AUTHOR: schwarz1009
TITLE: 保守的主張とは何か
BASENAME: 2020/11/04/185827
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DATE: 11/04/2020 18:58:27
CATEGORY: 保守
CATEGORY: トランプ米大統領
わたしたちの自由をここに残そう。
一部が過激な保守的主張を含んでいるが、
ここでのみ、それを特別に許してほしい。
本当に必要なのは自由である。
自由こそが、この世界を救うのである。
全ての人間に自由を与えるべきであり、
全てのことは自分で決められるべきである。
自らの努力と行動に応じて、
その人間に対して報酬としての富を与えるべきである。
弱者は強者よりもより多くの努力をすべきであり、
賢い人間の富を愚かな人間に分配すべきではない。
国家を強くすることを、
国家の主軸とせよ。
強者の富を分配するならば、
その国家は弱くなる。
強者の富を無制限に許すならば、
その国家は強くなる。
全ての原理における優先事項は、
「強くなること」であり、
それ以外の全てはその強さから、
パイ全体が大きくなることで
自然に可能となっていく。
これが、「国家における強さ」である。
強者は、国家における大黒柱であり、
強者が増えれば増えるほど、
国は多様性と生態系を増して強くなる。
逆に、弱者は強者にパラサイトしているだけであり、
弱者が増えれば増えるほど、
国は弱くなって外国に敗北していく。
何よりも増して、強者が強くなることが
国家にとってもっとも大切である。
民主主義において、
強さをみんなで求めることこそが、
もっとも強く、
もっとも正しく、
もっとも賢く、
もっとも善良なのである。
左翼は福祉や税による平等な再分配を掲げるが、
その内実は「実現不可能な主張」と「盗み、奪うだけの理想」である。
このような左翼は悪魔であり、
国家を滅ぼす害虫であり、
あるいは民族の健康を蝕む病気なのである。
このように書くと、
「独裁者」とか、「独善的な支配者」と批判の声が上がるだろうが、
それに反して、僕は支配することを好まない。
支配することは、誰かひとりに力が偏ることを意味しており、
その支配者の能力に国家全ての責任が集中し、
多くの場合破綻する。
それに対して、たくさんの強者を作り、
競わせ、それぞれがそれぞれの組織を自由に支配する、
分散した権力を作り、
それらをもっとも一番上で小さな指導者が競わせることで、
全ての社会組織が健全となるだけではなく、
力が増え、自由にコントロールできるようになり、
結果的にそれぞれはそれぞれの中で「内部的に自浄作用が発揮」される。
そう、自由こそがわたしたちの国家を主柱として強くするのである。
強さと平等が、両立することはない。
しかしながら、強いものは弱いものを「生かす」作用がある。
よって、強いものが増えれば、
それこそが弱いものを救うことに繋がるのである。
平等を目指すならば、
短期的な費用対効果から「盗むように平等に」するのではなく、
より長期的な投資的考え方で、
強いもの、すなわち「国家にとっての力となるべき優越性」を増すように、
力をつけていかなければならないし、
そのためには強者をより自由に、なんでも支配できるようにする必要がある。
富の偏りは全体から一部のものだけに富を集めるかもしれないが、
その強者がその富をより大きなものにしてくれることで、
結果的には弱者も恩恵を受けられるのであり、
それを税金のような短期的手段で不当に操作することは
「もっとも不正に近い行為」なのである。
日本のために必要なのは、
アメリカのようにばかげた主張をして壁を作ったり、
イスラムや中国と相手の経済の妨害の応酬をすることではない。
確かなインフラ、すなわち「全てにおける基盤」を作った上で、
自らの経済の力となる「巨大産業」を作ることである。
そのために必要な基礎研究は、どんどんやるべきである。
しかしながら、戦争は良くない。
なぜなら、戦争は負けた時にリスクを伴うからである。
そのようなハイリスクな賭けにでることは、
必ず自国の経済や社会に大打撃を与える。
よって、アメリカやヨーロッパに学びながら、
インフラや基盤となる「ベース」を作り、
同時に巨大インフラの「エコロジー」を築く必要がある。
左翼は馬鹿ではない。
平等にみんなが豊かになることが、
おそらく正しい理想だろう。
しかしながら、右翼も馬鹿ではない。
なぜなら、右翼は「今の社会を豊かにする原動力となる」からである。
今の世界がもっと豊かにならなければ、
国家の富の国民全員への再分配など、
できるはずがない。
