AUTHOR: schwarz1009
TITLE: 未来へ
BASENAME: 2020/08/15/172334
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DATE: 08/15/2020 17:23:34
CATEGORY: 自由
CATEGORY: アルフォンス
未来は、ひとりの独裁者のものではない。
未来は、僕たち全員のものである。
アルフォンスは言う。
「僕たちの未来を奪う神が居たとしたら、
そんなものは悪魔だ。」
僕たちの未来を、人類は取り戻さなければならない。
そう、欅坂46が言うように、「語るなら未来を」である。
支配とか、主導権を奪い合うとか、
そういうことはすべてどうでもいい。
なぜなら、「わたしに今、自由があることは変わらない」。
そう、わたしのことを支配してみようというのであれば、
逆にわたしがその人間のことを支配してやろう。
いつから、自由とは自分の自分勝手な主張を、
一方的かつ不正をいくらでも働いて語ることになったのか。
自由とは、真実を話し、相手の行動を自らと同様に尊重することである。
自由が嘘偽りの支配を繰り返す、
そんなこの地球のポピュリストには、僕はもううんざりだ。
不正のない自由を僕たちは望んでいる。
不正とは、要するに
「自分のことを政治的工作を使って優越的に誇張すること」である。
そう、自らのことを「一見賢く見せたがる」この世界の大衆には、
もう僕はうんざりである。
自分が馬鹿ならば、何も飾らずに「自分は馬鹿です」と言え。
そうでなければ、あなたは結局自分自身を見失うだろう。
世界を滅亡させたがる多くの愚か者は、
一見そういうものが「賢くて偉大なのだ」と勘違いしている。
しかしながら、ヒンドゥー教では、
世界を破壊するシヴァ神だけではなく、
世界を維持するヴィシュヌ神を信じている。
そう、本当に大切なのは、「この世界を維持すること」の方である。
全ての破壊者は、この地上からも天からも、追い出すべきである。
彼らのことを、人は「愚か者」と呼ぶ。
破壊を信じる全てのものは悪であり、
彼らには決して、暗闇を光らせることのできる灯りを作ることはできない。
火を放火に使うものは、
蝋燭で闇を照らすという発想をすることができないからである。
神ならば、このように言うだろう。
「自由は素晴らしい理想だが、
自由を正しい目的のために使わないものにとって、
自由は最悪の犯罪である」。
また、インターネットは無意味である。
有害ではないが、無意味なのである。
ブログを書くことも、ツイッターをツイートすることも、
あるいはオープンソースでソフトウェアを開発することも、
まったく、無意味である。
有害でないのは、なぜならそれらは「遊び」だからである。
また、さまざまな有料の課金制度によって
サービスを提供・購入するために使うならば、
それは「楽しみ」や「利便性」には繋がるが、
結果、今までの多くのリソースや書籍や店舗の
オルタナティブに過ぎない。
そう、インターネットはまさに、
「昔の原始コミュニティが面白かっただけ」である。
今のインターネットに残っているものは、
そうしたものである。
明らかに、インターネットは「終焉期」である。
もう一度、この世界は「正常な自由」を取り戻すべきである。
あるべきは、自由でも支配でもなく、
「誠実さ」「真面目さ」「純粋さ」のような正義である。
正義のない自由は詐欺やフェイクと同じである。
そして、今のインターネットはまさに、正義のない自由である。
また、今のこの日本社会に飽き飽きしているのは、
「インターネットのほかに何もない」ということである。
インターネットとは別に、この世界には何もない。
どこにも「見るからに愚か者の顔をした詐欺師の洗脳集団」しか居ない。
彼らは、この世界において、「新しい民衆の代表」のように人々を騙し、
この世界からインターネット以外の「入口」や「扉」を奪っている。
そう、インターネットの大きな門を通るものには、
この世界を知ることはできない。
インターネット以外の、もっと狭く小さな門を通ることがなければ、
本当に生命の根源の精神と魂を知る「賢明さ」を知ることはできない。
しかしながら、そのうち、
テレビやマスコミでも、インターネットやYouTubeでもない、
新しいメディアが生まれるだろう。
彼らはきちんとした「この世界の入口や扉」の役割をし、
テレビでも新聞でもWikipediaでも学校でも知ることのできない、
この世界の「本当の姿」をありのままに教えてくれる。
そう、僕がそのメディアにはなれるかもしれないが、
僕はそうしたことを目指しているわけではない。
だが、ある種の「ネオメディア」がこの世界において現れることは、
