AUTHOR: schwarz1009
TITLE: わたしたちを規定するものは何か
BASENAME: 2021/01/31/193212
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DATE: 01/31/2021 19:32:12
CATEGORY: アイデンティティ
CATEGORY: 読書
わたしたちを規定するものは何か。
それは、言うならば「アイデンティティ」だ。
わたしたちを規定するアイデンティティとは何か。
それは旗ではない。
国家を規定し、日本人であることのために生きるのは、
わたしにとってはつまらない。
人生も、愛も、宗教も、夢も、希望も、
正しいアイデンティティではない。
信じるものは何か。
信じるものが何か、まだ決まっていないのに、
少年に「行動しろ」と言っても、
行動できるはずがない。
まさに、希望が見えないのは、信じるものがないからであり、
それは「自らを規定するもの」を失ったためである。
信じるとは何か。
それは「何をどのように考えるべきかを確信すること」である。
すなわち、自分の確固たる考え方を得ること、
自らの経験から考え方を確立することで、
先入観を失くし、自らの世界の見方を新しくしていくこと、
それが信じることである。
信じるものを作るとは何か。
それは、無条件で旗として掲げることのできる、
希望を持つことである。
自らの生きる目的として掲げることのできる「新しい世界」の旗を、
高らかく掲げること、
それによって人々を啓蒙し、啓発できるような、
そのような理想を持つことこそ、
人間の持てる「希望」なのである。
信じることができる条件とは何か。
それは、人々の幸福を実現できる可能性を持っていることである。
たとえば、パソコンならばオープンソースである。
ソースコードを公開し、
インターネットの善意のボランティアのコミュニティが開発するということ、
それが人々の幸福を実現できる可能性を持っている。
なぜなら、彼らはオープンに自由に開発に参加できるだけではなく、
金儲けではない方法で、
たくさんのベテランからプロ、アマチュアまで、
全てのエンジニアがさまざまな目的のもとに、
ひとつの理想を共有して開発を行っている。
これこそ、信じることのできる条件を満たした集団であり、
逆に言えば、信じることの条件を成立しなくなった時点で、
オープンソース、ひいてはIT技術は、意味が成り立たなくなる。
それが、今のコンピュータ技術である。
今のコンピュータ技術には、
かつてあった面白さがないと僕は思っている。
信じるとは、燃えたぎる炎である。
炎のもとには、あらゆる全てが焼き尽くされ、
燃え尽きるまで、情熱の心は燃え続ける。
彼にとっては、どんな逆境も敵ではなく、
どんな地獄も、
乗り越えていくための目の前に与えられたコースに過ぎない。
どんなにスピードを速くしても金メダルの取れないそのコースでは、
誰も発見することのできない、
自分だけの道を見出した人間こそが勝者となる。
疑うとは、大水のようなものである。
たとえば、湯船の中に満杯に浸した水のように、
全体の容積は変わらずして、
中にあったものは透明でクリアな見かけをしているが、
実際は地上とは別のまったく異なる世界で生きている。
この水の世界が疑いの世界であり、
地上の世界とは別の、ユートピアのような幻想を見せてくれるが、
ひとたび中に入れば窒息し、
ぬかるんだ泥水にまみれて制御を失い、死に至る。
戦いとは、大きく地に根差して立ち向かうことである。
たったひとり、グランドキャニオンのような荒野にいると考えよ。
ひとりも、自分の助けとなってくれる人が居ない中で、
自らが信じる道を、地図を頼りに、
何マイルの道のりを一歩ずつ進んでいく。
漫画のキャラクターのように、特別の必殺技で簡単に勝つのではない。
地獄の道のりは長い。
ゴールまで果てしないが、
少しでも力を緩めればそこでゲームオーバー、
最後まで全力で、まっすぐに前だけを見て進むのだ。
許すとは、大空である。
大空とは、すなわち大いなる天である。
天の絶対なる全能者の導きを信じて、
神にすべてを託すことが、
許すということである。
何が起こっても、それを無条件に受け入れ、
どれだけ長い間苦しみが訪れても、
絶対者は自らとこの世界を正しい未来へと引き連れてくれるのだと、
全知全能の導きに自らを委ねれば、
おのずと、憎しみの相手も、恨んだ世界も、
全てが消え去って、
空色の大空が教えてくれる。
日中を努力して少しゴールに近づいた後で、
星空はわたしたちの信じるシリウスの仲間たちを教えてくれる。
「あのどれかひとつに神さまが居るのだ」と、
それを信じれば、どんな敵も敵ではない。
神は、わたしたちに、
この宇宙と地上の歴史の全てを与えてくれたのだから、
それに対するお返しとして、
わたしたちの神への愛を伝えなければならない。
全てを疑うことは、
決して何一つ信じないことではない。
なぜなら、全てを疑った先にこそ、
本当に自分の信じているものが現れるからである。
疑うということは、すなわち、
