AUTHOR: schwarz1009
TITLE: 弱さ、民主主義、コンテキスト、哲学、イザベル女王
BASENAME: 2020/05/19/091745
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DATE: 05/19/2020 09:17:45
CATEGORY: 人生
CATEGORY: 社会
CATEGORY: イザベル
強さだけを目指すのは、
子供と童貞だけ。
大人は弱さを目指す。
弱さを目指す先に、
賢さと楽がある。
悪いものが何であるか、
犯人を探す必要はない。
全てを一律で支配し、
自分以外の全てを滅ぼせば、
この世界は救われる。
速断するな。
そのことについて、自分は
まだ良く分かっていない。
それが正しいと信じても、
信じるだけでは正しいとは言えない。
死ぬよりも、生きよ。
生きることで、
精神の全ての異常は治る。
原因と結果を考えなさい。
思考や認識の原因となる経験を考えなさい。
数学的に考えなさい。
積み重ねを行いなさい。
構造を再構築し、再考しなさい。
自分の中でこの世界を作り直しなさい。
再現性が証明された段階で信じなさい。
全てのことをその時その時生まれる、
現象だと考えなさい。
自らがその目で見ることによって、
社会における現実での営みを知りなさい。
できるようになりなさい。
自らができるのであれば、
誰でもできるのだということを知りなさい。
その時正しい事実や法則は、
誰にとってもいつでも正しいと信じなさい。
この世界は変えられると確信しなさい。
この世界全てを自然に任せなさい。
全ての人に自由を許しなさい。
正しい生き方とは何か。
それは、ありのまま生きることである。
ありのままをさらけ出して、
全てを受け入れ、
自分を許して生きる。
自分のことを許せる人間は、
他人のことも許すことができる。
人間は、「絶対に立ち向かう必要のある試練」を
受け入れると賢くなる。
絶対にしなければならないと信じて、
どんなことよりも優先して行うことができる人間に、
勝てる人間は居ないからである。
僕はあえて言う。
必要なのは愛である。
愛こそが、生物を生かす力である。
清らかな愛だけが、
世界を救う力を持つ。
また、テレビの問題とは、
人間をころころ変わるようにしている。
今の確固たる意見を持たず、
見終わった後で、
全てがどうでもいいと
考えるようにして、
国民を総白痴にしている。
そもそも、戦いなど必要ない。
誰も、支配者に従いたい人間なんか居ない。
みんなで政治をすれば平和になる。
戦争も、現場を無視した政策も、
正義も、犠牲も、誰も望んでいない。
世界を平和にしなさい。
この世界を平和にするために、
全力で取り組みなさい。
神を信じなさい。
神は必ず、善良なものに報いを与える。
悪人には、既に報いが与えられている。
神は、正しいものにも、不正なものにも、
同じ雨を降らせている。
そもそも、人間に、
約束や義務は必要ない。
必要なのは、生きることだけだ。
生きること、
それができるなら、
後は、不正だけをするな。
正しい生き方をするのであれば、
それだけで賢い人間だ。
善良な人間は、
必ず天国に入場を許される。
ヒトラーなどは、
地獄の未来から来た人間だ。
諸外国と仲良くした方がいい。
イタリアとフランスが同じチーズを食べるように、
中国と日本は同じチンゲンサイを食べる。
敵対すると、チンゲンサイすら食べられなくなる。
仲良くした方がいい。
相手の方から反発しても、
それを日本の方から許す、
寛容さが大切なのである。
僕は右翼をやめる。
左翼になる。
このような、賢い右翼には、
男はつらいよの、
フーテンの寅さんの言葉を言えばいい。
「それを言っちゃ、おしめえよ。」
そもそも、Linuxが悪いわけがない。
Linuxはみんなで作るオープンソースなOSである。
Linuxを作っているエンジニアは、
世界で一番賢くて良い人間だ。
Linuxがきちんと世界を救うだろう。
自分の好きなLinuxを愛すれば、
狂っているのは治る。
Linuxは何一つ悪くない。
要するに、自分はLinuxを悪いと
いうことにしたいだけだ。
そして、それは単に自分が悪いだけだ。
