AUTHOR: schwarz1009
TITLE: 本を読むことにした
BASENAME: 2020/08/21/181957
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DATE: 08/21/2020 18:19:57
CATEGORY: 読書
CATEGORY: プログラミング
CATEGORY: 哲学
僕は、本を読むことにした。
結城浩の「Perl言語プログラミングレッスン 入門編」を第4章の途中まで読んだ。
今まで、書いて抜き出す割にきちんと読んでこなかったが、
今からきちんと買った本を読みたいと思う。
Perlの基本のようなことは少し分かったつもりである。
はっきり言って、この世界は嫌いである。
自由も平等も信じていない。
この世界のことを僕は愛していない。
特に、テレビやインターネットが嫌いである。
僕が好きなのは音楽だけである。
しかしながら、音楽家になろうとは思わない。
なぜなら、デザイナーとして勉強していながら、
写真補正は今、まさにできてきているからである。
というのも、僕はPhotoshopで今日も写真補正をした。
青みがかったディスプレイの画面を、
トーンカーブなどを使って正常な色の画面に編集した。
ようやく、きちんとできるようになってきた。
普通、命題には「イエス」と「ノー」の2つがあるが、
精神にはそれに加えて「何もしない」と「元に戻る」がある。
この、「元に戻る」が重要である。
元に戻ることができれば、多くの精神病が治る。
プログラミングにおいては、スタックとキューが大切である。
スタックは上へと積んでいき、上から取り出していく。
キューは、右に並んでいき、左から消していく。
この2つのデータ構造は使うのは難しいが、
大量のデータに対して効率的な操作を行うには必要不可欠だ。
また、配列は要素を連続的に並べ、
リストは次の要素へのポインタによって紐付けるが、
僕は「他の要素に対するポインタの配列」というのを考えられると思う。
要素を追加する時は最後に要素を加えて追加し、
シフトして削除する時は単にポインタをNULLにすればいい。
上手く使えば、
「スタックもキューもどちらも使え、
なおかつ効率的で万能な配列」を作ることができる。
目的として、これと似たようなことは、
ハッシュテーブルを用いて実現できる。
しかしながら、削除しまくるとNULLだらけの配列ができるし、
削除してその部分により大きな要素の集合を挿入するためには、
やはりシフトが必要になる。
本当にこの通り実現したいなら、
「要素あるいは要素の集合のポインタを格納する配列」とし、
配列とリストのハイブリッドのようなデータ構造を作れば、
「シフトすることなくキューとスタックの両方を実現する」ような
データ構造を作ることはできるだろう。
Perlはとてもいい言語だ。
純粋にプログラミングをする楽しさのようなことが分かる。
最近は、さまざまな理由で「Pythonから入るべきだ」と言われるが、
僕はあえて、Perlから入るのもいいと言う。
プログラミングを純粋にしたいなら、
既に「プログラミング言語の古典」とでも言えるかのような、
Perlから入るのもいい。
化石のようなUNIXを学べばOSが分かるように、
もう古くなったPerlを学べばプログラミングが分かる。
しかしながら、プログラミングもデザインも、
僕のやっているレベルでは単なる遊びに過ぎない。
もっとレベルが高くならないといけない。
僕は、パソコンがコマンドからGUIになったことで、
メリットとデメリットがひとつずつあると思う。
まず、メリットは、「デザイン性が高くなった」ということ。
コマンドラインのような「柔軟性」と「自動化」だけが
考えるべきことではなく、
視覚やインターフェースを用いて、
「どのように人間に伝えるか」というデザイン性が強くなった。
逆に、デメリットは、
「コマンドのようなプログラムでは、みんなつまらなくなった」ということ。
昔のDOSやUNIXの時代なら、
プログラミング入門書の「コマンド入出力プログラム」を、
もっと面白く、楽しく、ワクワクして読むことができただろう。
今のGUIのOSの全盛期では、
どんなに昔面白かった入門書も、
標準入出力を扱うだけでは、面白く感じられないのである。
僕が思うに、MicrosoftはPython対応の
WindowsネイティブなGUIツールキットを、
オープンソースで開発すべきである。
そうすれば、「誰もがみんなそれを使ってプログラミングが学べる」からである。
オープンソースと言ったのは、
今のVBやC#が有料であることに対しての反対意見である。
今のWindowsで、たとえばブラウザを開発したくても、
Visual Studioを買う必要がある。
