AUTHOR: schwarz1009
TITLE: アルフォンス・レッドエンゼル
BASENAME: 2020/08/15/163116
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DATE: 08/15/2020 16:31:16
CATEGORY: 自由
CATEGORY: アルフォンス
わたしは、民主活動家で画家の
アルフォンス・レッドエンゼル。
わたしは、この世界を純粋な自由な世界にし、
自由によって地球を救うことを
理想としている。
まず、子供たちについて。
子供たちは、自由がないから大人に反抗している。
子供たちは、自由と力を求めて、
大人たちの画一的な教育システムに反発し、
自由がないから、間違った手段によって国を攻撃する。
子供たちに自由を与えれば、
子供たちは自らのコントロールと力を取り戻し、
「自らの自由を正しいことのために使おうとする」。
本当に子供たちを自由にするためには、
大人による「押し付けられた知識」ではなく、
子供たちの本当に学びたいことを学ばせるための
サポート役に教師や大人たちはならなければならない。
また、いじめが起きるのは、
人間関係を正しく構築し、社会秩序を上手く形成する能力が
子供たちに備わっていないからである。
こうした能力は、先天的な道徳心から生まれるものではなく、
後天的な「社会経験の成熟」から生まれるものであり、
そのため、子供たちにいじめをやめてほしいのであれば、
インターネットや社会参加などを通じて、
子供たちに「社会を築く方法」を教える必要がある。
また、単に経験させるだけではなく、
自分たちの力で「どのように社会や関係を構築するか」を考えさせ、
さまざまな「別の可能性」を実験させ、実践形式で試させる必要がある。
必要なのは、「禁止すること」ではなく、
「トライ&エラーをさせること」である。
また、法律で一律に禁止することはいい結果を生まない。
あらゆる不正を排除し、
不正がまったく行われないように全ての不正を禁止することは、
不正が行われている状況よりもはるかに悪い。
どんなことを禁止するのであっても、
「大人たちが勝手に禁止する」のではなく、
「子供たちの意見を聞き、子供たちの自由意志を尊重する形で」
行わなければならない。
アルフォンスは、ひとりの指導者を頂点とする、
階層型ヒエラルキーを信じていない。
地域のコミュニティであれば、
地域に根差した共同体にすべきだし、
自由な組織化に根差したものであれば、
自由な集団とグループの組織に基づく社会にすべきである。
法律も、できるだけ一律ではなく、地域ごとに定められるべきであり、
たとえば集団や組織によるものであれば、
集団や組織のグループごとに
「柔軟に決められる取り決めを定める」ことが理想であり、
これは経済活動やビジネスだけではなく、
生活する上においても、人間関係においても、
組織における自由を確保すべきである。
そして、自由意志をどのように実現し、政治に反映していくか。
アルフォンスは、共同体の長は国民の意見をまず聞くべきだとする。
アルフォンスは、政府は経済政策を行うよりも前に、
国民が日々何を感じ、何を考えているか、
どのようにすべきだと思っているかを知るための、
「国民アンケート」を実施すべきだと考える。
国民アンケートでは、
名前や住所は伏せた上で、
年齢と性別とそれぞれの質問に対して
「あなたが今何を考えているか」を記入する。
これを国民に記述させることで、
「国民が何を考えているか」に基づく政治が可能となる。
また、アルフォンスは議会制民主主義の改良モデルを考える。
選挙で当選した政治家議員だけが議論するのではなく、
政府は社会問題についての専門家を招集した国会を開いて、
政治家と専門家の間で意見を交わして議論すべきである。
同時に、役所に一任する予算制度や行政組織を改め、
たとえば「いじめ対策研究所」や「高齢化対策研究所」などの
研究機関を設置し、
それらの研究機関に対してダイレクトに予算を与えるようにする。
これによって、政府は役所に支配されるのではなく、
政治家がダイレクトに「このようにしなさい」と
研究所に指示することができる。
また、アルフォンスは、金儲けそのものは否定しない。
誰かひとりが他の国民よりも豊かである、ということは、
「国民ひとりが豊かな暮らしを送っている」ということであり、
比較しなければ、まったく悪いことではない。
強者を弱者に近づけるのではなく、弱者を強者に近づけるべきである。
また、大企業が大儲けをしているのは、
公的な責任のもとにサービスや手助けを行っているのであり、
税金をきちんと政府に納めている限りにおいて、何ら悪いことではない。
また、政府が経済成長のためにあれこれと様々なことをする必要はない。
市場経済と競争原理に任せておけば、
おのずともっとも合理的に経済は働くのであり、
基本的に政府が何かを計画してやる必要はない。
政府は研究組織に対して「このようにしろ」という命令をし、
権力を使って予算を与えれば、それでいい。
また、所有と共有はバランスを持たなければならない。
そもそも、人類という生物は、
ものがなければ文明的な暮らしをできないのであり、
「明らかに家庭に属するもの」については所有を許すべきだが、
所有だけでは解決しない「環境や公共に属するもの」も存在する。
この両者、どちらも必要である。
税金は公共のものに対しての維持費用であり、
消費は家庭のものに対しての維持費用である。
どちらも必要であり、バランスがなければ国は維持できない。
また、労働者は必ず資本家よりも弱い立場に置かれるが、
労働者を保護するために必要なのは、
社会保障よりも「自由な契約の法的な保護」によるべきである。
明らかに不当な条項をつけたり、
明らかに間違った契約書を書かせたりすることは、
「契約保護法」によって犯罪とすることで、
民主主義の自由経済においても、労働者の立場を守ることができる。
また、敵国を支配するのではなく、
自分の国を自由にする代わり、
相手の国にも自由を認めるべきである。
どちらかがどちらかを支配して自由を認めないようにすることから、
「自由を求めた戦い」が始まるのであり、
自由を与えないよりも、
「戦わないことを条件に自由を与える」ことの方が、
両者、平和かつ発展して、
地球は文化の多様性と平和を維持することができる。
敵国に対しても、共存のために自由を許し、
「敵を倒すこと」よりも
「敵を味方に変えること」を重視すべきである。
また、社会主義に対しても自由を与えることである。
すなわち、思想と思想のイデオロギー的対立は、
「排除すること」ではなく、
「互いに認め合うこと」から解決することができる。
社会主義的な意見について無視をするのではなく、
きちんと議論して、どちらものいい点を共有すべきである。
また、先に共存するべきだと書いたが、
社会が共存することは良いことだが、
政体が必ずしも複数ある必要はない。
なぜなら、文化は「融和すればいい」し、
政体は「統一すればいい」からである。
文化的な融和は統一を生む。
EUがフランスでもドイツでもイタリアでもあるように、
日本は中国や朝鮮半島の文化を吸収し、
「和服もチョゴリもどちらも着る」ような
「融和」を果たすことができたら、
永遠の「日本と朝鮮の争い」も
過去のものにすることができるだろう。