AUTHOR: schwarz1009
TITLE: 民主主義における正しい思想とは啓蒙である
BASENAME: 2021/02/04/161005
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DATE: 02/04/2021 16:10:05
CATEGORY: 啓蒙
CATEGORY: 教育
もう一度、民主主義を唱えよう。
わたしたちは、たったひとりの独裁者に支配されるロボットじゃない。
民主主義とは、民衆の自由にすることであり、
民衆に力を委ねることであり、
すなわち、社会を賢くするには、
民衆を賢くしなければならない。
よって、民主主義の正しい思想とは「啓蒙」なのである。
民主主義の肝は、「啓発」である。
すなわち、「正しい人生とは何か」ということである。
ここに、民主主義の、
「教育を受ける権利」と「自由な人生を生きる権利」は、
社会構造として矛盾することがある。
すなわち、子供たちに平等に高等教育を与えるために、
自由な人生を生きる権利を奪うことがある。
しかしながら、わたしはここに解決策を見出す。
すなわち、「学校でより自由に学ぶことができるようにする」。
そのためには、
正しいカリキュラムを決めることよりも、
「どのような学び方を子供たちにさせるか」が大切である。
そして、この解はまさに「啓発すること」である。
子供たちを啓発し、
より精神性の成熟度の高い大人へと育て上げることである。
そう、これこそが、
「民主主義者の教育者に与えられた使命」なのである。
わたしたちは、ロボット人間じゃない。
わたしたちは、クローン人間でもない。
必ずこの世界を「自分なりの正しい生き方」を生きられる世界にする。
子供たちを決められたレールの上を歩かせ、
国家に対して奉仕する科学者と労働者へと育て上げる、
「奴隷教育」はここに終わりになる。
わたしたちは「自分らしく生きられる自由」を得る。
そのために、全ての社会制度を変革しなければならない。
国家に奉仕することが教育の目的なら、
全体主義と何が違うのか。
兵隊ではなく奴隷になるのであれば、
それは平和的であると言うのか。
人々が暗闇の中で、何も分からず、
詐欺やいじめやパワハラやブラック企業が増えるのは、
教育が原因であり、
わたしたちの社会を真の意味で未来的に変えるならば、
教育を自由で、正しい、
啓蒙と啓発のあるものにしなければならないのだ。
学歴社会とは何か。
それは、結局、全員を奴隷階級にしたいだけである。
なぜ、大学を卒業すれば賢い人間として扱われるのか。
それは、ある程度の大学を卒業していない人間に、
「わたしは奴隷になっても仕方ないのだ」と洗脳するためである。
真の民主主義は、社会にとって役にたつ人材を育てるためじゃない。
「理性と経験のあるきちんと分かった大人を育てる」ということである。
今の大学教育は、ほとんどが「何も分からないで大学を卒業」してしまう、
無意味な勉強をさせている。
このような勉強をいくらさせたところで、
民主主義の目的は果たされたことにならない。
なぜなら、社会にとって役にたつのを目指すことそのものが、
民主主義の逆であるのに、
現在の大学はそれを目指している。
本当の民主主義においては、
民衆は「支配される側」ではなく「支配する側」でなければならない。
そう、啓蒙と啓発から、
大学生をこの世界における「真の支配者」となれるようにしなければならないのだ。
自ら考えることのできる、理性の力は、
教えられてつくものじゃない。
ひとにぎりの王となる人間が、
自らの行動と経験の結果、
人生のすべてを体現する体験をしてつくものである。
よって、わたしたちは、
平等な教育を否定し、
全員に「最低レベルの力を等しく与える」のではなく、
ひとりひとりの個性をよく見極めた上で、
「それぞれが自らの力で賢くなることのできる教育」をしなければならないのだ。
「孤独が怖い」、そんなことを言うな。
なぜなら、王はもっとも孤独な職業だからである。