しかしながら、おそらく、そのうち左翼と右翼は融和するだろう。
なぜなら、マイクロソフトやGAFAのような会社の社長は、
富を持ちすぎている。
彼らは国家の富のほとんどを独占していて、
それ以外の全ての人間にとってみれば、
ほとんどの富は存在しないも同然である。
もし、富が100あったとして、
その99をたったひとりが持っていたとしよう。
この国には、富が1しかないも同然である。
その1をみんなで分け合っている状態は正常ではない。
しかしながら、この論は間違っている。
なぜなら、富が100あったとして、
その99をひとりがもっていたとしても、
このひとりは富をどんどん2倍、4倍と増やしていく。
それならば、残りの1をもし他の全員が分け合っている状態でも、
全体の富は約200, 400, 800, 1600と増えていく。
いずれは、この富の指数関数的な増加に、
貧者が恩恵を受けることになる。
ヨーロッパの王の何が問題化と言えば、
金銀財宝を植民地などから強奪し、
王侯貴族が独占していることであると言われるが、
日本のような「辺境から豊かになった国」から考えると、
むしろ、王が無能なのである。
王が何も考えないから、
フランス革命期のような「パリは火薬庫」のような状況になるのであり、
日本の明治政府のように「富国強兵政策」を行う国から見ると、
日本の右翼は本当に努力して強くなろうと真剣に考えている。
そのため、明治維新は国民の誰からも受け入れられ、暴力的でなかった。
フランス革命が失敗した理由は、「指導者が無能だったから」にすぎない。
しかしながら、巨大で強大な国を作るとして、
政府が大きな力を持つ国は悪い国になる。
ソ連のスターリンは、
「密告逮捕政策」、
すなわち政権に批判的な人間を警察に密告し、
逮捕して「シベリア送り」にする政策を行ったが、
これが典型的な例である。
強くする上では、「政府や税金による成長政策は必要ない」。
なぜなら、「政府はそのものが無能」だからである。
全て自由にすべきであり、
一切は国民の手に委ねるべきである。
なぜなら、国民は自由において賢いからである。
しかしながら、国民に期待するな。
なぜなら、「ほとんどの国民は無能」だからである。
ごく一部の天才を除いて、
ほとんどの国民には大した価値がない。
だから、強者はさらに強者となるべきであり、
ほかのほとんどの一般大衆はそれに従うべきなのである。
しかしながら、銃や戦車は作らなければならない。
近代兵器が強い国は、他の国に負けることはない。
しかしながら、これらには金が必要である。
逆に言えば、「近代文明においては金は強さに直結する」のである。
金は必要であり、軍事費は軍事力に直結するだろう。
僕が思うに、トランプが勝つのは当たり前である。
なぜなら、資本主義社会で生きている人間から見て、
こうした右翼の主張が正論だからである。
こうした右翼が明らかに正しいからトランプが勝っているのである。
よって、トランプを「おバカちゃんの大統領」だと思っている
日本人は分かっていない。
今から、トランプは巨大なグローバル世界で勝利し、
全世界でトランプ支持者が増えていく未来になるだろう。
また、マスコミは民主主義ではない。
彼らは、次のセンセーショナルな話題が欲しいだけであり、
どうでもいいことを国民に流行らせようとするが、
ジャーナリズムはまったく無用の賜物である。
国民のことを馬鹿にし、愚かにし、
洗脳した上でいじめを生み出すだけである。
マスコミは全員、地獄に堕ちるべきである。
そして、戦いや争いが、いつか終わるかのように説く、
平和的穏健派は間違っている。
なぜなら、「世界が滅亡するまで戦いは終わらない」からである。
人間は「本能的に相手よりも優位に立つことを望む」のであり、
これがそのまま、本能的な敵への暴力へと繋がるのである。
もし戦いが終わるとしたら、
それはおそらく石やこん棒で相手を倒すぐらいの
原始世界に戻った時ぐらいであり、
それはおそらく核戦争ぐらいでしか起こりえないだろう。
そして、最後に、
新しい社会主義が世界を席巻するだろう。
それは、なぜなら、
「このような右翼は資本主義の発達途上において成り立つだけであり、
世界の生産手段が高度に発達すれば終わりを迎える」からである。
これはマルクスの主張だが、
実際、このような右翼の政策は
「もっとたくさんの富が必要」だから起きるのであり、
十分に発達してしまえば、
逆に必要のないものとなる。
その時、本当に平等な社会が訪れるだろう。
しかしながら、
むしろ、考える必要があるのは、
右翼と左翼の意見の相違点ではなく、
「生きるために金を稼ぐという行為が、
