AUTHOR: schwarz1009
TITLE: 悲しいのは不登校のせい
BASENAME: 2020/08/04/093402
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DATE: 08/04/2020 09:34:02
CATEGORY: 人生
CATEGORY: 世界の国と地域
CATEGORY: 社会
CATEGORY: 教育
CATEGORY: 哲学
CATEGORY: 東亜イスラエル
この文章が悲しい理由は、
不登校になったからである。
僕は中学校三年から不登校になったが、
友達は、みんな悲しかった。
なぜか、いきなり死んだのと同じように悲しい。
また、それが引き篭もりになって、
そのまま認知症になって、自殺未遂をするのが悲しい。
あまりに悲しいせいで、
どんな文章よりも悲しい文章になった。
また、この文章の内容など、
悲しいだけである。
要するに、ひとりぼっちを受け入れて、
全ての大切なものを自ら失っただけだからである。
しかしながら、戦いの中で何も分からなくなりながら、
それでも最後まで頑張る姿は、
とても美しいものである。
そう、それを書きたかっただけである。
また、少し過激で極端なことを言いすぎた。
日本にユダヤ人は来なくていい。
来ない方が良い。
ユダヤ人の嫌う、
「多神教」「汎神論」「太陽・自然信仰」「偶像崇拝」を
日本人は全部やっている。
天皇なんか、王でありながら神だ。
このような国では、必ずユダヤ人大量虐殺が起きる。
むしろ、日本にユダヤ人がもし住んだとしても、
ドイツやイギリスにユダヤ人が住んでいるのと変わらない。
パレスチナで、アラブ人と平和に暮らしてほしい。
そもそも、僕はユダヤ人よりもアラブ人の方が好きだ。
しかしながら、パレスチナ問題はいつか解決する。
どこかの国が、必ずイスラエル建国を受け入れる。
いつか精神の対話で、僕と話したイスラエルの最高指導者は、
僕に外交をやってほしいと言った。
僕は必ずパレスチナ問題を解決する。
僕はこれでも自由主義者だ。
日本国が自由な主権とコントロールを保持するようにした上で
イスラエルの建国を日本国内に許す代わり、
日本はイスラエル企業の株式を大きく保有する。
これにより、日本は最高の発展を遂げる。
ユダヤ人には、過疎地の田舎を与える。
消滅の危機に瀕している土地は、
全てユダヤ人に与える。
僕は、そんなに偉大なことをしなくてもいいし、
そんなにスーパー超人のような天才にならなくてもいい。
普通の賢い人間になればいい。
天才作家や天才デザイナーや天才ピアニストになるのは難しい。
もっと普通の、たとえば何かに詳しくてよく考えられる人間になればいい。
僕は、本を読むことにする。
それも、「何かの分野を学ぶ」という巨大な目標を立てなくていい。
普通の本を、面白いと思って普通に読めばいい。
また、ひとりで神を信じる意味がそもそもないが、
どこかの宗教施設に入信しようとも思わない。
神は遊び相手だと思えばいい。
そもそも、思考の裏側に昔の自分が居て、
それが今の自分と対話しているだけに過ぎない。
治す必要もない。
適当に遊び相手になってくれれば、
何らかのコミュニケーションができて、楽しい。
それだけで、学校に行かない代わりになる。
数学や歴史を学ぼうとは思わないから、
学校には行かなくていい。
得るものよりも、失うものの方が大きい。
今のまま本を読んだ方が、自分の自由に勉強できる。
また、このような人間でいいわけがない。
もっと、善良な人間になった方が良い。
これでは半沢直樹だ。
本当の僕は、能天気でロマンチストな理想主義的楽観主義者である。
これでは、まったくそう見えない。
単なるエゴイストが残酷なことを言って、
みんなが戸惑うのを楽しんでいる、
そんな確信犯の悪党に見える。
それでは、何もかっこよくないだろう。
精神の病気になった人間は、
多くが「どのように精神を治していいか分からなくなる」。
しかしながら、楽な状態に近づければいいのである。
精神を何に近づけていいか分からないなら、
楽に近づければ、必ず楽になる。
考えるのであれば、
それが「どんな意味で賢いのか」を知るといい。
たとえば、機械や社会において、
人々が何を考えて、どのような発想と手段でそれを作っているのか、
あるいは、実体験に基づいて、どのようにすれば学校環境がよくなるのか、
そういうことを、
単に疑って反抗するだけではなく、
体験的反省から「どんな意味で正しいのか」を知る。
それを考えることで、
「どんなことが人間はできるのか」、
「その社会においてどのような社会が実現されうる可能性があるのか」を