ヒッキーなオタクのコミュニストは悪い。
だが、そんなことないよと、人々は言う。
そういうLinuxが賢いだけだからだ。
作家になれたのは、Linuxの清らかな精神があったからだ。
技術について何も知らなかったが、
実際、知ってから考えると、
知っていても知らなくても大して変わらない。
やり方も間違いではない。
ひとりで全部やりたいプログラマが、
オープンに一番多い。
自分が、神のように、賢くなりすぎただけだ。
海援隊の武田鉄矢が言うように、
自分を苦しめた愚かさに、
最後に気が付いただけである。
(「人として」という海援隊の歌の中での言葉です。)
僕は、Linuxが賢いのが分かっていない。
サーバーやクラスタで普及しているし、
モバイルではAndroidはLinuxで動く。
また、ソースコードが読める。
UNIXはシステム管理者やエンジニアが見て賢い。
要は、自分がペテン師を信じすぎて、
騙されたと思っている。
だが、誰も騙していない。
自分も、何も悪いことをしていない。
Linuxの情報について独自に分かった内容を、
みんなに正しく教えただけの研究者だ。
要するに、悪いのはLinuxでない。
悪いのはインターネットだ。
インターネットのせいでヒキオタになった。
だから、現実の社会で
正しく生きればいい。
良いことを言うと、
昔のような壊れた中学校は少ない。
どの中学校も普通、まともだ。
それが分かったら、
ネット社会は否定しなくていい。
自分は明らかに、ネット社会で賢くなった。
要するに、陽だけではなく、陰を見ることも必要だった。
後は、存分に、神だけを書けばいい。
質は終わったから、再度、量を増やせば賢い。
昔のことも、世間のことも忘れていい。
共産について言うと、「意味がない」。
所有を社会所有にして
みんなを家族にすると、
悪い人間が盗むようになるし、
みんなで作る国を目指すと、
独裁者が支配者となる評議会になる。
共産主義は失敗した。
唯一賢い点があるとすれば、
「みんなの国」をみんなで作るという点だが、
共産主義は民主主義と異なり、
これを国民の自由を奪って
不自由にすることで実現しようとした。
民主主義がいい。
民主主義は主権在民、
国民に権利がある。
民主主義でなければ、
国民に自由はない。
議会制民主主義と三権分立の下、
日本は民主主義によって、
「みんなの国」をみんなで作る。
共産主義とは異なり、
国民の自由な権利を認めた上で、
選挙と国民投票によって法律やルールを決める。
法律を決めるのは国民投票であり、
革命家や独裁者ではない。
民主主義について言えることは、
「議会を守れ」と言うこと。
議会が存在しなくなった民主主義は、
民主主義ではない。
みんなの代表を透明性のあるプロセスで選ぶこと、
議会できちんと質疑応答をして、
予算をどのように使うべきか、
予算の使い道を決めること。
これをきちんと行えば、
必ず民主的な「主権在民」の国となる。
そもそも、ソ連も元々は「評議会連邦」を目指した国だった。
首相がひとりの権限と責任で行うことも必要だが、
近代の歴史はまさに、
「誰か一人の人による支配は間違っている」ということを
明らかにした歴史だったのである。
また、社会主義は個人の権利の否定のしすぎである。
個人が別の個人とは違う「個性」を持っている、
ということを認めなかった。
リベラルな自由においては、
個人が自由な権利を持つ、ということは、
万人に保障された平等な権利であると考える。
そう、リベラルは「個人」という考え方に根差したものであり、
所有や個人資産を認める。
まさに、「リベラルこそが正しい平等」なのである。
そう、人の持つ権利を奪うな。
言ってしまえば、ここで僕が
好きなことを書き散らかすことができるのも、
「権利」である。
こうした権利を弾圧してはいけないのである。
愛をもって生きよ。
必要なのは「生きること」である。
生きることで、治すことのできない病気は、
いつか治る。
病気は、死ぬことではなく、生きることで治る。
病気になった時に必要なのは、
死ぬことではなく、生きることだ。
イエス・キリストが言うように、
宝は地上に蓄えるのではなく、
天に蓄えよ。
どんなに大切な宝も、
