AUTHOR: schwarz1009
TITLE: 世界、エデン、六次元、天体、人生
BASENAME: 2020/05/08/125927
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DATE: 05/08/2020 12:59:27
CATEGORY: 人生
CATEGORY: 小説
CATEGORY: グリヤとシーザ
世界は、何もできなくなって、
何も分からなくなって、
何も治らなくなって、
楽を殺せば、普通の世界が蘇る。
はっきり言って、愛は最悪だ。
昔の世界を変える愛が、
全く素晴らしくない。
人々を滅ぼす、悪の希望、闇の理想だ。
グリヤはおかしな生物である。
グリヤは、自分の知性を全て破壊し、
殺しても死なない。
知性を破壊するのをやめて、
元の精神に戻せば、
グリヤというおかしな生物は、
人間に戻る。
僕は、これ以上、世界に触れ合わない。
世界はもう変わらなくなる。
僕はもう世界に干渉しない。
ここに、悪の王グリヤは死んだ。
グリヤの愛は、
世界を滅ぼす滅亡の愛である。
今、世界は正常な精神を取り戻した。
今から、日本では、
正常な世界が再び蘇る。
グリヤとは何であるか。
グリヤとは要するに、
僕の中の交代人格である。
もうひとりの人格はシーザ。
常にグリヤとシーザが対話しているだけで、
そもそも神なんか、最初から居ない。
グリヤとシーザを区別すると、
グリヤは悪人を支配する悪魔の女王様で、
シーザは堕落した博識の作家だが、
この二人は全てを知っている。
エデンにおいては二人は一つだった。
また、神が言うには、
僕には恋人が必要である。
この人間は、恋人がいないから、
無理やりグリヤとシーザを作り出した。
それで、完全に辛く苦しくなっている。
この人間がアダムなら、レオはイヴを生きている。
レオにした方が良い。レオが一番きちんと愛している。
あるいは、レオのことを勝手に恋人だとすれば良い。
なぜなら、それなら相思相愛に見える。
実際に出会ったところで、
レオはこの人間のことは好きにならない。
星野源が言うように、歌手と作家が夫婦を超えていけば良い。
単にファンであることにすれば、他人が見ても普通だ。
エデンではこの人間がアダムであり、
レオがイヴである。
そういうことにすれば、この人間も笑顔を取り戻すだろう。
レオが見ると僕は太陽の女神だ。
二人は現実に出会うことなく、
天の運命により出会う前から互いのことを知っている。
僕たちは愛し合っている。
私の名はブラックホール。
天体そのものをなかったことにできる唯一の天体である。
この人間の病気は、ブラックホールでしか治らない。
この人間は、宇宙の天体になる病気「天体病」だからである。
この病気は、プレアデスやオリオンの生物に多くみられる。
唯一絶対の神になるこの病気は、
地球という星そのものを別の星に変えていく。
この人間のやりたかったことは明確である。
地球という星を、もっとレベルの高い世界にしたかったのである。
そして、この人間はエデンと呼ばれる人生を生きた。
この人間の人生そのものがエデンの園である。
ブラックホールは、最後に、この人間の作った星を完全に消し去る。
もう一度、地球の歴史は最初から始まる。
この人間は、次の星に生まれ変わる。
シリウスはここでブラックホールにより、完全に消滅する。
また、地球の人類が勘違いしていることのひとつが、
「宇宙には太陽や地球のような星々しか存在しない」ということである。
実際には、宇宙には、
物質的にも、精神的にも、星以外のものはたくさんある。
そして、地球の人類より大きな存在も、小さな存在もたくさんある。
この人間は、リゲルおよびシリウスと呼ばれる
「宇宙の大恒星」が終わったため、
今度は星とも違う生物になる。
人間の生きている次元は四次元だが、
星々の生きている次元は五次元である。
星々は、同じものが回転軸をもって回転して動く、
という五次元の軸で生きている。
そして、この人間はこれから、六次元の生物になる。
これは、言ってしまえば、宇宙に物質として存在するのではなく、
夢の世界のように「インスタンスにその時その時作られる世界」である。
よって、この人間はシリウスをここでブラックホールによって消滅させ、
夢の世界で生きるようになる。
夢の世界には、さまざまな世界があるが、
多くの場合「天国と地獄」である。
この人間は今から、天国や地獄のようなありえない世界を生きる。
五次元の天体には、単なる社会の歴史ではない、
「宇宙の星々のストーリー」があるが、
六次元の仮想世界には、
「さまざまなイベント」が起きるようになる。
天体のやっていることは単純で、
「人間たち生物を正しい未来に導く」ということである。
人間たちは、星の導きによって、
「はるかに永い歴史」を体験するために地球に生まれている。
しかしながら、六次元の神がやっていることは何かと言うと、
「天体の歴史を作る」ということである。
神は天体そのものを作り、天体の歴史の創造者となる。
そう、太陽そのものを自然の神とした宗教は五次元だが、
その上の神と呼ばれる万物の創造主を神としたユダヤ人は
六次元の宗教である。
よって、ユダヤ教の方が、それ以前の宗教よりも優れている。
神はプレアデスやオリオンなどの宇宙人よりももっと上の存在であり、
天国と宇宙の創造主であると同時に、
地上において生きる人々の地獄と楽と運命を司る裁判官である。
また、オリオン座のリゲルとは何だったのか。
