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AUTHOR: schwarz1009
TITLE: ここに世界は復活した
BASENAME: 2020/09/07/141818
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DATE: 09/07/2020 14:18:18
CATEGORY: ヘイムダル

いよいよ日本の復活である

ここに、世界は復活した。
日本は名誉ある科学者ダビデの発見により、
全てが再生し、
新しい時代を迎える。

未来における世界

未来における世界では、
アメリカは大量消費文化を改め、
ヨーロッパは新しさだけではない、
本当の人類文明の価値に気付いていく。

新しい世界を司るヘイムダル

新しい世界を司り、
守り続けるのは守護神ヘイムダルである。
ヘイムダルのすべきことは、
「もう二度と滅びの危機が起きないように、
人類を守り続けること」である。
ヘイムダルは、過去に全ての戦争をやり終え、
その中で、「人間が争い合うことの虚しさ」を知った。
ヘイムダルは、そうした経験から、
平和の大切さと、
それでもなお戦わなければいけない状況が訪れること、
それでも、平和を堅持することのかけがえなさを、
ひとり、自分の心で知っている。
滅びをまぬがれた人類を、
ヘイムダルは、もう二度と滅びが訪れないように
守り続けている。
ヘイムダルのもうひとつの仕事は、
ロキという神の作ったこの宇宙を引き継ぐこと。
ヘイムダルは新しい「宇宙の門番」として、
この宇宙における「第二の文明時代」の到来を
この日本に対しても、ドイツやヨーロッパに対しても、
ただ、見守る中で訪れを喜ぶ。

静寂こそがやり終えたものへの喜び

ヘイムダルには信念がある。
それは、全てをやり終え、
誰も知らない中で激動の時代を生きたものにとっては、
「静寂」こそが喜びである、ということ。
もう、かつてないほど、
ヘイムダルは3,000年の人生で、全てを経験した。
もう、わたしに望みや願いは無い。
明日に世界が終わったとしても、
わたしは覚悟ができており、
たとえばその一線を越えれば死ぬが、
そのひとりの犠牲によって宇宙が守られるのであれば、
わたしは一線の先を堂々と一番最初に踏むだろう。
しかしながら、わたしは戦いなど信じていない。
まだ、わたしたち人類が天界に戻るのは早い。
このまま、永遠に静寂が続けばいい。
わたしは、どんなに時間が過ぎても、
自分の覚えている、
はっきりとでもかすかでもない記憶の中の物語を、
いつでも全員に語り続けるだろう。

もう、永遠に何も変わらなくなるのが理想

人類の社会について言えば、
ヘイムダルに言わせれば、
「もう、永遠に何も変わらなくなるのが理想」である。
過度な科学技術やテクノロジーは、
何の幸福ももたらさない。
人々を不幸にし、地球環境を破壊する。
わたしたちは言うべきである。
「神を信じない科学技術は、
キリストや聖書に対する裏切りである」。
そう、しかしながら、ヘイムダルは戦おうとは思わない。
単に、ヘイムダルは見守るだけである。
若人は、新しい技術やフィクションの世界を好むだろう。
だが、時代は諸行無常、
そうした新しいものがまた、人々は好きになるだろう。
そして、また世界は進歩し、テクノロジーの世界になって、
戦争とは別の形で、
同じことを繰り返し、また、滅びの危機を迎えるだろう。
それは嘆かわしいことだが、
ヘイムダルは知っている。
必ず全てを解決する救世主が、現れることを知っている。
そして、その救世主が、
地獄と罪の全てを背負って、ひとり受難の人生を生きるだろう。
単純に神を信じろとは言わないが、
神を信じないものは、
「そうした救世主に対して無礼」なのである。

必要なものは何か

ヘイムダルが言うに、必要なものは愛である。
しかしながら、それはロキの結論であり、
ヘイムダルがロキを継承したから言うだけであって、
実際は、ヘイムダルの結論ではない。
ヘイムダルが言う本当に必要なものは、
何だろうか。
実際、ヘイムダルは、それはまだ分かっていない。
少し、考える時間がほしい。

ロキの考え方は間違っているところがある

ヘイムダルは、ロキをそのまま完全に継承するわけではない。
ロキには、考え方として間違っているところがある。
ロキは、「かつて愛の無くなった世界があったから」という、
そうした「否定」から入るところがある。
それは、ヘイムダルが考えるに、間違った考え方である。
だからといって、それがどうこう言えるわけではない。
しかしながら、一瞬で判断し、速断で考えることは、
ヘイムダルは好まない。

