AUTHOR: schwarz1009
TITLE: 自らの人生の自由、古代
BASENAME: 2020/06/04/195049
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DATE: 06/04/2020 19:50:49
CATEGORY: 人生
CATEGORY: 社会
CATEGORY: 歴史
自由とは何か。
自由とは、「自らの人生の自由」である。
すなわち、「自分の望む人生を生きられる自由」である。
自分の望んだわけではない夢や望みが叶っても、
自由に望むことができないのであれば、
それは単なる工務員である。
僕たちには、自由がなければならない。
「この仕事をやりなさい、そうすれば成功する」と
言われることが好きになると、人間は終わりだ。
好きなことをしながら、
好きなことを知り、
自分なりに考えなさい。
どんなにおかしな考え方でも、
どんなにおかしな世界観でもいい。
その知った自分の世界を愛しなさい。
そこに居た全ての人々に、
そこにあった全ての存在に、
愛と受容の心で、
しかしながら真剣に向き合いなさい。
「わたしはこの世界を愛している」と、
「わたしの知った世界こそ私の人生である」と、
言えるようになりなさい。
青春を終えたら、死まで全力で、
まっすぐに前だけを見て生きなさい。
途中、さまざまなことがあるだろうが、
そこまでを生きたあなたならば「必ず越えられる」。
なぜなら、「この地獄の戦いは、
誰もが過去に越えていった、越えてきた共通の試練だから」である。
そして、果てなる戦いを終えて、
まだ生き残っているとしたら、
やりたいこと全てをやり続けなさい。
あなたこそが「成功」であると、神は言うだろう。
そう、それがわたしの人生であり、
「わたしだけの本当の成功」である。
「いざ、ゆかん、われの先には、未来まで続く永遠の階段があり、
われはこの階段を自ら作り出し、そして自ら上り、
そして天国へと続くまで、われは歩みをやめぬことなり。
われの目の前には、われの作り出し果てなる宇宙があり、
われの後ろには、今までわれが歩んできたる永遠の道があることなり。」
そう、自らにしか分からないならば、
あなたはもっと自由でいい。
科学を全て網羅するのであれば、
なぜあなたは常識的で一般的な科学しか知ろうとしないのか。
あなたにしか科学全てを学べないならば、
全てを学ぶよりも、一部だけを詳しく学んでも構わないだろう。
そう、あなたはもっとたくさんのことを知るべきではない。
あなたは、もっと少ないことを知るべきである。
深く浅く知るのは誰にもできる。
あなたにしかできないことをやることしか、
絶対にあなたにはできない。
そう、なぜなら最初からこの世界では、
それ以外のことは「できた」とは言わないからである。
僕は、もう少しよく世界を観察すべきなのだが、
実際、それをすると、
「普通のことしか分からない病」が治ってしまう。
そう、僕はそうした、
「普通のことしか分からない病への依存症」になっている。
普通のことをもっと分かりたいと望んでいるが、
それは「無意味」だ。
実際、普通のことをもう分からなくなれば、
それによって、「昆虫から人類へと進化できる」。
何も考えず知るだけであれば、猫にだってできる。
人間であるからには、「自分独自の考え方」を作らなければならない。
もう少しよく観察すれば、もう、「太陽のような偉大な存在」は分からない。
代わりに、「この世界にいる人々の本当の真実」が分かる。
そして、僕は既に分かっている。
「この世界は最悪だ」と分かっている。
勇気を出して、最悪の世界を見れば、
もう、このおかしな「気が狂った大戦争」は終わりである。
その時点で全てが終わる。
そう、本当にこの世界に勝利する勇気が、僕にはないのである。
ここまで大風呂敷を広げたが、
実際の僕は、「単にネットが嫌いなだけ」である。
