AUTHOR: schwarz1009
TITLE: 何も考えず、完璧な現状を維持して生きるのはつまらない
BASENAME: 2021/02/18/181355
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DATE: 02/18/2021 18:13:55
CATEGORY: 知性
CATEGORY: ガブリエル
何も考えず、
完璧な現状を維持して生きるのはつまらない。
何か、普通に考えよう。
何かを肯定し、何かを否定しよう。
まず、愛は肯定しよう。
人を愛することは悪くない感情だ。
しかしながら、現状維持を否定しよう。
今のこの世界は、明らかにおかしい。
間違っているのは、
数学、IT、大学、専門知識、宗教だ。
それらには、実際、最初から最後まで何もない。
愛し合う相手がほしいだけである。
僕のことを愛せる人間が居るだろうか。
僕は「いない」と思う。
僕のような人間は、誰も愛さないだろう。
間違った政治思想や、過激な集団は要らない。
自由主義かつ民主主義かつ資本主義でなければ、
それは僕たちの大切な世界を奪う集団に過ぎない。
正義は自由である。
子供たちを愛するなら、
どうすればいいかを考えよう。
平等は必ずしも理想ではない。
自分の意見が異なるものであっても、
それを主張することが許されることは自由か、
それともそうした意見を異にするものを、
みんなでいじめることが自由なのか、
僕には、どちらなのかは分からない。
本来の自分に戻るとして、
自分らしい生き方を選ぶとして、
それはいったい、いつの自分に戻ることなのか。
いつの自分が、自分なのか。
それは分からない。
しかしながら、おそらく、
どんなに憎くて嫌いでも、今の自分もひとりの自分である、
ということは認める必要がある。
すべてのことが、
考えて分かるわけではない。
しかしながら、もしかしたら、
考えても分かるかもしれないと、
そう信じなければ、考える意味がないだろう。
答えのでない問題の解答を、
わたしが考えて、みんなと同じように答えがでないのだと、
誰が決めたのか。
歴史上の何千人という偉人たちは、
みんな「誰も分からない問題を、自分だけは考えて分かった」のだ。
すべてが偶然だとしても、
そこには原因と結果があるのなら、
すべてが完全なランダムではない。
わたしがそれを思ったから、それをしたのだということが、
みんなも同じなら、
すべてのことが理由の因果性によって行われるということであり、
完全な必然もないと言えるのと同じように、
完全な偶然もないと言えるのだ。
人間の今見ている世界、
人知によって限界化された世界が、
この宇宙の真実の世界だと、
誰も言っていない。
プラトンは、この世界を「影絵のようなもの」であるとする。
影絵の元になった、本当にあるべき世界の姿は、
明らかにどこかにあり、
そして、その本当の世界の「影としてこの世界がある」とするなら、
まさに、本当の世界は、「影よりも美しい世界」なのだろう。
民主的な自由の認められた社会ではなく、
自らがその社会の権力を持つことのできない社会において、
支配者によって支配されるのであれば、
それは奴隷であると言えるのではないか。
奴隷ではない、平等な管理社会かもしれないが、
どんなに素晴らしい平和な社会であっても、
それは民主的な社会よりも劣った社会であると言える。
わたしは、そう考える。
しかしながら、自由は第一優先事項ではないということを、
肝に銘じておく必要がある。
なぜなら、「完全に奴隷でない社会」など、
成立しえないだろうと、わたしは同時に考えるからである。
みんなと同じ経験をすれば、
みんなと同じことは確かに分かるだろう。
しかしながら、「みんなと同じ」ということが、
果たしてすべてだろうか。
「自らだけの人生を生きる」ということが幸福であるとすれば、
みんなと同じ人生を生きる一般人に、そのような幸福はない。
歴史は、一朝一夕で今、生まれたものではない。
歴史のすべては、
できるだけ最善の判断をし続けてきた、
人類の必然である。
昔の世界が今よりも劣って見えるのであれば、
それは今の人類が賢くなった証であると言える。
わたしは、そう考えるが、
過ちや失敗を人類がしないとするのは間違っている。
なぜなら、過ちや失敗の結果、
明らかに今の世界は昔の世界よりも、不幸になっているからである。
しかしながら、誰かにそれを正してもらおうとすることが、
人類として生きている目的になってしまったら、
わたしたちは歴史の登場人物である意味を失ってしまう。
「わたしたちも世界を変えられる」と考えるべきである。
みんなを平等に受け入れてくれるような、
インターネット上の仮想現実のスラムがあって、
そこですべての、どんなに劣った人間でも平等に受け入れてくれるとしたら、
それは正義か悪か。
そこには、さまざまな悪人が汚れたインスタントな愛を共有している。
それを必ずしも、悪ということはできない。
わたしたちは、そうした場所で強くなることでしか、
正しいアイデンティティを自分の中に形成することはできず、
それでしか、本来の自分を明らかにしていくプロセスを生きるために、
