AUTHOR: schwarz1009
TITLE: 哲学、歴史、文学、芸術を
BASENAME: 2020/07/13/202848
STATUS: Publish
ALLOW COMMENTS: 1
CONVERT BREAKS: 0
DATE: 07/13/2020 20:28:48
CATEGORY: 人生
CATEGORY: デザイン
CATEGORY: 哲学
CATEGORY: イラスト作成
僕は、哲学、歴史、文学、芸術のことを学びたい。
僕の格言、それは「賢いのはものではなく人物」である。
どんなにこの世界にある「もの」を見ていても、
ひとつも賢いものはない。
賢いのはこの世界に居る「人」である。
僕は、いつも自分の好きだった、哲学と歴史を学び、
人物について全てを知り尽くす。
また、自らの才能や立ち位置についても僕は知っている。
僕は文学と芸術について学び、
永遠となるべき作品を作り出す。
そして、「人文科学の第一人者」となることを目指す。
思えば、僕の人生には、それしかなかった。
理系のような考え方は、何もない。
哲学者を生きて、
その後に歴史、次に文学、最後に芸術を生きた。
この人間は必ず、この世界における「最後の芸術作品」を作る。
僕が思うに、ヨーロッパの建築について学びたい。
なぜなら、教会のような古い建築物は、
単にその建築が美しいというだけではなく、
外部にも内部にも多くの装飾がされている。
ステンドグラスや壁や天井などに描かれた絵画などが、
「キリスト教芸術の結集」のようないでたちを放っている。
建築を学ぶことで、美しい作品とは何であるか、良く分かる。
僕が思うに、絵を描く基本は、
幅、高さ、奥行きではないかと思う。
正確に比率と拡大率を出して、
幅と高さと奥行きがきちんと計測できる人間が、
絵が描けるのである。
絵の練習の方法として、
「ゆびをかざして幅と高さを比べる」とか、
「同じものを大きく描いたり小さく描いたりする」とか、
そういう方法が考えられるかもしれない。
世界は、確かに終わったかもしれない。
「この世界を変える意味なんかない」という、
IT業界やテクノロジーの発達、
あるいは社会や環境が小さくなったために、
全ての「社会を変えるなんて意味がない」という固定観念に、
僕は立ち向かう。
すなわち、僕はこの世界をもう一度、根底から覆す。
人々の自由な影響力や主導権を超えた、
「本当に人々のための世界」を
僕は、みんなとともに作り出す。
荒れ狂うのは、いいことではない。
必要なのは、冷静になること。
人々の雑多な雑踏や雑念を排して、
ひとり、静かな安心できる環境を取り戻し、
ひとつひとつのことを整理しながら思い出して、
この世界と自分と向き合い、
この世界をどのように変えればいいか、
ひとつひとつ考えて、実験し、実践していこう。
世界は変えられる。
なぜなら、「世界はそれぞれの人間の中にある」からである。
全てを支配したりすることがたとえできなくても、
ひとつひとつの人間の人生を、
自らが導き手となってともに変えていくことはできる。
僕が思うに、もう一度新しいインターネットを作るべきである。
たとえば、SNSの通知機能は、
今は、それぞれのSNSにアカウントを作って、
その上でアプリを入れなければいけない。
これを、セキュアな方法で、「統一アカウント」を作った上で、
アプリを入れなくても、Webの標準機能として通知機能を作る。
そして、データが他人に流出しないように、
秘密となるデータは信頼できる機関が厳重に暗号化・冗長化して管理する。
そのように、今のインターネットを超えるインターネットは、
僕はそのうち現れるか、
そうでなければ、インターネットそのものが衰退するか、
どちらかではないかと思う。
僕が思うに、三次元空間は、
幅、高さ、そして奥行きの3つがあるが、
ここに、「動き」という次元があるのではないかと思う。
この動きというもの、そのものを新しい次元にする、
ということが、四次元の「時空」に繋がっていく。
