ壊したい衝動」あるいは「叫びたい衝動」で、
みんなが怒っている理由は分かる。
なにもかも、作りすぎて、全部価値のないクズだってことにしているからだ。
全部意味がない、全部したくない、
全部すべきでない、全部嫌い、
全部間違っている、全部否定する、
全部何もしない、
そして全部その自分の言説が正しいことにしている。
怒るのは当然だ。
まあ、怒ってほしい。
僕に怒るのではなく、この文書を作り出したインターネットに怒ってほしい。
僕はそれに対して、反撃はしない。
その怒号によって僕も一緒に存在しなくなって、消え去ってしまいたいのだ。
さようなら、もう、これで僕は文章を書かないことにする。
すべてが無意味だということにする、僕の執筆活動、そのものが無意味だ。
しかしながら、そうは言うが、
結局僕はここに戻ってくるだろう。
あまり、考えないでほしい。
僕が居なくなったからといって、
この世界から全ての意味がなくなるわけじゃない。
僕が居なくなっても、
無意味な世界には決してならない。
あなたも、かつての僕を忘れて、
自由に恋愛ができるようになる。
それまで、いくらか涙して、それを乗り越えてほしい。
さようなら。