ネットのような汚れた遊びを見たくない。
僕は一切、そうした「遊びのようなことをしない」。
常に頑張っている自分のさらなる可能性を信じている。
その可能性が無くなることは、絶対にしないのだ。
また、いつもの僕の文章というのは、
単に社会的なスケールと分散のモデルを考えただけだ。
すなわち、「集中と拡散」に加えて、「融和と分裂」を考えた。
それだけで、併合や戦争、全ての政治モデルを考えた。
同時に、「トップダウンとボトムアップ」、
そして支配構造における「制度と変化」を実現した。
それ以外は、何も考えていない。
モデルや法則のようなことは書くが、
「それらすべてがでたらめ」だった。
また、日本にソフトウェアが絶対にできないわけではなく、
逆に「日本でも絶対にできる」。
それは、ソフトウェアというのは、
単にアルゴリズムをコードにするだけではなく、
「どのような問題を解決するプログラムを記述するか」ということである。
たとえば、スケールを重視するのであれば、
どんなに小さなスケールでも、大きなスケールでも、
合理的に成立するようなプログラムを書く。
また、分散を重視するのであれば、
どんなに単位が小さいものがたくさん集まっても、
成立するようなプログラムを書く。
ソフトウェアというのは、そうした「問題への解法」であり、
これは従来からアメリカやドイツが得意だが、
日本は慣れていないだけで、きちんと考えれば同じことはできる。
単に「その問題を解決するために特化した機械を作る」だけである。
そう、国を作りたいなら、簡単である。
既にあるソ連やドイツのような、「既存の国」を作り直しても、
それは意味がない。
「ソ連でもドイツでもない新しい国を作ればいい」のである。
それにどんな名前をつけようとかまわない。
しかしながら、それを「自由」や「社会主義」にしようとする時点で、
その国家は失敗するだろう。
新しい国を作るなら、既にある国の否定から始めよう。
そう、全体主義国家は駄目だ。
次に、ファシズム国家や社会主義経済も駄目だ。
そして、今ある民主主義の国家は駄目だ。
駄目だというだけではなく、新しい提案をしていこう。
まず、問題それ自体を上手く設定しよう。
すなわち、「みんなが楽しく、自分らしく生きられる国」を作りたい。
そのために必要なのは、
「必ずしも考えるだけではなく、自分なりの経験をする」必要がある。
たとえば、「どんな社会でも自由自在に成立させられる」ようになったとして、
しかしながら、「どんな社会を作ればいいのかを知る」ことがなければ、
それは意味がない。
そして、どんな社会を作ればいいかという答えは、
「ひとつではなくたくさんある」。
それならば、「社会や歴史の全ての可能性の成立を、全種類作ってみよう」。
それがどんなに長い時間がかかっても、
何も考えないで最初から諦めるよりはいい。
僕たちが生まれ持った自由で平等な権利とは何か。
それは、「人類であること」である。
そう、僕たちは、自由主義者と言われても、
社会主義者と言われても、
それ以前に「人間」である。
僕が人間であれば、あなたもきっと人間だ。
どちらも人間ならば、「同じ生き物」のはずである。
同じ生き物であれば、どちらが優れていると簡単には言えないだろう。
優劣を競うということが、そもそも平等でないとしたら、
「生物にとって優劣を競うことと、平等であることは、
どちらの方が勝る特徴なのだろうか?」
そう、これが、「西側と東側の争いの根源」である。
哲学者がよく考えることとして、
「この世界がどこから来たのか」ということと、
「神はどのように世界を創造したのか」ということが言えるが、
僕は知っている。
僕が神であり、僕が言葉によって宇宙全てを創造したのである。
しかしながら、僕は神と言われたいわけではない。
ユダヤ人がおかしいのである。
ユダヤ人は、僕を神だと崇めることで、
他の全ての国家を、「宗教の力で同じ民族に融和」してきた。