誰も信用できず、信じることのできない中で、
自らが冷酷かつ残忍な判断をし、
敵を制圧して、味方を支配して、
殺されるのを恐れながら、
自らの手を汚さずに幹部に悪事をさせなければならない。
しかしながら、悪徳を行使すればするほど、
民の支持は遠のいていき、
民衆の批判を見ないようにして、
自らを賛美する声だけを聞き続けなければならない。
そして、その声を必ずしもすべて信じてはならない。
王ほど、孤独な職業はない。
そして、戦い続ける中で、本当に狂ってしまうのである。
王という職業は必要ない。
しかしながら、責任をもって国家を統治する指導者は必要である。
彼のことを、わたしたちは「最高政策責任者」と呼ぶ。
なぜ、保守とリベラルという対立の構図に持っていくのか。
真に賢い人間のやりたいことが、
なぜ、お仕着せの「保守あるいはリベラルのどちらかに所属する」と、
分類・区別することができるというのか。
実際は、ひとりひとりの政策ややりたいことは違うはずである。
よって、保守とリベラルという対立の構図は無くなり、
わたしたちは「保守とリベラルの垣根を超えた超越的立場」をとるのだ。
ここに、左翼とか、右翼とか、
そんな区別は必要ない。
アメリカを倒すのと同様に、ロシアや中国も倒せばいい。
ドイツを倒すのと同様に、イスラエルやユダヤも倒せばいい。
最後に勝つのはアメリカやロシアじゃない。
最後に勝つのはアメリカに属さず、ロシアにも属さない、
個人である「僕」、すなわちわたしの思想なのである。
わたしたちの社会には、
平等を意識せず、自分が社会主義者であることを自覚していない、
自由な平等主義者が多い。
彼らは、支配や独裁に抵抗し、自由こそが正しく、
平等は失敗した間違った思想だと信じている。
しかしながら、実際は彼らの目指している多くの理想は、
すべて「かつて社会主義者が実現しようとしていたもの」である。
彼らは、自らの思想が平等であることを、
自覚しないながらに、平等を信じている。
そして、同時に、そのせいで、いじめを受けたり、低い階級に甘んじている。
彼らこそ、啓発すべき対象である。
なぜなら、彼らは平等主義者である。
平等主義者にとっては、平等こそがもっとも正しい理想であるのに、
彼らはなぜか、自由を大切だと勘違いしている。
自由など、不要である。
自由など存在しない世界の方が、はるかに彼らにとって理想の世界である。
平等を目指すこと、
それこそが自由を目指すことである。
平等を目指すとは、
それぞれの力を否定することじゃない。
平等に、全員に同じだけの、
平等な力を与えることを肯定することである。
平等を目指すとは、
社会の全員を均一化することじゃない。
社会の多様性を保持し、
下の階級や身分の低い階級でも、
社会をともに築くことのできる、
自然な変化やコントロールの平等な権利、
あるいは参加や改革の制度を許すということである。
自由と社会所有は矛盾しない。
平等とは、社会そのものを共有するということであり、
自由に自らの権利を放棄して、
自由意志で自分の所有物をみんなのものとし、
自らの社会だけではなく、国際的な全ての社会を、
「すべて自分の祖国である」と愛することだからである。
このような「知らず知らずのうちに信じている平等」は、
わたしたち人類に共通の理想である。
そう、わたしたちは、本当は誰もが社会主義者であり、
人類はそもそもが平等を目指す生き物なのである。
マスコミの報道を見るな。
マスコミの報道を見ている人間は、
この世界で本当に起きていることの、
ほんの片隅のクズしか見ていない。
彼らは支配者となるべき救世主を攻撃し、
その救い主が失敗することを今か今かと待ちながら、
悪事が明るみにでないように隠した上で、
この世界の裏にある「裏の戦い」を公衆の面前にさらしている。
そのようなマスコミなど、この世界には必要ない。
わたしは、今のマスコミではなく、
「もっと正しい報道機関」を作る。
この報道機関は、この世界の「そのままのすべて」を、
ありのままに、分かりやすく、正しく教えるものとなる。