知ることができる。
また、「自由とは何であるか」という考え方をした時に
「コントロールと行為の権限を許す自由」という考え方がある。
環境にただ従うだけではなく、環境そのものを自分たちの手で変えていく。
潜在的可能性を制限するだけではなく、上手く発揮していく。
そこにあるのは、「他者の自由を許す気持ち」である。
他人を傷つけないだけではなく、
「他人から自分が傷つけられても構わない」とすることが、
本当の愛である、ということに僕たちは気付かなければならない。
また、状況を支配する、ということが、
必ずしも悪いことではない。
どんな状況であっても正しいふるまいをすることができる人間は、
どんな状況も支配できるようになり、
そのままそれが、共同体の指導者を生み出すからである。
しかしながら、誰もがその状況で正しいふるまいをできるわけではなく、
「一度その状況を経験しているからこそ、正しいふるまいをできる」ということが、
ここでの「社会学的な真理」となる。
また、教育について言えば、
教科書を覚えることより、体験的に知りつくすことである。
たとえば、インターネットの多くの技術を知り尽くしてしまえば、
基本情報技術者試験などの勉強をしなくても、
ある程度の応用技術については知り尽くすことができる。
哲学や歴史も、教科書を覚えるよりも、
実地的に自分の力で、調べたり参考にしたりして、知り尽くした人間の方が賢い。
学校では、そのように、
教科書に書いてあること全てを覚えるように教えるのではなく、
自らの「実地的な学び」から、体験的に知り尽くすことで、
新しい教育ができるようになると僕は考えている。
そして、子供たちには「自由なコントロール」を与え、
「教師に言われなくても自分たちが率先して行動する」かのような、
「自由な教育」を行うべきであり、
これを僕は「教育を自由にする」と表現する。
また、自由を奪うことは悪いことであると教えるべきである。
たとえば、もしいじめがあったとして、
不自由に盲目的に従うようにするのであれば、
それはまったく人間的ではない。
ものを奪っても、殴っても、裸にしても、何でも従順に従うような、
そんな関係は友達とは言えない。
しかしながら、いじめられっ子には、それをどうしようもできない。
最悪のことをされても、いじめられっ子は無抵抗に、従順に従ってしまう。
だからこそ、「子供たちに自由の正しさを教える必要がある」のである。
そして、大人に頼っていては、世界は変わらない。
大人は、少しでも国民の大多数に反対されることは、
理由がなければ絶対にしようとしない。
立ち上がるべきは僕たちであり、
大人たちを倒して、この国を主体的に変える必要がある。
だが、暴力的な方法や手段しかないわけではない。
議論、社会参加、生産条件の確立などを使って、
この世界を変えていかなければ、
子供たちの環境はメキシコやブラジルほどに最悪のものになる。
スラム街には、麻薬の密売人と泥棒しか居ない。
そのような社会を救いたいならば、
無能な大人たちに任せていてはいけない。
しかしながら、僕はあえて、
協力者は募らない。
仲間や味方がいくらいても、
僕にとっての「自由の邪魔になる」からである。
僕はここで、ひとり、誰にも見られていないことを確認しながら、
自らの思っていることを「世界全体に宣言する」だけである。
この宣言が何かの役に立とうと、立つまいとどうでもいい。
そもそも、僕はこの宣言を何らかの価値あるものだと思っていない。
単なるごみクズを作ることが、
何らかの宝を生み出すことに繋がることを僕は知っているから、
毎日の同じ作業を僕は繰り返すのである。
単なるロボットの壊れた音声テープのようなもので、
それ自体には何の意味もない。
また、自由とは世界を滅亡させるだけの戦いの思想ではない。
本当の自由は、素晴らしいものである。
互いに価値を認め、
お互いに理解し合うことで、
それぞれの間の関係が再結合され、
もう一度、最初から敵ではなく仲間として、
分かり合い、許し合い、
最初から関係を築き直すことができる。
これこそ、世界を平和にする「真実の愛」である。
僕は、そうした「分かり合う自由」が好きであり、
「自由こそがこの世界を平和にする」と信じている。
しかしながら、そのためには、
単に思いやりだけを信じるのではなく、
自由のないところに自由を与えないといけない。
そのためには、「自らの力で自由を勝ち取る」ことも必要である。
そして、その自由によって、
この世界は平和で、平等で、愛のある楽園へと変貌するだろう。
しかしながら、ひとりの指導者だけでは、
それは実現できない。
みなが同じだけの力と自由を持ちながら、
