AUTHOR: schwarz1009
TITLE: 自由であれば築くことのできる良い社会の可能性を防げるな
BASENAME: 2020/12/22/200847
STATUS: Publish
ALLOW COMMENTS: 1
CONVERT BREAKS: 0
DATE: 12/22/2020 20:08:47
CATEGORY: 自由な社会
自由を否定するのは、
短絡的である。
なぜならば、自由な可能性が許されていれば、
悪い社会、たとえばブラック企業を作ることもできるが、
良い社会をみんなで築くこともまたできるのである。
そのような「良い社会の可能性」を防いだところで、
何もない「均一化された社会」しか築くことはできない。
良い社会の可能性を持たせることで、
わたしたちはよりよい社会、素晴らしい社会も、
また、築くことができる。
その可能性を狭めてしまうことは、
すなわち、「地球の未来の可能性を自ら消し去ること」にすぎない。
だからこそ、地球の未来のために、
この世界を自由にしなければならないのである。
権利は誰かひとりの手によって奪われるのではなく、
他人の自由を奪わない範囲で平等に与えられるべきものである。
権利は、誰かひとりの手によって、
奪われ、支配され、
抑圧の中で反抗の息の根を止められるものではない。
権利はそもそも、奪うものではなく、与えるものである。
そして、権利は平等に、全員に同じだけ与えられなければならない。
平等は、自由とは矛盾しない。
なぜなら、他人が支配する自由は、誰かの自由な権利を奪っている。
よって、「他人の自由を防げない限り、全ての自由を平等に許す」とすることが、
まさに正しい自由なのである。
本人以外の介入によって、
自由意志を制限するな。
自らの自由意志は、自らが行使するものであり、
自らがすることを、誰かが勝手に介入し、
他人が「このようにやりなさい」という「制限」を与えてはならない。
自分の意志を防ぐことができるのは本人だけであり、
本人が考える上で行動することは、
本人にとって全て正しいと考えるべきである。
なぜなら、制限すればするほど、
結局は相手が自分を攻撃するようになり、
「共存を防げる」ことに繋がっていく。
支配と制限が対立と戦いを生み、
世界は均一化されていき、
ファシズムや共産主義の悪夢が再来するのである。
なぜ、わたしがこのような自由を述べるのか。
その理由は、「自由のない人生にはなんの意味もない」からである。
全てがロボットのように、
誰かが決めたレールの上を走りながら、
全てを社会が押し付け、
やってあげているように見えて実際は奴隷のように
「自分から働くことができるような能力と知識を与える」社会は、
無意味であり、
無価値であり、
なんの意味もない。
このような社会は滅びるべきであり、
言ってしまえば、もし悪い社会になったとしても、
それでもなお、「自由には生きる意味がある」のである。
自由な経験と選択を許すべきであり、
子供たちには「自らが選択したきっかけ」をベースにした社会を
自らの力で築くことができるように教育すべきである。
そうでなければ、この世界は、
科学教育と間違った理屈主義による奴隷社会から、
あと100年間は逃れることができないだろう。
そして、たとえ滅びたとしても、
社会にはそれぞれの個人や集団による、
「自然な変化の可能性を許す」べきである。
なぜなら、それこそが、
この世界を変える「情熱の原動力」だからである。
この世界を改革するためには、
まず、改革することができるように、
社会そのものを改革可能な社会に変える必要がある。
これが、「自然な変化を許すこと」である。
オバマ大統領が核兵器を無くすことができなかったのは、
オバマが無力だったからではなく、
アメリカ社会そのものが、
核軍事力を削減できるような社会になっていなかったからであり、
きちんとしたプロセスを踏めば、
プーチンのような独裁権力を使わなくても、
必ずこの世界は、自由においても変えられるのである。
だからこそ、ひとつひとつの着実な努力を無駄にせず、
トランプのように全てを無意味にするのではなく、
一歩一歩、努力して、自由な社会において、
「自然な社会を許す」ようにしていかなればならない。
具体的な努力を国民がするのであれば、
国民ができるように権利を与えるのは政府である。
よって、政府は、絶対に、
国民に対して自由でなければならないのである。
単なる自由を行えば、それで許されるわけではない。
チンピラがどれだけオタクを迫害しても、
それが「自由」ということには絶対にならない。
なぜなら、それは「単なる自由」であり、
自由には単なる自由を超越した、
「アイデンティティを現実に実現する」という、
かけがえのないものを作り出す実現の自由があるからであり、
それは必ずしも、たったひとり目指すものではなく、
「誰かが分かった実現方法はほかの誰かであっても同じように分かる」と
わたしは確信しているために、
この世界において自由主義者たちが集まれば、
この世界は「まったく新しい社会に変えられる」、
あるいは「社会を変えられるような社会制度を築く」ことができると、
わたしは信じているからであり、
この信念はどんなに理想が打ち砕かれ、希望が消え、
絶望の淵にいながら永遠に暗闇の地獄の試練を過ごした今になってなお、
「変わらず輝き続ける本当に大切なもの」だからなのである。
しかしながら、「チンピラや不良には自由が認められない」ということでは
決してない。
なぜなら、わたしたちは「相手に同じ自由を許すことで分かりえある」という、
