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AUTHOR: schwarz1009
TITLE: 精神、志、自分の思想
BASENAME: 2020/06/06/093811
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DATE: 06/06/2020 09:38:11
CATEGORY: 人生
CATEGORY: 心理学

右だけではなく左も使う

僕の精神がおかしいのは、
右だけを極端に使いすぎて、
左を使わないことである。
左を使うようにすれば、
右は楽になる。

右と左がクロスして繋がっている

僕の問題は、
右と左がクロスして繋がっていること。
右脳が左足に、左脳が右足に繋がっている。
このせいで、おかしくなっている。
右を使いたいのに、左ばかり使ってしまい、
左を使いたいのに、右ばかり使ってしまう。

世界は人間を信じられなくなっている

今のこの世界について言うと、
人々は「人間を信じられなくなっている」。
それはひとえに、僕が「自由」と言うのが悪い。
自由ではなく、きちんとした「愛」を信じれば、
この世界は正常な心を取り戻すだろう。

支配者と反逆者をどちらも愛したい

自分は、志が高いように見えて、
実際は志がそんなに高くないのかもしれない。
あるいは、「自由」という僕の志が、
みんなには理解できないのだろう。
僕は、「支配者と反逆者をどちらも愛したい」。
どちらか一方について、どちらかを嫌いたくない。
だから、「戦うのであっても相手を支配しない」。
支配するのであれば、一律で全員を支配する。
一部のものだけを倒すのではなく、
全員を一律で平等に支配しながら、
相手の自由も奪わない。
それが、僕の「正しい自由」である。

人々が何もできないのは自由がないから

また、人々が何もできないのは、
「自由がないから」である。
人々は、さまざまな制約やしがらみから、
自由に生きることができない。
僕は、「そうした人々の代わりとなるために、
自ら自由に生き、自ら全ての自由を経験した上で、
この世界を正しく変える。」
これこそが、正しい自由な救世主である。
誰も自由にできないなら、
誰かひとりが全てできなければならない。

その人の状況から考えると正しいことをしている

また、「その人の状況から考えると、
その人は正しいことをしている」という哲学が僕にはある。
誰もが、正しいことをしている。
同じ状況に置かれれば、誰もが同じことをする。

立場を超えた正しさ

そういうわけで、「誰もが正しい」のであれば、
それでいいのだろうか。
そうではない。
本当に必要なのは、「立場を超えた正しさ」である。
全ての人間の立場を「超越した行動」をとらなければならない。
それが、僕の「戦い」であり、「支配」である。
全ての人々を救う超越的行動を、
支配者は行わなければならない。

子供たちを救う

僕たちは、子供たちを救わなければならない。
今の子供たちには、「力」がない。
生きていくための力を与えなければ、
子供たちは自分たちの力で生きていけない。
僕は、「自由な経験の場」を与えることで、
子供たちが、「自分たちの力で力をつける」ことが
できると思う。
子供たちも、「その子から見れば正しいことをしている」。
必要なのは、周りが「力を与えてやる」ことである。
様々なことを経験し、
自ら「大地においてしっかりと立つ」ようでなければ、
子供たちは真に大人にはなれない。

真に自由になった人間が支配する

そう、つまり、
「真に自由になった人間が支配する」ということが必要だ。
どんなしがらみも存在しない中で、
全てのしがらみを知り尽くした人間が、
全員の正しい行動の理由を分かった上で、
もっとも一番正しい行動をして、
この世界を超越的に支配する。
これこそが、この世界に必要な「指導者」である。

学校に行かなかったのは世界を救いたかったから

むしろ、思い出してきた。
学校に行かなかったのは、世界を救いたかったからだ。
高校や大学に行って、「普通の人間」になるよりも、
僕は世界を救うために、「考え続けたかった」。
そして、世界を救った時も、「もっとやりたかった」。
変わっていくこの世界を見て、
「僕は世界に現れるべきだ」と考えるようになった。

世界の変化を見れば、救い方も分かる

世界の変化を見なさい。
変化していくこの世界で、
何が変わっていき、何が変わらないかを見ることで、
「変わらない世界でこの世界と真摯に向き合う」ことができる。
世界の変え方や救い方も、そこから分かってくる。