みんなで「合意」あるいは「契約」することで、
社会の「一要員として制度に参加する」ことができなければ、
どんなに素晴らしい政策や制度やシステムも、
誰からも無視されて消え失せてしまうだろう。
また、ひとつの真理がここにある。
それは「誰かにできたことは、他の誰かにも必ずできる」ということである。
ドラえもんが言っているように、
「他の誰かにできることが、君だけにできないなんてことがあるはずか」と、
藤子・F・不二雄も言っている。
誰かができたことは、他の誰かでも必ずできる。
そして、「同じ状況を与えられれば、誰だって同じことをする」。
必要なのは行為を責めることではなく、
その行為の元になった「状況を変えること」である。
また、科学を作ることは簡単である。
なぜなら、原因と結果を構造で考えて、
それを仮説にして実証すれば、
それは科学だからである。
科学は、小難しい科学者が理解不可能な頭と知性で作ったものではない。
誰にでも作ることのできる、分析のための言葉遊び、
それが科学であり、サイエンスである。
自分で実証した定理と事実を積み重ね、
自分だけの力で数学を作ることだってできる。
そもそも、これは多くの古代の宗教家が歩んだ道と同じことをしている。
ブッダがやっていることは、明らかにそれである。
彼らに共通しているのは、
「既にある知識を学ぶのではなく、
自らの経験に基づいて、自ら知識を作っていく」ことである。
これが、科学者と哲学者の違いである。
科学者は、既にある知識を学ぶことしかしない。
哲学者は、自ら知識を発見し、未知の原理を解明し、自ら作るのである。
また、哲学者には、知識は必要ない。
大学や宗教も必要ない。
なぜなら、自分で考えて、自分で同じものを作ってしまえば良いからである。
ある意味、「他人からの知識や事実を吸収する」ことよりも、
「自分の中にある考え方という原因を知っていること」が大切である。
他人の分かったことを吸収すると、
その時点でその分かったことが「どこから生まれた知識なのか」が分からなくなる。
哲学者は、知識など必要ない。
知識が全くない中で、自らの観察と分析に基づいて、
自らの経験のみから考えることができれば、
「世界は世界精神である」とか、「経験は常に生み出されている」とか、
そういうことが分かるようになる。
他者は必要なく、一切は自分のみ必要であり、
ソクラテスは「何も知らないことを知っているものが一番賢い」とし、
ブッダは「唯我独尊」と言った。
また、ウィトゲンシュタインは
「なぜわたしがウィトゲンシュタインなのか」を考えた。
哲学とは、そのように、
他人から知識を奪いとるのではなく、
自らの力で知識を作り出し、生み出し、
そしてそこから世界全体を考え、未知を解明する試みである。
また、哲学者に必要なのは、
知識よりも「自由」である。
際限ない自由、どんなことでも行為して、
結果を見て反省することができる「機会」を与えられる自由、
そう、「最大限の自由」と「無限のチャンス」こそが、
哲学者にとってもっとも必要な「環境」であり、
その「環境そのものを作り出す」ということが、
僕の哲学の中心となるテーマである。
また、重要な哲学上の真理がひとつある。
それは、「自らの経験からこの世界の見方が変わっていく」というものだ。
これは、自我の発達や世界観の進歩という言葉でも言うことができる。
そもそも、この世界がどんな世界かなんて、
生まれおちてすぐには分からない。
さまざまな世界で経験することで、
「本当はこんな世界だった」ということが経験的に分かっていく。
だからこそ、「最初から分かっている哲学者は居ない」。
さまざまな経験や考え方から、次第にひとつひとつのことを正しくとらえていく。
デカルトも、カントも、ヘーゲルも、
みんなこの道を歩んできた。
どんな道でも、最後には「全てが正しく全部分かる」という境地が到来する。
そして、ブッダはこれを「解脱」という言葉で表現したのである。
僕は何を考えたかと言うと、
単に決断するための前提となる条件や要素を考えただけである。
たとえば、社会を作るのであれば、
ルールを作ったり、それぞれを自由にしたり、
生産手段と消費の関係や条件を考える。
心理学を考えるのであれば、
そのことを行為する際に、どんなことを考慮して何を行動するか、
ということを、
「自由が与えられていない場合と与えられていた場合」のように考える。
僕はそのように、
単に「自由」を当たり前に正しく考えただけに過ぎず、
心理学については、
さまざまなことをインターネットの社会経験から経験して、
「心の裏側にある世界」、
まさに「心の表層の前提となる深い心」を考えて、
そこから「行為として現れる現実」を考え、
