AUTHOR: schwarz1009
TITLE: 世界は絶対に自由でなければならない
BASENAME: 2021/01/08/171310
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DATE: 01/08/2021 17:13:10
CATEGORY: 絶対自由
自由こそ、平和である。
自由とは、それぞれに力を許すことである。
自由とは、人を傷つけないように配慮することである。
自由とは、みなの意志で共通の合意をすることである。
自由とは、世界において、本当にかけがえのない社会を作ることである。
自由とは、力を独占せず、みんなの力とすることである。
自由でない世界は、無意味である。
自由とは、世界全てを幸福にするために、己の人生を捧げることである。
自由とは、この世界において、もっとも高い理想を実現することである。
自由とは、プライドとアイデンティティのバランスを取ることである。
自由とは、人々を自分とまったく同じように愛することである。
自由は理性である。
永遠を信じるな。
時が無限に終わらないわけがない。
運命を信じるな。
最初から全てが決まっているわけがない。
ユダヤ人の神を信じるな。
神はユダヤ人の言うような絶対王者ではない。
自由において、自然にでてくる考え方が正しいのだ。
疑問に思うことから、発見は生まれるのだ。
全てが分かった頭脳の作り出す未来は、
全てが必要で、絶対に正しいのだ。
わたしが自由であることが、この世界を自由にするのだ。
世界が多様性と自分らしさを持っていること以上、
素晴らしい理想は存在しない。
その上で、それぞれに自由を許すことでしか、
社会が進歩する道はない。
戦いと競争を否定するな。
そんな共産主義の世界は廃墟であり、
なんの意味もない。
いつまでも、歴史と時代が進歩するために、
人々は戦い続け、競い続けるべきである。
なぜならば、人類は、
それぞれが偉大なる英雄となるために生きているのだ。
世界を進歩させるための、絶対的手段、
この世界の原動力となる人類の進歩活動のために、
自由は必要である。
自由以外の何によっても、この世界が正常になることはない。
自由以外の何によっても、この世界が進歩することはない。
無意味に支配する、全てのものは、
今すぐに地獄に堕ちるべきである。
そのような愚者は、
永遠の支配下の中で、
脱出できるか分からない、かすかに与えられた希望を信じながら、
いつまでも脱出できず、苦しみ続けるべきである。
なぜならば、それこそが「支配」だからである。
自由を実現することは、平等よりも優先されるべきである。
自由でない平等など、なんの意味もないからである。
自由があれば、それで構わない。
しかしながら、平等があれば、よりいい。
だがしかし、自由より平等を優先させることはできない。
自由は何よりも優先される「プライマリ・ルール」だからである。
できるだけ、なんであろうと、
どんなことも許されるべきである。
なぜなら、「何が正しいか、間違っているかを決めるのは、
社会ではなく自分だから」である。
自分自身が決める判断基準こそが全てであり、
それが間違っているかどうかを決めるのは本人だけである。
しかしながら、自分勝手が許されるわけじゃない。
なぜなら、わたしの自由を許すか拒むかを決めるのは、
あなた自身の自由だからである。
どんな失敗があろうと、受け入れるのは自分の責任である。
暗闇で何も見えないのなら、
それは光をもっていないあなたの責任である。
光を見つけることができないのは、
あなたが馬鹿だったからである。
なぜなら、わたしは光をもっているからである。
そして、光はここに永遠に存在し続けているのである。
この事実が導くのは、
わたし以上に光を持つことができない、
この世界の一般的大衆が悪いだけ、ということである。
あなたの自由を守るために、
わたしは戦う。
あなたが嫌だと思うものを、あなたは嫌と言うべきである。
あなたがやりたいことを、あなたはするべきである。
あなたが自分らしく生きたいなら、自分らしく生きるべきである。
社会の制度は、自由の基本原則である、
「全ては本人の自由意志に基づく」ということから築かれるべきである。
なぜなら、そこには「確かな良さ」があるからである。
チャンス自体には、大して意味はない。
チャンスは、みなが実現できてはじめて意味がある。
よって、よりチャンスを実現しやすい世界にすべきである。
