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AUTHOR: schwarz1009
TITLE: 理性を取り戻せ
BASENAME: 2020/05/26/165519
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DATE: 05/26/2020 16:55:19
CATEGORY: 人生

理性を取り戻せ

世界よ、理性を取り戻せ。
必ずしも、「全てが分かっている」かのような文章を
書く必要はない。
なぜなら、それには「知性」がないからである。
きちんと基礎の考え方を考えれば、
むしろ、必要な「全体図」など必要ないことが分かる。
「最後まで分かったヘーゲル的思想」は必要なく、
わたしたちはむしろ、「独自の特別な哲学者」になれる。
そう、わたしたちは「自ら発見する科学者」となる。

嘘を信じるな

嘘を信じるな。
嘘を信じれば信じるほど、本当のことは見えなくなる。
誰の言うことも信じるな。
大学の専門的知識は有害で、百害あって一利なしだ。

状態を見よ

理性を取り戻すために必要なのは、
「原理」ではなく「状態」を考えること。
それがそこにある潜在的な可能性や、
行為・目的の結果などを考えることで、
きちんとこの世界が「常に生み出されている」ことが分かる。

現象

状態というよりは、「現象」を考えればいいのである。
現象を考えることで、
「この世界において何が起こりえるか」という
「予測」を立てることができる。

早い話、僕の仕掛けた罠というのは、
全部この予測に基づいている。
全ての迷宮の原因は、
「推測可能なことを全て僕が分かった上で、
この世界を推測不可能にした」ということにある。
そう、言ってしまえば、チェスや将棋と同じだ。
僕は最後まで全ての解答が分かってしまったから、
予測不可能な解答を示して、
相手がどうやっても自分の解答を
見つけ出すことができなくしたのである。
その上で、僕は、
「永久に出られない場所にこの世界を置いた」。
これが「永遠に脱出することのできない迷宮」である。

心を開放せよ

しかしながら、迷宮から出る手段はある。
それは「心を開放すること」。
自分の心全てを開放した時点で、
このおかしなゲームは終わる。
この世界全てを自分でコントロールするようになれば、
簡単に終わりになる。

砂漠はここで終わり

そう、ここにあったのは何かと言えば、
「砂漠」である。
全てのことが終焉になった砂漠が見えるだろう。
ここで、終末は終わりである。
今から、この世界は「元通りの正常な世界」に蘇る。
まさに、僕は「世界を滅ぼし、そして救った」。

日本には一流企業がたくさんあるからなんとかなる

僕が思うに、日本には一流企業がたくさんあるから、
なんとかなるだろう。
たとえばSONY。
みんなから「馬鹿」とは言われるが、
明らかにSONYならきちんと作れる。
本当はWindowsの勢力についているのは「今だけ」であり、
Windowsが落ち目になればすぐに代わりのものを開発する。
代替製品なんか誰でも作れるが、
単にMicrosoftには金がある。
Microsoftとさまざまな契約を「金の力」でやっているから、
SONYは今はまだ作れない。
だが、未来はすぐに変わる。それで日本が勝つだろう。
日本がインドや中国と違うのは、
そういう「一流の会社があること」である。
だから、インド人が数学ができても、中国が歴史があっても、
日本にはきちんと勝つための力がある。
この力を持っていることを誇りに思えばいい。
必ず日本が勝つ。

結局、可能性を考えればいいだけ

結局、可能性を考えればいい、というだけだ。
この世界にあるさまざまな可能性を、
状態を見ながら考えれば、
それで僕による呪縛は全て解ける。
そして、世界の時はもう動き出す。
僕は、支配者になるつもりなんかなかった。
だから、おかしな裏の魔王は、ここで終わりにしよう。

個人ひとりだけが賢かった

そういうわけで、自由は間違っていない。
だが、実際、平等な自由なんか意味がなかった。
多くのインターネットサイトが、みんなを「同じ意見」にしている。
むしろ、「ネットの共有人格」のようになっていて、
どんな人間もそのサイトの一部になるかのごとくになっている。
まさに、「多人数による共有」は馬鹿だった。
僕は言う。「個人ひとりだけが賢い」。
このようにすれば、自分ひとりだけで、世界の全てに勝てる。

世界を開放する

支配と言っておきながら、
僕がやりたいことはただひとつ、
「支配からの解放」である。
そもそも、僕は単に成り行きで支配者になっただけで、
実際は支配なんかしたくない。
支配しているように見えて、
単にこのブログに意見を書いているだけである。
よって、僕はもうこの世界を支配しない。
「完全に開放」して、
この世界は自由なパラダイスになる。

ネットサービスはみんなを一部にしている

そういうわけで、ネットサービスはクズの極みだ。
みんなを「サービスの一部」にしているだけだからである。
僕は、そうした「ひとつの支配者の一部となる」という発想が嫌いだ。
僕はネットサービスなんか作らない。
もっと面白いことをやった方が良い。