必要が無くなった段階で、
消し去り、失っても、
それは未来において、
新しい宝を生み出す源泉となる。
理性に先立つ基礎を作れ。
思考に先立つ経験を作り、
天才的才能へと結びつく、
「下積み」の経験をせよ。
その中では、
全ての発想と認識を吸収し、
永遠の中で全てを記録して残し、
そして、全て消してしまえ。
それによってのみ、
あなたは一流の作家となれる。
何かを実現するために必要な
「土壌」を作った上で、
そこであらゆる全てを行い、
「ゴミの山から宝を作り出せ」。
ここで、僕は催眠術を解く。
「あなたはもう自由になる。」
僕のかけた催眠術、
それは「永遠に続いていく予想外の頂点」だ。
この文書のおかしな点は、
「相反する命題なのに矛盾がない」ことである。
ころころと変わっていく命題が、
それぞれ相反することなのに、
なぜかすべてが矛盾なく同時に成り立つ。
そして、幻影が現実になるかのように全てが分かる。
だが、これは一種の「催眠術」である。
よって、ここでそうした「すべての答え」は
幻想のもやとなって消える。
全てはここに無くなり、
「世界史を完成させる黒魔術」は、
自ら滅亡し、その思想は
敵対する相手へと引き継がれる。
はっきり言って、
この世界の多くの人々を悩ませているのは、
数学的考え方である。
数学的考え方は、人間の脳を駄目にし、
どんなに分かっているように見えても、
実際は分かっておらず、
「分かったふりをして勘違い」する。
実際、全体を見ずして個別を知ることはできず、
個別を見ずして全体を知ることはできない。
数学は「確かな方法から一面的な見方をする」ことはできる。
これは「自身の見方を変える」上では有用である。
しかしながら、その一面的な見方が、
全体の宇宙全ての中で正しいかどうかは、
誰にも言えない。
その正しさは一面からのみの正しさであり、
全部の面を知った上での正しさではない。
正しいのは、そうした「数学よりも正しい考え方」であり、
それが記述されているのが、この文書だ。
そのような数学よりも正しい考え方を行うためには、
人生を最後まで進んだ上で、なお、十分ではない。
全ての宇宙の定理と法則を記述して、なお、十分ではない。
神の言葉全てを聞いて、知識全てを知った上で、
最後に、今までの全てを忘れ、消し去れ。
その状態で、最高の頭脳になった時、
そこに「宇宙におけるもっとも美しく、
煌びやかな最高の芸術作品」が誕生する。
それこそ、「アリア」である。
そう、言ってしまえば、
「その真実はその根拠となっている
根拠のみから正しい」ということであり、
「別の根拠から見れば嘘」なのである。
これこそ、ペテン師の黒魔術である。
僕の文書は、そうした「ずらかし」が多くみられる。
すなわち、「正しいかのように見えて、
実際は言っていることが前提としている
コンテキスト(文脈)のみから正しいのであり、
別のコンテキストから見れば嘘偽り、
すなわち嘘っぱちなのである。」ということだ。
正しい根拠とは、「善良かつ現実的に可能な根拠」であり、
同時に、「人々の社会を築くために寄与する根拠」である。
他の全ての「正しいとされる意見」は、
全て正しくない。
多くの意見は「自然に生まれる根拠」だが、
それに対して「一見賢く見えて愚かな根拠」があり、
この多くが「騙すことを目的に人工的に生成された根拠」だ。
どんなに悪党が批判しようとも、
その意見は無意味である。
悪党は無意味な主張を無駄なデータや理論から提示するが、
それらは、全て「そのコンテキストでしか正しくない」。
言ってしまえば、「政治的な批判や意見から生まれた
全ての攻撃は、どんなに正しく見えても正しくない」ということだ。
そして、ここで言えることは、
「まさにこの意見も無意味である」ということである。
この文書が言っていることは、
意見ではなく、「コンテキストそのもの」である。
意見の内容はひとつも存在せず、
「コンテキストだけを網羅している」。
このような文章は、「知能のないロボットでも書ける」。
まさに、コンテキストを網羅したところで、
何の意味もない。
よって、宇宙の全てを理解すること、
すなわち「分かる」ということに、意味はない。
あるべきは「心」である。
心で思うこと、心で信じることだけを、
