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AUTHOR: schwarz1009
TITLE: 社会モデル
BASENAME: 2020/12/05/172928
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DATE: 12/05/2020 17:29:28
CATEGORY: レイナ

普通の経済学

まず、ものは放っておいても生まれない。
生活に必要なものは、労働者が働いて生産される。
そのためには、工場などの生産手段が必要であり、
同時に、労働者が働く「モチベーション」すなわち「動機付け」が必要となる。
労働者も、働かなければ金が入らず、生活することができない。
労働者と経営者は「雇用契約」を結び、
働く代わりに対価を得る。
働くとものが生まれ、
その対価によって、他の労働者の労働によって生産された
生活に必要なものを得ることができる。

ここから上手く考えれば、社会モデルを作れる

そして、このような「普通の経済学」から上手く考えれば、
「社会モデル」を作ることができる。
たとえば、働くのにあたって、
ひとつの会社や工場だけで完結する生産と労働をする必要はない。
さまざまな会社の、いわば「下請け」が集まって、
全体のサプライチェーンが製品を作ることもできる。
また、生産手段と生産能力が高度に発達した社会では、
「過剰な生産」が行われ、
この過剰な生産によって、
全員に十分な富が平等にいきわたるかもしれない。
「巨大工場で全てのものを作り、それを分配する」という発想である。

競争は必ずしも善ではない

また、競争は必ずしも善ではない。
なぜなら、競争は「勝者と敗者を作り出す」。
その人に何の落ち度もなくても、
敗北した会社に勤めていた労働者はリストラにあって失業する。
競争がなく腐敗するとはいえ、
公務員として雇われるならば、安定した職を得ることもできる。
すなわち、「全員公務員なら何でもできる」という考え方である。
なぜなら、全員が公務員であったとしたら、
権力者は「全員を意のままに従える」ことができる。
これが、マルクス・レーニン主義の「計画経済」の発想である。
また、社会所有は「管理所有」となり、
国家の全てを独裁者の意のままにすることもできる。
こうした「巨大権力」は、
正しい目的のために使うことがもしできたとしたら、
たとえばサン・ピエトロ大聖堂のような、
荘厳で美しい芸術都市を築くこともできるのだ。
これを「民主主義」と言うこともできる。
選挙で選んだ政治家に権力を委ねるのも、
全員を従えて「全員でやるべきことを決める」というのも、
同様に「民主主義」なのである。

どのようにしたら競争よりも優れた仕組みを作れるか

そして、会社におけるモチベーションは、
もちろん高い給与や自分のやりたいことができる仕事もあるだろうが、
むしろ、「競争」である。
他の企業に負けるわけにいかないから、
労働者は限界までコストを切り詰めて働かさせる。
しかしながら、これはある意味で「奴隷制と変わらない」。
しかしながら、競争よりも優れた仕組みというのは、
現代の資本主義においても実現していない。
中国の社会主義が違うと言えるかもしれないが、
彼らも資本主義によく似せた経済を採用しており、
「勝者と敗者は必ず分かれる」。
もし、競争でなく、
人々が「戦うことなしに自分から働く」ようにできたら、
それが理想的である。
ボランティアが無償でソフトウェアを開発するオープンソースは、
必ずしも素晴らしいものではないが、その理想のひとつと言える。

わたしはレイナ

わたしの名はレイナ。
最後まで、この世界を自分の力で「再考」する、
経済学者の心理学者だ。

どのような自由な可能性がいつ成り立つか

このように考えると、
「どのような自由な可能性がいつ成り立つか」という発想が鍵となる。
自由な可能性とは、
その人が自由に努力したとして、その努力がどれほどの可能性を持っているか、
ということであり、
どのように社会モデルを設計すれば、
「もっとも自由かつ平等な社会を成立させることができるか」ということである。
たとえば、会社や工場においても、
よく働くものは少しずつ出世し、
最終的に上役となって「権力をほしいままにできる」が、
これはまさに「自由な可能性がある」。
しかしながら、このような自由な可能性があることはむしろ稀で、
多くの場合は「立場やしがらみからそうせざるを得ないような制限が増えていく」。
これはまさに「自由な可能性が制限されている」。
いつ、どのように自由な可能性が成立するのかを考えることで、
さまざまな「社会モデル」が生まれていく。
しかしながら、「木を見て森を見ず」という言葉に反して、
森ばかり見るのではなく、木も見るべきである。
すなわち、個人個人の自由な経験がどのように「進歩」していくのかを知ることで、
「個人の自由」を知ることができ、
この個人の自由は「社会的な可能性」と照らし合わせることができる。
同時に、その「自由な経験」は、
「机上の理想」と「現実の営み」を照らし合わせることで、
「正しい社会の成立が実際の現実世界でどのようになるのか」を知ることもできる。
これがわたしの「社会モデル論」である。

もっとも優れたモデルが標準となる

また、社会において自由を許すということは、
「一律に支配するのではなく多様性と変化を認める」ということであり、
自由を許すことで変化と発生がどんどん増えていく。
まるで虫のように、いくらでも増えていくその自由は、
決して全てが成功するわけではないが、
一握りの「もっとも優れたもの」は、
他のどのような方法で生み出したものよりも、
自由によって生み出されるものが勝つ。
もっとも成功したビジネスモデルが、標準を手にすることになり、
さらにそのモデルは成功する。
しかしながら、資本主義ではなく、
社会主義においても同じことをする。
すなわちいくらかのきちんと労働をする「模範的労働者」が居て、
すべての人民がその「模範生に合わせる形で同じ労働をする」。
このようにすることで、
「一部の優れた例が社会全体の標準となる」。
これは「互いに競わせる」ということとよく似た、
しかしながら平等なモデルである。
同じように、全ての社会において「もっとも高い理想を掲げる」ことで、
すべての社会が理想の社会となる。

自由と経験を与え、自然な変化を許せ

本当に素晴らしい社会を作りたいのであれば、
自由と経験を与え、自然な変化を許し、
自らがどのようにすれば結果どのような社会になるのか、
自らで確かめ実践できるような場を与えることが必要である。
僕はこのような体験をインターネットを通じて行ったが、
実際、インターネットでなくてもこのようなことはできるはずであり、
自ら世界を救い続ける人間だけが、
この世界を「真の意味で救う」ことができるようになる。
成功すると確実に分かっていないことは、
どんなに頑張っても成功しない。
成功する全ての人間は、「確実にそれが成功することが分かっている」。
分かっていない人間がいくら事業を始めたところで、
まぐれで成功するような実業家は居ないのである。
大学の研究はこれと似たところがあるが、
研究所の中で資料やパソコンと格闘するだけではなく、
「実際に何らかの社会において実践的に経験する」ということが、
絶対に必要である。
インターネットだけではそれは十分ではない。
なぜなら、インターネットは既に、そのような経験ができなくなっている。
昔のような「面白い世界」はどんどんなくなっており、
友達同士のコミュニケーションと商業的なWebビジネスが多くを占め、
みんなで善良に話し合う「コミュニティ」はそれらによって消滅しつつある。
実際、本当のことを言えば、それは僕のせいである。
僕はこの世界を「いったん救ったうえで滅ぼした」ために、
インターネットだけではなく、
「日本社会そのものがある意味で大切なもの全てを失った」のである。