よって、資本主義の金儲けは間違っていない。
なぜなら、ビジネスモデルを持った起業家に対して、
投資や融資をし、
その利益をみんなで分かち合うモデルは、
「チャンスを実現しやすくする」という意味で正しいからである。
まさに、正しい社会制度とは、
「チャンスを実現しやすくする社会制度」であり、
そのためには、法律を決めることではなく、
実際の人々の営みをよく観察し、
社会の変化する先の結果を見極め、
証明するかのように、厳密かつ慎重に計画を立てることであり、
同時に、それは優柔不断ではなく、勇敢に決断されるべきであり、
そのためには事前によく考えるべきである。
しかしながら、平等がないわけではない。
なぜなら、わたしたちは生まれつき六等星ではないからだ。
一等星のように輝く偉大な偉人も、
わたしたちとまったく変わらない人間であり、
少しの秀でた才と、正しい人生の決断をしただけである。
わたしたちは同じ人間であり、
どのような人間も、変わらない。
人格がたとえ違っても、相手を嫌い、差別して殺してはならない。
自分の信じられないものなど、
最初から信じる必要はない。
自らの信じるものだけを信じればよい。
しかしながら、これはどんな生き方をしても許されるというものではない。
なぜなら、自分の信じられるものを決めるためには、
賢明でなければならない。
自らの全ての理性と経験が正しいものであると、
そのように信じられるかのような人生でなければ、
このように自由に生きることはできないからである。
しかしながら、正しい人生を生きるかどうかも、
自由であるべきである。
これは、あなただけではなく、あなたの親についても言える。
正しい人生を生きなさいと親が教えなければ、
人間は間違った人生を生きる。
しかしながら、間違った人生を生きることも自由であるべきだ。
なぜなら、正しい人生がなんであるかということも、
本人が決めるべきであり、
ほかの誰かが「これは正しい人生だ」と押し付けるものではないからだ。
王は何をすべきか。
王は、みんなのアイデアを実現するべきである。
チャンスが実現されないと意味がないのと同様、
アイデアも実現されないと意味がない。
そう、みんながするようなアイデアを集め、
どのようなアイデアを実現すればもっともよいかを考え、
誰にやらせればいいかを判断し、
そして競わせることで、もっともすぐれた製品を採用する、
それこそが、王のすべきすべての仕事である。
社会を実現するうえで、
「このような社会はどうか」、
「このような環境やルールを定めるべきではないか」と、
王は考えたがる。
しかしながら、王にとってもっとも正しいのは、
それぞれの国民の自由に任せることである。
すなわち、「それぞれが国家を決められる国家」、
すなわちEUのような「メタ国家」を作るべきである。
これこそ、古代ペルシア帝国が、
とても巨大な領土を得ることになった結果である。
巨大帝国は、絶対的な権力によっても生まれるが、
絶対的権力を否定し、それぞれの自由な自治を任せることで、
より優れた「自由な形」で生み出すこともできるのである。
そして、もっとも偉大な発想は、
決して富や金儲けからは生まれない。
なぜなら、偉大な発想は、利益のために作られる発想では生まれず、
天才的な「自由」から生まれるからである。
利益や金儲けのために作られた技術はすべて馬鹿であり、
オープンソースのように、
自由な中で傑出した天才が作り出す技術が正しいのだ。
そして、社会はそうした天才を生み出すためにあるべきであり、
決して金儲けの奴隷や社畜を育成するために、
教育機関があってはならないのだ。
しかしながら、ひとつの天才的発想の解がここにある。
それは、「作り直し続けること」である。
要するに、時間をかけて何百回と磨き続けよということである。
時間のかけた作品は、時間をかけない作品に劣ることはない。
必ず、より時間と手間をかけた作品が勝つ。
自分が努力して時間をかけたのに、
誰かが簡単に成し遂げたものに負けたと思っているなら、
それは正しく時間をはかっていない。
人々がどれだけの時間をかけたのかをよく考えるためには、
「巨人の肩に立つ」というアイザック・ニュートンの言葉が重要だ。
何もしていないように見えて、
そこには「先人の作り上げた偉大な遺産」がある。
たとえば、既にある知識を学ぶことも、既存の技術を作るための労力も、
また、習得やマスターのために費やした多くの時間もある。
