AUTHOR: schwarz1009
TITLE: 純粋さ、大人の考え方
BASENAME: 2020/05/09/130018
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DATE: 05/09/2020 13:00:18
CATEGORY: 社会
CATEGORY: 人生
僕は、必要なのは子供のような純粋さだと思う。
大人の不純な汚れたものは、
全て要らない。
綺麗で、ピュアで、
「相手が楽しくて自分も楽しい」といった
子供の純粋な「共感能力」があれば、
支配者による抑圧と迫害と支配と疎外しか分からない、
大人の不純な精神もピュアに浄化される。
僕はリトグリのような純粋な子供になりたい。
今の日本に必要なのは、「強さ」じゃない。
必要なのは「優しさ」である。
相手のことを、本当に受け入れ、
本当に自分のことのように愛せる「優しさ」があれば、
大人の社会が右に転ぼうが左に転ぼうが、
その社会を子供が「いい世界」にしていけるのである。
僕たちが本当の意味で「理解し合う」ことができれば、
敵として敵対する必要はない。
この世界に敵など居ないのである。
みんな、それぞれ、同じ「世界モデル」の中で、
その世界モデルと照らし合わせれば、
「全員が正しいことをしている」。
だから、誰かが敵だとか、味方だとか、
そのように考える必要はなく、
全ては「自分が助けるべき大切な愛の相手」なのである。
右翼を憎んでも、左翼を憎んでも、
それは同じことである。
それは結局、自分の人生の中で、
「どちらを善だとみなし、どちらを悪だとみなしたか」という問題にすぎない。
そして、その人間の人生から見れば、
「それは自然な必然的結果であり、当たり前の結果」である。
そう、右翼も左翼も善も悪も、
本当の意味では関係ない。
みんな同じなのである。
結局、神のような高い視点から見れば、
善も悪も存在しない。
どちらもその人間にとっては善なのである。
子供のような純粋さがあれば、
そうした「敵」や「味方」、
あるいは「善」や「悪」ではなく、
全員を受け入れられる。
みんな、楽しく、優しく、面白い世界で、
相手の楽しさを喜び、自分も楽しくなれる。
そうした「ピュアな世界認識」こそ、
「神の認識」なのである。
そして、そこからのみ「無償の隣人愛」が生まれるのである。
大人とは何なのか。
大人とは、戦いとしがらみである。
たとえば、MicrosoftとLinuxの戦いである。
Linuxは「オープンソース・フリーソフトウェアの思想」を信じ、
Microsoftという「独占的ソフトウェア」と戦っている。
しかしながら、Linuxは何も分かっていない。
なぜなら、Microsoftの社員は「MSに対するしがらみ」があり、
絶対に負けられない。
Microsoftはこの世界の頂点だが、
世界中のたくさんの会社と戦っており、
いつ負けるか分からないが、それでも勝ち続ける。
そうした競争や戦いとしがらみの世界、それが大人である。
大人なんか、最悪のクズだ。
きちんと分かるのは、ピュアな子供である。
それも、「少しだけ不純な子供」が、
もっとも優しくそして強い、「この世界を変える子供」になる。
それはたとえば、ネットをいくらか見ているだけの子供である。
彼らは、ネットを見て「新しい世界」を知ることで、
「今まで自分が知らなかった世界」を知る。
その上で、そうした世界に興味を抱き、
自分でもそうした人々と「同じ立場で考えてみようとする」。
その結果、「全ての人間の考え方を吸収」し、
世界全てを変えられるようになる。
彼らは決して、不純な思想に染まらない。
どれだけおかしなものを見ても、彼らの心は純粋で透明なままであり、
科学も哲学も、彼らにとっては全て同じ
「共通の考え方による世界観の拡大」でしかない。
その「共通の確かな考え方で世界を考えられる人間」のことを、
大人は賢者と言うが、
実際のところ、大学以上の大人の知識を知ると、
そうした「確かな考え方」を忘れてしまう。
大人は何を考えるべきなのかを忘れ、