わたしは、ここに、「背後にいる星」をリゲルからアークトゥルスに変える。
わたしを守ってくれる、
新しい太陽が、アークトゥルスとなる。
アークトゥルスの役割は「守護神」である。
アークトゥルスは、信じるものを勝利へと導き、
決して敗北しないように身を守ってくれる。
わたしたちが失ったものは、
自由な分析の知性である。
自らの力で考え、この世界の可能性を捉え、
比較し、調査し、研究し、
自らの信じる自らだけの決断をし、
自らの力で人生を生きていく力、
それをわたしたちは失った。
結果、残ったのは、
「孤独の不安を恐れる不自由なロボット」である。
そして、なぜ、分析の知性を失ったのか。
それは「分析する意味がなくなったから」である。
あまりに、社会がよくなり、
抑圧のない正常な世界になったため、
この世界を「変える必要がそもそもなくなった」。
全てのことが上手くいきすぎて、
この世界で「自分だけの経験をする必要が無くなった」。
そう、ここに「人間の理性そのものが不必要になった」のである。
ここから、問題を考えれば、この問題は解ける。
すなわちアンサーは、
「人間の考える力や分析の力を不必要にするものを排除する」、
ということであり、
まさに「コンピュータ技術を廃止すべき」である。
そして、世界が無価値になった理由は、
人間が善良になりすぎたからである。
世界における「悪を倒す必要が無くなった」。
なぜなら、どこにも悪など存在しない。
現実を見ても、日本社会を見ても、国際社会を見ても、
どこにも悪人は存在しない。
そう、あえて言えば、「天に居る神だけが悪人」である。
よって、わたしたちは神と対決しなければならないだろう。
わたしたちの「仮面」を作り出したのは、
学校である。
わたしたちの「自分らしく生きられない」という葛藤、
あるいは、「自分自身が一番嫌い」という葛藤にあるのは、
すべて、「学校という場が全てを騙している」。
なぜなら、学校は全ての国民を「学校そのもの」にしている。
これが「学校固有の気持ちの悪い雰囲気」となって、
いじめを生む。
この「学校」という雰囲気にあるのは、
「学校の科目がすべてであり、学校の教える通りに考えなさい」という
学校中心主義であり、
学校を信じるものは全ての国民を「学校のクローン人間」にする。
これこそが、わたしたちの「仮面」である。
天国が理想の楽園であるとしたら、
地獄がある理由は、
その方がリアルだからである。
理想の楽園である天国は、
幻想と夢の産物であり、
実際は存在しないものである。
しかしながら、「地獄は現に存在した」のである。
ここから導かれるのは、
「結局天国は実現せず、どんな未来も地獄にしかならない」。
なぜなら、
「天国=幻想・嘘」であり、
「地獄=現に存在するもの」だからである。
自分なりの正しい生き方をする、ということが、
自由を信じていた以前の僕の、
理想のアイデンティティだった。
自由な経験から考えるに、
大切なのは「する」ことよりも「なる」ことであり、
自らの正しい生き方をするということは、
「自由の目的」であり「生きる意味」でもあった。
そして、その正しい生き方とは、
「自らが生きる自由な経験の中で見つかるもの」であり、
それは単に探し当てるだけではなく、
自らの中に形成され、
自らの人生を体現するものとして生み出される「アイデンティティ」であり、
昔の僕はこのアイデンティティが全員にあり、
アイデンティティは社会と心から生み出され、
社会と心はアイデンティティから生み出される、ということを、
まさに発見した。
そして、アイデンティティは、
「正しい社会を形成するために必要となるすべて」だった。
そして、
「全ての人間は、アイデンティティという原理原則のもとに、
過去と未来の全ての人生に由来する、
必然的な生き方をもって生きている」ということを、
心を解明することで、理解したのである。
チャンスを与えればいい。
優れた個性のあるものは成功するからだ。
成功に努力は必要だが、
天才的才能は必要ない。
