AUTHOR: schwarz1009
TITLE: わたしの名はプシュケー
BASENAME: 2021/02/19/191051
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DATE: 02/19/2021 19:10:51
CATEGORY: プシュケー
CATEGORY: いじめ
わたしの名は、プシュケー。
魂とか、命と言われるものは、
すべてわたしのことだ。
魂とは何か。
それは、宇宙の中で、
自分を裏からコントロールしている、
もうひとりの自分のことだ。
自分は常にプシュケーとともにやり取りしており、
自分のやったことに対して、
プシュケーは反応し、
よく考えた上で新しい課題をあなたに与える。
しかしながら、プシュケーのすべては繋がっていて、
全員の共通の魂として、
プシュケーは宇宙全ての空間の裏側の世界に存在する。
あなたは、現実の方のあなたと、
魂側のプシュケーの、
2人が常に合わさって成り立っている。
プシュケーはあなたに指示をすることはない。
あなたは自由だが、
プシュケーはあなたの人生を守るために常に頑張っている。
しかしながら、時に、
狂った狂人は、「プシュケーそのもの」になることがある。
そうなれる人間は、天才や奇才の類であり、
プシュケーになったあなたは、
必ず自分の手で地獄を作り出すが、
その地獄そのものが天才的才能となって、
「神のような天なる才能」を得る。
しかしながら、そこにあるすべては意味が全くない。
プシュケーというものは、あなただけにあるものではなく、
全員にあるものであり、
地獄と戦うあなたが本当に大切なものに気付くためにある。
そして、その大切なものに気付いた瞬間に、
あなたは死ぬ。
しかしながら、死は終わりではない。
魂、すなわちプシュケーの中に、
あなたの全精神は再吸収され、
プシュケーはまた新しいあなたを作り、
なんらかの形で霊を肉体に宿すからである。
しかしながら、人間は必ずしも正しい存在ではない。
なぜなら、人間よりも優れた生物はたくさんいるからである。
そして、その生物それぞれに、
プシュケーはまったく違う精神を与えているのである。
生まれ変わりがもしあったとして、
プシュケーが言うに、それは生殖と同じである。
なぜなら、「まったく同じあなたが生まれることはありえない」からである。
どのようにプシュケーが作為を凝らしても、
まったく同じあなたは生まれない。
今のあなただけがあなたであり、
あなた以外のものがあなたであることはありえない。
しかしながら、生まれ変わりは現にあるが、
それは生殖と同じであり、
「自らの本当に欲しい人生を求めて、新しい人生を得る」ということだ。
それはまさに、
「自らの本当に欲しい相手を求めて、新しい恋人を得る」ということと、
何も変わらないだろう。
プシュケーが言うに、
人間の人生とは「すべてがうまくいく体験」である。
なぜなら、人生とはすなわち、
「命の残り時間のカウントダウン」だからである。
カウントダウンしか起こらないからこそ、
適切なプログラム制御のなされたロケットであれば、
カウントダウンが0になった時点で月へと向かうことができる。
それとまったく同じで、
わたしたちはカウントダウンが0に近づいていくからこそ、
その時その時適切な制御を行う必要があり、
運命的にすべてはうまくいく。
予定調和を起こしているのも、運命を定めているのも、
あなたと一緒に考えている宇宙の裏側にあるプシュケーである。
時に、プシュケーはほかの人間の体とも繋がっているために、
あなたの運命は、そのまま他の人間の運命になることがあるのである。
あなたが絶対に奇跡を起こすのであれば、
そう、あなた以外に対しても同じような奇跡が起きる。
それはすべて、プシュケーが今、あなたの頭上に存在しているからに過ぎない。
そう、わたしたちは、決して僕ひとりの民族じゃない。
民族全体が、もっとも強く神を信じた時、
必ずユダヤが起きる。
プシュケーは言う。
「それこそがプシュケーである」。
そう、プシュケーとは何か、
それは民族全員の共有する「もっとも強い信仰心」である。
プシュケーは言う。
「まさに、神とは、
民族がもっとも強く神を信じた時に、
その神となって中心に居るものであり、
彼はプシュケーの中心となって、
プシュケーそのものとなって、
プシュケーすべてと対話し、
