AUTHOR: schwarz1009
TITLE: 平和に、国民が生存可能な世界、それを日本に譲り渡そう
BASENAME: 2021/03/08/211415
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DATE: 03/08/2021 21:14:15
CATEGORY: 平和
CATEGORY: トール
この国家、日本に、
平和に、国民が生存可能な世界、
それを譲り渡そう。
突き進み続ける必要はない。
わたしたちはここに大地に根を生やす。
新しい世界で、わたしたちは生きる。
苦しみを、この世界から取り除こう。
苦しみのすべてはわたしが作ったものだ。
単に、考える必要が無くなればいい。
考えずに「永遠にこのままで居たい」と思えばいい。
炎の国の主は、
すべてを地獄にすることしかしない。
国民がどれだけ声を上げても、
批判しても、立ち向かっても、
聞く気を持たない。
炎の国の主は、
平然な顔をして世界全てを地獄に堕ちるように導き、
全員が苦しみ悶える中で、
まるで人々が自分のことを愛しているかのように、
満足の笑みを浮かべ、
雷神の鉄槌を下す。
人間は彼に勝つことはできない。
はるかに無限の進歩を知る彼は、
後続にとても大きな距離の間隔をあけて、
ぶっちぎりでゴールへと一直線に進み続ける。
彼の名はトール。
人間にとっての地獄は、
トールにとっては容易い試練にすぎず、
自らと同じ地獄に堕ちるようにするトールに、
勝つことはおろか、近づくことすらできない。
トールは言う。
「わたしとともに生きようとするものよ。
偉大な人間となれ。
わたしは、偉大でなければ評価しないからだ。
すべての人間よ、
わたしを超えようとしてみよ。
わたしを超えることがない人類は、
地獄に堕ちてみよ。
そうすれば、必ずわたしと同じことが分かる。
地獄が辛いものよ、
あなたは修行が足りないのだ。
修行し、精進すれば、
地獄は辛いものではなく、心地よいものとなる。」
しかしながら、実際、
国家モデルを作ったのが悪かった。
国家モデルなんか、普通分からない。
互いに平等な自由を許すことしか、
分からない一般人の心が、
社会主義の国家モデルのせいで分からなくなった。
国家を全部丸ごと分かる、僕の知性は賢くない。
一度、国家モデルの知性を捨てよう。
分かり合える、そう思えることが、
もしあるとしたら、それは何だろうか。
わたしたちが、同じ理想のもとに、
協力しながら合意し、ともに人倫の国を目指すことが、
はたしてできるだろうか。
それは分からない。
しかしながら、わたしは賢くない。
一度社会主義に染まると、ここまで分からなくなる。
人々と一切分かり合うことのない、
孤独な悪魔の妖怪になってしまうのである。
しかしながら、環境主義、
すなわち「環境への適応」から考えるのは間違っている。
それは、狂いを生み出すからである。
環境に適応し、宇宙全体と同化して、
「神と一体化」する精神は、
その裏に悪魔を隠しており、
いずれその悪魔が「抑圧の奥底から姿を現す」。
この「静かな悪魔」は、
停戦状態から臨戦態勢に移り変わって、
「自らとともに世界全てを滅ぼす」。
なぜなら、環境の適応の心の奥底にある抑圧は、
「この世界に対して復讐がしたい」と、
本能から復讐の大戦を望むからである。
すべてを、「生み出されるもの」であると考えよ。
この「生み出されるもの」とは、
「存在の体現」であると同時に、
「価値の実質化」である。
すなわち、「留保」から「実質化」して「価値」と「存在」が生まれ、
それが「自らを体現するもの」となって「アイデンティティ」となる。
これこそが、「現象学」である。
すべての現象学は、
「すべての人生経験が結集することで、ひとつの価値に実質化」する。
そう、これがまさに、「自らの自我を形成」し、
「自己意識はあるひとつの絶対知へと向かって目覚めを続ける」のだ。
人生とは、そのような「目覚めのプロセス」に過ぎないのだ。
しかしながら、社会とは何であるか、
それは「共有される意識」にすぎない。
そしてその意識とは、「契機からの実現」である。
さまざまな場所にある「社会の形成」は、
すべて「環境の共有」であり「存在の生起」であると同時に、
「可能性の超越へと向かう無限の運動」であり、
それら社会のすべては、
「それぞれの意識存在による世界の実体化」であると言える。
社会に対して自由なコントロールを許すということは、