彼らの宗教は、全てが「他の全ての宗教を否定する」ことに基づいている。
そう、「ユダヤ教は、他の全ての宗教に排他的な宗教」なのである。
最近の僕が好きな音楽は、
BLUE ENCOUNT、緑黄色社会、欅坂46、日向坂46。
誰も聴かないようなマイナーな歌手を、
YouTubeで聴くのが僕は好きである。
また、ユダヤ人が超能力で僕のことが分かっているからと言って、
僕は驚かない。
なぜなら、「僕の方から精神分析の力で、
ユダヤ人たちと対話したから」である。
僕は怒り狂った戦いの中で、
冷静に彼らと「時間を超越して対話し続けた」。
それはイスラエルだけではなく、
イランやドイツ、イスラム、インド、中国など、
多くの古代の文明国家の人々と、
僕は「宇宙のもっとも上から対話し続けてきた」。
彼らは、僕の声が聞こえたのである。
そして、古代文明においては、
「神の声だけが宇宙を知るための唯一の手段だった」。
だから、僕の対話は、「貴重な未来人のメッセージ」であり、
「未来人」という言葉が、そのまま「ユダヤ人」という言葉になり、
それがそのまま「神」という言葉になったのである。
なぜ、彼らが創造主をひとり信じるようになったのか。
それは、僕があまりに「宣言」や「約束」や「対話」によって、
この宇宙の「永遠の歴史」を教え続けるからである。
僕が言葉によって宇宙を創造したように、
彼らは見えた。
彼らには、「未来が既に決まっているということは理解できなかった」。
よって、彼らは「未来ではなく過去である」と考え、
「一番最後の未来の果てには一番最初の過去に戻る」という発想を
インド人やアーリア人は考えた。
逆に、ユダヤ人は、「世界には終末の滅びが訪れる」と考えた。
そしてユダヤ人は、「神は終末において現れる救世主であり、
信じるものを救い、信じないもの全員を地獄におとす」と考えた。
両者、どちらも正しい。
なぜなら、どちらも完全に間違っているからである。
実際は「僕というひとりの未来の日本人が居た」というだけにすぎない。
古墳やピラミッドについて、
「王の墓」であるという仮説が一般的である。
すなわち、「権力者は死んだ後の世界でも偉いのだ」と言いたいのだ、
ということである。
だが、ああした巨大建造物は、
本当は、神が好きなのである。
天にいる神が、自分たちがここに居るということを、見つけやすいようにした。
そして、「ここで私が死んだから、天国に連れて行ってくれ」ということを
古墳やピラミッドは言いたかったのである。
僕は、今からの大発展というのは、
「今までとはレベルが違う」と言えると思う。
それはいい方向にも悪い方向にもである。
なぜなら、このような何もない社会においては、
「長い時間をかけて江戸時代のような本当に独自の文化が生まれるから」である。
そう、イギリスを単に模したとか、アメリカのIT技術が流入したとか、
そういうことではなく、
今から、本当にありえない「もうひとつの文明」が日本において生まれる。
必ず生まれる。
それがどんなにおかしなものであろうと、
長い時間をかけて作り上げれば、
「江戸時代とはまた違うかけがえのない文化」になる。
アメリカやヨーロッパには、「文化のオリジナリティで勝てばいい」。
新しい文化は、必ず100年後には生まれているだろう。
そう、日本には江戸時代というオリジナルの文化があるが、
それも中国の文化の日本風のアレンジにすぎない。
中国や日本は、「長い時間をかけてみんなで文化を作る」ということが得意だから、
自分を主張せず、しかしながらみんなとの調和という交流を重視する。
個人ひとりだけで大多数の人々を支配し、名声を得ようとは日本人は思わない。
これが、ドイツ人などのヨーロッパ人との違いである。
日本人はみんなとの調和を目指す。
そして、みんなと一緒に、そして長い時間をかけていい文化を作ることが得意だ。
では、本当の意味で、王とは何だろうか。