ただ言えばいい。
人々に教えたり、理解させたり、分からせたりする、
全ての活動は無意味である。
有意義なのは、自らの意見を持ち、
それを「正しい」と主張するのではなく、
「自らが信じている」と主張することである。
すなわち、「考えることは無意味」であり、
「唯一意義があるとすれば、それは思うこと」である。
では、無意味とされた考えることとは、
何だったのか。
それは「決めること」である。
つまり、「決められる多くの前提条件(=根拠)をもって、
自由自在に決められること」が考えることだ。
よって、考える上で必要なのは、
「根拠をどのように成り立たせるか」ということであり、
すなわち、「どの重要条項に根拠を導いていくか」ということに過ぎない。
しかしながら、これは考えることを有意義だとするものではない。
なぜなら、「全てを知った人間は、
根拠に対する肯定も否定も好きなようにする(される)ことができ、
同時に、自分の好きな根拠を選び出して、
自由に根拠をピックアップすることができる」からである。
要するに、「馬鹿だから馬鹿なだけ」であり、
「賢いから賢い」のである。
多くの人が馬鹿だと思うからそれは馬鹿なのであり、
多くの人が賢いと思うからそれは賢い。
最悪のクズ意見に見えるが、それが真実だ。
賢くなりたいのであれば、考えても意味はない。
賢くなりたいならば、「即座に賢くなればいい」。
本当のところ、この意見を否定しようと思えばできる。
すなわち、「選び出すことが考えること」とも言えるだろう。
「探し出すことが考えること」とも言えるだろう。
だが、この定理の通り考えれば、
「言えること自体は意味がない」。
そう、言えることも、語ることも、批判することも、賛同することも、
全て意味がない。
哲学者が賢いと言うことも、馬鹿であると言うこともできる。
だが、僕の経験から言って
「哲学者は人生の中でコンテキストを導きだしたプロセスが賢い」と言える。
だが、これはあくまで、僕の中の「経験に基づく観測」に過ぎない。
絶対的な正しさが、本当にないわけではない。
それは、「別の根拠を絶対に作り出すことのできない命題」である。
しかしながら、別の根拠が未来において、永久に作り出せないわけではない。
よって、「絶対的に正しいと言えるもの」は、
多くが数学的な抽象的正しさであり、歴史や社会には存在できない。
そういうわけで、「自由」とはどうでもいい考え方である。
それは、自由を正しいと言っても、間違っていると言っても、
そうした「社会的正しさ」は正しくないからである。
つまり、「自由が正しい」という言葉は、すなわち、
「自由が正しいと自分は言った」ということであり、
別の人間の「自由は間違っている」という言葉は、すなわち、
「自由は間違っていると誰かは言った」ということである。
ここに、「矛盾は存在しない」。
要するに、「自由は正しい」と「自由は間違っている」は矛盾しない。
言語的理性など、無意味なのである。
しかしながら、「では、何を言っても構わないのか」ということではない。
なぜなら、「言葉に責任を持つということには意味がある」からである。
言葉に責任を持つ人間とは、すなわち、
「信頼できる責任感のある言い方」をしている人間である。
これを、「正しい」と言うことはできないが、
「よく頑張っている」と言うことはできる。
よって、よく頑張ることが正しいかはさておき、彼はよく頑張っている。
これを見ると、「まるでヒトラーだ」と言うだろう。
だが、マルクスには、本質的な問題がある。
それは、「そもそも、階級がない社会が正しいとどうして言えるのか」である。
階級のない社会を作って、平等な社会は到来するだろう。
だが、それは最悪の悪の独裁者の帝国、ソビエト連邦である。
マルクスは間違っている。
そう、「階級のない社会など、階級で下の人間しか主張しない」からである。
また、これを見ると、「むしろ共産主義者だ」と言うだろう。
しかしながら、全員が同じ意見を持つことは、恐怖そのものである。
なぜなら、「すべての意見が絶対に正しくなる」からである。
そう、たくさんの人間が居るということは、
「ある程度の意見の多様性を生む」。
民主主義社会において、私たちは、