そう、四次元時空の新しい軸は、「時間」よりも「動き」なのである。
そして、五次元空間は、「回転」や「角度」を考える。
すなわち、「ひとつひとつの空間や動きを別の角度に立って観測すること」、
これが五次元である。
すなわち、五次元とは360°回転であると同時に、惑星の軌道である。
ここは、氷の星、オリオン座のリゲル。
全てのものが凍てつき、全てが活動をやめていく星である。
わたしの力によって、この世界をもう一度復活させる。
ここで唱えるべきは、「復活の呪文」である。
必要なのは、「個性」ではないか。
オリジナリティと独自性から生まれる、
「個性」こそが必要ではないかと、
僕はKing Gnuを聴いていて思ったのである。
僕は、そもそも支配していない。
あなたがたは自由である。
そのことに気が付けば、この運命的定めも終わりである。
この世界全員が、きちんと運命や定めを変えられるようになる。
僕が思うに、必要なのはむしろ「矛盾」である。
さまざまな矛盾同士が戦うことで、
世界は進歩し、発展する。
全ての矛盾を撤廃すれば、
そこには知識も経験も、高次元の「原理原則」もなく、
あらゆる矛盾が存在してはじめて、
宇宙には真と偽が生まれるのである。
僕が思うに、経験だけを見ていて全ては分からない。
経験的に分かってくることがもしあったとしても、
経験が必ずしも正しいとは限らない。
実際の人生ではなく、宇宙から観測される知覚でもなく、
「理性」でしか分からないこともある。
あるいは、理性すら間違っていて、
本当の姿、真実の姿が、
実際の経験や現実的理性とは全く違うこともある。
また、僕が考えるに、
単なる事実、すなわち事実そのものは無視して構わない。
考えるべきことは、それよりももっと奥にある命題である。
すなわち、「シュバルツは生きているか」という命題には意味がない。
そこには事実である「シュバルツは生きている」という唯一の答えしか存在しない。
必要なのは、「シュバルツはいつどのように生きるのか・なぜ生きるのか」という、
5W1H(なぜ、誰が、何を、どこに、いつ、どのように)のみであり、
その5W1Hから導かれる「実相」の裏側にある「本当の事実」、
これが哲学的な原理原則である。
そう、考えるべきは、まさに目的と理由だが、
単なる目的ではなく、「状況やコンテキストにおける目的と理由」が必要であり、
それを解明すれば、「いつ何をすることができるのか」という
「世界の可能性」が見えてくる。
ここから、社会の役割や、自分の望みを叶えるための実現手段が見えてくる。
最終的には「原理原則」と、
「それの実現へと向かう衝動やモチベーション」が見えてくる。
そこから、「人間の全ての理由は解明できる」。
機械とは、どのような時に必要かということであり、
これについては、数学と同じである。
また、社会や心理は、何をすれば目的を達成できるか、
ということであり、
手段とチャンスであると考えれば、
人々をどのように治めるべきか、
あるいは子供にどんな経験をさせるべきかが見えてくる。
また、哲学とは、実際に自らが理性を行使することから、
経験的に、あるいは経験を疑うことで、
見方を変えていく、ということであり、
すなわち哲学とは「成長」である。
もの自身を考えても、
単に唯一の答えが返ってくるだけであり、
必要なのはそのものが接している場所や、
人間や、空間、原因や結果などの
「ほかとの関係性」を考えることである。
また、ものを考える際、あるいは問題を考える際に、
その問題をできるだけ小部分に分割すべきだと、
デカルトも述べている。
僕が思うに、ものの中にある「内側の世界」と、
ものの外にある「まわりの世界」は、
全く異なっていながらにして同一である。
この、「全く異なっていながらにして同一」という考え方は、
面白い考え方である。
シェリングが言うように、
「あらゆる全ては同一のものの現れの違い」であると言える。
そのため、宇宙における現象と、自分の心や体における現象は、
