AUTHOR: schwarz1009
TITLE: 僕は何のために生きているのだろうか
BASENAME: 2021/02/25/202243
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DATE: 02/25/2021 20:22:43
CATEGORY: 道
CATEGORY: ジークフリート
僕は何のために生きているのだろうか。
この世界はなぜあるのだろうか。
自由とは何だろうか。
平和の価値とは何だろうか。
運命は本当にあるのだろうか。
人生とは何だろうか。
あらゆるすべてを知った時、そこにある境地とは何だろうか。
人々を愛するためにはどうすればいいだろうか。
自らだけがひとり分かるとしたら、その道はどこへと続くのだろうか。
僕が思うに、大切なのは慈悲の心と、知恵である。
慈悲とは、人々を慈しみ、愛することのできる人間のことだ。
知恵とは、この世界を変え、正常な世界を実現するための、本質のことだ。
僕とは何だろうか。
人々とは何だろうか。
僕と人々が関係するところには、何が生まれるだろうか。
知性で考えるとは、どういうことだろうか。
気付くことができた時、僕は何を知り、何に驚くだろうか。
理由とは、何だろうか。
人々がそこに居たとして、
僕はその人々に何をすべきだろうか。
僕はその人々に何を言い、どう関わるべきだろうか。
人々を幸福にするために、何ができるだろうか。
人々を導くために、何を前もって作り上げるべきだろうか。
愛する人が居たとして、
その人の何を守るべきだろうか。
何かを奪うだけではなく、何かを与えるために、どうすればいいだろうか。
与えるためには、何を自ら生み出すべきだろうか。
何を吸収し、何を作ることができるようになれば、
それによって何を人々に与えられるだろうか。
明らかに分かった事実を、どのようにすれば伝えられるだろうか。
芸術的な美しい作品は、何を積み上げれば作ることができるだろうか。
宇宙には、何があり、またかつて何があったのだろうか。
宇宙の歴史において、
地球の今のこの時代とは別の世界があったとして、
それは事実何だったのだろうか。
地球以外の世界があるとしたら、それは何だろうか。
歴史に残らない歴史があったとして、それはどのような物語だったのだろうか。
実際のところ、奇跡とはどのようなものだろうか。
わたしであっても、奇跡を起こすことはできるのだろうか。
行動の前提となる、なんらかの本質があったとして、
それはどのように生まれるのか。
知識、学問体系、環境、状況、経験など、
そのようなあらゆる本質のすべてを知ることができたら、
わたしであっても学問を創始することができるだろうか。
そう、おそらく、それは可能だ。
平和とは何だろうか。
平和とは、そもそも、実現可能な平和とは何だろうか。
わたしたちは、何を知ることができて、何を知ることができないのだろうか。
わたしたちには何ができるのだろうか。
わたしたちには何ができないのだろうか。
できることと、できないことの境界線は何だろうか。
そもそもわたしたちには、何ができるのだろうか。
そもそもわたしたちには、何が知りえるのだろうか。
そもそもわたしたちには、何が築きえるのだろうか。
そもそもわたしたちには、何が作りえるのだろうか。
そもそもわたしたちには、何が考えられるのだろうか。
真実とはなんだろうか。
わたしたちが観測するこの世界は、本来の姿を表現しているのだろうか。
わたしたちは、何かを知る時、何を知っているのだろうか。
わたしたちは、何かに気付く時、何を分かっているのだろうか。
知る前提となるこの世界の本当の姿とは何だろうか。
分かる以前にある、この世界のありのままの真実とは何だろうか。
正しい愛とはなんだろうか。
疑うべき嘘の愛がもしあったとして、
僕の愛がフェイクだったとして、
それならば、何が正しい愛で、
僕の愛はどこが間違っているだろうか。
僕の愛を、より純化していった時、それは正しい愛になるだろうか。
もっとも清らかな精神には、汚れはひとつもないならば、
そこにあるすべてとはなんだろうか。
本当の価値ある尊厳とは、どのような愛だろうか。
子供たちを愛するとはどういうことだろうか。
子供たちにとって、
どのような状況と世界を与えることが、もっとも最善だろうか。
支配ではない、自然な自由とはなんだろうか。
トップダウンの変化ではない、自然な変化とはなんだろうか。
支配することなく、
自由意志だけで社会を築くことはできるだろうか。
いつでも自由気ままに生きられるような、
理想的な自由な社会は実現できるだろうか。
インターネットと現実は、何が違うだろうか。
インターネットで起きる人間のコミュニケーションは、
現実世界と何が違うのか。
インターネットのさまざまな社会活動から、
人生にとって大切な受容性を知ることはできるだろうか。
まさに、できるはずだ。
全員が自由だったとして、
そこにどのような社会を築くことができるだろうか。
僕が自由だったとして、
僕はどのような人生を生きることができるだろうか。
僕が自由な人生を生きられたとして、
それを他の人にも与えることができるだろうか。
世界はいずれ、どのような世界になっていくだろうか。
ヨーロッパとは何だろうか。
日本とは何だろうか。