その理由から「どのような社会が現れるか」とか、
「僕たちはこの世界をどんな世界として知覚した上で行動しているか」を考えた。
そういうことの全ては、
「人生のさまざまな現象を正しく当たり前に考えた結果」に過ぎない。
僕はそのように考えただけに過ぎず、
言ってしまえば「インターネット心理学」のようなものを、
個人的に作っただけである。
だから、きっと僕と同じような改革的・啓蒙的な時代であれば、
僕と同じような人間は五万と現れるだろう。
しかしながら、今のような劣悪で暗闇の時代が続くのであれば、
僕と同じ人間は、いつまで経っても現れることはない。
僕の人生経験の全ては、
「ダイナミックな啓蒙時代において
自らも改革に参加すること」から生まれている。
もし、僕と他の誰かに違いがあるとしたら、
こうした「自らも改革に参加する」という「気運」がまったくない、
今の「全員幼児化した世界」に原因がある、と言わざるを得ないだろう。
また、僕がこの世界を完全に支配していることについて、
僕本人から言うと、
「いつ何が自由になるか」を考えれば僕に勝つことができる。
僕はそうした「何が自由であるか」を、
場合的・状況的に考えた昔の「感覚」を使うことで、
この世界を支配したからである。
しかしながら、この感覚を養うのは容易ではない。
とても難しいことであり、
逆に僕と同じクローンになることはいい結果を生まないだろう。
僕の作った経験は僕だけの経験であり、
そのことが、「僕にしか本当の僕は分からない」という、
「全ての人間を支配する王」の発生をここに実現したのである。
昔の僕は、オープンソースのスピノザのような文章を書いていた。
前提条件についての成立可能な発想を書き、
決断できるところを全て決断し、
歴史や構造全ての全貌を書いた上で、
「ありのままの世界」の歴史のようなものを書く。
スピノザが「神の定理」としたように、
僕は「自由の定理」を書いていた。
また、社会については、
あらゆる社会についての「森羅万象のすべて」を書いていた。
それはある意味オープンソースのようで、
「異なる多くのものが自由に成果を共有することで発展する」という
オープンソースの「集合知」のようなものに基づいていた。
心理学については、「深層心理の再現性」のように、
精神現象を「再現」することで、
この宇宙全ての「歴史を辿る」ような認識と記憶を書いていた。
実際の僕は戦っていて、
自らを「神」のようなものとし、
常にこの世界全てに対峙し、
あらゆる全てを巻き込んだ上で、
愛と理想に基づく自由の世界に、この世界を常に導いていた。
また、僕の言葉を受け入れ続ける必要はない。
僕の言っていること全てに同意し、
その全てを受け入れる必要はないからである。
一番上から語られるこの文章は、
全員への命令を目的としているわけではなく、
逆に、「全員との双方向の対話」を目的とした文章である。
しかしながら、「書く」という特性のため、
この「双方向の対話」を期待することは難しいが、
どんなにあなたの言葉が僕に届かなくても、
必ず、僕たちは世界のどこかのレベルで、
双方向に対話を続けている。
僕は科学も民主主義も信じていない。
だからこそ、コンピュータを使ってできることがここにあるのである。
これは一方的な全員への命令でも、
強制的な受け入れでもなく、
僕との対話であり、あなたは自分の意見や思いを自由に持って構わない。
また、資本主義経済について考えるに、
会社の中で働く社員については、
「契約」あるいは「取引」が行われる。
これは、「あなたがこのようにしてくれるなら、
わたしはこのようにしてあげる」という、
あるいは、「自分にあるものを与える代わり、
相手にあるものを与えてもらう」というものである。
ここに、「条件」をまず提示し、それに対して「合意」し、
その合意に基づいて、「行動」が生まれる。
これは会社における労働だけではなく、
国家間の国際条約などでも同じである。
さて、労働者がこのような契約の中に置かれた時、
当たり前に、「もっと報酬がほしい」のであれば、
さらに大きな条件をのむ必要がある。
すなわち、「もっと働く」必要がある。
逆に、「働きたくない」と望むのであれば、
労働者は「報酬が少なくても構わない」とする必要がある。
しかし、ここで、ふたつの問題がある。
それは、「人間が8時間労働の中でできる労働には上限がある」ということと、
「人間が生活するために欲しい報酬の量には一定の下限がある」ということ。
この「労働上限」と「報酬下限」に基づいて、
どのように決まるかというと、
「会社にとってできるだけ働いてもらえる労働上限以下の労働で、