心理学

あとは、全部心理学で分かった。
人がいつ、どのような状況に置かれればどのような行動をするか、
自分の過去の経験を思い出しながら、
心の中の「精神現象」や、「経験から形成される無意識」を
考え、想定し、「感覚的に実感する」ことで、
全ての社会の形成の方法を知った。
当時のインターネットを見ながら、
「人間の全ての理由」が分かった。

治らなくても次に進む

精神の病気は、
部分ごとに治してから次に進むのではなく、
治らなくても、あるいは途中でも、
次へと進んで全体を治すと治る。
足を治してから別の部位に移ろうとすると、
別の部位が治らないせいで足が治らない。
学校で「きちんと覚えてから次へと進みなさい」と
教わるのが間違っている。
実際、この世界では、
分かっていなくてもどんどん次へと進んだ方が、
技術も知識もどんどん取り入れられる。
順番通り本を読むより、適当に拾い読みした方が良い。

副交感神経を使え

交感神経ではなく、副交感神経を使いなさい。
自分は、交感神経だけの緊張した興奮状態になっている。
副交感神経を使うことで、緊張した神経が死ぬ。
また、破壊された神経が生き返る。

反応するな

脊髄反射で反応するな。
どんな変化にも冷静になり、
速断を避けることで、
この世界は安心できる世界になる。

望まないことを受け入れる必要はきっとない

僕が思うに、望まないことを受け入れる必要はきっとない。
たぶん、おそらく、きっとない。
あるいは、ないことが理想だ。
理想郷である愛の国ガンダーラでは、それが極力ないだろう。
愛の国ガンダーラでは、
「自分の望まない地獄や試練を受け入れることを極力減らす」。

早めにひとり地獄におちると、後が楽

僕が思うに、早めにひとり地獄におちると、後が楽である。
後でみんなが地獄におちた時に、
治った自分がひとり、楽に生きられる。

一部分だけではなく全体を治そう

精神を治す上で、
一部分だけではなく、全体を治そう。
足だけを治そうとするのではなく、
体全体をリラックスできるようにすれば、
足の神経や血液も治るだろう。

そもそも精神を保持するのが悪い

そもそも、同じ精神を保持しようとするのが悪い。
精神全てを自然に調和しながら変わるようにすればいい。

昔のように狂えば本当に治る

本当に深層心理を治したいのであれば、
昔並みに狂えば治る。
昔の、全ての精神を狂った経験から分かるようにすれば、
精神はすぐに治る。

悪は高望み、不正、暴言、勘違い

悪とは何か。
悪とは、「高望み」「不正」「暴言」「勘違い」である。
高望みせず、不正を働かなければ、必ず未来は開ける。

善とは何か

では、善とは何か。
善とは、誰にも言われず、
報酬が得られるなどといった条件もつけずに、
自分から行動し、
自分から人々のことを助けることではないかと思う。
そのような「絶対損」、すなわち
「損をすると分かっていても人々を助ける」
という考え方が、「清貧」を生み出す。

日本が狂っているのを神に治してもらおう

僕は、日本が狂っているのを、
「神に治してもらおう」と思う。
つまるところ、世界は僕になっている。
なぜなら、「僕のやっていることだけがみんなできない」。
他の人間の、たとえばエジソンのやったことなどは、
頑張れば誰でもできる。
しかしながら、どんなに努力して頑張っても、
僕はできない。
よって、僕になるべきだから、僕になっているだけにすぎない。
同時に、僕になると、
「出口のない迷宮をさまよいながら、
何もできず永久に地獄を生きる」ようになるが、
これを僕がひとりで治すことはできない。
よって、神の助けが最後に必要になる。
神が日本人を救う。

原理よりも目的と方法を

実際のところ、機械や社会の原理を分かるのは賢くない。
機械の原理とは、既に作られた技術の仕組みであり、
エジソンが考えたものを他が追従しただけにすぎない。
本当は、「その機械をいかにして発明したのか」まで
考えないといけない。
ここに、「目的」と「方法」がある。
その具体的な発明がどんな目的を持っていて、
どんな方法を使えば実現できるのか。
これを考えるために、さまざまな前提となる
「解決法」や「アイデア」を考えないといけない。
そして、「問題の解決」が実現されたら、
それを使って「解決することで何ができるのか」を
考えないといけない。
これは技術だけではなく社会についても当てはまる。
「民主主義の原理」を知ることは良いことだが、
実際はさまざまな「社会的問題を解決する方法」を
考える必要がある。
社会的問題の解決法が分かったなら、
「社会そのものの全てを作り出せる」。
これはすなわち、
「世界を変えられる」ということを意味している。