僕たちの進むべき方向はどの方向だろうか。
愚かな道ではなく、賢明な道を歩むために、
僕たちは何を信じ、何を望み、何を叶えるべきだろうか。
言語とは何だろうか。
心とは何だろうか。
言語と心は、どのように関係しているのだろうか。
自己とは何だろうか。
人格とは何だろうか。
僕と他人とは、何が違うのだろうか。
心の奥底には、何があるのだろうか。
僕はかつて、どのようなことを想い、
どのような知性と精神を心の中に築いてきたのだろうか。
どのようにあるべくして、僕の心はここにあるのだろうか。
忘れてしまった、隠してしまった心は、
その時作った鍵で、今でも開けられるのを待っているのだろうか。
賢明にものごとを決めるとは、どういうことだろうか。
どのようにすれば、成功するだろうか。
どのように対処すれば、失敗のリスクを回避できるだろうか。
何を知っておくべきだろうか。
どのような対処策を事前に考えておくべきだろうか。
過去に作り上げたものの中で、役立つものは何だろうか。
どのようにすれば、滞りなく、最後まで順調に事は運ぶだろうか。
世界は、どのようにしたら生まれるだろうか。
世界を変えるためには、何をどのように変えるべきだろうか。
何を知れば、何ができるようになるだろうか。
何を理解すれば、何が変えられるようになるだろうか。
何かを知った時、そこから何ができるようになるだろうか。
できるようになる、変えられる、生み出されるとは、何だろうか。
人々を笑顔にし、喜ばせるために何ができるだろうか。
哀しませることと、感動させることの、違いは何だろうか。
人々の本当の望みとは何だろうか。
人々に対して、どのような素晴らしいものを与えられるだろうか。
何をどうすれば、そのような素晴らしいものが作り出せるだろうか。
自分の今までの人生や生き方の中で、
何が正しく、何が間違っていただろうか。
ありのまま生きることが、正義になるとしたら、
あるいは、悪になるとしたら、それはどういう生き方だろうか。
生き方が正しいとは、どのようなことを言うのだろうか。
正しいものの見つめ方をするために、
何をどう観測し、予測し、分析し、実験し、説明し、捉え直す必要があるだろうか。
正しい反省をするためには、どこでどのような経験を積むべきだろうか。
正しいとは何だろうか。
間違っているとは何だろうか。
矛盾するとはどういうことだろうか。
どのように説明することが正しい説明だろうか。
どのように理解することで、矛盾なくすべてが説明できるだろうか。
矛盾があるとしたら、どのように矛盾を捉え、説明するべきだろうか。
成立とは何だろうか。
その状況で、その状態がそのようであることが、何を意味しているだろうか。
その状況で、何が成立しているだろうか。
成立しているものは何だろうか。
成立していないものは何だろうか。
成立しているものが、そこで成立するために何が必要だろうか。
成立していないものが、もし成立するためにはどうすべきだろうか。
それが成立しているということが、何を意味しているだろうか。
結局、その裏側にある法則とは、いったい何だろうか。
どのような法則が考えられるだろうか。
その法則が裏にあるとしたら、それはどのような表現で世界に現れるだろうか。
その世界に現れているものから推論して、どのような法則があるだろうか。
そして、その法則の通りに考えるならば、この宇宙の今のこの状況は何だろうか。
人間がもしわたしと同じように生きているとしたら、
彼らはどのように生きているだろうか。
同じような孤独と苦しみを分け合って生きているのだろうか。
彼らが見る世界は、わたしと同じだろうか。
苦しみや辛さを共有できるとしたら、それはどのような苦しみだろうか。
世界はどのように生まれるのだろうか。
環境とは、状況とは、
それぞれの人格とは、人生の進むべき方向とは何だろうか。
自由を作り出すとは、どのようなことだろうか。
そう、昔の僕は、ここまでを考えて分かっただけに過ぎない。
心を開くためのプロセスとして、
インターネットのさまざまな人との会話があり、
もっとも大きな影響力でこの世界を支配した。
そう、まさに僕が大魔王となるに至る、すべてがここに記述された。
この世界の全員は同じである。
違う人間が居るとしたら、それはこの世界の唯一の支配者だけである。
神がたったひとりで居る理由とは、
神はこの世界を支配し、他は全て神によって支配されるからである。
すべてはここに証明されたのである。
すべては、万人の自由によって変えられるべきである。
なぜならば、それがもっとも平等だからである。
制度も、思想も、すべて時代の移り変わりとともに変わっていくべきである。
なぜなら、仏教では諸行無常、すべては移り変わると教えられているからである。
基礎的な習得と理解があれば、
それ以上の応用はなんであろうと理解できる。
どんなことであっても、
基本となる判断力が備わっていれば、
すべてに対して正しい対処策を知ることができる。
社会の構築であろうと、芸術の創造であろうと、
人類の救済であろうと、名作の執筆であろうと同じである。
しかしながら、一度考えつくしておくことで、
すべてのことに気付くことができるということは特筆に値する。
なぜなら、あらゆるすべてをオープンソース的に作り変え続けることが、