殻にこもった心を開いていく体験をすることはできないからである。
みずからの信じた理想、
それが悪であることは分かっていた。
完全な悪を賛美して、
正義の人々を騙し、
たったひとりテロリストのように戦った。
しかしながら、大学のような教育・研究機関のないわたしにとっては、
まさにそれが大学の研究だった。
みずからの力と知性だけを信じて、
ぎりぎりの場所で戦ったわたしは、
この世界を滅ぼすことになった直接的な原因を作った。
しかしながら、そう、それはとても素晴らしい理想だった。
みずからの理想を体現するために、
あらゆる自由と知識と経験と知性を信じたわたしは、
まるでスターリンのように、十年以上もの間戦い続けた。
わたしが異常だったことは分かっているが、
それでも、この理想こそが、わたしの「本来の自分」だった。
しかしながら、今それを思い出してみても、
それはすべて「間違っていた」。
今でも、わたしは、その当時の青春の体験が、
正しかったのか、それとも愚かだったのか、
分かることはないし、それを考えることすら忘れてしまったのだ。
神と言っているのは、
本当は「単純の極み」である。
この世界のすべての事実を、
単純化し続けた結果、
生まれる発想は「神が導いている」ということであり、
まさに「この世界の裏側に神が居る」と、
それを神は奇跡によって告げる。
しかしながら、本当のところ、
その「神とは何なのか」、
それが分からないのに、神はそれを分からせ続ける。
神はこのような人間だ、
神はそのような人間だ、
神はあのような人間だ、
神はあなただ、
神はわたしだ、
神は誰だと、
神は告げるが、
そこには「一切人類の考えられる真実がない」。
この心が、あなたに分かるだろうか。
分かることはなくても、
この言葉で僕が何を言いたいのかを知ってほしい。
わたしの人生は神の人生である。
しかしながら、神が偉大なる絶対者であると、
僕は信じていない。
僕はまだ、「神がなんであるか、その正体を考え続けている」。
大学やIT技術には、なんにもない。
自らが大学の知識を知ろうとすればするほど、
自らの賢かった才能を失い続ける。
どちらかといえば、芸術や音楽を目指した方が良い。
そうしたものは、自らの賢かった才能を発揮できる。
大学やIT技術には、それがない。
わたしは、大学を間違ったものであると思う。
だからといって、賢者にできることは、
大学やアカデミアを作ることしかないということは、
まさに、僕が誰よりも分かっている事実であり、
それも真実である。
病気は治らない。
その時点で、生きる意味など、
考える意味はないだろう。
言ってしまえば、いつまでも病気のままであるのであれば、
生きる意味などその時点でないのであり、
その時点で、何か未来の希望を考える意味などない。
そう、ここに僕は「生きる意味の分からない地獄」から、
病気によって解放されたのだ。
病気は、厄災を与えるだけではなく、理性からの解放を与えるのだ。
生まれた時点で、
遺伝子によって全てが、
事細かく決まっているのであれば、
ただそれだけの話だろう。
そう、真実がそうであったとして、
その真実を果たして「信じる意味」があるだろうか。
そんな真実は、信じる意味がない。
なぜなら、それこそ、
すべては遺伝子であり、神であり、奇跡であり、運命であるとするならば、
それこそが単純化の極みであるからである。
人間より優れた存在は、
唯一絶対のひとりの神であると、
誰が決めたのか。
明らかに、大天使ガブリエルや、ゲゲゲの妖怪が、
わたしのことを導いたのであるから、
すべてを神であるとするユダヤ教は間違っている。
正しいのは、多神教である。
ユダヤ人はそもそも、この世界を滅ぼし支配するために、
ユダヤ教の旧約聖書を記したのだ。
そんなものを信じる意味はない。
ユダヤ教を信じない人間にしか、正しい人間は居ないのだ。
物理的法則しか、宇宙の法則がないなどということは、
ありえない。
仏教やキリスト教の教えは、明らかに正しいことを分かっている。
ドイツやフランスの哲学は、
物理や自然科学の観点から考えられることだけではない。
この宇宙には、今の物理学では分かることのできない、
もっと大きな法則がある。
ここにあるのは、明らかに世界であり、
それを正しい言葉で表現するなら「環境」である。
ここにあるのは環境である。
環境以外のものは、ひとつとして存在しない。
人間の人格や記憶、心すら環境であり、
不遜なことを言うのであれば、
「すべての環境はその一員としてコントロールできる」。
なぜなら、心の中の環境も、現実の環境も、
「自らあるいは誰かによって構築されたもの」であり、
「作り変えることのできるもの」だからである。
異質なものを全て殺し、
ひとりとして違った意見を認めないのであれば、
まったく同じクローンしか居ない社会になったとして、
その世界のどんなに気持ち悪いことであろうか。
全員が「誰かが作ってくれる」と期待するのであれば、
実際に作る人間が果たしているだろうか。
もっとも正しい功利主義哲学は「do-it-yourself」であり、
すべてはまず、自分から行うべきである。
誰かが誰かのために働いた時、