どうしても他のものに代替できない」ということである。
自由に勝手に稼ぐ、という資本主義そのものが、
必ず富の偏りと格差を生み出す。
この資本主義の金儲けが、全ての社会問題の元凶なのである。
富の偏りと格差は、社会の負の側面に直結している。
しかしながら、インターネットの世界においては、
「ソフトウェアがコピー可能」である。
ここに、ライセンスを販売する右翼と、
オープンソースによる左翼が対立している。
オープンソースにおいては、
ソースコードを公開し、
ボランティアが楽しみと善意によって開発に協力することで、
ネット上でのプログラムの大規模な開発を可能とする。
しかしながら、僕はここに、
まだ、改良の余地があると思う。
すなわち、「大規模な開発はたくさんの人数でしかできない」
という思い込みである。
Ruby on Railsがやったように、
「正しいフレームワークを提供すれば、
誰でも簡単にほんの少しの手間で高度なプログラムが開発できる」ように、
どんどんなってきている。
ゲームエンジンのUnityなども同様である。
僕は、未来はオープンソースから、
徐々にこうした「めちゃくちゃ簡単なフレームワーク」へと移行していくと思う。
ネット上の無数のボランティアは、
カーネルやコンパイラやウィンドウシステムだけに必要となり、
普通のアプリケーションは、個人で、たったひとりでも開発できるような、
そういう仕組みが今から増えていくだろう。
ここに、「金儲けは完全に終焉を迎える」だろう。
左翼政策は、しかしながら、間違っている。
なぜなら、「弱者の命を生かす」ことは、
確かに正しい政策だが、
富を分配するならば、そのもともとの「富」がどこかになければならず、
財源不足か事業破綻にしかならない。
税金を取って財源にするというのであれば、
そもそもが弱者への富の分配は強者の富に依存している。
これこそ、左翼の論理が間違っていることの証明である。
強者が居るから弱者は生きられるという論理は、
パイを大きくするという右翼の論理だけではなく、
税金によって平等にするという左翼の論理からも証明されたのである。
そして、政府が計画経済を行い、
弱者のために平等な事業をゼロから築こうという、
左翼の理想論は現実を見ていない。
そのような偉大な指導者は、
絶対に生まれない。
どんなに頑張ろうとも、左翼の政治家が成功するわけがない。
スターリンが、もっともそれをきちんと行い、
ソビエトの役人は、もっとも真面目に真剣に考えて実践したが、
あのざまだ。
ソ連が失敗した時点で、左翼の主張は間違っているのであり、
スターリン以外の指導者が、成功することはない。
チャンスを与えなさい。
チャンスがあれば、弱者だって努力することができる。
明確に「このように努力すれば成功する」と約束されるのであれば、
人は努力するだろう。
しかしながら、約束を与えることは実質的にできない。
それでも、チャンスまでを奪うことはしない。
それは弱者のためだけではない。
強者は常に生まれ、常に社会全体が新しく生まれ変わる必要がある。
そのために、弱者にチャンスを与えるのである。
左翼の若者について言えば、
情熱は間違っていない。
全員が自由で、失敗や反省を重ねながら、
自らの経験を開拓し、与えられた自由を賢く応用することで、
理想の成熟した世界を、自由なままでも築けるとするのは、
若者の理想であり、その情熱は間違っていない。
しかしながら、若者はまだ、働いて金を稼ぐことを知らない。
働いてみれば、労働の意味が分かる。
労働は辛いだけではなく、
楽しく労働できる環境や、楽にお金が入る喜びも分かる。
そう、資本主義はまったく間違ったものではないことを知り、
本当に賢いのは一部の天才、一部の事業家であり、
それらに従わなければ、現実的に何も上手くいかないのだ、
ということが分かるようになる。
そして、強いものに従うということが、
結果的に社会を良くしているということ、
金を稼ぐことの共栄圏的なよさも、そこで分かる。
大人が利権を得ようとすることが、
単に権力が欲しいだけではなく、
組織ひいては国家全体の利益を考えた上での責任ある判断であると、
若者はまだ知らないのである。
しかしながら、これでは右翼がそんなに正しくない、
「冷酷な正義」に見えるかもしれない。
しかしながら、ソ連や東ドイツの経済と比べてみよ。
ソ連や東ドイツは、金を撤廃して「平等分配」の国を目指したが、
その実態は「生きるために必要な物資が十分に生産されない経済」であり、
ポーランドなどでは、生きるために二週間分もの食料を蓄えなければ、
最低限生きるための食料すら得ることができなかった。
闇市場で物資がやりとりされるのも常態化していた。
