AUTHOR: schwarz1009
TITLE: 死、デカルト
BASENAME: 2020/05/27/084647
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DATE: 05/27/2020 08:46:47
CATEGORY: 人生
自分は、死が間違っている。
死ぬせいで精神が治らない。
死ななくすれば、精神は全て治る。
今までやった中で、唯一「死」が辛い。
僕はデカルトが好きだ。
デカルトの方法序説を読んだことがある。
哲学書でありながら、平易な読みやすい文章で書いてある。
僕は方法的懐疑が好きである。
すなわち、
1.全てを疑い、独断と偏見を避ける。
2.問題を解くために、問題を可能な限り小部分に分割する。
3.単純な問題から複雑な問題へと、順序を追って推論する。
4.何も見落としていない状態まで、全体を検査して取りまとめる。
このように考えることで、単に疑うだけではなく、
「真理や真実の全てを発見出来る」のである。
デカルトで有名なのは「我思う、故に我あり」だが、
これはその後の近代哲学の
「自我の形成」の理論の発展に大きく貢献したと僕は思っている。
デカルトは数学者であり、
今の中学校で教えるような、
定数にa, b, cなど最初のほうのアルファベットをあて、
未知数にx, y, zなど最後のほうのアルファベットをあて、
係数を文字の左に、冪数を文字の右に書く、などといった
代数を順序どおり記述する基本的ルールや、
関数をx軸とy軸の2次元の2点の座標にしてグラフにするといった
基本的な中学数学の考え方は、デカルトが考案した。
僕は、中学生が賢いのはデカルトが賢いからだと思う。
中学校では、デカルト的な数学をやらせる。
これが賢い。中学生は賢い子供が多い。
これが高校になると、逆に「何も考えず、覚えるだけになる」。
高校では、ニュートン力学や微分積分などのニュートンをやらせるが、
高校数学・物理は計算し、説明するだけの「機械的技法」しか学ばない。
技術はできるようになるが、頭で直感的に考えられなくなる。
僕は、日本人が馬鹿なのは、
「デカルトとニュートンしかいないから」だと思う。
中学でデカルト、高校でニュートンをさせるせいで、
賢い人間は何も分かっていなくて、
馬鹿な人間は本当に分からない。
大学でもアインシュタインなどをやるせいで、
学校はみんなを馬鹿にしている。
実際、キリストのほうがいい。
キリストにはいいことがたくさんあるのに、
みんなはデカルトやニュートンになっているせいでいいことが何もない。
むしろ、デザイナーの僕から見ると、
ダヴィンチになればいい。
ダヴィンチはきちんと絵が描ける。
自分が間違っているのは、マルクスやレーニンを選ぶからである。
昔の馬鹿は誰でもない。
あえて言えばニーチェだ。
自分はゲーテになりたい。
また、偉人をそんなにたくさんはできない。
その理由は、「精神が分裂すると馬鹿になる」からである。
デカルトに加えてニュートンまでやろうとすると、
どちらも中途半端になって馬鹿になる。
だから、学校でデカルトになるよりも、
自分だけでゲーテをやったほうが、頭は賢くなる。
自分の問題は、「分かりすぎ」である。
なんでもかんでも分かるせいで、
精神が分裂しまくって馬鹿になっている。
一度、ひとつだけに絞ったほうがいい。
作家が馬鹿になるのは、作家は知って考えないとできない。
誰でもこういう、全部分かった馬鹿な人間になる。
これが、作家だ。
もっと、知識や経験や理性を忘れたほうがいい。
哲学者は賢くない。
精神の分裂とは、「精神が機械になる」ということだ。
精神を機械のように「同じ動きにし続ける」と、
精神は分裂して、「動き回るようになる」。
よって、「動く」ということと、「同じ」ということが悪い。
だからといって「殺す」のも悪い。
デカルトやニュートンは「精神の分裂の最たるもの」であり、
治すためには「キリストを信じてサタンを倒す」しかない。
キリストは、精神の分裂をサタンだと言っている。
文章を書いていると、精神の分裂が治る。
精神は「きちんと分かったときに融和する」からである。
だから、僕はゲーテを選ぶ。
結局、治らない病気を治すには、文章を書くしかないのだ。
病気は殺しても治らない。
病気は生かすと治る。
「病気を取り除くための原因」だけではなく、
「生きるための原因」も考えないといけない。
何を生かせば病気が治るのかを考えれば、
殺した結果の精神も再生する。
要するに、「環境を生かせば環境に適応できる」。
環境を破壊するのが間違っている。
そもそも、「支配して勝つ」という発想が意味がない。
だから、アメリカやユダヤ人に勝つ、という発想になるのである。
みんなで仲良くしなければ、世界は平和にならない。
ひとりが支配することを否定しながら、
同時に相手の自由も許していく、
相手に支配されることも自分が支配することも否定する、
この絶妙なバランスから、
「正しい社会」が生まれるのだ。
マスコミは悪くない。
真実を国民に分かりやすく伝えるためによく頑張っている。
特に、ネットサービスはテレビに比べて、
色んなことがきちんとできていない。
マスコミについては問題ないだろう。
僕はマスコミを許す。
僕の経験から言って、多少の辛さはあった方が良い。
たとえば、同じ音楽を聴き続けるのは、少し辛い。
だが、同じ音楽を、聴き飽きるほど聴いていると、
逆に苦しみがそのまま喜びになり、
何もしなくても聴きたくなってしまう。
そのように苦しみは快感になることがある。
言語の習得も同じで、いつまでも聞いていると分かる。
たとえば日本語でも英語でも、
聞き飽きるほど聞いていると、話し方が自然に分かる。
英語をやりたいなら、
つまらない英語を永遠に聞き続けることだ。
「少しの辛いでやめないこと」。
どんなに辛さが目の前にぶら下がっていても、
そのまままっすぐにやっていれば何でもできる。
そういうわけで、言えることは、
「嫌なものは全部いいもの」ということ。
たとえば、アニメ画像や漫画表現が嫌いな人が居るが、
それは嫌だからできるだけ見ないようにしているからだ。
嫌でも目に入るようにすれば、そのうち好きになる。
文字を読むコツは、「少しの嫌を我慢すること」。
少しの嫌を我慢するだけで、いくらでも文字が読めるようになる。
文字を読むために必要なのは、
「今自分が理解していることが正しいかどうかを常に確認する」こと。
ただ分かったと思っても、
その分かったとは本当は分かっていなかったりする。
ひとつひとつ読み進めながら、
その読んだことが何を意味しているのか、
それを自分が理解できているかどうかを確認すれば、
日本語は読める。
僕は今、Rustのbookを読んでいる。
今、数当てゲームを作るところまでは最後まで読んだ。
僕は、みんなに選択を委ねようと思う。
すなわち、今のままで良いものは変わらなくていい。
変わりたいものは変わればいい。
そのために、支配されたいものは支配されたままでいいし、
解放されたいものは解放する。
また、何かをやりたいものはやれるように助けるし、
やりたくないものは楽にする。
Rustのbookを制御フローまで読んだ。
追記。スライスまで読んだ。