働いてくれた人に働いてもらった人が、
素晴らしいものを与えるということは当然だが、
その素晴らしいものを所有し、
貯蓄するということは許されるだろうか。
否、そうではない。
しかしながら、それが意味するのは、
常に働かなければ殺される社会、
すなわち「完全な奴隷」である。
そう、社会所有はまさに、最初から奴隷なのである。
一番馬鹿な人間に馬鹿な仕事をさせるのは、
当然なのだろうか。
そもそも、「平等な労働ノルマがある」ということが、
この世界において成り立つことがない。
全員が農業をして生きることのできないこの世界では、
平等は、必然的に身分社会になる。
そう、ここから導かれる驚きの事実は、
「身分社会こそが平等な社会」であるという事実だ。
一般人のほとんどすべてが同じ農業をして生きる身分社会は、
もっとも不平等でありながら、
実際はもっとも平等なのである。
しかしながら、平和は敵を許すことから生まれる。
敵を許し、敵からも許されれば、敵対関係は終わる。
ここに、「平和条約を締結する意味」がある。
相手が攻撃しないなら、自分も攻撃しないのだとする、
条約を結んでしまえば、必ずこの世界は平和になる。
東亜イスラエルを作る必要はない。
全ての国が平和条約を結べばいい。
それも、条件に妥協しないのではなく、
無条件で互いに攻撃しないのだと全ての国が決めるべきなのである。
調査研究し、全てを考え、
作り出して、なお分からないのなら、
神を信じるしかない。
これが、昔からのカトリックの教えである。
すべてを考える理性を否定はしない。
しかしながら、哲学的理性でも分からなくなった時に、
神を信じることで最後まで到達できると、
カトリックの教義を作った中世のトマス・アクィナスは考えたのだ。
ここに、僕の人生を生きた経験から分かった、
9つの格率を記述する。
1.一心不乱に努力すれば、道は開ける。
2.見返りを求めない、絶対的衝動による愛こそが、真実の愛である。
3.世界を変えるのは、自発的で積極的な手助けである。
4.確かに分かっている、知っていると実感することで、悟りは開ける。
5.ありのまま、全てを公開し、共有して生きることに、恥じることはない。
6.100%自分の責任であると考え、他人のせいにしなければ、悟りの道を生きられる。
7.正しい価値観を探すことこそが自由の目的である。
8.もっとも限界度の高い可能性で、真実を積み重ねれば、すべては可能となる。
9.もっとも高い影響力で、自らの力で判断すれば、負けることはない。
この9か条こそが、僕の人生の「格率」である。
また、社会のことを考えるのであれば、
武田鉄矢が言うように、全てのことをチャンス、
あるいは権限であると考えなさい。
すべてのことが「できる」ということが、
潜在的可能性がそこにあるという「チャンス」であり、
チャンスが行使できるとするのは「権限」である。
このチャンスと権限から考えれば、
カール・マルクスすら超えることができる。
まさに、自由とは、
「みんなにチャンスとコントロール権限を与えること」なのである。
経験から、すべては自由であり、
すべては自らの自由、あるいは自らと同じ境地まで達した人間の自由から考えれば、
変えられるのだということ、
自由とは単に好き勝手ではなく、成熟した正しい経験と自ら作った考え方に基づく、
ある種の「正しい文明の行き着く先」であると分かった時、
あなたはすべてのことを悟る体験をする。
学習から行動の原因を知り、
その心が環境からの作用によって生まれ、
環境を作ることも、心を作ることも可能であり、
その心は裏側の心で「自由をただ望んでいる」ということ、
全ての「不安や攻撃は自由を求めている」ということ、
そして「不安を解消する唯一の解決策は、
アイデンティティの形成方法を経験から教えること」であるということが、
すべてが分かった時、
あなたはこの世界に「王として現れ、言葉によって世界そのものを変える」。
そこに、何の迷いも疑いもなく、
すべての「悪徳を行使することは永遠にできなくなる」。
これこそ、まさに「仏」である。
あなたこそ、そしてわたしこそ、この宇宙の「覚者」だ。
覚者となったあなたは、
超人的な力を発揮して、
このすべてを催眠状態にし、
このすべてを最前衛で導く「神のメッセンジャー」となる。
そう、わたしこそ、大天使ガブリエルである。
実際、すべてを発見しても、実現しても、
解決しても、まだ足りない。
「わたしの人生はこんなものではない」と、
わたしの心は嘆いている。
それならば、自らの手で作り出すしかない。
それが、わたしの最終的な答えだ。
この世界に何もないのであれば、
わたしが自ら作り出す。
磨き上げた言葉の経験と、
無駄に知り尽くした知識と、
神ほどに高くなった知性と、
全てを治し終えた健康さが、
わたしのすべてを神と同一とする。
そこには、「かつて聞いた神の言葉が現実となった姿」が、
ただひとつ存在し、
すべての作品は、その人生の「写し絵」となる。
その写し絵は美しく、
もとの人生がなんであったか分からないほどに、
天才的な純白と黄金の作品を、
この時代の不朽の名作として、
永遠に残り続ける、「神曲」となるのである。