このような社会主義経済は完全に破綻しており、
アメリカや西ドイツは、富の偏りやフロンティアの問題、
あるいは格差の問題があるとはいえ、
ソ連や東ドイツよりもはるかに「安心して生きることができた」。
これはリベラルな権利についても同じで、
どんなことを言ってもその発言の「自由な権利」を許す民主主義国家は、
はるかに「まとも」だったのである。
また、強者が賢いのは当たり前である。
強者になったからには、
多くの人を味方につけ、
それらの人々を裏切らず、
正しいビジョンをもって不正なく、
賢く事業を作り上げてきたのであって、
決して、悪いことをして儲けたわけではない。
逆に、左翼が馬鹿なのも当たり前である。
勝つことができないだけではなく、
不正な手段で強者の富を奪おうとする。
左翼は最悪であり、
特に暴力的な手段に訴える左翼については、
ロシア政府であろうと厳罰な処分を与えるだろう。
左翼の言論が許されるのも、
民主主義において言論の自由が許されるからであり、
左翼はそれを「左翼が不正に勝利する政府支持の言論」に
変貌させようとするのである。
弱者を救いたいなら、
キリストにやらせておけ。
ローマ法王はまともだ。
キリストの愛をもって弱者にやさしくするのであれば、
それしか、弱者が救われる術はないだろう。
そもそも、弱者を支援する福祉事業というのは、
多くが「弱者でもできるような仕事」をさせるか、
あるいは「施設のような場所に詰め込む」ものである。
間違っているわけではないということは、
実際、障害者施設でデザインの仕事を教わりながら
援助を受けて働いている僕のような人間からすると、
積極的にこうした施設をいいものであると言いたいが、
それでも、「国民から税金で助けてもらっている」という、
自責の念を少しなりとも持つものである。
本当に弱者を平等に助けてくれるのは、
神やキリストぐらいであり、
悪魔的な暴力手段や犯罪に訴える共産党などを信じるべきではない。
そして、そもそもの問題として、
「平等が理想なわけがない」という問題がある。
平等は要するに、
国民全員に同じ教育と義務を与え、
全ての国民を正しい人間に育て上げようというものであり、
そもそも、平等に自由などない。
平等の理想は「全員同じロボット人間」である。
このような平等が理想であると、
米ソは日本人を勘違いの下に洗脳させているのである。
また、キリスト教というのは、
「人を殺すな」「姦淫をするな」などの教えで知られているが、
もし、キリスト教的なこうした普遍的な価値観がなくなったら、
それが、ソ連や大日本帝国のような結末になる。
独裁者は人を処刑し、虫けらのように殺していいことになる。
キリスト教的な普遍的な価値観がなければ、
人間は悪魔になるのである。
日本人がこうした悪魔的な教えから逃れていられるのは、
民主主義を信じているからである。
もし日本が社会主義になれば、
北朝鮮と同じように、
独裁者の意に反するものは処刑されるようになる。
そのような社会は、日本だけではなく、
アメリカやヨーロッパの西側諸国も、絶対に嫌だ。
だから、トランプのような右翼をキリスト教の保守派は支持する。
自由でリベラルな権利を求める革新派の左翼を、
キリスト教の保守派は、絶対に支持できないのである。
これでは、自由意志のまったくない国に思われるかもしれないが、
実際は違う。
なぜなら、王に従うことを自由意志で選んでいるからである。
逆らうならば、それは王と戦うということであり、
強大な軍事力を持つ王に勝つことはできない。
しかしながら、まさに王が嫌いならば、
みんなで革命を起こせばいいだろう。
それが、王に従わないで、「自ら王と戦う」ということである。
それでも、王に勝つことは実質的にできない。
このような時、民主主義においては、
民衆の意に反する首相を「選挙で負かす」ことができる。
しかしながら、結局、それも王と実力で対峙するということである。
そうした反抗だけが自由であると勘違いしてはならない。
なぜなら、「王に従うことも選ぶことができる」からである。
みずからが王に勝つだけが自由ではなく、
王に従うことだろうと自由である。
そう、従いたいものが王に従っている、それだけの話にすぎない。
「みんなが王国に逆らうべきことが平等だ」と
勘違いしている共産主義者は、
実際は自らの権力闘争にあけくれ、
まったく自由でも平等でもない「悪の帝国」を築くのである。
また、自由とはそもそもがいじめである。
みずからが多数派となって、少数派をいじめる、
それが左翼の「リベラルな権利」の実態である。
自由など、何の意味もない思想であり、
自由でこの世界が良くなると思っているのは「妄想の類」である。