それは、「愛のもとに生きることを決断したもの」である。
愛のもとに「この世界と対峙しても構わない」とし、
「自ら世界と対峙して、この世界を愛すると決意」したものは、
必ず「運命がその人間を王とする」。
そう、その王はどんなに辛く苦しくとも、
「自らの失敗を自らのものとしながら、
相手の失敗を相手のせいにしない」。
王とはすなわち、「国民全員における最高責任者」であり、
国民の失敗全てを自分のせいであると言える人間こそ、
王に相応しい。
このように古代の文明を網羅しても、
それだけで歴史は分からない。
なぜなら、「この世界がどのように進歩していくか」が
明らかではないからである。
だが、ヨーロッパの文明史において、
「進歩とは自由」である。
ルネサンスは人文主義であり、
「神ではなく人間の自由」であった。
そして、絶対王政への反動、
と言っていいのかどうか分からないが、
王国の「過度な力の集中」に反動して
王に批判的な人々がイギリスやフランスで革命を起こした。
これが、イギリス市民革命、フランス革命、
そしてフランスで続く二度の革命(七月革命、二月革命)である。
そう、人間はどんどん「自由」を目指して進歩していく。
産業革命やコペルニクスを象徴とする科学革命も、
人間の「力」の拡大をどんどん進めていく。
だが、ヨーロッパはあまりに、「力」を重要視しすぎる。
世界は「人類にひれふすもの」であり、
他国の国民は「王と祖国のために征服すべき」であると考える。
ヨーロッパは、進歩しているように見えて、
中国や日本に比べて、精神性は「もっとも未熟」なのである。
スペインが大航海時代の新大陸発見において、
新大陸の現地の先住民のインディオを
奴隷貿易で大量に奴隷にし、
結果スペインが貧乏国から裕福な国になった、というところにも、
ヨーロッパの「未熟さ」が示されていると言えよう。
そう、歴史はそのように、
自分で独自に考えることで過去のことがなんとなく説明できる。
だが、過去のことをそんなに考えても、
意味がないだろう。
僕たちはもっと未来のことを、そして今のことを考えないといけない。
ブルエンが言うように、「現実に裏切られた」ことから、
僕たちは未来を見ようとしなくなる。
だが、それなら、「現実を味方にすればいい」。
それだけで、この世界は
「過去への呪縛が無くなり、未来へと進めるようになる」。
そして、愛を裏切った悲惨な人間が、
でまかせを垂れ流して、みんなを嘘偽りの世界に陥れているが、
それが僕だ。
AAAの言う、偽りを塗り固めた箱庭を僕は作った。
この箱庭の特徴は、
「今のままで世界全てを知ることができる代わり、
今のままで静止したまま、一歩も動くことができなくなる」。
これほどに辛い「精神の地獄」は存在しない。
さあ、このユダヤ人を忘れて、新しい世界を築こう。
愛が僕に裏切られたからといって、
僕がまったくその愛ほどに素晴らしい人格でなかったからといって、
その愛を守り続けることができなくなったからといって、
あなたが世界において生きる全ての希望を失わないでほしい。
全てはここに終わった。
歴史の勉強も、哲学の勉強もきちんとできた。
全てが終わって、ともに居るのは、
そう、神だけである。
神だけは、いつまでも逃げることなく、
僕とともに付き合ってくれる。
どんなに愚かでも、神は追い出すわけでも叱るわけでもなく、
最後まで付き合い、最後まで救ってくれる。
この世界全てが滅びたとしても、
僕は最後に言うだろう。
「神よ、信じています」と。
「神よ、わたしたちの愚かさをお叱り下さい。
わたしたちには、世界を維持することはできませんでした。
世界は滅び、砂漠になりました。
しかしながら、わたしたちは神を信じています。
このような地上の愚かな国民であっても、
神はわたしたちを救ってくださると、
最後の裁判を終えて、
神はわたしたちに天国への入場を許可する、
そうした審判を与えてくださると、