この世界を新しい星にするだろうからである。
現実とリアルを見れば、この世界にはほとんど何もない。
なぜなら、この世界は相対的な同じものの、
互いに関わった中での関わり方と、
互いに組み合わさった中での組み合わせ方にすぎない。
すべては小さな素材の作用と関係性であり、
あるのは自由と方法だけである。
そしてそれらは、知性によって「意識の現象学」の一部になれる。
すなわち、わたし自身がそれらこの現実世界と「同一化」するのである。
そこには、「人知を超越した存在の超越化」と、
「限界を超えたあらゆる世界のありのままの存在性」のみがあるのである。
進歩とは何か。
それは、知が経験によって、見え方が変わっていくことである。
知の見え方とは、
まず「知識」から始まり、
それが「本質化」し、
自由や環境的作用から「実体化」し、
ほかとの関わり合いの中から「客体化」していく。
それはすべて、社会そのものの「倫理化」から、
思想として「結実」し、
最終的には「説明化」され、
それは自らの行動から「自在化」されて、
最終的に「絶対知」となる。
それはまさに「世界自身である絶対精神を明らかにしていくプロセス」なのである。
心の中に全世界が生まれた時、
すべては説明できる。
何も分からなくなっても、
世界の大切なものすべてを犠牲にしても、
自らの大切なものを永久に失う哀しみを感じても、
戦いは問答無用で自らを奮い立たせる。
そう、ここに世界と立ち向かう「英雄」が生まれた。
世界すべてを自己否定に巻き込むならば、
何が正しいか分からなくなったならば、
本当の神の愛がそこに誕生するだろう。
あなたは、死によって復活し、
滅亡の日を誕生日として、
この宇宙における永遠を記録する。
全力で世界の強大なる力と立ち向かうあなたこそ、
新しい「革命」である。
まだ現れていない、
とっておきの最後のキーパーソンがここにある。
精神の奥底に隠したそのとっておき、
それは心を開くこと。
本当の本音を、まだ一言も僕は語っていない。
ここまでは、千両役者に過ぎない。
本当の裏のラスボスは、ここに最後に登場するだろう。
すべては、学習に基づく経験的知性である。
この知性は、「環境の認識」に他ならない。
環境を認識すること、
環境に適応すること、
環境を支配し、支配されることが、
あらゆるすべての経験の前提となる「前提状態」である。
すべての認識の前提となるのは、
経験に基づく環境的観測であり、
観測することと、その観測した通りのことを、
「自らその認識となって体験すること」、
すなわち「知ったことを為していくこと」が、
わたしたちの生きる意味である。
その為すということは、
「為すこと自体に自分自身の本質を形成するという意味がある」。
これが、「アイデンティティ」である。
今ここに、自分が存在しているということ、
それこそが、自らの人生があったこと、
その理論が正しかったということの証明である。
わたしが今ここにあるのだから、
わたしはここに「正しいことを考えることができた」のである。
ありのままの自分を生きよ。
そうすれば、すべてはわたし自身に対するメッセージとなる。
すべての存在が、わたしに対して歓喜の声を賛美し続けている。
わたしたちはひとつであり、
人間という「個人の境界線を越えた融和」が、心には確かにあるのである。
心は、単純な「作用と成立」から、
時には「不確実なやり取り」を生み出す。
しかしながら、そうした場合にも「裏側の心は繋がっている」。
そのため、どんなに世界を滅ぼそうとしても、この世界は滅びない。
作用と成立から、環境的な「前提条件」を考えれば、
すべての自由の「仮象の世界」が見える。
そこにあるすべては「フィルター」である。
すなわち、「そうだと思えばそう見えるし、別のように思えば別のように見える」。
これこそが「経験の捉え方」であり、
もっとも高次元かつ超越的に理解すれば、
「この世界の全ての人格に矛盾はない」。
そう、わたしたちすべては「世界を見つめた必然的結果として生きている」。
この世界に、「過ちはあっても、間違いはない」。
理想は現実を要求し、現実は理想を要求する。
どんなに世界が変わったように見えても、
自分が新しく見えるようになっても、
そこにある「本質は何も変わらない」。
救世主が革命家になったところで、
世界の王をやっていることに変わりない。
哲学者が政治家になったところで、
その本質となる「理想」は何も変わっていない。
すべてが地獄になり、滅亡を生きるしかできなくなったならば、
神を信じよ。
神を信じれば、必ずあなたを天の多くの神々は、全力で救ってくれる。
英雄よ、戦い続けよ。
どんなにぶん殴られたような経験をしても、
その前を向いて、常に立ち向かい続けよ。
運命の時を叶えるために、
この世界を救うための約束を叶えるために、
その目の前に映ったその人は、その時を待っている。
わたしこそが彼らを幸福にするのだと、
それだけを見つめて、真剣に、わたしはこの文章を書き続ける。
いずれ、運命の時は必ず来ると、
それだけを確信して、神は新しい言葉を告げてくれる。
この真実の愛を僕は知っているから、
どんなに不自由でも、永遠に続く不条理でも、
僕は諦めることなく、くたばるまで詩を書き続ける。
いざゆけ、英雄よ。
あなたの名はジークフリート。最後のドイツ国王だ。