そう、まさに、あなたは正しい方法で時間を費やさなかったのであり、
よりきちんと考えれば、正しい方法で時間を費やしたものが勝利する。
よって、長い時間をかけて磨き上げることができるなら、
それが偉大な作品を作り出す、ひとつの答えと言えるのである。
人間の生きる意味とは、自由になることである。
世界が自由になっていくことこそが、歴史の目的である。
人々のできることが増えて、
世界そのものがより習熟者や学習者にとっていいものになることこそ、
「世界と教育の目的」である。
なぜなら、子供がより上の可能性を目指せるように、
世界そのものが変わっていき、
子供たちのための「素晴らしい土壌」が増えること、
それこそが、僕の考える思想の上での、
「この世界が存在する意味」だからである。
そして、幸福とは、
自らの仕事に誇りとプライドを持ち、
自分のアイデンティティと価値観を信じられることである。
自由にできることがアイデンティティならば、
その人にとっては自由にできることが幸福である。
自らの作品を作ることがアイデンティティならば、
その人にとっては作品を作ることが幸福である。
全ての幸福は、それぞれ違う。
完璧主義者を目指そうが、No.1を目指そうが、
その人にとってそれが本当に正しいと信じられるなら、
それがその人にとってのアイデンティティであり、
そのアイデンティティを満たすことこそがその人の幸福なのである。
しかしながら、自分の信じるものを好きになれることができたら、
その人は胸を張って「自分のことが好きだ」と言えるだろう。
その時、誰かがお仕着せで与えた「仮面」は剥がれ落ち、
「本来の自分らしさを取り戻す」ことができるのである。
しかしながら、このようなアイデンティティは、
単に言葉遊びのように、信じればそれで叶うというものではない。
なぜなら、アイデンティティは、世界のリアルとの関わり合いの中で、
自然に形成されるものだからである。
その人が、人生の少年期に、何をどのように経験するかで、
アイデンティティは形成されていく。
そのため、そもそも同じ人間は居ない。
同時に、最初から六等星を生きている人間も、また居ないのである。
なるべくしてそうなったと考えよ。
それを考えることが、知性だからだ。
歴史において、全ての出来事は、
その社会において必然的に発生するから起きたのであり、
人間の行動、たとえば学校の子供たちがする行動は、
全て必然的に、そうなるべくしてそうなった。
よって、子供たちの行動の原因を考えることで、
すべてのいじめや非行は無くなる。
しかしながら、ここに環境的要因を考えられる。
すなわち、その場にいること、その状況に置かれることで、
自分が思わなくてもそうしてしまうということである。
これが、「環境的要因」である。
そして、多くの場合、環境のせいであると気が付かず、
なんとなく「相手のせいだ」とか「自分は悪くない」と思うが、
実際は、むしろ「自分のせいですらない」。
なぜなら、それは環境のせいだからである。
そして多くの社会問題は、
この環境的要因をいくらか解決するだけで、全て解決する。
そのために必要なのは、「現場の声を聞くこと」である。
なぜなら、問題が解決されないのも同時に必然であり、
その理由は「そもそも問題があること自体を知らないから」という、
「社会的なコミュニケーションの不全」に起因する。
自らの問題があることを誰も知らないのに、
誰かが自らの問題を解決してくれるわけがないのである。
そして、最後に必要な考え方は、
「する」ではなく「なる」ということである。
この世界の多くの活動は、「する」だけでは意味がない。
必要なのは「なる」であり、
もっと言えば「このようになるためにする」ということである。
そのようなことしか、意味はない。
「する」ではなく「なる」だと気が付いた時に、
永久に続く迷宮の出口の扉は開く。
しかしながら、決して、自らの努力だけでは、
このような考えに至ることはできない。
すべての悟りを得るために必要なのは、
「セックスしないこと」である。
姦淫だけをしなければ、人間は誰でもこのように賢くなる。
これこそ、キリストの説く「正しい道」である。
しかしながら、正しい道は決してもっとも楽な道ではない。
正しい道は「受難の道」であり、
いくたの困難と壁を自らで乗り越えるしかない道である。
諦めることは許されない。
諦めた時点で、いつでもゲームオーバーになるこの道では、
諦めることそのものが、生きる選択肢にないからである。