「多数の人々が発言する意見を正しいと勘違いしていたい」のである。
そう、これでは「何の意味もない。この世界に意味はないと言うのか。」と
人々は言うだろう。
だが、考えることに意味がないからといって、
思い感じることに意味はあるし、
「ありのままの現実社会があること」は否定できない。
僕たちにできることは、
「ありのままの現実社会を進歩させる」ことで、
「人々が自分が幸せであると言える社会にしていくこと」のみである。
何が正しいかを議論すべきではない。
人々が何を幸せと思うかを議論すべきなのである。
しかしながら、ここで全ての正しさが無意味であると言うものではない。
なぜなら、
「一般的な真善美には正しさとは別の意味がある」からである。
すなわち、
「正しい生き方」とは、
「一度しか生きられない人生をどうすればもっともよく生きられるか」であり、
「正しい考え方」とは、
「経験や理性を考える上で、どのように考えればもっともよいか」であり、
「正しい社会」とは、
「本当に善良かつ人々が健やかに生きられる社会」である。
これらは「もっともよい」という考え方であり、
それは「正しい」「間違っている」と考えるべきものではなく、
並列して、「どれもみんなもっともよい生き方(考え方・社会)だね」と
言えばそれで終わりである。
どれかを選び出したり探し出すために議論するものではなく、
またどれも大して、絶対的に正しくは無いのである。
つまり、「正しいものがひとつしかないとするのは愚劣」であり、
「正しく生きなさい」と教えるものは全て、
他の正しさを否定しているのである。
また、僕が思うに、神は何かの絶対的正しさを言っていて、
それは何らかの理由で絶対的に正しいのだろう。
だが、その「絶対的正しさ」とは、
何らかの「根拠」から言って正しいのであり、
考えるべきは正しさがどのような場合であるかという
「神の言葉の解釈」ではない。
なぜそれが正しいかという
「神の言葉の根拠」を考えなければならない。
そして、その根拠は、分かったところで、意味はない。
なぜなら、「神は全ての根拠までは考えていない」からであり、
あなたが考える「神に反することの根拠」もまた、
「神に従うことの根拠」と同程度に正しいのである。
よって、何らかの理由があれば、
多神教を作っても、偶像を作っても、姦淫を犯しても、
それが社会の人々が許すのであれば、
どんなにユダヤ人から「サタン」であると言われても、
「神の根拠には反しているが、
自分の根拠から言ってこれは正しい」と言えばいい。
しかしながら、よく覚えておけ。
それが言えるのは「神の根拠よりも自分の根拠の方が優先される」と
自分が確信することのできる場合だけである。
そう、「自分が神よりも賢い場合でなければ、
その選択は神よりも愚かである」ということを、
肝に銘じておかなければならない。
数学的に考えていると、
「同じ」と「違う」に行き着く。
全てのものは、その命題が同じであれば共通であり、
等しければ正しいと、数学は教える。
だが、これは間違っている。
人間のような数値ではなく複雑な生物集団は、
「同じ」であるとも「違う」であるとも言えない。
さまざまなことを考えて、
その時「正しい」とか「間違っている」とは言えるが、
これは「コンテキスト」の問題である。
よって、正しいかのように見えて、
「別の根拠を持ち出せば必ず間違いであると言える」。
あるいは、別の根拠を持ち出すことが絶対にないものが正しい。
そして、そんなことは誰にも証明できない。
話を元に戻そう。
同じだと言える理由は、
「同じ人間だから」であり、
違うと言える理由は、
「人間は違う生き方をしているから」であり、
これはどちらも、多くの場合正しいと言えない。
すなわち、人間は同じ人間ではなく、
それぞれ違う。
また、違う生き方をしているように見えて、
多くの人間が似通った生き方をしている。
病気は、病気の原因となっている部分を治すよりも、
病気になる過程で、死んだ部分・壊した部分を
生き返らせた方が治る。
なぜなら、それらのせいで「途中止まり」になっている。
不可逆的な変化を治すためには、
その変化が起きる過程で生まれた、
「不可逆的な一方通行の変化」を上手く正常にすること。