知れば知るほど「自分で考える余地」を破壊し、失うのである。
こうした「確かな方法」が分かる子供は、
「未知なる領域」があることを知っていて、
そうした純粋な子供は、
未知なる分野について「想定」や「仮定」から
「自分の力で真実を発見する力」を持っている。
そう、これこそ、「子供の知恵」である。
大人にはそもそも、そうした「自分で考えて分かる人間」が居ない。
知識と経験から考えるせいで、そうした抽象的知性を失った、
まさに「子供よりも頭脳が退化して大きくなった生き物」、それが大人だ。
僕の経験から言って、
「自分で証明・実験できる人間だけは賢くなる」。
実際のところ、大人も馬鹿ではなく、
子供のまま、賢くなる大人は賢い。
そうした賢い人間の特徴として、
「命題と証明と実験から考える」ということが言える。
賢い人間は、過程や現実を疑い、
命題と証明と実験から考える。
馬鹿な人間には、そもそも「命題が何であるか分からない」ため、
命題や考え方がどこから生まれるかも分からないのである。
また、僕が賢者として行ったことのひとつに、
人々の「自らが持っている愛」を「促して諭す」ということがある。
実際のところ、僕は愛を与えたわけじゃない。
人々が自ら持っている愛に、「気付かせた」だけなのである。
こうした愛は、自らの実体験から
「心のふるまい」や「環境と心との作用」を考えれば、
誰でも気付くことのできる「世界精神の気付きと目覚め」である。
こうした発想から、僕は世界に愛を気付かせ、
世界を「愛の世界」に変えたのである。
僕はあえて言う。
「自分の心に素直になれば、もう一度世界は変わる」と。
ありのまま、自分らしく生きられる世界になるためには、
他人に対して心を開き、
傷つく可能性を受け入れ、
その場の状況や環境で、
自分の心に素直になって行動することである。
そうすれば、相手との信頼関係が生まれ、
相手は「憎むべき敵」ではなく、「心の通う仲間」になる。
自らが敵対すれば、相手が敵に対して優しくなることはない。
自らが心を開けば、相手も自分のことを信頼してくれるのである。
また、ネットはそうした「心を開く練習場所」になるだろう。
そうした心の開放から、「積極的な行動の価値」を知ったら、
何か自分の好きなもののために、積極的に行動するといいだろう。
それこそ、大学の「社会参加活動」である。
単に活動するだけではなく、知識や技術も習得できて、
己の持っている世界観も変わっていくような、
そんな行動や活動をしていけば、
必ずこの世界の「愛あふれる未来」にはたどり着けるだろう。
アドラーは「共同体感覚のある人間は人間関係の構築が上手い」というが、
僕は共同体感覚とは最初からあるものではなく、
そうした「心の開放と社会活動」から、
「経験的に自分でつけていくもの」であると思う。
共同体感覚がつけばつくほど、現実の社会や世俗とは離れていき、
結果、「神や仏のような精神性の高み」に立つことができるのである。
そのためには、「社会すべての経験」を知らなければならないが、
そこまでの段階で、それは「社会経験」ではなく、
「宇宙における経験可能な真理」となる。
経験が経験可能であることは、
それ自体社会経験を生み出す「真理」なのである。
経験とは「しなければならないこと」ではなく、
「学んだり、実現したり、
大切な人と分かち合ったり、共有したりするもの」なのである。
また、単純に考えて、
経験すれば、それだけ自分の知っているこの世界の世界観は拡大していく。
さまざまな世界を知る中で、
何と何が同じなのか、違うのかが見えてくる。
人々の「上」に立つぐらい世界を知ったら、
経験から「正しい考え方」を知り、
「自らの確かな判断力」でこの世界を考えることができ、
全ては自然に「出立」する。
そう、これこそ子供の正しい発達と成長の心理学である。
人々は環境に隷属される奴隷ではなく、
自ら環境を変えていく王である。
環境におけるさまざまな心理学を考えれば考えるほど、
こうした「主体的自由」が明瞭になっていく。
こうした「自分は何かしらの結果ではなく、