実験と経験的推論を上手く考える

技術や社会における解決策を考えるには、
知ることや分かることだけでは解決できない。
実験や、経験的推論の中で、
「何がいつ成り立つのか」をよく考える必要がある。
科学的発見だけではなく、
人間関係の構築やコミュニケーションについても同様である。
いつ何が成り立つのかを考えることで、
「可能性として検討されうる社会像」を考えられる。
そこから、「どうすればその社会像を実現できるか」を考える。
最後に、「結局どのような社会にするのが一番正しいのか」ということが、
「ああもできる」「こうもできる」といったように、
自由自在に世界を実現できるようになる。

精神のふるまい方は経験に由来している

精神のふるまい方を実験する上で、
「なぜその精神がそのようにふるまうのか」と考えるのは大切である。
この理由は、すなわち、「自身の今までの経験」に由来している。
自分の過去にそうだと思ったから、
過去にそういう体験をしたから、
精神はそのようにふるまうようになった。
よって、「正しい経験を積み重ねることで、精神は正しくふるまう」。
その中から「再現性」を「実験」することで、
世界における全員の精神を「解明」できる。
多くの人々の精神は同じであり、
少なくとも自分と同じように生きている人間の、
普遍的な「自らの精神行動の理由」を、
「自らの経験に基づく推論」から、完璧に説明できる。

環境における集団化と環境からの自由

ここに、ひとつ、僕の個人的経験から言えることは、
「環境における集団化」や「環境からの自由」が
精神に作用する影響は大きい、ということである。
集団になると、集団の意見や雰囲気によって場が決まってしまうし、
その中にいる自分がどのような行動をとるかというのは、
自分だけではなく多くの人々についても成り立つ。
また、環境から自分が自由になったとしても、
環境にいまだに居る人々は、環境に隷属したままである。
こうした「個別と普遍」「内部と外部」を比較することで、
自分の行動を「客観的に」見つめることができ、
ひいてはそれが、世界全員の行動の理由を知ることに繋がる。
人々が「どのような世界で生きているのか」ということ、
「自分だけが特別ではない」ということが、
経験の比較と回想から分かる。
そう、これこそが「青春」である。

戦いの中から見えてくる世界もある

また、戦いや言い争いの中から見えてくる世界もある。
さまざまな戦いや議論を経験して、
自分は「その人の言っていたことが、
自分が言ったことと重なって実感できる」。
すなわち、「他人のことを自分のことのように理解できる」。
ここに、「人生の段階」というものがあり、
「必然的に自分の人生はこのように段階を昇っていく」という、
「人生の階段を最後まで生きる」ということがある。
この経験から、
「人類全員の人生経験を全て包括」できる。
これも、同様に「青春」である。

可能性のモデル

また、昔は、可能性のモデルを作って、
いつどうなるかをモデルから考えて分かっていた。
そういう風に、「自ら構造を作る」ことで、
多くの想像力や言葉の「想定力」を分かった。
想像力の客観視は、
「固い言葉」で切れるように分かるようになった。

なれる喜び

また、自分が「なる」ということから、
アイデンティティや価値観の発生を分かっていた。
「どんなことからアイデンティティが生まれるか」ということを
知り、また、それを「なる」ことから自分で発見し、
それがいつでも「なれる」という自由な理性に繋がった。

環境の自由

なる喜びは、参加する自由やコントロールの実感に繋がり、
「環境に参加できるということが、
すなわち環境そのものを変えられる権利や権限」と知り、
どのようなことを「人々がし得る可能性を持つのか」から、
「権限の拡大」を知り、
それがそのまま「善良な権力」となり、
「生態系のように社会そのものが増殖していくこと」となって、
それは「多様性」と「共有」のための制度に繋がると考え、
そのためには「制度を変えること」と「手段を与えること」が
必要であると悟った。