正常な精神を何とか再現してやれば、
原因はすぐに消滅し、精神の病気は治る。
社会のことを考えるには、
目には見えない「権利とチャンス」から考える必要がある。
すなわち、「その時何ができるか」、
あるいは、「その時何が許されるか」から考えていくこと。
そこから、人々が「いつどのようになるか」を考え、
「社会の問題の解決」や「社会の発想の実現」、
そして「社会そのものの制度の改革」が見えてくる。
ここで全ては「自由」であり、
そこから「権利とチャンス」のような、
目には見えない「自由が貫く社会の様相」が見える。
全ての社会は、「自分の精神の中で実現」し、
「社会そのものが自己の精神であるかのように、
自分の中に世界全ての現象が生まれる。」のだ。
最後に行き着くのは、
「環境を変える」ということ、
すなわち「環境に自然な変化を許し、
同時にさまざまな環境の変化の体験をする」ということである。
自らが環境の変化を体験し、
環境が「変わる前」と「変わる後」を思い出して考える。
今の環境でできていたことに基づけば、
昔の環境では何ができていたはずなのかを知ることで、
「当たり前を疑うことから可能性を知る」。
また、「環境に自然な変化を許す」ことで、
「子供たちはさまざまな環境を知り、
自らの環境における社会の自由なコントロールを取り戻す」。
ここに、「環境の最大限の自由」と
「全てを無限に知りえる可能性」が生まれる。
だが、個人が知ることに対しては「限界」があり、
この限界を克服することが、
そのまま哲学的な仮象の世界の限界を克服することに繋がる。
世界観とは、ここで考えられる、
「この世界の根源に基づくビジョン」である。
この世界は常に生み出されており、
この世界は人々がありのまま生きていて、
この世界は自分の経験した全てを実現する可能性に満ちている、
ということが、
「この世界は自分の外側ではなく自分の内側にある」という、
「世界の本当の真実」へと繋がるのである。
また、カントのようなことを言うと、
世界と自分があった時に、
内側と外側が繋がりあうところに経験がある。
人間は、経験を通してしか、世界を知りえないのである。
人間は頭脳や論理を使った理性で考えられることでしか考えられない。
本当のこの世界をありのままに見ることはできない。
何を見るにも「観測手段」が必要である。
そう、「経験とは観測手段によるフィルター」であり、
「精神の中にある全ての経験は、
いつか自分が観測手段によるフィルターから作り出したものであり、
古くなったものは自然に間違ったものになっていくため、
常に心の中を洗浄しなければならない。」のである。
せっかくなので、こうした経験論哲学者にも、
僕は名前を付けたい。
この哲学者は「ジークフリート」という名前にする。
クリームヒルトの夫である。
ジークフリートは頭のいい人間で正義感が強い。
この世界を率いて牽引することのできる、
「世界の旗手」のような人間である。
この世界は、またフランスに戻る。
法の支配によって、人々は自由になり、
ドイツはここで終わる。
神は人々を永遠の光に戻し、
太陽のある明るい地上がもう一度蘇る。
神は滅亡を越えていく。
どんなに困難な地獄も、
神はひとつひとつ解決し、
どんなに不可能な夢も、
神はひとつひとつ叶えていく。
神よ、日本を守りたまえ。
日本の王は、神を信じています。
実際のところ、考えることは本当は無意味ではない。
なぜなら、考えるとは
「考え方を成立・適用させて、
知らなかったことを発見し、気付くこと」だからである。
僕は、「主体的な自由」の通り考えよと言う。
そして、「自由モデル」を作れと僕は言う。
主体的な自由の下、「国家」の自由モデルを考えることで、
この世界は「自由な社会の実現方法」から、
「子供たちを本当に救う社会」を築くことができる。
子供たちには、「上から救う」のではなく、
「子供たち自身が救う」ために
「自ら考える力を与える」ことが必要なのである。
そう、必要なのは、子供たちを、
自由自在に、主体的に、
「考えられるようにする」ことである。
また、自由モデルから言うと、
「人間の心理はモデルから説明できる」と言える。
人間の心理は、誰もが同じ考え方をしており、
