AUTHOR: schwarz1009
TITLE: 哀しいままでは終わらせない
BASENAME: 2020/12/13/200551
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DATE: 12/13/2020 20:05:51
CATEGORY: 愛
CATEGORY: 哲学的過程
哀しいままでは終わらせない。
僕はこの世界を愛している。
愛していないわけじゃない。
全てを「罪」だと思うのが間違っているだけであり、
本当は「ともに喜びを感じ合う」ことなど、
容易いことである。
わたしは、この物語を哀しいままでは終わらせない。
大いなる夢、希望、喜びを作り出す。
病みではなく、罪でもない、
愛を僕は作り出すだろう。
そう、強くなれ。
強さがあれば、この世界は救えるだろう。
強さがある人間にしか、この世界が救えないならば、
僕は誰よりも、もっとも強くならなければいけない。
みんな、僕の先を歩んでいって構わない。
僕は、みんなに置いていかれても、
ここで立ち止まって、もう一度ここで再度考えるからだ。
僕だけが、ここで歩むのをやめた。
僕はここに留まり、人生と未来を再考する。
物理的に考えなさい。
抽象的な本質から、物理的な考え方を「体得」し、
身に着けていく中で、
本質的に考えることこそが哲学だからである。
ものごとから本質を捉えつつ、
全て考えるのではなく、
必要に応じて考え、「賢く考えない」ことこそ、
真理への近道である。
実際、リスクや危険がなんであるかを知ってしまえば、
その時点でリスクや危険に対処することができる。
対処についても、実際の状況を知ることで、
間違った対処ではなく正しい対処をすることができる。
一つの問題を解決するにも、
たくさんの解決方法があることを知る。
そして、目的を実現し、ものを生み出すために、
どのようにすれば誰もができるような方法で実現できるかを考え、
もっとも効果的で、もっとも影響力の小さい方法、
あるいはもっとも影響力の大きい方法を選ぶこともできる。
原因と結果を知ることは、
社会そのものの「それ自体を目的とする自己目的な特性」を知り、
同時にその外部にある「関係性」を知り、
それらは経験からひとつひとつ「具体性を帯びる」。
経験から見方を変えていくことで、
次元を超えた考え方をすることができる。
すべては自由のもとに、それができるようになるだけではなく、
それ自体を生み出すような「環境や状況そのものを生み出す」ことができる。
ここに、社会における自由、すなわち「自由な社会」は成立する。
環境や状況を生み出すのであれば、
「どのような環境を生み出すか」という問題になるが、
これは「チャンスの実現」から、
「契機を実現することで環境は実現され得る」という答えとなる。
すなわち、チャンスを実現することで、
どんな環境にも「自分が関わることができる」。
これが、「自由の理想の目的」、すなわち社会参加である。
しかしながら、単に参加するだけではなく、
環境に対して「自然な変化を許す」ことで、
自らが関わるだけではなく、
自ら以外の関係者がその環境を「変えやすくする」、
環境自体を「自由にしやすくする」ことができる。
これこそ、環境の「独立性を高める」ということである。
哲学の目的とは、すなわち「契機」を知ることである。
契機とは実現され得るチャンスであり、
同時に「いつどのような考えが浮かぶか」ということである。
これは「保留」であると同時に、「まだ実現されていない可能性」である。
まず、最初の契機は、「人々の中に受け入れられたい」というものであり、
これは自己喪失の中にいる自分が、現実を直視せずに、
しかしながら愛のある環境を求めて
自分を「世界に対して委ねる」ということから行われる。
次に、契機は「この世界と繋がっている」
「この世界に対して自分は手助けができる」と知り、
「世界に対する手助け」を求める。
その次に、契機は「ある程度の経験を知った賢者」となり、
「この世界を変えるための具体的な手段」を知る。
なぜなら、賢者は「理想と発想からこの世界は変えられる」と知っており、
「この世界は正しいアイディアを出せば思い通りに変えられる」と確信している。
ここで、契機は
「ほかの世間にいる人々を無視して、自分だけの道を進み続ける」。
なぜなら、人々を見るよりも、自分だけを見た方が、
この世界にとって「素晴らしい変化の手段と発想が得られる」と
彼は知ったからである。
よって、彼はインターネットを使って、
新しい契機である「修練」へと導かれる。
この修練とは、「自らの力で世界の未来を開拓していく」というものであり、
ここで、彼は
「ありのままに前だけを見て努力すれば結果はついてくる」ということを知り、
「実際に実現することより、その過程を見ること、
その過程を共有することこそが、
この世界を変えられるヒントである」と知る。
ここに、自由は「世界を確かに変えるための手段」となり、
ここに自由は「実質化」し、
個人的な人格形成は、社会制度や実体を含めて「普遍的なもの」と変貌する。
そう、彼はここまでの体験で、
「世界を確かに変えられるようになった」のである。
その結果、次なる契機である、「暴走」を彼は体験する。
暴走において、彼は世界全てを「自分のエゴイズムのもとに破壊しようとする」。
しかしながら、彼は決して破壊を目指していない。
彼は自らの企てる「自分自身における全ての理想の実現」を目指しており、
そのために全てを犠牲にして、「どんなにハイリスクでも最後までやり遂げる」。