最初の決定で全てが決まる

また、自由の不可逆的な側面として、
「最初の決定で全てが決まる」というのがあるが、
最初の決定の段階では、
その一回目のトライが何を実現するか、分からない。
そのため、結果を見ながら再度「決定し直す」ことが必要になる。
昔の僕は、それを「決め直す」と考え、
「できるだけ再決定できるように」した上で、
「将来的にプランが変わっていくことを想定」して、
最初の段階で全てを決めてしまわないようにすべきだと考えていた。

再決定をできるようにして、いくらでも実現する

すなわち、正しい社会を実現するために必要なのは、
「可能性の再決定」と「具体的なパターンの実現」である。
全ての可能性を捉えた上で、
その可能性を「際限なく再決定できる」ようなモデルを作る。
それが完成したら、
今度は「自分のみの力によって、具体的なパターンを実現する」。
このパターンは、「あらゆる全ての可能性を、永遠の時間の中で考え続ける」。
そう、これこそ、僕の頭の中にあった「世界との戦い」である。

リアルとフィクションを照らし合わせて世界を捉える

また、世界を捉えるために必要なのは、
「現実と空想を照らし合わせて、
世界全体を少しずつ拡大させながらひとつひとつ捉える」ことであり、
現実を「リアル」、空想を「フィクション」とすれば、
「リアルとフィクションのみの知識によって、
この世界全てを完全に把握・掌握・説明・支配できる」ようになる。

導き手

ここでは自らは「導き手」であり、
「この世界全てを変えること、
そのひとつひとつの経験さえも、
自らにとっての力となる知識とすることができる」。
ここでは、結果となるのは「他人とのかかわりあい」であり、
「他人の人生に干渉できるということが、
幸せを実現するための喜びである」と僕は考えたのである。

知識を得るとは、力を得るということ

知識を得るとは、力を得るということであり、
「この世界をひとつ知る」ということが、
「自分にとっての大切な勉強のための一歩となった」と言える。

人生は失敗からしか学べない

人生は、失敗からしか学べない。
人間は、成功すると「成功体験」を繰り返そうとしてしまうが、
このことが逆に、「別の成功の可能性」を妨げることがある。
しかしながら、失敗から学べることは、成功よりも大きい。
失敗から「失敗するとどのようなリスクがあるのか」ということを
知ることができる。
そのため、一度失敗することで、
「どのようなリスクを覚悟して失敗と向き合えばいいか」ということが分かる。
10が10であることを知るのが成功だとすれば、
1から9までが10ではないことを知るのが失敗なのである。

全てを知って考えても、何も知らずに考えても同じ

僕が思うに、「全てを知って考えても、何も知らずに考えても、
考えの行き着く先は同じ」である。
それは、そもそも、この世界はこの世界であり、
どんなに世界を知って考えてもこの世界はこの世界、
どんなに知識を知って考えてもこの世界はこの世界、
ということがまずあり、
同時に、「考えようとしている自分は同じ人間の理性」であり、
「嘘が正しいことになることは絶対にない」からである。
真実だけを見て考えれば、誰もが同じ場所に行き着く。
これこそ、「哲学的平等」ではないかと思う。
そう、「自分の知らない世界を知れ」と言っても、
あるいは、「知識を本を読んで勉強しろ」と言っても、
それは同じことなのである。

世界のありのままの変化と神

世界のありのままの変化を見よ。
そこから、必ず「何らかの場の意識」が分かる。
僕は、「場に精霊は宿る」と思う。
僕は単に聖書を読んで分かっているのではなく、
「自らの神の体験」を知って分かっているのであり、
この体験は僕にとって「聖書よりも正しい」からである。
科学者に対して再現はできないが、
僕は「神が居た」という事実のありのままの姿を知っている。

認めることだけで心の病気は治る

心の病気は、認めることだけで治る。
きちんと「自分が何を望んでいて、
何を受け入れてほしいのか、
何を許してほしいのか、
本当はどうなってほしかったのか」を、
きちんと認識にすればトラウマの「たが」は消える。

神に頼んで言いたいことを言え

そう、神に、
「僕の言いたいことを言わせてほしい」と言って、
その上でただ言えばいい。
狂った人間は、「言いたいことも言いたくない」という
おかしなこだわりを持っている。
それは神のせいである。