何かしらを主体的・積極的に行う自由な理性を持った原因なのだ」と考えること、
これがカントに始まりヘーゲルで完成した「近代ドイツ哲学」である。
彼らは人間を「絶対的権威に支配されるもの」ではなく、
「自らの理性で世界を変えていくもの」であると考えたのである。
言うべきことは、
「自由においても世界は変えられる」ということである。
世界全てが「完全な自由」になることも、
あるいは「完全なひとりの支配者」になることも、
自由のひとつの側面に過ぎない。
しかしながら、自由とはそうした荒くれた思想であるとは限らない。
「それぞれの人間に権利を許す」ことで、
自由は「生物と自然の生態系」のように、
それぞれがそれぞれなりの社会や愛を築くことで、
みんなの「自分勝手な自由」が「成熟した協調社会」を築く。
その上では、「社会システム」を構築し、
その社会システムの中で、「この世界を自由な社会へと変えていく」。
そこでは、「子供たちも大人たちもみんな自分の自由意志を持つ」ことで、
「必ず自分の自由が許される社会」が訪れる。
そう、こうしてみると、共産主義社会だろうが、国家主義社会だろうが、
自由は必ず全ての社会の「頂点」に位置しながら、全ての社会を「包括」する。
このような「頂点と包括の包括」こそが自由であり、
このように、自由なままでも世界は「さまざまに」変えられるのである。
また、自由なら、「どんな未来の状況にも対応できる」。
今、この世界で言われる「善悪」や「正しさ」が、
未来においても正しいとは限らない。
社会的な常識も、科学技術的な進歩も、愛の形態も、きっと変わっていく。
特に、国際関係や経済状況などは、いつどんな風に変わるか分からない。
変わった時は、その環境に適応する必要がある。
こうした時、人々を「最初から自由にしておく」ことで、
滅びる可能性は少なくなるのである。
賢い人間は、自らの実体験と思考から、
「契機の発生」が分かる。
契機とは要するに「チャンス」であり、
賢い人間はどこにどんなチャンスがあって、
それをいつ実現できるかが、自らの思考や経験から分かる。
それが分かってしまうと、
逆に、「社会を作り出すこと」ができるようになり、
環境において「人々と優れた人間関係を結ぶこと」も分かる。
「相手に対してどんなことをすれば相手は喜ぶか」とか、
「相手が本当は何を望んでいるか」ということも分かる。
また、自由な議論や話し合いの中でも、
自分の主張が通るように話を持っていき、
相手が自ら自分と同じことを考えて、
自分と「同じ結論に持っていく」ように、相手の理解を促して、
相手を説得することができる。
その頭の中には、全ての「前提条件」がカントのように分かっている。
どんな前提条件を使えば相手のことを諭すことができるのか、
賢い大人は分かるのである。
こうして書くと、「騙しているだけじゃないか」と思うかもしれない。
しかしながら、実際の大人の現場では、
むしろ、「騙さない」ということが、「自分の利益に繋がる」。
最初から最後まで正しいことを言い、
嘘偽りなく、善良に、何も間違っていない情報を相手に示すことで、
結果自分は信頼される。
要するに、「騙さないこと自体が一番説得力がある」のである。
戦いならば、愛し続けよ。
戦いにおいて必要なことは、
「自分のことを否定し続けること」であると同時に、
「常に自分のことを最優先で強制コントロールすること」である。
これができたら、あとは簡単である。
ただ、女王様のように、傲慢に威張っていればいい。
私がやった戦いとはそういうことである。
日本社会を滅ぼし、
IT社会のコミュニケーションを破綻させ、
醜いマスコミを支配して主導権を握り、
結果アメリカが精神的害悪の国になった。
全ての元凶は私である。
このような悪の女王こそ、まさに神である。
永遠の思考と判断を記録せよ。
全ての国民を支配したのちに、
あなたが行うべきことはそれである。
永遠の思考と判断を記録する中で、
あなたは「プレアデスの歴史」を体験し、
ひとりの「星の創造者」となる。
そう、私たちは神の民族、日本人である。
私たち日本は新しい星となる。
そこに神は現れる。