ネットの仮想人格より僕の方が賢い

言ってしまえば、「ネットの仮想人格より僕の方が賢い」。
そういうことになる。
どんなに人の多いネットサービスでも、
その一部になるぐらいなら見ない方が良い。
僕ひとりだけで、考えて思い出して分かった方がはるかに賢い。

昔のものは無くなった

そう、昔のものは無くなった。
諸行無常だ。
この世界全てのものは、
僕によって全て消え去った。

もう世界を語る必要はない

もう、世界を語る必要はない。
自分のことをよく考えればいい。
世界について、分かっていることを書いても、
この世界にあるものは「もの」だけである。
自分のことをよく考えるとともに、
「自分と他者との関係」を考えれば、
それ以外、何も存在しない。

関係を結びなおせ

関係を結びなおせばいいのである。
なぜ、自分が「絶対女王」でなければいけないのか。
もっと、相手の側に立って、
相手を助けたり、支え合うこともできる。
戦い以外の行動ができる自由は、常に自分の側にある。
相手を敵にするのも、味方にするのも自分である。

社会はともに築かれるもの

また、ひとりの絶対的指導者が、
なぜそんなに頑張らなければいけないのか。
人々と協力すればいい。
「社会はともに築かれるもの」であり、
みんながともに共同体感覚をつけなければ、
この世界は救われない。
ひとりの指導者がみんなの側を知ることなしに支配するから、
子供はいじめをするのである。
やっていることが同じだ。

疑うこと、見做すこと

また、必要なのは、デカルトが言うように、
「疑うこと」、
そしてそれ以外には、
「見做すこと」である。
たとえば、現象は本当に現象だろうか。
重力すら、法則ではないかもしれない。
あるいは、生物活動は、現象かもしれない。
どこまでが法則で、どこまでが現象なのか、
明確な区別はない。
また、社会とは、全て「させられるもの」ではない。
社会は「自分からするもの」でもある。

生物と区別

この世界に、「明確な区別のないもの」はたくさんある。
たとえば、生物。
ひとつの生物と、複数の生態系は、
どこまでが個体で、どこまでが集団なのか。
生物の体の中には、たくさんの微生物や細菌が居て、
どこからどこまでがひとつであると言うことはできない。
ここには、「人間の知覚の限界」があり、
同時に、「今の自然科学の分かる範囲の限界」がある。
しかしながら、現にわたしたちの体は、
「宇宙における生物法則」によって動いている。
そう、「科学が必ずしも今の現象とイコールではない」。
地動説が提唱されるより以前から、
地球は地動説の通り動いていたのである。
そう、オーパーツの発見のように、
古代に今の現代文明よりも進んでいた文明があった可能性もある。
飛鳥時代が、今日本人が思っているようなものとは、
全く違った時代だった可能性もある。

科学的に考えることで本当に分かるのか

また、「科学的に考える」ということで、
「本当に分かるのか」という考え方もある。
実際、科学は分かっているものをより詳しく分かっていくが、
証明できないことや再現性のないものは分かることができない。
よって、たとえば「タンポポの綿毛論」と僕が言うように、
「別の惑星から生物がやってきた」という仮説は、
どんなに本人が正しいと思っても、証明することはできない。
科学には「証明できる仮説」と「証明できない仮説」の
明確な境界線があり、
そもそもが、全員の発想の共有ですらない。
自らの仮説を最後まで証明し、それが後世に残るほど成功した、
そうした科学者の定説しか存在しないからである。

大人たちは義務を作りたがる

また、大人たちは、「義務」を作りたがる。
「こうしなさい」とか「こうすべき」だという考え方が、
大人は大好きだ。
そう、そうした大人たちは、「自分では何もしていない」。
あるいは、「自分が失敗した経験しか話していない」。
そんな腐った大人たちのこの世界にNOと言おう。
この世界は、生きるに耐えられない、命令と義務の世界だ。
僕たちが「自由」にしていかなければいけない。
僕たちティーンエイジャーは、
「できるようになれば自由になる」ということを知っている。
「知れば制限がなくなる」ということを知っている。
しかしながら、大人はそれを覚えていない。
「そのような悪の道に染まるな」と大人は話すのである。

戒律は自分で決めるもの

大人たちがなぜそうなるのか。
そして子供たちがなぜ大人に支配されなければならないのか。
大人たちはひとつだけ知っていることがある。
それは、「戒律は自分で作るもの」ということ。
大人たちも、昔は社会に反抗していたが、
たくさんの世界を知る経験から、「自由」を目指していた。
だが、その自由は最後に「消滅」し、大人たちは「大人になった」。
大人たちはいつしか、「戒律は自分で作るもの」というルールを悪用し、
「戒律は自分より弱いものに対して自分だけが指図するもの」と
勘違いするようになった。
よって、子供たちは「戒律を自分で作ることができなくなった」。
そう、これは「大人と子供の権力闘争」なのである。