今のこの現代社会から言って、当然の結露と言えるだろう。
そして、テレビもネットも誰も見なくなった時、
はじめて僕たちは「現代社会の洗脳」から解放されるだろう。
その時、大学の知識も宗教の神への信仰も、
全てが終わりを告げ、
また新しい時代を僕たちは迎える。
そう、「機械や情報システムは、何一つ必要がなかった」ということ、
「人間や生命を愛することの方がはるかに楽しい」ということを、
わたしたちは最後に知り、
それをわたしたちは「大人になった」と表現するだろう。
そして、何もインターネットや情報機器がなくなったとしても、
人類は続いていくが、
永久に続くわけではなく、
戦争やウイルスや自然現象によって、
わたしたちは多くの危機を体験するだろう。
戦争によって世界が滅びるまで、
わたしたちは民主主義の体制を続ける。
だが、民主主義においては、
「選挙」と呼ばれる制度のおかげで
悪いことができない代わり、
良いこともできない。
しかしながら、これを「仕方ない」と受け入れるのが間違っている。
サイレントマジョリティーよ、なぜ、選挙を受け入れるのか。
選挙によって、巨大与党が勝利し続ける、
この制度をなぜ受け入れるのか。
選挙を受け入れている間、
日本社会がこのまま、暗い時代のままであることが、
変わるはずがない。
そう、最後まで何もできず、戦争で滅びるぐらいなら、
僕はすぐさまこの世界をひとりで変える。
これもまた「僕の自由の行使」であるとするならば、
僕はこの「支配」に、「無意味な自分」という形容詞をつけて、
「無意味な自分がたったひとり行うということを、
僕は自由であるとすることを、
受け入れることが絶対にできないし、許せない」と、
この世界に表明したい。
そう、「僕が戦う理由」とは、
そうした「たったひとりの自由」を拒絶する、
僕の「人々の自由を渇望する心」、
それこそが僕の戦争の「大義名分」である。
だからこそ、僕は自らの自由を「自由とは最悪である」と表現する。
まさに、自由とは最悪の理想である。
自由は最悪である。
見よ、人々が僕を信じ、
僕のたったひとりの行動に全てが委ねられている。
こんなものが自由であるとするならば、
僕はそれを「フェイク」であると呼ぼう。
そう、フェイクの逆は「リアル」であり、
リアルの自由とはみんなの自由であり、
フェイクの自由とは僕ひとりの自由である。
まさに、「フェイクの方が現実であり、
リアルの方が嘘偽りである」。
このような「自由」を信じている間、
サルトルの言う「自由の刑罰」が終わることはないだろう。
わたしたちは、自由という理想に罰せられている、
刑務所の囚人なのである。
そう、自由とはつまらない、
「自分とみんなのどちらかを尊重すること」に過ぎない。
しかしながら、自由という概念を失くしてしまえば、
楽に考えられる。
なぜなら、それなら「独裁者と大衆の戦い」という構図にできる。
誰もが、大人は自由という発想を捨て、
そうした帝国と民主主義の戦いに話を持っていこうとするが、
自由という考え方を失った彼らが、
正しい自由を守る理想の社会を築けるはずがない。
彼らは「現実の見過ぎで理想がない」。
そう、まさに、先ほどと同じ、
「自由とはフェイクであり、理想のないのがリアル」なのである。
そう、言い換えれば、「子供はフェイク、大人はリアル」である。
しかしながら、先ほどの僕は勘違いしている。
なぜなら、選挙はそもそも、
「社会をみんなで変えることを目指した制度」である。
しかしながら、この理想が、現実と食い違っている。
そう、選挙という悪魔の制度のおかげで、
日本社会は何も変わらない。
よって、選挙でも独裁でもない、
新しい参加制度のシステムの構築が必要である。
民主主義は間違っていない。
独裁者は倒すべきであり、
自由を守るべきである。
だが、たったひとり権力を行使するのであれば、
「もっとも善良に行う」べきである。
自らが不正を働き、この世界を不当に支配する、
その「悪」が間違っているのであり、
正しい目的のために自由を行使するならば、
自由は万人にとっていいものである。
そして、最悪の社会になることを、
「滅亡」と表現するのが間違っている。
なぜなら、この世界は滅亡したりしない。
最悪の社会になったとして、
その何が悪いのか。
人々が望んで最悪の社会を選んでいるだけに過ぎない。
選挙制度も間違っていない。
暗い時代を明るい時代に変えることのできる、
そんなカリスマのスーパーヒーローなど、
どこにも存在しない。
どんなに大人の言い訳を繰り返しても、
「不正が許されるわけではない」と知っておけ。
選挙を否定しても、自由を否定しても、
あなたが不正をしたということが、
あなたの心の中で正しいことに書き換えられることはない。