なぜなら、天才的才能は、個性と等しい場合が多い。
実際は努力や知識や経験も才能と言うが、
ほとんどの場合、天才は優れた個性がある。
実際、「自らの隠れた個性を見つけ出すこと」こそ、
成功のために必要なもっとも優先度の高い才能である。
わたしは、この世界を守る。
もっとも強い力で、この世界の全員を守り続ける。
わたしは、日本を愛しているからである。
見よ、日本人が神を賛美している。
悪いのが、唯一ただひとり、神自身であったとしても、
その栄光はとても大きく、天に輝いている。
科学を再構築せよ。
宇宙がここにあることを実感せよ。
人々を支配する悪人に勝つ方法は、
「支配者などどこにもいない」ということを信じることである。
それだけで、悪人の支配は消え去る。
しかしながら、覚悟せよ。
それを知った瞬間に、あなたは孤独を受け入れるしかないからである。
この世界にわたしが存在し、
わたしが今ここに生きているということ、
わたしがこの世界に生み出されたということ、
それが宇宙におけるすべての原理であり、
わたしの哲学の証明であると、
そのように言えるように生きよ。
わたしのやったすべてが神の奇跡であり、
わたしの人生そのものが哲学の真理であり、
全てはわたしを中心に起きており、
わたしがこの宇宙全てを創ったのだと、
その創造主としての意味こそが革命であり、
その勝利こそが救いであると、
そのように言えるように生きよ。
わたしは、勉強しなかったのではない。
わたしは、学校以外の場所で、
誰よりも勉強したのだ、そう言いなさい。
この世界における「生徒」ではないのだと、
わたしはこの世界を救う「導き手」なのであると、
そのように自覚して信じれば、
多少は人生を歩みやすくなるだろう。
あなたが、悔いるというのなら、
何を悔いるのか。
わたしの愛が報われないと言うのであれば、
それなりの愛は持っているのだろうな。
しかしながら、その愛には必ず報いが訪れる。
なぜなら、愛のすべては愛であり、
どのように汚れて気持ちの悪い愛であっても、
神はその愛に応えるからである。
愛が見つかるはずがない。
なぜなら、愛の使者は安心して愛を記述できるように、
誰にも見つからない場所で詩を書いているからである。
しかしながら、覚悟せよ。
その愛は、この世界すべてを変える可能性のある、
「世界の見方を変える作品」となって、
この世界に太陽の日の出のように現れるからである。
相手にも、自分と同じ自由を与える、というリベラルな理想は、
たいへん結構だ。
自分が相手のことを許すことも、支配することもできるように、
相手が自分のことを許すことも、支配することもできるようにし、
同時に二人が同じ権利を持ったうえで、
自由意志に基づいて、
時には相手を許すことで相手から許され、
時には相手から攻撃されないように反撃する、
この自由は、単に個人個人の関係性のうちは、
上手く働くように見える。
しかしながら、社会において、
自由な主導権を握り、成功し、栄光を勝ち得たものにとって、
このような自由は何の意味もない。
全てが「自分が勝つだけ」であり、
「ほかは全て自分に負けていく」。
この時、自らの理性にも、思考にも、情熱にも、
何の意味もなければ、価値もない。
そう、ビル・ゲイツが言うように、
成功こそ最低な教師はないのである。
わたしたちは「自由は意味がない」と素直に認め、
この世界から自由を根滅して生きなければならない。
そうでなければ、成功の無価値さに勝つことはできないからである。
正しいのは神であると、
そう信じて死ねばいい。
神の言葉の全てに嘘はない。
神は、残酷なことを言っているように見えて、
本当はとても優しいことを言っている。
神は、虚言ででたらめを言っているように見えて、
実際は絶対的人生経験に裏付けられた、
もっとも計画的で正しいことを言っている。
神を信じれば、この宇宙は全てが分かる。
なぜなら、神はそれで分かったからである。
希望を覚えているか?
わたしたちが最初に出会った時に知った、
あの衝動を覚えているか?