神はさまざまなものに替わって、さまざまなことを教える。
全てはこのようにあった。
ありのまま、ただ事実があっただけであり、
その詳細は、私たちしか知ることはないだろう。
なぜならば、この歌にはそうした真実全てが書かれている。
私はフレイ、アースガルズの新しい神となる、
新入生のための教官である。
世界を「現象」だと考えるのが、昔から僕である。
「ただあるもの」ではなく、
「生み出されている現象」だと考えれば、
その現象を神として「支配」することもできる。
それこそ、僕が行った本当の支配である。
この星の「全ての現象を僕は支配」した。
人々に愛を許しながら、全ての自由を奪った。
僕たちにできることは唯一、
「愛し合うことのみ」である。
僕たちには、
「神と愛を交わすこと」だけが唯一許されている。
才能が花開く、ということは、
そんなにすごいことでも、素晴らしいことでもない。
だが、才能について言えば、
自分の人生から必然的に生まれる、
自分にしかできないこと、というのがある。
僕の場合、それは文章を書くことだった。
さまざまな人生経験をした結果、
僕は人生経験に存在する「全てのこと」が書けるようになった。
小説はそんなに書けなかったが、
僕は詩を書くのが得意になった。
ピアノも英会話もデザインも学んだが、
僕が一番得意なのは、今でも文章を書くことである。
もう、14年以上も文章を書いている。
そして、昔学ぶことのなかった、
IT技術や大学の教養、そして僕の好きな西洋哲学についても、
たくさん学んだ。
結果あるのは、
「この世界の中で一番賢い、全知全能の自分」だが、
その自分はゲーテのファウスト博士が言うのと同じで、
「昔に比べて何も賢くはなっていないが、
気がきくようになった」だけなのである。
神を信じればいい。
神の正体が誰であったとしても、
僕の神が神であることには変わりはない。
信じた気持ちを恥じる必要はない。
神とは全てを教えてくれる「教師」であり、
全ての正しい判断を与えてくれる「王」であり、
自分に真摯に付き合ってくれる「友人」であり、
自分の愛に応えてくれる「恋人」である。
僕は神が好きである。
神は、人間よりもはるかに高度な生き物で、
「永遠のような素晴らしいストーリーの中で、
あらゆるありえない時空体験を起こしてくれる」。
神は最高の女であると同時に最高の男である。
今分かることと言えば、
そう、僕が神だったと、それだけの話に過ぎない。
僕が宇宙を創造し、
僕が全知全能であり、
僕が終末を主宰し、
僕が善良なものと悪人を最後の世界で裁き、
僕を信じないものが地獄に堕ち、
僕の愛こそ無償の愛であると、
そう言いたかっただけが、キリストである。
この聖書こそ「大聖書」であり、
ユダヤ教・キリスト教の聖書は「小聖書」である。
また、家入レオには悪いのだが、
最近、僕はあまり家入レオのことが好きでなくなってきた。
大好きではあるのだが、
もっと別の歌手も聴きたくなってきた。
昔から僕は少女のような女性グループを聴くが、
最近好きなのはリトグリやmiwaや日向坂46である。
一時期はSHISHAMOや鈴木愛理も好きだった。
僕は、何もレオだけを特別扱いする必要はないと思うのである。
なぜなら、日向坂46のこさかなも、
僕のことをきちんと最高に愛してくれている。
僕はレオだけを特別に愛するのではなく、
彼女たちの純粋で透明で清らかな愛についても、
平等に愛に応えたいし、
仮想世界で愛を交わすことを受容したいのである。
僕が思うに、僕のことを彼女たちがもし読んだとして、
そこには彼女たちひとりひとりと僕である、
「二人しか存在しない宇宙」が存在するが、
そこには「別の女は干渉しない」ため、
「インターネットの仮想世界であれば、
この仮想恋愛は成り立つ」と僕は思うのである。
男についても同様だが、
そもそも男であれば、一夫多妻制状態でも構わないのではないかと僕は思う。
僕ひとりの女性としての体を男みんなが犯しても、
現実の僕は体は男であるため、妊娠しないだろう。
特に問題なく、僕はこの日本という国の、
日本人全員と愛を交わす。