そう信じています。
わたしたち日本人は善良な国民です。
わたしたち人類すべてのものは、
神を信じています。」と、
僕はそう言うだろう。
全てが終わって、何をすればいいか。
僕はこれ以上、勉強する気がなくなった。
文字は読めるようになったから、
カントの哲学書を読みたい。
このような人間が最後に行き着く先は、
カントである。
なぜなら、カントだけ、きちんと全てが分かっている。
加えてヘーゲルを学べばよい。
それで、「近代哲学」とは何であるか、きちんと分かる。
実際のところ、誰も悪くない。
この人間は、あまり悪い人間ではない。
みんな、誰も悪くない。
それは、ある意味、誰もが悪かったからだ。
だからといって、裏切りに対するトラウマを持ち続ける必要はない。
治すためには、
「自分が傷ついた」ということを認め、
「傷ついたならば傷つけた人間を否定して排除していい」
ということを認めることだ。
それだけで、この世界はもう一度素晴らしい世界になる。
ドイツの間違いは、まさにそれをやりたかったから、それだけだ。
また、人種差別をするものについて言えることは、
「ヨーロッパに比べてアジアはガラパゴス要素が多きい」ということ。
すなわち、ヨーロッパほどに人の往来が大きくなく、
それぞれの地域で「閉鎖的な地域空間」が生まれた。
ヨーロッパのように、互いが戦争することも、経済的交易を行うことも、
比較的少なかった。
よって、発展のスピードが遅く、文化が独自に、
ある種偏向的なほどに偏ってそれぞれが違う人種になった。
なぜ白人が美しいかというと、
それはたくさんの人種の良い特徴を吸収したからである。
そもそも、もともとは単なる髪がブロンズなだけの人種が居て、
肌が白いだけの人種が居て、目が青いだけの人種が居たが、
人種間の交わりが大きくなることで、こうした「優性的特徴」が生まれた。
逆に、アジア人はそれぞれが閉鎖的空間で生きていたため、
「共通の変な特徴」がもっとも大きく出る結果となり、
結果アジア人はアラビア人、インド人、中国人と、
「それぞれまったく異なる個性、悪く言えば醜い姿」になった。
これが、アフリカではどうなるかといえば、
さらに文明の進歩のスピードが遅く、さらに交流がなくガラパゴスなため、
肌が黒いという「人類最初の特徴」がいつまでも進んだものに置換されなかった。
また、人種的特徴だけではなく、
ガラパゴス的特徴から、「アジア人は変な特徴を持った文化」が栄える。
中国は墨の濃淡だけで表現する芸術と、
おかしな細部まで拘って同じものの組み合わせにする建築様式が栄え、
インドでは異様なまでにおかしな宗教的考え方を信じるようになった。
こうした人種の違いは、そういう「地政学的な特徴」、
すなわちスピードの遅さや交流のガラパゴス的特徴から生まれたものであり、
おそらく、あと1万年もすれば、
白人とアジア人と黒人はほとんどが交わって、
全ての人種は白人になるだろう。
だから、白人以外の人種を殺す必要も、「血を浄化する」必要もない。
ヨーロッパの文化とアジアの文化については、
ヨーロッパは「たくさんの人々の成果が広く共有される」ことから文化を作り、
アジアは「自分たちの国の中で隔たれた中で強く閉鎖される」ことから文化を作る。
そう、先ほどの僕の論に反して、
ヨーロッパはオープンを好み、アジアはクローズドを好む。
しかしながら、ヨーロッパはオープンなために、
「多少の違いであっても論争になって、
賢い人間の意見や権威が勝利する」という戦いになるが、
アジアはクローズドなために、
「みんなで一緒に考え方を完全に共有する」ことができる。
どちらも正しい。
そして、これは「人種的な差異」ではなく、
「地政学的な差異にすぎない」というところが重要である。
人種が優れているとか、劣っているということではなく、
単に地球の大陸と人類の古代文明が、そのように形成されていた、
ということが、人種間の差異を決定したのである。