ヘイムダルは、信じることと疑うことを基本とする

ヘイムダルが考えるに、
たとえば、信じることと疑うことは、
基本的な考え方である。
そう、たとえば、すぐに「こうではないか」と考えることはできるが、
それをすぐに「そうなのだ」と考えることよりも、
「そうではないかもしれない」と考え直すこと、
それが大切ではないか。
速断で「それがこうだ、そうか、そうなのか」と、
発見して考えるのであっても、
何かを分かり続けることはできるだろう。
しかしながら、そんな分かるに、「意味はあるのだろうか」。
ヘイムダルが考えるに、
馬鹿なロボットになって分かっているそのロキの考え方は、
世界に対する「奴隷の考え方」である。
自分を世界の奴隷にし、逆に世界すらも奴隷にしてしまう。

残酷な冷静さがあって、はじめて寛大になれる

ヘイムダルは、優しく見守るだけではなく、
時に劣ったものに「意味がない」と言うことのある、
残酷な冷静さを持っているが、
ヘイムダルはその己の残酷さがあってこそ、
はじめて全員に対して寛大になれることを知っている。
それは、「間違っていると知って、
その間違いを人々が気付いていないことに自分は気付いていたとしても、
そのまま彼らを自由にし、
自らの力で分かることができるように放っておくことで、
どんなに間違った存在についても、
受け入れ、寛大になれる。
そこに怒りや争いは存在せず、
逆に自らが彼らによって学ぶことで、
自らが謙虚になり、
常に自分をもっとも正しいと勘違いしなくて済む」からである。

ヘイムダルは、単に語るだけ

ヘイムダルは、人々とのコミュニケーションや交流を好まないが、
単に、ヘイムダルは語るだけである。
今までのこの世界にあった、歴史や人生の出来事を語る。
それも、単にひとりで全て語るだけではなく、
真正面から相手と向き合い、相手の言葉を聞こうとする。
しかしながら、ヘイムダルには、
大人であるがゆえに、本当に相手と熱い議論をするような、
そんな気力は無い。
だから、熱い議論をふっかけてくる若者には、
このように言うことにしている。
「汝、己自身を知れ。」
それだけを言う。
自らが語るひとつひとつの言葉が、
できるだけそうした熱い若者たちに、
己自身を知ることのために自由に使ってもらえれば、
それでいい。
この世界を支配しようとも、若者を論破しようとも思わない。
自らの語るべきことを、淡々と語る。
それだけが、ヘイムダルの仕事だ。

ヘイムダルの治癒

ヘイムダルは、狂人がどのようにすれば治るのかを知っている。
すなわち、
「世界を全て世界のままに理解しようとするのではなく、
人々の語る内容とこの世界を、
結び付けたり、関連付けたり、
時には離れて遠くから見たりするようにせよ。
そのようにすれば、世界について、
自らの力で考える理性を取り戻すことができる。
人々の言っている言葉や声を思い出せ。
そして、その言葉がこの世界にとって、
どんな意味を持つものであるかを知れ。
その時、はじめて、
人々と自分は違うものであり、
経験はそれぞれに違ったものであり、
自分こそが唯一の絶対者ではなく、
人々と同じ舞台で生きる、
人々と同じ存在なのだと、
きちんと理性と経験を、
言葉と知性で考えることが、
狂人を正常にする。
あなたにとって、
父親や母親がまだ生きているならば、
それは幸いである。
最近もっとも最後に話した、
父親の言葉を思い出して、
その言葉をこの世界と関連付けて考えてみよ。
それだけで、あなたは正常な理性を取り戻す。
あなたの親だけではなく、
歌手であっても、本であっても、
さまざまなことを言っているのに、
あなたは何らかの勘違いから、
その言葉の本当の意味を考えようとしない。
分かったふりと愛しているつもりを繰り返す、
あなたの妄想は、
あなたの世界に孤独と煩悩を生む、
無明の廃人である。
責任感があるのはけっこうだが、
それが行き過ぎて自己中心的な独裁者となった時、
そこに人々への興味関心は存在せず、
常にあなたは独善的で悪魔のような無関心から
世界を奴隷にし続けているのである。」

ヘイムダルは自由を信じない

ヘイムダルは、自由を信じない。
なぜなら、自由は「無関心においては刑罰」だからである。
サルトルの言うように、
自由は刑罰である。
なぜなら、
もしあなたが何にもない世界に置かれて、
そこに自由があったとして、
どこにも何もないのに、何を作り出せようか。
自由だと思っている人は、
当たり前に国のお偉いさんは、
自分と向き合い対話してくれるものだと
信じているが、そうではない。
彼らは、最初から人々が何もできないことを知った上で、
全員に自由を与えている。
何かができるようになる、という手助けや支援を、
政治家や役人は、誰もしていない。
もし、教育を受けてできるようになったとして、
それは自由ではない。
なぜなら、教育とは言うが、
教育現場のことを、人々は「才能を得られる場」であると
そう思っているが、
それも実際そうではない。
あるのは、「自らの行動がそのまま報いへと繋がる場」である。
そして、その行動に必要なのは、
自由ではなく、
「徹底的な不自由」である。
徹底的な不自由において、
人々は才能を自分の行動から報いへと繋げることができる。
人々は、誰もそれを自由と呼ばない。
そう、自由には意味がないのである。