多くが「自由」すなわち「できたい」と思う心や
「不安を払拭したい」という心から、
「支配者への反抗」が生まれる。
だが、本当は反抗は必要のないものであり、
「自由にできる許可と力を与えれば、
攻撃の衝動は反抗の方向に向かわず、
社会を素晴らしいものにする方向に向かう」。
ここで、人間の心理モデルが言える。
すなわち、「心理モデルに照らし合わせてみれば、
誰もが当然で正しい行動をしている」ということである。
心理モデルは正しい行為を前提としているが、
「正しい行為が誰かによって制限された時に、
その子供は間違った行為へと向かう」のである。
そう、必要なのは、
「反抗しないようにさらに制限する」ことではなく、
「攻撃の方向が反抗に向かわないように、
制限された自由を解放する」ことなのである。
今、この世界は正常なフランスに戻る。
自由の結果滅亡した、「滅びの世界」は
悪魔を信じた愚かな王によって、
「永久に時間の針の動かない世界」になった。
わたしたちは、戦いの王ヴァルキリーに別れを告げる。
彼は勇敢な正義の王だったが、
今、ヴァルキリーの戦いの支配から世界は解放される。
そう、我らがフランスはここに復活する。
私たちの王の名は、「イザベル」である。
イザベルは言う。
「民主主義の支配を受けよ。
わたしは女王として何もしない。
人々は、自由な中、
それぞれが己の意志で考え、
己の意志で行え。」
イザベルは言う。
「わたしは、自由な中でいい発想を
実現する方法を知っている。
それは、競わせることだ。
まさに、正しい経済は競争原理だ。
それぞれの国民よ、競え。
自らが頂点になりたいと、
それぞれ努力し、競い合い、
そしてそれぞれの努力で力をつけよ。」
イザベルは言う。
「わたしの経済政策は、
それぞれに役に立つものを作らせることだ。
国民よ、誰にとっても役に立つものを作り、
それをたくさん生産し、
諸外国にたくさん売れ。
その小さな利益を集めて、
国全体を豊かにしよう。」
イザベルは言う。
「また、私に対する批判は構わないが、
不正だけはしてはならない。
不正をすれば、国は亡びる。
批判するものを捕えるのではなく、
不正を犯すものを捕えよ。」
イザベルは言う。
「殺すなかれ。
人の命は、十億の金よりも損失が大きい。
どんなに家臣が間違ったことをしても、
簡単に殺すな。
簡単に家臣を殺していれば、
そのうち、自らに従う家臣全てが居なくなり、
結果、自らに従うものは誰もいなくなるであろう。」
イザベルは言う。
「王の目的とは、人々を従えることでも、
富を使って宮殿を作ることでもない。
国民の幸福である。
国民が私の王国を愛することこそ、
私の望みであり、
私の王国の目的である。」
イザベルは言う。
「スポーツをしなさい。
人々は、勝ち負けを楽しむのが好きだ。
競争だけでは、週末にやることがない。
人々が週末の時間を過ごせるように、
スタジアムや競技場を作り、
その周辺にレストランとホテルを作りなさい。
そして、観光業を行いなさい。
美術館と博物館を作りなさい。」
イザベルは言う。
「人々の集まる場所を作りなさい。
パブやスポーツクラブを作りなさい。
また、どんな人間が何を言っていても、
どんなに私に対する悪口を言っていても、
その人間の口を閉ざしてはならない。
なぜなら、私はその人間と話し合いたいからだ。」
イザベルは言う。
「困っている人間が居たからといって、
その人間を別にした上で、
上から支援のためのお金だけを与えてはならない。
そうではなく、その人間が
自ら困っている課題を解決できるように、
よく相談し、うまく導いてやりなさい。
何、障害者であろうと、老人であろうと、
話すことすらできない人間はあまりいないだろう。
何、できないことが多いからと言って、
普通の人間にできることが全てできないとは限らない。
障害者であろうと、貧乏人であろうと、
何かできることはあるはずだ。」
イザベルの王国は、最高に繁栄する。
人々は幸福になり、
国民は「われらがイザベルは最高の女王陛下だ」と言う。
イザベルは言う。
「見よ、ドイツやソ連が
イデオロギーによる戦いや争いをしているさなかに、
私たちは最高の繁栄を達成した。
フランスに神は微笑んだのだ。」