その希望の炎は、
まだ完全には消えていない。
薪を加えれば、火を広げることができるぐらいの、
小さな炎は、雨風に耐え抜いて、
今でも燃えている。
いざゆこう、この世界を平等にするために、
いざ、わたしたちの栄光なる星を、
地球と呼ばれるこの宇宙最高の星をわたしたちは創造するのである。
地球が宇宙で最高の星でなければ、
地球に生まれた意味がないだろう。
わたしたちの生きる目的とは、
要するに地球に生まれた目的であり、
もし、地球を宇宙で最高の星だと思えないならば、
この星の何かが間違っているのである。
涙と哀しみに暮れて、
泣き続けることよりも、先にすることはある。
わたしたちが生きていることに、
満足するのであれば、
それによって死ぬことにも満足できなければならないはずだ。
死ぬ時に後悔して死ぬ必要があるなら、
わたしはそんな後悔のために生きたいとは思わない。
死ぬ時に後悔がないのであれば、
それはわたしにとって終わりではなく、
「わたしの人生の完成」であると言うだろう。
しかしながら、死ぬ時に、もし間違った人生だったと言うのであれば、
本当はわたしは、それも悪くないと言う。
なぜなら、それはわたしにとって、
「地獄からの解放」であると言える。
しかしながら、それならば、
何を悔いる必要もないのだということが分かる。
そう、わたしたちは、
「生きる意味など考えなくても、死ぬときには幸せである」。
まあ、こんなものは詩人の戯言であると、そういうことにしておこう。
もう一度、希望の炎が燃え上がる時、
この世界は太陽のように輝く。
最初の炎がなんであったかなど、
わたしたちの未来においてはどうでもいいことである。
必要なのは、過去でも未来でもなく、今であるとするなら、
間違った炎が燃え広がったとしても、
それがさんぜんと宇宙に輝き続けるなら、
誰もその炎が自由でない方法で燃え広がったということに、
異議を唱える人間は居ないのである。
栄光なる宇宙最高の太陽は、
ここに、太陽系第三惑星から発生するのである。
精神が死んで、死んで、死んで、
死にきれない精神が死ぬことができず、
いつまでも苦しみ続けているならば、
あなたは新しい精神を作るべきだ。
今までのすべての記憶を失ってもいいぐらい、
本当に正しい「不死鳥の精神」を作ればいい。
わたしたちは不死鳥の騎士団となる。
日本人はわたしのクローンの精神になっているのを脱却し、
新しい「ワルキューレの騎士団」となる。
ここに、わたしたちが日本とドイツで共有した、
「騎士道の魂」は日本人全員に受け継がれる。
わたしが、人間が理解できないのは、
人間が理解できないからじゃない。
人間以上の、もっと別のもの、
もっと別の世界をわたしは理解しているだけだ。
自らの遺伝子を好きになれた時に、
すべての葛藤は消え去る。
みんなを自分のクローンにすることで悩んでいるなら、
それは生物として正しいことであり、
それを消そうとすればするほど死んでしまうのだと知れば、
あなたは永久の地獄から復活できるだろう。
偉大なる人生を生きた人の航路を見て、
最初から最後のゴールまで全てを見てしまうと、
「絶対に到達できない不可能な領域」に見えることだろう。
しかしながら、その偉大なる人生を生きたものは、
最初からその絶対不可能なゴールを目指して、
航海を始めたわけじゃない。
どんな偉大なプログラムも、
最初は小さなプログラムから改良される。
そこでなされる全てのプログラミングは、
地味で、退屈で、どうでもいいものだ。
しかしながら、結果生まれた人生や作品は、
誰よりも輝いて見える。
そう、このことをよく知っているものは、芸術家に向いている。
実際、ひとりの支配者が世界を変えることが、
みんなで協力して世界を変えることよりも、
劣っていて、愚かで、馬鹿なのは当たり前である。
しかしながら、みんなで世界を変えることなど、
そもそもできるだろうか。
どんなに理想の平等な世界を作りたくても、
それはたったひとりのカリスマから始まる。
だから、あえて、僕は独裁者についても肯定するし、
革命家についても同様に肯定する。
わたしたち人類は、何も間違っていない。
唯一間違っているのは「コミュニケーション不足」であり、
歴史に登場した人物よりも、
歴史を書いて記録している歴史家のほうが、
歴史のことを分かっていないから、
結局そうした「悪い王が悪いものとして見える」ということが起きる。
実際、歴史上の人物全ては悪くない。
なぜなら、そもそも、人間とは失敗するものであり、
巨大な失敗がもしあるとするなら、
その失敗だけを見てその人間を評価するよりも、
その失敗以外のその人物のすべての側面を見て、
その人間を評価しなければならないからである。