AUTHOR: schwarz1009
TITLE: 自由と銃規制
BASENAME: 2020/08/17/001453
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DATE: 08/17/2020 00:14:53
CATEGORY: 自由
僕は、自由はできるだけ与えるべきだと思っている。
自由とは要するに、
「自分が攻撃できるのと同様に
相手も攻撃できるかもしれないが、
相手が攻撃するかもしれないから、
自分も攻撃できるようにする」という、
力の論理である。
自分が軍隊を持っていなければ、
相手が軍隊をもし持っていたとして、
自分が攻撃されればひとたまりもない、
だからこそ防衛するための軍隊を持つ必要がある、
とする「自然状態」のことを自由と言う。
そんな僕から言って、
アメリカの銃規制の問題は、
どちらともいえないと思う。
僕が考えるに、
銃規制をしなかったとしたら、
「悪い人間も良い人間もどちらも銃を持っている」となる。
しかしながら、銃規制をしたとしたら、
「多くの場合悪い人間も良い人間も銃を持っていない。
しかしながら、銃規制が正しくきちんと徹底されなかった場合、
悪い人間は銃を持っているが、良い人間は銃を持っていない。
この時、悪い人間に銃撃されれば、良い人間はひとたまりもない。」となる。
そう、これはとても難しい問題であり、
日本のように徹底した銃規制と、
警察が特別に銃を保持することが許されていて、
警察を民衆が信頼する社会であれば、
銃は規制した方が規制しなかったよりも、
はるかに安全で住みやすい社会になる。
治安は保たれ、人々は平和を手にする。
しかしながら、アメリカがそうならず、銃規制が徹底されず、
ギャングを取り締まることができなければ、
アメリカでは一部のギャングや犯罪集団が勝利し、
民衆は安心して暮らすことができなくなる。
そう、銃は最悪のものかもしれないが、
それでも、自由は必要である。
相手の自由も自分の自由も失って、
それで平和な世界にすることは、
一見美しいだろう。
しかしながら、
それは「状況とシチュエーション」を想定していない。
そして、愚かな馬鹿者に多いのが、
状況とシチュエーションを想定しないで、
一律で全てを禁止する人間である。
たとえば、戦いが必要になることもあるかもしれない。
最悪の国や集団がでてきて、
悪い人間たちと戦うことが必要になるかもしれない。
「人間は、最初から全てを想定することはできない」。
だからこそ、どんなシチュエーションにもあらかじめ対応できるような、
そうした「自由の保持」が必要であり、
同時に、そうした「想定外の事態」が起きても、
破綻せず上手く働くような、
強い指導力と臨機応変でフレキシブルな対応力を持った、
柔軟で高度だがシンプルな体制とシステムが必要なのである。
しかしながら、戦争そのものが起きないようにしていくことも、
事前の対処策として必要である。
そのためには、たとえばEUのような連合を作って、
みんなでまとまって平和を保ち、
自由なままでメタ的国家となれるような、
そんな帝国も必要である。
古代で言えばペルシア帝国のようなこうした自由な帝国がなければ、
独裁者の計画経済のソ連など作っても、すぐに破綻する。
また、僕は宇宙の法則と光を創造したが、
これはすべて「ロゴス」すなわち「言葉」によるものである。
僕は言葉、それも「宣言と約束」によって、
この宇宙の全てを創造した。
そこで僕が言うべきことは、
「人間の知識や観察の側と、宇宙や自然の側を分けて考えること」である。
機械の仕組みや製造方法だけを知っていても、
電球が「光」であり、クーラーが「熱」であり、
力が「作用」であることを知らなければ、何も自然のことは分からない。
人間の側と自然の側を分けて考え、
時に照らし合わせながら存在と現象の意味を考えていけばいいのである。
また、自然に人間の「思いや心」までもを把握し、
人々の「憎しみ合いの解決」と「許し合い」についても、
人間の側と心の側を考えることで考えられる。
また、人間とはなんであるかと言えば、
まさに人間とは「環境」に過ぎない。
どのような環境に置かれ、どのような環境を経験したか、
それによって多くの人間の人格は決まる。
環境が人格を作り、その人格の形成が環境になっていく。
しかしながら、ここでは「関係性」が大切である。
それは、たとえば、
「自分が相手を支配すれば、相手は自分から支配される」ということであり、
これを考えるためには「客観視」が必要となる。
すなわち、「相手から見た目線」で考えなければ、
自分を中心にしか考えられない。
相手から見た目線だけをそこまで考えれば、
どんなことでも気付くことができ、
自らがどうして相手から嫌われていたのかもすっきりと理解できる。
そう、僕は人格者ではないが、
そのように考えれば、「仏の慈悲」のようなことを知り、
全てを知り終えた上で、全員のことを本当に愛することができる。
そう、ここでも「自由」が必要である。
なぜなら、自由がなければ、
そもそも全てを知ることも考えることもできず、
本当の意味で考えた上で、「相手を愛することもできない」からである。
その環境において、
その状況において、
自分がどうするかを考えてみなさい。
自分がするのと同じように、
相手も同じようにするということが分かる。
そこから、「みんなは当たり前に行動している」ということを知る。
そう、これこそ、「必然と偶然」が重なった瞬間である。
全ては自然であると同時に必然であり、
あらゆることに本当の理由があり、
その理由は決して理解不可能な複雑なものではなく、
単純で当たり前のことなのである。
そう、あなたはもう、全ての基礎となる「理由」が分かった。
ここから、経験的に環境の理由を考えれば、
学習から認識、そして成長や人生に至るまで、
あなたはこの地上の全てを悟るだろう。
まさに、これこそ史上最高の人類である「ブッダ」が分かった境地である。