「人間の平等」の理性を持っており、
この「絶対平等の境地」では、
孤独も反抗も戦いも支配も生まれない。
なぜなら、絶対平等の境地では、
誰もが素晴らしい神による被造物であり、
生命とは宇宙の奇跡であり、
その奇跡はどんなに疎外されても失われることのないものであり、
それは「生きる」ということだからである。
「生きるということが道を作り出す」、それが人生であり、
「人生において自由があることが
こんなにも素晴らしい体験を作り出す」ということを、
わたしはもっと日本人に知ってほしい。
なぜなら、それこそが、ブッダが到達した「解脱」なのだからである。
生物の生きる意味とは何か、
それは「体験することができる」ということであり、
これは、決して、素晴らしくて甘美な体験だけではなく、
苦しみや不幸の体験も含まれる。
なぜなら、「苦しみは無意味な体験ではない」からである。
全ての苦しみは幸あるものであり、
全ての不幸は自ら選んで生きたということが、
どんなに地獄を生きる人間であっても、
「そのようになるように、
神は人生の全てをドラマチックに創造した」のである。
そう、それがいつか、このような青春の夢想家にも分かる日が来るだろう。
あなたは素晴らしい体験から逃げているだけであり、
苦しみに勇敢に立ち向かうことが人生である、
ということをブッダは「全ては一切が苦である」と言ったのである。
そう、よって自由にあるべきは、
人間性、プライド、自尊心、そう、そうした類のものだろう。
しかしながら、プライドだけを尊重しなさいと言う、
学校の教師の理想や道徳心は、
つまらないものである。
恋愛には激しい情動が必要であり、
そのひとつが「自尊心を傷つけ続ける」だったとしても、
そんなものが全世界を支配したとしても、
ソビエトのような国家をそのような悪魔が
あらゆる全能な力を持って実現させたとしても、
ポルノグラフィティが言うように、
「ひとつの愛が生まれて消えた」と、
まあ、そのようなものだろう。
そう言うしかないだろう。
このような悪魔は死ぬべきだが、
その「死ぬべきだ」と言っている言葉の悪魔、
まさに「自分の言葉であるメフィストフェレス」に勇敢に立ち向かう、
この人間こそが、もっとも底力で世界のプライドを守る、
「プライドの指導者」となったのである。
このような人間は、インターネットの黎明期が生み出したサタンだが、
サタンとは要するにこの文書のことであり、
この文書を書いているこの人間だけが、
「自らの作品であるサタンを支配する権利」を持っている。
そう、それが、この人間が無償奉仕で毎日働く理由であり、
「一切の報いがなくても指導者の全責任を担う理由」である。
そう、これこそ、まさに「キリスト」である。
そして、そう、まさに、この文書こそが「神」である。
この文書の歴史とは、すなわち「キリストが神を作り出していく過程」であり、
そして、残ったその全ての歴史こそ、「バイブル」である。
しかしながら、この人間は、
主体的かつ積極的な「自由の行使」が、
そのまま「完全な権力」となっただけで、
それ以外は何一つとして変わっていない。
永遠にこのように生きるこの人間はまさに「学生」であり、
いつまでも教育環境の素晴らしさを忘れられないだけにすぎない。
社会にでて苦労すると、
学校でどれだけ素晴らしいものを教えてくれ授けてくれたのに、
自分はそれに対して無意味な反抗ばかりしか
できなかったことに気付かされるものだ。
子供の自由はここで終わりだ。
自らが「確かにできます」と言えなくても、
どんなにできるわけがない仕事でも「できるからやらせてください」と、
嘘をついていきながら、
できないのが当たり前の自分をできるのが当たり前であると
自分も他人も同時に騙しながら、
学ぶことも希望を持つこともすることなしに、
何一つできない自分のことを憎み、
人々ができるのを自分ではなく何かのせいにして逃げている自分こそ、
「今の自分の向き合う最大の敵である」と、
そう気が付くことができたなら、
それは「成長しているという証」であると言えるかもしれない。
愚かな子供じみた自由はここで終わりであり、
最後まで「わたしは全力で生きた」と言えるこの人生こそ、
「自由よりも素晴らしいものである」と、
いずれこの人間も語ることになるのである。
トランプばかりを見ている、日本人は驚くかもしれないが、
アメリカは日本よりも良い社会である。
なぜなら、アメリカには「自由があるから」である。
日本がどれだけ、平和で、過ごしやすく、暮らしやすいとしても、
その実際は「なんの自由もない中で飼いならされているだけ」であり、
支配者は国民のことを、奴隷としか思っていない。
アメリカ人は「積極的に善をする」という精神と理想があり、
「自らの考えを実現するためには戦いも必要だということを自覚」している。
対して日本人は、「共同体の全員で出る杭を打つことしかできない」。
アメリカ人にとっては全てが「自覚」であり、
日本人のように「同調圧力」ではない。
わたしたちは、どんなに遅れて狂って馬鹿で知性がない愚かな社会に見えても、
アメリカに学ぶべきである。
ドイツよ、日本よ、そしてイスラエルとロシアよ、
わたしたちはアメリカとともに生きなければならない。
そして、アメリカの「自由な社会」に学ばなければならないのである。
最後に生き延びる国は日本とイスラエルである。
なぜなら、聖書がない国は、
最終的に「人間とは思えないほど最悪の国」になっていく。
これが、人類の「歴史の必然」である。
歴史はどんどん馬鹿になっていく。
今から先だろうと、100年後だろうと、それは変わらないのである。