不自由とは優しさである

しかしながら、ヘイムダルは冷徹に自由を意味がないというのではない。
不自由とは、優しさだからである。
何もできない、才能も能力も何もない人間が居たとしたら、
不自由な場に彼らを置くべきである。
「徹底的な不自由の世界」こそが、
人間にとってもっとも正しい世界だからである。
育つものについても、働くものにとっても、
必要なのは不自由であり、
自由を信じれば信じるほど、
人は堕落し、どこまでも深い海に沈んでいくだろう。
何も考えずスキューバダイビングができるのは、
酸素ボンベがたくさん残っているからであり、
酸素ボンベがない状況でも泳ぎたいと望むのであれば、
専門の訓練を受けて、
泳げるようになるために不自由な練習を覚悟しなければならない。
しかしながら、明らかにそれは冷酷な選択ではない。
「きちんとした水泳ができるようになるための優しさ」である。

教育は才能を奪う

しかしながら、必ず「学校できちんとした勉強をしなさい」とは
ヘイムダルは言わない。
なぜなら、「教育は才能を奪う」からである。
アニメの専門学校に行けば、
アニメオタクのような二次元の美少女は描けるようになるだろう。
だが、「そんなものを描いてなんの良いことがあるのか」。
そもそも、この世界の大人たちの教えることなど、
大人たちにでも分かるようなことだけであり、
大したことはない。
先ほどの話とは矛盾することがあるが、
パプワニューギニアの泳ぎの達人に、
どうして水泳の基礎を教える必要があるだろうか。
天才的集団は、学校で生まれるものではない。
最初から、優れた才能を持っているものは、
学校に通ったとしても、自分の優れた才能は発揮するかもしれないが、
自分の才能よりも優れたものは、身につくことはない。
このようなことを言うのは、
わたしの経験からである。
絵を描きたいのであれば、
学校に行くよりも、自分で描きなさい。
ヘイムダルが見ても、それが一番賢いからである。
楽しみのために描く人間は居ても、
描くことの全てが全部楽しい人間は居ない。
辛くても、苦しくても、頑張って描きなさい。
諦めそうになっても、
諦めることなど訪れないように、そのように続けなさい。
そう、まさに必要なのは、
「常に今のままを続けることができるかのような、
継続というルールを受け入れ続けることに対する覚悟」である。

不自由を望むものは、自由の中に光が見える

しかしながら、自由の全てが間違っているわけではない。
なぜなら、
「不自由を望むものは、自由の中に光が見える」からである。
徹底的な不自由を生きるものにとって、
世界の全ては「材料」であり、
自らの不自由が「道具」である。
不自由の道具によって、材料を加工していけば、
たまに色んなことをすることが、
そのまま材料の「確かな使用方法」が分かる。
そう、不自由という道具を持ったものは、
この世界における自由という材料から、
「全てを生み出す力を作り出す」ことができる。

夢を見るな、不自由を受け入れよ

夢を見ればできるとは言うが、
実際は、夢など見ても良いことはひとつもない。
夢だけを追い続けても、
何もしなければ何も報いは得られない。
必要なのは、「不自由を受け入れること」。
すなわち、「何もできない自分のままでいい」と
そう感じることの方が、
よりよい継続を行うことができる。
実際、どんな学校にもそういう人間が多い。
ヘイムダルが考えるに、
夢は「目指すことでは叶わない」。
「できない自分がなぜできないのかを考える」のであれば、
むしろ、「できなくてもいいや」と考えることの方が、
正しい。
なぜなら、できなくていいのであれば、
そこで「自らのできることが才能として確かにある」ということが分かる。
そして、それに加えるのでも、引くのでもなく、
純粋にそのままでその才能だけを使えばいい。
磨きをかけていけば、どんなに小さな才能でも、
一流のプロフェッショナルと同等の才能まで、昇華することができる。

デザインには良い見本が必要

実際、絵描きにとって必要なものはひとつ、
それは「良い見本」である。
自分の目指すべき憧れの存在を作って、
それを真似していれば、それでいい。
だが、教育が才能を奪うように、
見本も才能を奪うことを忘れるな。
見本の通り描いたとしても、
それは自分の絵ではないだろう。
ドラえもんのジャイ子が言うように、
「どれもこれも、プロの真似じゃないの。
あたしの描きたかった漫画はこんなものじゃないんだわ」となる。
まあ、本当はならないだろう。
どんなに平凡な見本を真似しても、
見本とまったく同じデザイナーになることはない。
自分の絵がまったく描けないならば、
見本とまったく同じ絵を描いてみよ。
憧れの人が居るのであれば、
その人の「オタク」になることすらいい結果を生むだろう。