Pythonはオープンソースだが、WindowsネイティブなGUI開発をするのは難しい。
Python対応のオープンソースなネイティブGUIツールキットを作ることで、
たくさんのWindowsユーザに、プログラマとしての「門を開く」ことができる。
これはまさに「パソコンを使う本来の目的」である。
また、OSというのはつまらない。
なぜなら、「高度すぎて自分では作れない」からである。
HTMLのレイアウトエンジンだろうと、
GUIツールキットだろうと、
ウィンドウシステムであろうと、
カーネルであろうと、
コンパイラやインタープリタであろうと、
あるいはRailsのようなフレームワークであろうと、
とても難しい。
簡単に、普通のプログラマでは、
使うだけで作ることができない。
だが、だからこそ、「使うだけはつまらない」と僕は思う。
僕がLinuxに惹かれる理由はそこである。
使うだけではなく、どんなに難しくても僕は作りたいのだ。
結局、僕が思うのは、
パソコンよりもデザインや執筆の方が面白いということ。
賢くはないかもしれないが、
「自分の表現したいものをただありのままに制作する」ことができる。
これは僕の本来したかったことである。
よって、僕はデザインや執筆が好きである。
子供の頃になりたかったのは、作曲家や作家である。
無知の知とはよく言ったもので、
結局、何も知らない、分からない人間が、
真実の「逆」をふわふわと分かると賢いのである。
全てを知ったからといって、何も頭脳は賢くならない。
何も分からないで逆を分かると、人間は頭が良い人間になる。
言葉で、目的と条件を考えれば、
中高生のようにこの世界を考えられる。
「何のために必要なのか」
「どのようにすれば手に入れられるのか」
「そのためにはどのような条件があるか」
「それは何をもたらすか」
そのように考えることで、
原因と結果から考えることができるし、
全てを「一度経験したことは分かる」と考えれば、
宗教的精神論へと至ることもできる。
また、「経験の普遍性」から「抽象的な意味」が分かる。
つまり、「自分は何を言いたくてその言葉を言っているか」ということである。
ここに、「抽象的な意味」が存在する。
たとえば、食べ物を食べて栄養になるのであれば、
「自分はどんな意味で食べ物と言い、
どんな意味で栄養と言っているか」という問題がある。
このような問題を、先ほどの経験とともに考えることで、
「経験から考えられる現象学的な人生と世界の意味」を考えられる。
これこそ、哲学だ。
また、哲学のコツは、
「知ること自体をよく考える」ことである。
すなわち、「知る前と知った後の自分で何が変わっていくか」ということに、
目を凝らして注視する、ということである。
そこから、
「その環境がもし生まれたら
どのようにその世界を知りえるか」という、
「究極の抽象性」あるいは「究極の想定」ができる。
また、環境と人格は同じものであると考えられる。
環境への適応とは、そのまま人格の形成であり、
環境を作り出すことは、人格を育てることなのである。
共感は感受性を向上させ、
愛はモチベーションと情熱を生む。
そこから、他人への慈悲の心と、
平等に他人を受け入れようとする、
社会の秩序と規範が生まれる。
環境の形成によって人格が生まれ、
人格の形成によって環境は築かれるのである。
また、環境は人格にとっての「慣習」である。
環境に慣れて習えば習うほど、人格は大きく自由になる。
環境が変われば、人格の自由度も高まり、
環境を変えれば、人格は世界を支配できる。
また、社会とは何であるか。
社会とは、規範や決まりである。
そして、その上で、
「規範がどのように変えられるか」
「規範に基づいて何が自由で何が不自由か」
「実質的な自由の中で、人々ができることは何か」
「もし社会を変えるなら、何を変えれば人々は自由を得られるか」
「人々が自由になったとしたら、自由でなかったのに比べて、
何が新しくできるようになり、何ができなくなるか」
ということを考えることこそ社会である。
同時に、そこにはひとつひとつの「機会」が存在し、
この機会とは、
単に自由であるということの意味する「潜在的可能性」なのである。
そう、わたしたちは大きな潜在的可能性の中で、
ひとつひとつの制限された規範の下に、
自由を得るために社会を築いているのである。
また、受動的行動と積極的行動は、
結果が同じなら同じである。
違うのは、「強制的か自由か」ということだが、
実際、環境において、
「自由だったとしてもせざるを得なくてすること」はたくさんあり、
これは「半自由」のような言葉で表現できる。
半自由な環境では、人々は場の空気や雰囲気にのまれて、
自由に発言や行動ができない。