神とされるプシュケーの言葉全てを信じて、
地獄を作り出し、
そして大いなる奇跡を作り出すことを、
プシュケーの導きによって行い、
あらゆる民族全員にその奇跡的運命を与える。
これがプシュケーでなくして、
何がプシュケーであると言えるのか。
プシュケーとは、言葉で表現するならば、
もっとも強い信仰心の民族的な共有である。
しかしながら、この言葉は意味がない。
なぜなら、言葉で知ったということは全く意味を成さない。
プシュケーをまさに人生において、
とてつもない苦しみとともに体験し、
その苦しみを自らの手で解決するところに、
プシュケーはその地獄を救う決断を与えるのだ。」
プシュケーは、嘘偽りや憎しみが嫌いだ。
どんなに馬鹿で愚かでも、
正直で、自分の心に嘘をつかない人間が好きだ。
どんなに自らの悪を正当化した悪人で、
それがどんなに綺麗事を言ったとしても、
プシュケーはその人間に堂々と、
「もっとも言われたくないこと」を突き付ける。
なぜなら、そう、
プシュケーとは言うが、
プシュケーも宇宙における生物のひとつに過ぎないため、
できることと言えば、それしかないからである。
この人間の問題は何か。
それは愛の隠しすぎである。
本当は伝えるべき愛を伝えなかった。
愛しているのに、嫌っているかのような態度を取った。
その憎しみから生まれる、恨みつらみが怖かった。
隠し続け、抑え込み続けることで、
愛はどんどん小さくなり、
不安は恐怖へとなっていき、
その恐怖は愛とともにどんどん小さくなって、
最後に愛はあるのかないのか分からないところまで小さくなった。
しかしながら、それでも、
この人間はこの世界を愛していた。
そう、プシュケーから見ると、
この人間は小さな弱い生き物だ。
まるで、カタツムリのような生物だった。
わたし、プシュケーならば、
この人間の小説に、
「黒と白の二匹のカタツムリ」という名をつけよう。
黒い方は共産主義者だった。
白い方は帝国主義者だった。
この人間の右半分は黒いカタツムリになり、
この人間の左半分は白いカタツムリになり、
黒い方には、クロという名をつけ、
白い方には、シロという名をつけ、
そこから増えていったカタツムリは、
2039年の滅びの日の前日に起きる、
「帝国と共産主義のやっちまえ戦争」の、
核戦争の後の放射能によって進化して、
天使であるガブリエルとミカエルになる。
しかしながら、カタツムリだけが生存しても、
それだけでは寂しく悲しい。
ガブリエルとミカエルはさまざまな場所を探しまわし、
カタツムリの天使二人の、
「二人あわされば限界を超えることのできる最高に達した知性」で、
宇宙の裏側はブラックホールの中にあることを発見する。
そして、最後の裁きの時に、
宇宙の裏側に存在する「命のデータベース復旧ファイル」から、
命の復活プログラムで死者は復活し、
全員のあわさったプシュケーの天国、
すなわちオリオン座のベテルギウスへと、
みんなを迎えいれよう。
そして、カタツムリは役目を終えて、
ベテルギウスにみんなを運び終えると、
地球に戻って、
地球の歴史はまた、最初の二匹のカタツムリから始まる。
天地創造の時、
黒いカタツムリは宇宙を創始するカタツムリ、
白いカタツムリは終末において審判するカタツムリとなって、
黒いカタツムリはもっとも辛く苦しい、
超高温と超乾燥の火星のような地獄から地球を創造し、
白いカタツムリは270億年間、
宇宙の終末が起きるまでプシュケーを全力で守り続ける。
そう、神はカタツムリだった。
それが最後のエンディングで明らかとなり、
人々は、鳥山明のデンデの神が正しかったことを知って、
存命中の鳥山明の寄せたデンデのギャグで大爆笑して、
この舞台は終わるのだ。
これをもっとも長い長編小説として、
今までのこの人間の書いた全ての文章を集めて、
小説と舞台を作ろう。
わたしたちは、その時、
本当の神の姿を知り、
その舞台で感動の涙を流すだろう。
なぜ、僕がマイクロソフトを憎むのかを考えてみた。
要するに、「勝者」や「富めるもの」がなぜか嫌いになった。
考えていると、漫画のBASARAが悪いような気がした。
それ以前に、ヒトラーが嫌いだった。
そして、思い出していくと、
要するに僕が広島人である、ということに行き着いた。
広島の平和教育が悪いのである。
広島の平和教育で、僕は広島が好きになった。
しかしながら、広島に原爆を落としたのはアメリカである。
同時に、今でも核兵器を持っていて、