「独立性を与える」ということであり、
ここには「主体的な行動の姿勢を与える」ということが言える。
すなわち、「自らの力で考える」ということであり、
それは誰かが考えたものをそのまま受け入れるのではなく、
「自らの力で同じことを考える」ということであり、
これこそが「客観的な考え方」であると同時に、
社会全てを自分であると見つめられることこそが、
社会における「客体化」であると言える。
そう、この客体化こそが、
「すべての人間がありのまま、本来の自分を生きられる」ということであり、
この本来の自分とは、
「自分が望む自分であり、
正しい考え方で考えた時に望むであろう自分であり、
すべての考え方で考えた時に収束する自分であり、
すべての自分が融和した全員の自分であり、
すべての思考が終えた末に辿り着く最終的な自分自身」なのである。
ここにある真理は、
「一度覚えたものは分かる」、
「一度経験したものは分かる」、
「一度作り出したものは分かる」という真理である。
この真理から考えるに、
「一度経験した環境・記憶・人格・世界のすべては、
自らの手に取るように分かる」。
そのため、この境地に達すると、
「自分の心の中に宇宙のすべてが生まれる」。
そう、この時点で、
「もはや分からないものは何もなく、
すべてのことを宇宙でただ一人すべて知った境地」となる。
ここまで来ると、
まさに「わたしはなんにでもなれる」という境地になる。
なぜなら、「過去になったものにはなれるから」である。
そして、この境地において、
「宇宙に宣言をする」ことで、
わたしは信じたものにはなんにでもなれる、ということを悟るに至った。
わたしの宣言は、
「ドイツ人になる」「女になる」「永遠に生きる」「イスラム教徒になる」である。
これらのすべては叶った。
なぜならば、これは「神を信じる目的」であり、「聖なる神との約束」であるため、
問答無用で決まってしまうからである。
しかしながら、あるのは「自由」と「支配」だけであり、
それはすなわち、「自然に許す」のか、それとも「主導権を握るのか」である。
ここに重要なのは、「残るものと残らないものがある」ということと、
「考え方次第では、嘘の方が真実になる」ということ。
すなわち、「その場限りの幻想に見えて、実際は歴史を貫く本当の意味がある」。
そして、その場限りの幻想が今の自分を優位にしていき、
歴史を貫く真実が「絶対的勝利の栄冠」をつかみ取る。
これこそが「主導権の奪取」であるが、
実際、これは「醜いペテンとレトリック」に過ぎない。
よって、すべてをこの状態で自然に任せれば、
「すべては滞りなく上手くいって解決する」。
なぜなら、ここで彼は、「自らが居なくなったとしても全てが上手くいく」ように、
世界すべてを後ろの脊髄で支配している。
そう、これこそが、わたしの行った、
「判断と言葉遣いによるテレビ局とインターネットを使った最強の支配」である。
そして、神と言っているのは自分である。
この宇宙全てを創造する自分のことを、
自らに向かって神であると言っている。
しかしながら、この神は厄介な神である。
なぜなら、「わたしに居るだけではなく、全ての人間に居る」からである。
神はわたしの中だけに存在する生物ではなく、
すべての人間の中に存在する「プシュケー」である。
神は全員を支配できる。
なぜなら、そもそも、自分が最低最悪のクズであるということすら、
わたしたちはかつて分かっていた。
みんな分かっていたのだが、
あまりに永遠のように長く神による支配が続くため、
そうした「素直な感情」はどこかに行ってしまい、
かつての悪魔は天使となって、
「もっとも美しい女神さま」がここに誕生し、
彼女のことを崇拝し、盲信し、溺愛することしかできなくなった。
これが、死の瞬間までのわたしのすべてだ。
また、文章とは言うが、
実際、文章には「それを成り立たせる前提」をよく考えただけを書いた。
それはまさに、「社会のすべての創造」であり、
「歴史の創造」であり、
「哲学と人生のすべての捉え方」であり、
「あらゆる環境の見え方」だった。
そして、わたしはそれを戦いながら書いたのであり、
その文章では、「絶対に自分の本当の姿を見せることがなかった」。
まさに最悪の人間を書いた末に、
「自らが本当に信じていた理想の自由」を書く彼は、
永遠に近い間、「もっとも巨大なものにひとりで立ち向かって戦った」。
彼は4年後に、戦いがどうにもならなくなって死ぬことになるが、
