AUTHOR: schwarz1009
TITLE: 不可能を可能に、哲学
BASENAME: 2020/06/05/215741
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DATE: 06/05/2020 21:57:41
CATEGORY: 哲学
不可能を可能にしていこう。
僕は不可能を可能にするのが得意だ。
解決不可能な問題や、
実現不可能な課題を解決する。
僕は最先端技術について言いたいことがある。
すなわち、「今の技術で何でもできる」ということ。
今の技術を上手く応用すれば、
「何でもできる」。
現に、最近の最先端技術は、
まるで昔ドラえもんの秘密道具にでてきたような
新しい先進技術をようやく実現している。
この理由は、
「本当に今の技術レベルで何でもできるから」である。
禁じられた行為を許す必要はなかった。
全く、禁じられた行為は、
しなくて正解だった。
よって、僕はここから、「悪を全て禁じる」。
これ以上、悪は許されない。
人々に暴言を吐くことも、
侮辱することも許されない。
そう、そして全ては禁じられる。
おそらく、みんなを愛していないということを
認めればいいのだろう。
昔のような情熱のある完璧な正義を失って、
僕のことを愛してくれる人のことを
裏切り、傷つけ、狂わせるだけの、
そうした「間違った愛」を愛だと思うから、
この世界は滅亡と破滅の道へと一直線に進んでいく。
そう、僕はみんなのことを愛していなかった。
誰のことも愛さず、誰とも関わらないこの人間が、
王座に座っている意味も、もうない。
この人間はまた、普通の平凡な人間になるだろう。
希望は果たしてどこにあったのだろうか。
それは「今の世界を肯定しながら否定すること」にあった。
まさに、デカルトが言うように、「速断を避け」ながら、
この今の世界における、
正しい問題が何であるか、ということを、
社会全体の自由は肯定しながら、
悪の行為や言動については否定をしていき、
自分の見た世界と、正しい考え方から、
この世界を「いかに救うか」を考えていく。
そこに、希望と人間性の自由と正義があったのだろう。
また、僕の戦いは、
必ずしも世界を滅ぼすだけの戦いではなかった。
「全てを犠牲にして戦う、ということ自体が、
この世界の守護神となって、世界を守っている。」
そう、僕はきちんとこの世界を守ったのである。
そのために自分ができるようにすること、
それを「支配」と僕は呼んだのだろう。
また、「好かれる努力」だけではなく、
「嫌われる努力」をしていこう。
みんなに嫌われるような言動をすることで、
人々が自由になり、
この世界における「許可」が増えていく。
みんなに嫌われれば嫌われるほど、
みんなは「自由に感情を開放する」ことができるようになる。
アドラーは、「感情は自分でコントロールできる」とした。
「狂った人間は、自分で感情をコントロールすることを放棄している」とも。
僕は、これは一番自分に当てはまると思う。
アドラーは劣等感などで知られる心理学者だが、
「共同体感覚のある人間は円滑な人間関係を構築する」など、
昔の僕にも今の僕にも通じることを言う。
理性というのがもしあるとしたら、
それは「嘘を言わず真実が何かを考える」ことである。
すなわち、「嘘と真実を見分ける力」、
これが理性である。
むしろ、嘘と真実がごちゃまぜになりながらも、
その中から「おそらく正しいこと」を導きだしていく、
それが哲学者である。
よって、哲学者は、考えれば考えるほど分からなくなることがある。
「絶対性の中では、相対的な考え方全ては矛盾なく成り立ち、
世界の歴史は常に生み出され続ける、
意識と意識の対象化の現象学であり、
人々はありのまま生きていて、
資本主義社会の不平等を解決するために、
歴史の必然を捉え、生産手段を共有すべきであり、
問題を解決することそのものの前提条件となる、
経験論やアプリオリを考えていくべきであり、
この世界全てを疑った結果残るのは、
時間や空間、物質の原理、自由法則、神の存在に関するアンチノミーと
自我の形成のプロセスを自らの自己意識が、理性を使い行為しながら、
主体的な実体験と意識の転換によって、遍歴していく過程である。」
哲学はこのように考えることで、
「この世界全ての嘘と真実を見分けて解明していく」。
カントについて言うと、
僕は「仮象の世界」とか、「道徳律」といった
考え方、あるいは言葉が好きである。
カントには、言葉を作り出すセンスのようなものがある。
カントは悟性のカテゴリーなどでも、
いい哲学用語を作る。
しかしながら、こうした「言葉を作る」という哲学者の特徴は、
ヘーゲルに至ると、「まるで言葉が人間であるかのように行動する」ようになる。
ヘーゲルにおいては、
「徳」はまるで徳という名前の小説のキャラクターのように、
さまざまなことを考え、行動する。
カント・ヘーゲルが「誰にも理解できないのに難しい」のは、
そもそもそうした「おかしな文学」をやっている、
という点に理由があるのかもしれない。
逆に、デカルトの方法序説などは、
カントやヘーゲルに比べて、読みやすい平易なフランス語で書いてある。
日本語に訳しても読みやすいため、僕は方法序説は日本語で読めた。
僕は、ヘーゲル理解のコツは、
「心胸の法則」と「徳の騎士」だと思う。
心胸の法則は、「自分が正しいと思った理想を実現しようとするが、
みんなは自分の正しいと思った理想を同じように理想とは思っておらず、
結果理想の実現に失敗する」というもので、僕の昔の大失敗に近い。
徳の騎士は、「人徳のある人間として世間と戦うが、
彼は決して世間に勝つことはできない。
彼は世界における平和を作り出すために世間と戦うが、
平和を実現しているのは世間の方であり、
平和を壊そうとしているのは彼の方であるため、
必ず、戦いの末に彼は負ける。」
そして、もうひとつ、「事そのもの」という概念があり、
これは自分の作った作品が、
「その事自体が素晴らしいということを誰も否定できない」といった
そんな感じの意味である。
ヘーゲルはこのように、
「不良少年が若気の至りで行うような青春の一ページ」を
分かっているのである。