「それは大したことではない」と感じることである。
あらゆるすべてが当たり前にそうなるだけであり、
そこに価値を見出さないこと、
すなわち当たり前に決めてかかることこそ、
疑うと言う。
ある意味、疑うとは「当たり前を否定する」ということであると、
勘違いしている人間が多い。
しかしながら、逆に、信じる人間こそが、
あらゆる先入観を否定し、
「その時分かるその時だけのこと」を発見することができるのだ。
本当に、そのことを信じられるなら、
そのことを「完全に確信」することができるなら、
むしろ、自己も世界も全否定して構わない。
この世界にあるものなど、
今までの人生経験で分かりきっている。
分かり切った当たり前のものを、いつまでも求め続けるのは、
赤ん坊が見てもおかしい。
本当にそのことを「完全に確信」できるなら、
なぜ、自らの目標に向かって行動しないのか。
「当たり前に困難だ」と思っている人々は、
その困難な課題を解決できるだけの力が、
「わたしにはある」ということを、知らなすぎるのだ。
その目の前にある問題が、
いくら難しく乗り越えるのが困難な課題に見えても、
不安がる必要はない。
なぜなら、その目の前の問題は、
今まであなたが乗り越えてきた問題よりも簡単だからである。
真に難しいのは「人間の人生を生きること」であり、
「すべての問題はそれよりも簡単」である。
これこそ、人生を上手く生きるコツである。
どんな問題も簡単であることを知っておけば、
誰でもできることなら誰でもできる。
しかしながら、そのために「当たり前の努力」をしなければならない。
しかしながら、それは困難ではないということだ。
なぜなら、ほとんどの問題は、困難だから実現不可能なわけではない。
その問題を解決するために、
「たくさんの時間がかかるから困難に見えるだけ」である。
そして、そのたくさんの問題について言えば、
注意深く選び、効率的に行えば簡単である。
なぜなら、問題が解決できないのは、
「解決するための道筋を知らないから」であり、
道筋を知ることがもし簡単にできたとすれば、
「この世界が簡単だ」ということが「誰の目にも明らかになる」だろう。
そして、ほとんどの問題の解決方法は、
「適切な練習と継続の努力の中で多少考えれば誰でも分かる」。
そう、それだけがこの世界における天才である。
天才など大したことはない。
今の自分の持っている賢さを信じていれば、
それ以上得る必要はない。
なぜなら、それは逆に「失うことを意味する」からである。
大学に入るな。
大学に入ると、自分だけの力で考えられなくなる。
数学を覚えるな。
数学を覚えると、考えるモチベーションを失う。
どこにも入らず、どこにも行くな。
自らが賢くなる、ということはそのものが幻想であり、
実際は自らの「今の賢さを維持していくこと」こそ、
自らが賢くなる、という言葉の「本当の意味」なのである。
しかしながら、知識がまったく必要ないわけではない。
その逆に、
どこかにある何かを知ればいい、ということを知っておけばいい。
それだけで、どんなこともすべてできる。
忍耐力が必要なのは、
あくまで継続と勉強のためであり、
人々の言うおかしな義務や支配のために忍耐する必要はない。
自由な空であっても、
飛ぶ方法を知るためには、ヒナに教えてくれる親鳥が必要だ。
人間の利口なところは、
たとえ人間が居なくても、文字情報を読めば分かるようにできているところだ。
本を読め。
それ以外、必要なものはない。
どこかにあるその知識さえあれば、
あとはあなたの持っている「自分の賢さ」だけで、
この世界そのものに勝利することはできるのである。
何もできないなら、戦うしかない。
戦いの先には、未来が生み出されるからである。
戦いを信じれば、未来はその都度生み出されていく。
どんなに不可能な壁でも、戦っていれば乗り越えられる。
そう、これこそ、「本当にもっとも難しい課題」であり、
その課題はとても簡単である。
なぜなら、最後までその戦いを耐え抜くことで、
ほかの全ての課題は難しいものから簡単なものに変わるからである。
実際、本を読むのが難しいのを、難しいと言っているだけである。
そして、本を読むのは、意外と思っているよりも簡単である。
たとえば、50ページだけなら読める人間が居るとしよう。
それなら、全部で1000ページあったとして、
読むのに20倍かかるかというと、そうでもない。
本の構成にもよるが、
実際、必要なページだけを読めば、
20ページだけでも全貌を把握することはできる。
その20ページを読んだ後で、残りの30ページを効率的に読めばいい。
そうすると、MINIX本であろうと、詳解Linuxカーネルであろうと、
簡単に理解することはできる。
ある意味、本というのはそのことに対する「全て」が書かれたものであり、
この全てを全部分かろうとしなくていい。
本一冊という単位で「読んでみよう」と考えるのではなく、
章や節の単位で「この章やこの節を読んでみよう」と取り組むと、
楽にとりかかれるし、
章は多くの場合5~20ぐらいしかないので、
そのように気楽に読んでいると、案外全部読めるものでもある。