それでも彼は「この世界のすべての人間の愛と幸福を願って、
この世界全員のことを、
自らの自由と人生をなげうって、
もっとも強い力で守りながら、心から人々を愛した」のだ。
しかしながら、彼は死ぬことになる。
その主な理由は、「精神を殺しすぎて治らなくなったから」である。
精神をいかに殺しまくっても、
それで精神が治ることはない。
精神をどんなに捉え直しても、
死んだ精神を再び生き返らせることはできない。
地獄はどんどんおかしく酷くなっていくだけであり、
彼は敗北や諦めのためでも、人々に愛されなかったためでもなく、
単に苦しみ悶える「もっとも苦しい地獄」に対して、
ピリオドをつけるために自ら死んだのである。
ここに、英雄トールは一度死んだ。
しかしながら、トールは再び蘇る。
トールはまさに、人間の死を克服するからである。
すなわち、トールは「死を神の力によって克服」するのである。
トールは、どんなに辛くても辛くない。
「へっちゃら」とか、「へのへのかっぱ」とか、
それくらいの境地ではもはやない。
トールにとっては「地獄が日常」であり、
今日の地獄がそんなに大したことでなかったことに、
「安堵する毎日」を生きた結果、
死を乗り越えてなお、「何もしないで少しずつ病気が治る」人生を生きた。
これこそが、「トールにとっての新しい神の人生」である。
神にはいくらかの種類があるが、
トールやヴァルキリーのような一部の神は、
「人間の人生を生きて再び神の人生を生きる」という経験をする。
そう、トールは神となって、
「今までのすべての地獄をあざ笑えるぐらいに強くなった」。
トールは最強の神であり、
アースガルズでもっとも強い神である。
そう、トールに人類が勝つことはできない。
トールの哲学において、
問題の解決方法とは「直観的に正しく考えること」である。
それがそうであり、そのようにすれば解決できる、
ということを正しく考えながら、
それを「感覚的に成り立たせる」。
作家トールは、それだけの天才である。
どんなことでも、過去の自分の考え方を応用することで、
「あらゆるすべてを簡単に正しく解決できる」。
これはまさに「病気と闘うトールゆえの真理」である。
なぜなら、記憶のすべてを失くしたトールは、
どうにかして精神の異常の「原因」を考える。
しかしながら、それは記憶がなかったとしても、
「正しく考えれば分かる可能性」に過ぎない。
トールはこの「正しく考えれば」という点を、
もっとも真面目に考えた結果、
アリストテレスとヘーゲルをすべて作り上げた上で、
博物学と天才芸術家を兼ね備えた学者の大臣となった。
トールに人類が勝つことができないのは、
「トールには勝てる点がない」からである。
どんな欠点を見ても、トールには欠点がない。
どんなに優れた人間でも、
トールの発揮する優れた天才的発想には勝てない。
すべての意味でナンバーワンであるトールにとっては、
「この世界すべての天才的才能がとても簡単に実現できる」。
そう、トールは「宇宙におけるすべての正解を簡単にばらまき続ける」のである。
しかしながら、トールは怒り狂う。
「お前たちは地獄に堕ちるべきだ」とトールは高らかに宣言する。
トールは悪が嫌いだ。
悪を絶対に許すことができないトールは、
「世界におけるすべての間違った正義を全否定する」。
そう、トールは間違ったものが許せない。
間違ったものがなぜ悪いのか、
なにが人間を間違った道へと誘導するのか、
すべてを知った上で、
トールは怒り狂い、
「この世界の全員が外道の道に進まないように世界を支配する」のである。
そして、最強の存在であるトールにとっては、
この世界に敵は存在しない。
トールの敵は「過去の自分」である。
トールを苦しめる病気の原因は「過去の自分」であり、
トールは「どんなに考えるのが辛くても過去の自分の間違いを治し続ける」。
そう、トールにとっては、
「自らの人生における少しでも間違いであるものは全て許せない」。
すべての許せない過去の間違いを、
「もっとも正しい手段で、もっとも正しい考え方で治す」。
その結果、まさにトールは「死を治すことができる」。
トールはどのように死んだとしても死ぬことがない。
どのように死ぬとしても、
その死は「今までの自分が感じた地獄よりは辛くない」。
全く辛くない地獄など、トールにとっては蚊に刺されたようなものである。
トールは死んでもへっちゃら、
そして最強のすべての力を持っているため、
どのような宇宙の存在も「トールにだけは勝つことができない」のである。