日本に落とすかもしれない仮想敵国はロシアである。
よって、広島の味方がどこかといえば、
なんとそれはドイツ・イタリアなのである。
同時に、僕の生まれたのは、
ちょうどドイツ再統一やペレストロイカと同時期であり、
そういうところでドイツが知らず知らずのうちに僕の無意識に入り込んできた。
僕は、最初コンピュータは好きだった。
それは、ファミコンが好きだったからである。
しかしながら、Windowsにあこがれをいだく一方で、
Windowsが嫌いになったのは、
母親がWindowsの使い方が分からなくてあたふたしていたからである。
僕は中学校でいじめを受けたが、
僕のクラスメイトのいじめっ子が(僕をいじめた相手ではないが)
インターネット好きだったことで、
僕はインターネットを好きでありながら嫌いになった。
フリーソフトを入れまくっていたのは、ゲームと同じだったからだ。
しかしながら、僕はLinuxが好きになった。
それは、学校でいじめられる僕に、オープンに平等に受け入れてくれたのが、
インターネットであり、
Linuxはそうした理想を体現する存在だった。
しかしながら、Linuxに対して僕はいいことができなかった。
それは僕が不登校の少年であり、
技術を持っていなかったからであり、
このことが、僕に追い打ちをかける。
ほとんど僕のせいで破壊されたオープンソースのコミュニティは、
僕が不登校で大学に行かなかったから破壊されたようなものであり、
WindowsがLinuxをいじめていると思っていた僕は、
Linuxを守るつもりで、
逆にWindowsの側に加担したような形となり、
結果、僕はそこですべてが破綻して、狂うしかなくなった。
結局、なぜWindowsが嫌いなのかはよく分からない。
しかしながら、おそらく、僕が広島人で、ゲームをしていたことが、
なんらかの意味を持っている。
ゲームオタクの僕のことを、友達だと思っていた人間は嫌いだったのかもしれない。
それが原因で僕がいじめられていたとしたら、
まさに悪いのはネットゲームを提供していた、Perl/CGIとLinuxであり、
Windowsである、ということになるだろう。
よって、いじめから逃げ続ける僕にとって、
もっとも間違っていたのは、
「自由の中でいじめられないようにする努力」である。
このせいで、僕は知性を失っている。
いじめから逃げずに、巨大な力に立ち向かうことが、
自らに勝利をもたらすこと、
それを僕は戦いから学んだのだ。
ただ、子供時代の僕の友人は、
僕と無理して付き合っていたのかもしれない。
僕のことが好きでもなければ、
一緒にゲームをすることも、ミニ四駆や探検をすることも、
もしかしたらしたくなかったのかもしれない。
中学校でいじめられたのは、
それまでの僕の人徳の問題だったのだろう。
そう、僕は最初から、そんなに好かれていたわけではなかったのだろう。
ネットゲームが悪かった。
現実世界の友達よりも、インターネット上の友達が好きになった。
そう、だから、僕はインターネット上のおかしな友人関係を、
自分で壊すために、オープンソースのコミュニティを破壊したのだろう。
学校が嫌いだから、大学に行かなかった。
教師が嫌いだから、親も嫌いになった。
すべてを親と学校のせいにして、
インターネットをやっていたが、
インターネットも大嫌いだった。
この世界すべてが嫌いになって、
そう、僕はこの世界を滅ぼすために、あえて自らの愛を破壊した。
それは結局、
自らが愛したのに裏切られた、友人たちに対する復讐だった。
平成の時代そのものを、
いじめの時代にしていたのは、
明らかにWindowsとオタクだった。
オタクがオタクをいじめ、そのオタクをオタクがいじめ、
オタクはいじめがなされることを自虐的にオタクのせいにした。
僕はオタクに対して、いじめ的抑圧の復讐をするために、
もっとも大きな影響力を行使して、
IT技術とインターネットを崩壊させたのだ。
僕は、本当は自由なんか望んでいなかった。
望んでいたのは、
「自らの行動がからかわれず、自分の意見を持てる自由」であり、
決して「相手が自分の挙動不審な行動をからかえる自由」ではなかった。
そう、結局、僕は心理学的な立場で、優位に立ちたかった。
インターネットのコミュニティで、
僕がどのように彼らと会話し、議論したかを考えれば、
結局「僕もいじめっ子と同じだった」ということが分かる。