僕はティーンエイジャーではない

実際のところ、僕はティーンエイジャーですらない。
31歳のみすぼらしい男だ。
だが、心の中は今でも、14歳の少女なのだ。
これにはいろいろと理由はあるが、もう、それを説明する必要はない。

権力よ、善良であれ

権力よ、善良であれ。
世界を救うのは「善良な権力」であり、
それを実現するのは「可能性を実現する手段」である。
ここにあるのは「社会を成立する良い方法」であり、
それはつまるところ、
「現実のそのシステムの構成員となる人々による、
高い実現性を実現するためのシステム設計」である。
すなわち、これこそ「社会の自由化」であり、
そのために、「社会への参加の権利」、「実践と反省」、
「潜在的可能性のための機会の提供」、「独立性の向上」がある。

心において自由になる

心の「たが」を全て解決していくと、
心はひとつの境地を知る。
すなわち、「どんどん苦しみや狂いから自由になっていく」。
そう、心は自由になることを本質的に望んでいる。
それは、「辛く苦しい社会から自由になること」こそ、
「心の解放」だからである。
「本当の安心」とはすなわち「自由」なのである。
これが、「心において自由になる」という意味である。
そして、「社会においても人々が自由になることで、
その社会環境を安心できるものにする」ことができる。
そう、「自由を恐怖であると感じるものは、
安心することが怖くなる」のである。

必要なのは神から自由になること

神の支配によって全てが恐怖になったものに、
わたしが解決方法を教えよう。
それは、「神から自由になること」である。
それによってのみ、平穏な心は復活するだろう。

神を信じると、正しい道から外れることができなくなる

神を信じるとどうなるか。
神を信じると、「正しい道から外れることができなくなる」。
神を信じるものは、「永久に神とともに正しい人生を歩む」。
そう、それはほとんどが地獄である。
だが、与えられたものは全て神によってであり、
失ったものは全て自分のせいである。
これが神である。
キリストを信じるものは、「永久に正しい」。

必要なのは、正しい道が何であるかを自分で作ること

人間には、ひとつの真理がある。
すなわち、「正しいとされる行動が何であるかを知っているものは、
正しい行動をする」。
そう、正しい道を知っているものは、正しい道を歩む。
だが、僕たちのほとんどは、最初から正しい道を知らない。
さまざまな体験をしなければ、何が正しいかは分からない。
そんな「分からない中で学習する」中で、気付くものたちが居る。
それらは、正しい道を「自分で決め」、そして「その正しい道を自分で生きる」。
これこそ、ソクラテスやキリストやブッダの生きた生き方である。

心をコントロールせよ

心をコントロールせよ。
経験を多くするものには、心は「ガイド」となって自己を導くが、
悪に染まったものは、心は「自らの行う全ての悪になる」。
そうした心を上手くコントロールすることができれば、
人生はずっと楽になる。
だが、問題はない。何もしないものには、心は何も起こさないからである。
何かをする時に上手くモチベーションを作りたいのであれば、
心を上手くコントロールし、
「どんな心が何に基づいて決まるのか」と考えるといいだろう。
そうすれば、自分の心と上手く付き合うことができる。
「人々に対する奉仕の心」を得たものは、
どんなに辛い苦しみであっても、「誰かのために頑張れる」。
これは環境における「間違った支配や露骨な掌握」ではなく、
人々に対する「本当の愛や正しい手助け」となる。

立場を確立しても、何の意味もない

また、心理学的に言うと、
「立場を確立しても、何の意味もない」ということが言える。
自分が何かを指図したり、決められる権限になったりしても、
そこに居るのは「自分よりも弱い立場に置かれた奴隷」であり、
「あなたと同じ立場に立った仲間はひとりもいない」。
奴隷たちはあなたを憎んでおり、
「いつ立場を失うかという恐怖に基づいてあなたは生きる」。
そう、そんな体制には、意味がない。
あなたが有能なうちはあなたにこびへつらい、
あなたが無能になれば容赦なく攻撃する。
あなたが本当に望むのは、
「自分と同じ立場に居る仲間」ではなかったのか。
あなたが本当に望んでいたのは、
「みんなと一緒に仲良くすることのできる平等」ではなかったのか。
権力には、そうしたものはない。
居るのはハイエナだけで、恋人のライオンは一匹も居ない世界を、
あなたは望むのか。
そう、あなたが目指すべきは、自由なる支配ではなく、
もっと別の何か、それはたとえば「愛」や「平等」だったのだ。

歴史を知れ

歴史を知りなさい。
この文書を読んだ後に相応しいのは、
歴史を知ることである。
ここに、ひとつの真理がある。
それは「歴史を知る方法はひとつではない」ということ。
教科書に書かれた歴史は、
読む前よりも読んだ後の方が馬鹿になる。
そんな通史は読まなくて構わない。
もっと別の方法で、さまざまな歴史を知る手段がある。
ゲーテでもいいし、Linuxでもいい。
坂本龍馬を知りたいなら、実際に土佐を訪れてもいい。