また、指導者が支配することは正しい。
人々の代表が、年長者として、正しい行いを与え、
必要な判断を下し、責任ある決定を行うのは、
まさに正しい。
そのためには、むしろ、トランプのような頭のない指導者ではなく、
きちんとした、正しい支配者が必要なのである。
しかしながら、
このような保守的な主張は、
はっきり言って吐き気がする。
不遜で、尊敬の念がなく、
民主主義を自らの虚言を作り出す道具だと思っていて、
侮辱して人々が黙り込む時に喜び、
みずからが黙り込むしかない時には相手を冒涜する。
僕はこうした保守的な主張が嫌いである。
トランプには、さっさとアメリカから退陣してほしい。
トランプは、地獄に堕ちるべきだ。
米ソがどちらも滅亡した時に、
日本は必ず勝利するだろう。
そして、トランプのアメリカを見ていると、
その日はすぐにやってくるだろう。
わたしたちが何を忘れたのか。
それは「よい社会を作るとはどういうことか」ということを、
真剣に考えることである。
自由を信じ、自由から離れ、
信じることから疑うことへと変わるように学校で教わった僕たちは、
いつしか、何もしなくても保守的思想を唱えていれば
誰にでも勝利できるような、
そんな幻想を抱いていた。
しかしながら、格差が広がれば世界は破滅していくばかりであり、
この期に及んでトランプが現れた。
必要なのは、「本当によい社会を作るためにはどうすればいいか」を
もう一度、最初から考え直すことである。
よい社会とは何であるかを忘れてしまうほど、
この世界は悪くなったのである。
本当の、わたしたちのアイデンティティとは、
わたしたちをわたしたちたらしめるものとは何だろうか。
それは、むしろ、
自らの国を愛することのできる「愛国心」ではないだろうか。
愛国右翼のようなことを言うのではなく、
自らの国と、その国の国民を、
誰よりも自分が愛するということ、
自分一人だけでも世界を救ってみせるということが、
わたしたちにはもう一度、確かに必要なのである。
「わたしは日本人を愛している」と、そのように言える人間になりなさい。
左翼は、共産主義の共同体によって、
それぞれが社会を作るモデルの自由なコミュニティを作ろうとするが、
これは必ず失敗する。
最初の原始的なコミュニティでは、
こうした社会は共同体の自然なルールによって上手く働くが、
必ずそうした共同体を乱す人間がでてくる。
あるいは、そうした「不満分子」を排除するために、
独裁者が強い権限を持ったり、
よくわからないどうでもいいルールやしきたりによって支配されるようになる。
これは、オープンソースやWikiのようなもので、
こうした共同体は必ず失敗する。
これに対して、お客様を神様にするモデルは成功する。
お客様が自分たちに金を払ってもらうように、
きちんとした品質のパッケージを製品化し、
そのパッケージは「買えばすぐに使え、うまく働く」ように、
従業員や労働者を資本家は支配する。
共同体に比べて、こうした「資本家の支配」は、
マルクスは劣っているとみなしたのだろうが、
産業革命の工場による労働者の「虐待的な労働条件」と比べると、
左翼社会主義者の努力もあってか、
今の民主主義においては「適切で正しい労働基準」をクリアしている。
このような資本家の「お客様は神様」モデルは、
先ほどのオープンソースの「社会的IT技術」に比べて、
むしろ、カーネルとアプリケーションとユーザーの関係に似ている。
カーネルは基本的な「会社の形」を作り、
アプリケーションはそれを用いて「事業と製品を構築」する。
あとは、ユーザーはこの構築されたパッケージを、購入して使うだけでいい。
これはまさに「OSという仕組みが目指したもの」であり、
社会的な側面の革新性ばかりが
取り上げられるLinuxよりも、
製品としての質や使いやすさ、アプリケーションの量が
取り上げられるWindowsの方が、
より技術的であり、
本質的に技術として優れているということが実証されるのである。
社会に疎外されるのは、
自分が「これは自分だ」と言うことができるような、
確固としたアイデンティティがないからである。
自分を自分たらしめる何かがあって、
そのために努力して頑張ることができるなら、
人は幸福に生きられる。
しかしながら、それを左翼社会主義活動に結びつけようとする、
サルトルなどの哲学者は間違っている。
左翼は本質的にサタンにすぎない。
本当は、創造性や芸術などの、クリエイティブな活動で、
「自らの神を作り出す」ようなことをしなければならない。
サルトルが「実存は本質に先立つ」と言ったのは、
むしろ、「本質の形成は神への信仰によって得られる」と
言うべきだったのである。