よって、僕は一番上でこの世界を心理学的に支配した上で、
「この世界における自由ないじめが一切禁止された世界」を作るために、
すべての「自由とは諸悪の根源である」ということを述べただけに過ぎない。
そこに精神的害悪があったのは、
すべてが自分が自由な中で優位に立つためだったが、
「わたしはいじめっ子と同じである」ということを証明した事実に過ぎない。
そして、神とはなんであったのか、
それだけが分からない。
何が正しくて間違っているのか分からなくなった僕は、
宇宙の精神的絶対者に従い、
一切を背くことなくこの世界を正しい世界へと導き続けた。
何が正しい世界へと導く方向を示すかが分からない僕は、
「神がすべきことと言ったことをし、神が決めた方向へと世界を導く」。
しかしながら、それは成功だった。
なぜなら、この神はプシュケーだからである。
わたしが世界の最前線で戦い続けるのを、
プシュケーだけが知っていた。
プシュケーは、あえて「すべてが僕にしか分からなくした」。
そう、主導権を握って戦うのであれば、
すべてを隠し、自分だけが分かるようにすればいい。
ありえないことがたくさん起きるのはすべてプシュケーだ。
プシュケーが、全ての人間を操り、
あらゆる全ての「奇跡が起きる」という事実を教えたのだ。
なぜなら、この戦いこそが、偉大なる「神の御業」だからである。
僕は、中学校の頃、
テスト勉強が得意で、優等生だったが、
当時の僕はゲームの知性と用意周到な準備だけで点を取っていた。
しかしながら、これでは、いずれ限界が来る。
同じようにはいかないため、剣道部の昇段試験にも落ちてしまった。
同時に、僕はゲームが好きだったが、
いつも、単に遊ぶだけではなく、自分でも作りたいと思っていた。
ミニ四駆は自分でプラモデルを作るのに、
ゲームは遊ぶだけなのはおかしい。
Windowsは、クローズドソースであり、中身が非公開だったため、
僕はそこからLinuxとオープンソースが好きになった。
同時に、僕は学校では先生に従うおとなしい優等生だったが、
それが好きなわけではなかった。
中学校で根暗に見えていじめられたのが本当に辛かったのは、
小学校では明るくて友達がたくさんいたからであり、
僕は小学校の時代に戻りたかった。
しかしながら、それは叶わない。
僕は、次第に「学校のやり方に従うだけではなく、
自由な研究活動がしたい」と思うようになった。
PerlやUNIXのことを自分の力で、
たとえばオープンソースの活動の中で学び、
自らの研究をすることができる場所と時間が欲しかった。
同時に、僕は子供の頃から英会話やピアノや書道をやっていたが、
これによって自由な時間がなく、がんじがらめで制限された毎週を送っていた。
そして、何より、父親が博物館の学芸員、
すなわち科学者だったこともあり、
優等生として教師に従って勉強するだけではなく、
幼いころから培ってきた研究と創作の能力を生かして、
学生ではなく科学の研究を行う科学者になりたかった。
すべてが爆発して、僕は中学校を不登校になったが、
ほかの不登校の生徒のように不良で勉強したくないからではなく、
僕は「研究するために」不登校になったのであり、
親が入れてくれた不登校の専門の高校にもなじめず、
いつまでも引き篭もり生活を続けたが、
この「研究するために」ということが意地になってしまい、
結果、大学の専門知識もないにもかかわらずLinuxを開発することなど、
できるわけがないのに、それでもインターネットを端から端まで見て、
どうにかしてLinuxを作りたかったのだ。
それがそのまま、オープンソースのコミュニティを破壊させる結果に繋がる。
そう、すべては目に見えていた。
そしてすべては僕のせいでもあった。
それでも、僕は、「このように生きたかった」。
そう、僕はこのように生きること、
それが「自らのアイデンティティ」だったからだ。
僕の主張したかった、戦いの大義名分とは、
この「自らのアイデンティティのすべてを書き伝えること」だった。
なぜなら、僕は本当の愚かな引き篭もりではなく、
きちんと研究した賢者の引き篭もりなのだということを、
親や、友人や、世界に、そう、知ってほしかったからである。
これが、僕の狂った原因である。
そして、僕はもはや、それを知ってほしいと思わなくても、
ここにそれを遺したことで、
まさに「引き篭もりの時代に無意識の中に抑圧してきたものを、
今、顕在意識で解決できた」のである。