彼は、あらゆる努力と今までの人生の中におけるあらゆる発想を、
そのためだけに捧げる。
そこで知るのは、
「たくさんの変えられる発想はあるが、
自分の為したことはその中でもひとつの可能性に過ぎず、
だからといって簡単にほかの可能性と取り換えることはできず、
間違ったことや過ちをしたからといって簡単には解決できないが、
それでもなお、この企てのために全ての力を使って努力し、
最終的にまともなものを作りたい」という「想い」である。
この想いを終えて、彼は今までの人生だけで全てのことが分かったと確信する。
彼はそうした全てを、
「自分を自分たらしめるもの」すなわち「自らのアイデンティティ」とし、
「アイデンティティの形成過程こそが宇宙の大いなる法則である」とし、
人々を実質的に操作し、あるいは支配しながら、
この世界における「理想の構築のためにどのように考えるべきか」を知り、
それはすなわち、
「先入観を排除してできることの可能性を考える」ということであり、
彼は「経験的な世界での見方を変えること」から、
「リアルな情報としてこの世界を変えられるような情報サイト」を作る。
そして、彼はこの世界に、「大いなる道を創造する」のである。
その道は、永遠に続く戦いであり、
神も悪魔も妖怪も、全てを詰め込んだ「オープンソース形式の聖書」であり、
彼はその文書を書くために「今までの人生」を材料とし、
「順序を遊ぶこと」でどんなに難しいことでも「常にとことん考える」。
これが、この世界を導く「聖なる導き」となる。
彼は世界全てに「ダイレクトに対話」し、同時に「一方的に支配」することで、
「この世界の中心たりえる存在」となって、
星の歴史全てを変えていく。
発想として存在したのは、
まず、人々と同じ発想をする。
次に、次元を超えた考え方をする。
次に、経験から見方を変えていく。
次に、宇宙に存在するさまざまな存在の意義を考える。
次に、社会の役割を考える。
次に、社会を変えられる可能性を考える。
次に、社会において自分が社会に対して
どのようなことをできるかを考える。
次に、個別性と普遍性の違いを考え、個別性の撤廃を考える。
次に、自己の主体的な自由に立脚した世界の変化の可能性を考える。
次に、自然な環境において、
どのようなアイデンティティが形成されるかを考える。
次に、どのような精神が正常であり、
どのように考えることが行為を実現する上で正しいかを考える。
次に、コンピュータやオープンソースの発想から、
自由と集積を考える。
次に、人々が自由でありながらそれを共有することが、
どのように創造性に繋がるのかを考える。
次に、湧き上がってくる想いや感情が、
どのような裏側の心によって引き起こされるのかを考える。
次に、その想いについて、環境的な要因と意識的な要因を考える。
次に、自由におけるもっとも正しい国家とはなんであるか、
あるいは考えられる可能性はなんであるか考える。
そして、最後に、人生の全てを総括して、
人間とは場合場合によって何を考えるものであるか、
ということの結論に行き着く。
最終的に、「人間は自己愛と他者への共感や思いやりのために生きている」という
「絶対善」に到達する。
これにより、人間の人生は「最初のフェーズが終了」するのである。
しかしながら、世界の可能性を知ることは、
これだけのことでは決してない。
なぜなら、わたしたちは世界の可能性から「絶対精神」を知るからである。
これは、「わたしたちの精神について、
わたしたちをどのように成立させるかということに対する、
立脚すべき根拠となる精神」であり、
これが、「経験的理性」として、
「自らの心の中から湧き出してくる目覚め」となる。
これがまさに、ヘーゲルの言いたかったことではないかと僕は思うのである。
そして、ここにおける理想とは「人倫」であり、
「わたしが人々を助けるように、人々もわたしのことを助けてくれる社会」であり、
これは、「無条件に受け入れるという意味での平等」であり、
同時に、「空気のようにその環境において無条件に肯定してくれる自由」である。
しかしながら、このような社会を現実に実現することは難しい。
だが、このような世界を一度知ってしまったからには、
自らで「どのような社会を作るべきなのか」を考えるようになる。
ここで、新しい経験はもう必要ない。
既にすべて分かっているからである。
同時に、ここから先には、
「今までの経験が現実に顕在化していくプロセス」が存在する。
すなわち、「今までの全ての体験をひとつひとつ再体験し、
すべての精神をあますところなく全てもう一度経験しながら、
自分自身の『大きさ』を大きくし、
自分自身の『延長』を長くしていくというプロセス」であり、
これは「すべての人間のする行動や行為を
自分のものであるかのように感じる」ことに変貌し、
最終的には「人格すら世界全ての人間と同じとなって、
感覚的にこの世界全員の心と精神と知性を吸収する」こととなる。
ここには、「先入観や勘違いは一切存在せず、
この世界全員の知っていることを知っていて、
この世界全員を知り得ることすべてを既に考えつくしている」。
ここに、全てを知った「超人」は誕生する。
この超人の根拠は全て「経験」であり、
生み出た理由は「他人とは違う経験をすべてしたから」となる。
そしてこの人間は、「この世界をたったひとりで救うことができる」。
そう、ここに究極の革命家は誕生し、
最後までこの世界を救うために、「たったひとりの大革命」を起こし、
この世界全てを「今までの抑圧が全て無くなるように支配し、導いていく」。
そう、最後の革命は、インターネットを用いてマスコミすら支配するのである。