どこかで繋がっていると考えることもできるのである。
また、社会を考える上でも、機械を考える上でも、
発生者や決定者にしか意味がない。
それ以外の全ては、発生者や決定者の決断に従うだけだからである。
これは、知識についても言える。
知識は、教えるものしか意味がない。
教わるものは、自分で何も考えていない。
自らが考え、理解したこと以外、人間は忘れてしまう。
それは、「学べば学ぶほど自分を失うから」である。
また、人間の人格は、その人生における、
反応と経験的学習から形成される。
よって、人格をいったん破壊し、再構築してしまえば、
性格も気性も全く違った人間になれる。
また、人格を包括すれば、
自らの中に何十人と人格を増やすこともできる。
僕はそうした人間である。
また、社会について言えば、
自由な中で組織される全ては社会であり、
ここには、あらゆる「自由の客体化」が存在する。
すなわち、反抗することも従うことも、
自由意志に由来し、
その自由意志が「集団の中で客観的にあらわとなること」が、
社会を生み出すということである。
人は社会における自分の姿からしか、成長できない。
それこそが、「哲学的原動力」となる。
すなわち、たくさん社会で恥をかき、失敗することが、
逆に自己を成長させ、
「自分を許すことが他人を許す」ことに繋がり、
自己意識は自己を次のステップへと進めることができる。
嫌だと思っているものを直視しなければ、
新しい段階に進むことはできない。
また、自分自身を知らないということ、
それそのものが刑罰となって自分を攻撃してくる。
一般的な普通の人間と違えば違うほど、
「本当の自分の生きがいや本質をいまだ形成できていない」ということが、
孤独や生死を左右する戦いとなって自分に降りかかる。
そこでできることは、「他人の姿からなんとか自分自身を知っていく」ということ。
その繰り返しのみによって、
絶対的理性と絶対精神の目覚めは、
自分自身に対して、自分自身の中から明らかにすることができる。
また、さまざまな社会的経験は、
自らが「この世界の先頭に立つ」ことと、
「人々に自らの分かったことを知らしめる」ことから、
「啓蒙」を生み出す。
そして、啓蒙はさらなる社会的経験を生んでいき、
「ひとりの偉大なる英雄」から「救い主」へと変わっていく。
そして、経験は積み重なり、
「正しい考え方」という格率と、
「具体的な知り尽くしたあらゆるもの」から生まれる「公理」となる。
全ては「自らの作り出したもののみによって説明できる」。
これが、のちのちに、「あらゆる全てを滅ぼす魔王」、
すなわちダークサイドに陥った「悪のダースベイダー」となる、
その前夜の出来事である。
また、僕はカントの作った言葉である、「仮象の世界」が好きである。
カント自身の考え方からは離れるかもしれないが、
僕は仮象という言葉は、認識や成立条件に対して使うべきではないかと思う。
すなわち、「いつどのような成立条件で認識が成立するか」ということである。
ここから、自身の力で、
「振る舞いから再現性を実証し、命題そのものを見つけ出す」ということが
できるようになる。
また、単に世界を知り尽くすといっても、
社会制度や現実の社会を見続けただけでは分からない。
必要なのは、「可能性と変化を知り尽くすこと」である。
社会がいつ、いかなる作用によって変化するのか、
実際の社会が、前と比べてどんな要因からどう変わっていくのか、
そういうところから、「世界の意識の現象学」が見えてくる。
変化はそのまま意識になり、
意識は社会の構成員によって形成される現象となる。
また、最後に、自然に任せ、自由を許すことから、制度の可能性を知る。
人々が自由にできるようにしながら、
その自由がどのような環境や状況において、
どのような前提条件やシステムから支配されるのか、
すなわち「自由なルールという支配」がそこにある。
最終的には、「支配や神すらも自由である」という考え方に至る。
ここまでが、「不良少女の発達心理学の過程」である。