労働者の求める一定の報酬下限以上の報酬を与える」ということになる。
これはすなわち、「労働者の労働を十分行ってもらいながら、
労働者の報酬を十分に与え続ける」という、
まさに「限界ぎりぎりまで働く、飼いならされた奴隷」のような状態になる。
これが、資本主義における新しい奴隷である「社畜」である。
また、会社間の競争についても、
「競争限界」が存在する。
これはすなわち、「相手の会社に負けないように
上限ぎりぎりまで会社は儲ける」ということである。
どんなにコストを切り詰めても、悪いことをしても、
相手の会社よりも少しでも利益が少なければ、
結果、相手の会社に競争で勝つことはできない。
しかしながら、ここに存在する巨大な「無制限」がある。
それは「利益」である。
会社はどこまでも利益を追求し、
可能な限り、上限が存在しない中で、「莫大な利益を追求し続ける」。
これは、上の労働上限と報酬利益にそのまま関係する。
すなわち、「最大限の労働者を雇い、
その全ての労働者に限界ぎりぎりまで働いてもらい、
下限となる報酬、
すなわち契約の中で与えなければ労働しないだろうという
最低限は与えるべき報酬のみを与える」という状況になる。
これこそが、今の資本主義の現実、
「社畜を限界まで働かせる会社経済」である。
資本主義には、いろいろと考えられるポイントがある。
まず、「資本家は労働者を決定する」。
資本家は、労働者よりも強い。
どんなに労働が辛くても、金を与える側というのは、
単に労働者が満足するぐらいの「下限」となる報酬を与えればいい。
これに対して、労働者は、
それを得るために「上限」まで働かなければならない。
これは、マルクスが「労働を再生産する費用」と言ったのと同じで、
どんな人間でも、取引の中で下限を得て上限まで働く。
あるいは、下限・上限という言葉は相応しくないかもしれない。
「限界まで働かせ、限界まで利益を得て、最低限の報酬を与える」という、
このようなスパイラルが生まれる。
立場の違いは「金をどれだけ持っているか」というだけに過ぎず、
結局、「金を与える側」と「金を得る側」という関係は、
「金を余力まで持っている側」と「金を余力まで持っていない側」となる。
よって、マルクスの言う労働者階級と資本家階級の対立というのは、
すなわち、
「金に余裕がある層」あるいは「金を与えることでもっと金が欲しい層」と、
「金に余裕がない層」あるいは「金に余裕があっても働く層」の
対立を意味している。
そう、まさに、「勝ち組」と「負け組」が社会を「社畜化」している、
これが資本主義の現実であり、
「どんなに不満があっても金が欲しいなら働くしかない」
という社会状況を作り出しているのである。
しかしながら、社会主義経済についての考察をここに加えよう。
社会主義においては、
人々は、むしろ、「生産し、労働せよ」と言われるだけである。
ノルマを与え、国が雇用し、平等分配を行い、計画経済を行うのは、
たったひとりの独裁者であり、
その独裁者の下に、何の自由も許されない。
ノルマだけ働き、それは強制労働で、少しでも抗うものは逮捕されていく。
しかしながら、社会主義について言えるのは、
「きちんと社会を成り立たせるために生産する経済である」ということ。
社会主義は、生産者に「生産せよ」と言うが、
これは「利益のためではなく、
純粋に社会の生産手段を成立させるためである」という目的がある。
確かに自由主義にも、生産と労働の目的はあるが、
自由主義においてはこれが「個別化」しており、
それぞれの契約の中で「わたしはこれが必要だ」とするのであれば、
その必要とする需要に対して「誰か」が供給する。
そう、この「自由主義モデル」は案外うまくいく。
なぜなら、どんなに小さな個人でも、
「需要が見込まれるなら、得られる条件に基づいて自由に供給する」のである。
そう、社会主義は、
単純かつ平等な生産モデルを作るというところまではよかったが、
それを「国営化」したために、十分に供給する能力は無かった。
結局、「契約による需要に対する自由な供給の方が賢く、
平等な国営生産の方が馬鹿だった」という驚きの結果をもたらした。
そう、「マルクスはケインズに打ち破られた」のである。
そして、正しい経済とは何だろうか。
それは、3つポイントがある。
1.労働者がある程度働き、それに対してある程度の報酬が与えられるようにする。
2.社会における生産と労働が成り立つようなシステムを作り、常に成立させる。
3.需要に対して供給されるようにする。
この3つを満たしていれば、おそらく経済は正しく成立する。
自由経済だろうが計画経済だろうが、
この3つをきちんと満たしていれば、経済は成立するのである。