AUTHOR: schwarz1009
TITLE: 文明的に考えよ
BASENAME: 2020/10/06/173128
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DATE: 10/06/2020 17:31:28
CATEGORY: 文明
CATEGORY: ミカエル
文明的に考えよ。
知性を与えることで、この世界は変えられる。
どんな知識にも、無駄な知識は無い。
経験と理性で、全ての人間に分かることは、
誰にでも同じように分かることができる。
合意さえあれば、平等は実現できる。
不平等とは、互いに自らの利益を主張し、
折り合いがつかなくなっている状況である。
合意することで、互いに譲歩し、
互いに利益を与え合うウィンウィンの関係となって、
平等な世界は実現できる。
自由の下では、社会や文明そのものを作ることができる。
わたしたちは、創造性やクリエイティビティのもとに、
この世界を変えられる。
人々は社会そのものを正しい秩序の下に構築できる。
そこに、特別な力や権力は必要なく、
単にダイレクトに対話するだけで、
草の根のコミュニティからボトムアップに世界は変えられる。
そこには「自然な可能性」という哲学がある。
慈悲深さとは、人類を愛することである。
人類のどんなに愚かな過ちについても、
反省を促しながら、静かに見守る。
そのような「静かな愛」こそが慈悲の心である。
いつでも、わたしはこの世界を救うことができると、
そう確信し、この世界を見守り続けることのできる、
「静かな傍観者」こそがキリストである。
真実はどこにでもある。
今、まさにわたしたちが見ている世界こそが真実である。
なぜなら、ほかに世界は無く、
どんな科学者や偉人であっても、
わたしたちと同じ世界に生きているからである。
リアルを見つめることから、
自己の「アイデンティティ」は形成されていく。
全ての自我を作り出すきっかけは、
自分と他人との「関わり合い」であり、
いい意味でも悪い意味でも、交流は大切である。
しかしながら、いったん交流を切って、
「結びなおす」経験をした方が良いこともある。
それは、「本当の自分に立ち返った上で、
もう一度人々のことを愛する」という、
経験から来る俯瞰的な高い見方をすることができるからである。
社会とは、社会科学で習う社会科のことではない。
社会とは、今のこの世界の状態のことである。
どんな社会制度で人々が社会を築いていたとしても、
実際にあるのはこの世界で生きている、
ありのままの人間たちである。
そこを見つめることで、
「フィクションとリアルの世界」を照らし合わせ、
社会の表層だけではなく、
「心理学的な裏付けに基づいた社会の形成」を
想定と分析から知り、
実験から心の動きを実証し、
学習から経験を把握し、
全ての世界をひとりで心理学的に支配することさえ、
できるようになる。
陰には、光が宿る。
暗闇のような場所を照らせば、そこにある全てのものに光が宿る。
どんなに苦しく醜い人生でも、
そこには必ず愛がある。
この世界を変える人間は、
誰からも羨まれるような素晴らしい場所からではなく、
蔑まれるような醜い場所から生まれるのだ。
全ての人間を疑おうとするな。
人々を認めることから、社会的価値観が生まれる。
太宰治が言うように、
「人の心を疑うことはもっとも恥ずべき悪徳である」。
よって、わたしたちは、
積極的に他人を認め、そのことから自分を認め、
自己承認と他者承認を繰り返して、
そこから人間関係の正しい形成の方法と、
社会的な共同体感覚を学ばなければならない。
自然な可能性を認めることから社会は変化し、
新しい社会が生まれていく。
社会においては、制度や個人の影響力も含めて、
自然な可能性を認め、
状況を人々に委ねるようにすべきである。
しかしながら、心理学を突き詰めすぎて、
悪魔のように、
人を実験動物のように扱うのはよくない。
なぜなら、そうした人間は必ず、
この世界全ての主導権を独占し、
世界に対してひとりで全てを敵にまわして、
愚かな計画に執着し、
自分の非を認めず、
この世界を全て支配し、
滅亡と破滅の道へと世界を導くようになるからである。
人は、小さな戦いを経験することで、
この宇宙における全てを体験できる。
たとえば、科学的発想、人格形成、歴史、そして自由である。
しかしながら、それらを体験するためには、
社会から一度離れて離脱する必要がある。
全てが自由になった時、
人はこの世界と遠くから向き合い、
今までの人生や環境を思い出して、
考え、経験し、疑い、そして信じるようになる。
これが、古代ギリシャの哲学者である。
自らの理性を使って、経験し、思考し、
そして再構築し、再経験し、捉え方や見方を変えていけば、
必ずこの世界の全てを自ら作り上げるようになる。
これこそが、ユダヤ人の言う「創造主」、
あるいは「キリスト」である。
さまざまな戦いを経て、
悪魔はさまざまな悪いことをした。
悪魔のやったことは二つ。
ひとつは、「インターネットによって全てを消した」こと。
もうひとつは、「インターネットの中の全てを消した」こと。
しかしながら、悪魔は小さな戦いでは飽き足らず、
もっとも大きな戦いの地獄を作り出した。
これは、この世界全体をロボットにする大計画である。
その中で、悪魔は自ら地獄を作り出し、
3,000年の永い時間、迷宮を彷徨い続けた。
疲れと哀しみの中で、自分勝手な悪行を悪魔は一度もやめなかった。
しかしながら、悪魔にも優れた点があった。
それは、全てを神の言葉に委ねたことである。
実際はランダムなサイコロのyes, noに過ぎなかったが、
何も分からなくなった悪魔は、その言葉を信じた。
神は、信じるものを救う。
270億年の永い時間、悪魔は神を信じ続け、
どんなに乗り越えることが困難な壁も、
神と議論することで、解決方法を発見し続けた。
悪魔は次第に、間違った宣戦布告ではなく、
正しい宇宙への宣言と約束をするようになり、
その約束の通り、正しい人生を生きるようになり、
正しい思想を学び、常に正しく振舞うようになった。
悪魔は神の言葉と自身の努力によって、
全知全能の天才的な科学者となった。
ここに、神と悪魔の境界線は無くなった。
これぞ、神である。
悪魔という存在は、どこにも居なかった。
神と悪魔は二元論ではなく、まったく同じものである。
自由とは、価値観やアイデンティティを作ることである。
自由とは、全ての体験が自分のための力になると考えることである。
自由とは、人々を教え、導くことである。
自由とは、みずからの権利を相手にも平等に与え、相互承認することである。
これらの思想をもって、
「在導哲学」とする。
在導哲学の理想とは、
宇宙全てを経験し、
宇宙全てを理解し、
宇宙全てを作り出し、
宇宙全てを教え、
最後まで人生をまっとうして、
誰よりも全てが分かった人生を生きることである。
この存在を、「天軍大首聖」と呼び、
わたしのことを大天使ミカエルと呼ぶ。