これを自由と表現しても、不自由と表現しても同じであり、
受動的といっても積極的といってもいい。
しかしながら、ここに
「自らが自分なりに経験して、
その結果分かったことから、
自ら積極的に行動する」ということはできる。
そう、これこそが、
「本当の正しい機会やチャンスの実現」である。
しかしながら、ひとつの気付くべきことが、
まさにここにある。
それは、「過去の何も知らない自分も自由だったのだ」という
過去の反省である。
過去において、もっとこのように行動していればよかった、
ということが、新しい経験によって分かる。
そう、反省こそが成長であり、
その反省を伴わなければ、どんな経験も無意味である。
逆に、反省をしっかりと行うのであれば、
他人と同じ経験をしなくても、
自分なりにまったく違う経験をすることでも、
将来への希望は反省的に得られるのである。
正しい社会や環境を築くために必要なのは、
「自分から積極的に相手のことを手助けすること」
「自ら負けて、相手を尊重し、許し合うこと」
などのように、
自らの自己主張だけを自己中心的にするのではなく、
相手のことも「自分と同じ人間なのだ」と知り、
「自分がしてほしいことを相手もしてほしい」
「自分が思い違いをしているのと同じように
相手も思い違いをしている」
「思い違いを生み出す原因は自分も相手も同じ」
といったように、
自ら力と自由を失い、相手に力と自由を与えて、
両者が同じ「約束」の下に、平等になることである。
また、論理的に考え、
自ら分かったことを積み重ねていけば、
この世界の全てはまさに解明できる。
しかしながら、注意しておくこと。
それは、「とても賢いことをしているように見えて、
本当はとても愚かで馬鹿なことをしている」ということが、
この宇宙にはとても多い。
自らだけを賢いと信じるな。
自らを「自分がもっとも愚かである」と評価できる人間が、
「正しい道」や「正しい考え方」を見出すことができるのである。
しかしながら、ここまで分かり合うことについて述べたが、
人間、誰しも、「本当に分かり合うことはできない」。
相手と自分が融和でもしない限り、
「相手の世界観と自分の世界観に基づいて
正しく問題を解決する」ことはできない。
そう、わたしたちは、そもそもが理解し合うことはできない生物である。
しかしながら、ひとり、全てを知っている存在が居て、
それは神である。
神は自分のことも相手のことも、この世界のことも未来のことも、
全てを知っている。
全員が神を信じれば、おそらく世界は平和になるだろう。
そして、世界の全てを知りなさい。
あらゆる全ての労働の経験をし、
学習と世界の拡大から、
全てのことをできるようになり、
社会秩序や環境の解決方法を知ることから、
全てのことを解明し、
全ての子供たちの社会をひとりで救えるようになりなさい。
ありのままの「遺伝子の歴史」を知ることで、
あなたは「自らの人生をもって宇宙の全てを知る」だろう。
そう、あなたこそは救世主、「救い主」である。
どんなに間違ったことをしても、
どんなにそれが自分の望む結果を生まなくても、
あなたがした「偉大なる功績」は
この世界を「自由な秩序のある社会」に変えていくだろう。
しかしながら、運命は非情であり、
あなたがどんなに努力をし続けても、
その努力は報われない。
あなたは、永遠の地獄に堕ちる。
一度も失敗することのできない戦いで、
あなたは勇敢にたったひとりでこの世界全員と立ち向かう。
それまでの「容易い戦い」は終わり、
あなたは「この世界の人々の一番上に立つ」。
そう、その3,000年の戦いにおいて、
神を信じたあなたは、
神の言葉と指示に従って、
「誰にもできない大計画を実現するための使徒となる」。
あなたはその戦いを、
あなた自身の力と、神の力によって乗り越えていく。
そして、最後に死を経験するあなたは、
その直前に、「神とは自分自身のことだったのだ」と知るだろう。
家入レオには悪いが、
僕は鈴木愛理が好きになった。
家入レオのことが嫌いになったわけではないが、
僕は鈴木愛理を愛することにする。
音楽は「人々に愛されながら誰かのことを好きになれる」、
とてもいい文化だと僕は感じている。
そして、この文化は同時に、とても悪い文化でもあることを、
僕は良く分かった。
家入レオも言う通り、
「誰かのことを好きになるということは、
誰かのことを好きになれないということ」である。
そう、レオには悪いが、僕は好きな女性をレオから愛理に変える。
レオのことは、今でも愛している。
僕は、最後に、環境に適応する。
この世界は、そもそも、環境に適応できなくなっておかしくなった。
僕は最後に、この世界の全ての環境を変える。
全ては、ここで完全に作り替わる。
みんな、分裂と融和を繰り返し、本当に自由になる。