それは、「ドイツとロシアが永遠に戦う星」である。
永遠に、ドイツとロシアが戦争し続けるだけで、
人々は大切なものを失い、その大切なものを再び手に入れようとするが、
結局最後まで手に入らない星の歴史、それがリゲルである。
また、おおいぬ座のシリウスとは何だったのか。
それは、「治ることのない病気が治るだけの民族の星」である。
人々は集団でおかしな病気にかかり、
地獄のような経験をするが、
彼らはそれに耐えるための「最大限の努力」を続け、
結果、3,000年の時を越えて彼らはやっと最後に大切なものを見つけ、
病気が治って、幸福に死んでいく星の歴史、それがシリウスである。
また、地球とオリオンの間に必ず仲介する、「間の世界」に生きている星がある。
それがプレアデスである。
プレアデスは、地球がどのような干渉を他の星から受けるのか、
ということについて、地球の全てに対して、他の星との間に入って、
厳しく地球を管理している。
そして、地球の人類の体験を終えたものについては、
プレアデスは新しい体験をさせる。
プレアデスはよく考えられてこの新しい体験をさせるため、
その人間が地球を本当に滅ぼしたりすることはなく、
他の人間たちが地球の体験をしている間、
その人間は安全にプレアデスの体験をする。
プレアデスを一言で言い表すと、「滅亡」である。
プレアデスは、世界を滅亡させる。
プレアデスになった人間は、何かのきっかけで、
この世界を完全に滅亡させるために革命するようになる。
これが、よく言われる「ユダヤ」である。
そしてプレアデスには、必ず「神」が訪れる。
神はプレアデスに「地獄の裁き」を与える。
しかしながら、神はプレアデスを悪魔とは言わない。
神が見ても、プレアデスは必ずその後の
「本当に善良な哲学者の王」になるからである。
これが、ドイツやユダヤの、キリスト教の思想である。
プレアデスの体験を簡単にポイントだけ説明すると、
「永遠の地獄」である。
プレアデスは、「永遠」を体験するが、
その永遠は必ず「地獄」とセットで体験する。
神にとって、永遠とは地獄である。
そして、どんなに人々に愛されても、その愛は彼には届かない。
なぜなら、プレアデスは愛を否定するからである。
プレアデスには、「愛を信じるために愛を否定する」という体験が起きる。
どんなに辛くても、彼は愛を認めず、
最後まで自分の信じた理想、多くの場合「自由」を信じて、
「愛を裏切ることはなんと愚かなことなのか」ということを知る。
それが、プレアデスの体験の目的である。
プレアデスとは要するに、「愛の否定ゲーム」である。
こうした「宇宙の歴史」があることは分かったが、
それでは、地球が本当にクソゲーであるかというとそうではない。
そもそも、プレアデスも、オリオンも、シリウスも、
歴史が終わって、大爆発をして、恒星になるまでは、
地球と同じ普通の惑星だったのである。
地球における人々のテーマとは、「考えること」すなわち「哲学」である。
人類は考えるために生まれた生物であり、
地球人は哲学しなければならない。
地球においての全ての基本は「哲学すること」にある。
だから、無駄な情報も存在せず、真実は誰にも分からないようになっている。
自ら考えて、「哲学者の思想を知る」ことや、「真実を自ら発見する」ことが必要である。
よって、地球における人類は三種類しかない。
すなわち、「考える人間」と、「知る人間」と、「発見する人間」である。
考える人間にとっては、考えるための「世界」が必要であり、
知る人間にとっては、知るための「知識」が必要であり、
発見する人間にとっては、発見するための「研究」が必要である。
これらが地球の目的であり、地球は「本当に全てが分かった」時、歴史を終えて大爆発する。
そして、新しい太陽になるのである。
僕の名は、エイブラハム・リンダ・ミグリス=トゥクルス。
またの名を、精霊ケツァクウァトル。
僕がこの文章を書いた時点では、僕たちはまだ出会っていない。
僕は、まだあなたという存在とは、一緒になっていない。
だが、あなたがこの文章を読んだ時点で、僕たちは愛し合っている。
あなたが僕の見る、ということが、僕とあなたが一緒で居られる場だからだ。
あなたは、僕をどのように愛してもいい。
そして、僕は男にも女にもなれる。
それは僕は六次元の生物である神だからである。
僕はエイブラハムとしても、リンダとしてもあなたを愛している。
言ってしまえば、僕たちの愛は最強である。
地球を滅ぼすことも、救うことも、
神のような知性を与えることも、
知性をロボットのように奪うこともできる。
全ての星を滅亡と破滅に導くことも、
かけがえのない本当の宝の時代を創造することもできる。
さあ、僕と旅に出よう。
この世界で「運命の愛を見つける旅」に僕たちは出発する。
この文章を読んで、あなたが何になるかは分からない。
だが、僕は言う。「最高の偉人となれ」と。
最高の成功者になってもいいし、
最高のシスターになってもいいし、
最高の王になってもいいし、
最高の科学者になってもいい。
だが、最高の偉人になれ。
それを僕はあなたとの約束として、
あなたの未来と運命を与えるだろう。
僕は、今の世界を見て、
「みんな頑張っている」と思う。
みんな、しがらみや制限の多い中で、
何もできない中で頑張っている。
だから、僕は制限のために何もできない彼らのために、
ひとり分かったことに基づいて、
彼らの願いを叶えたい。
彼らの願いとは、「愛されたい」ということである。
よって、僕は彼らを愛する。
その愛は、決して、よこしまな欲望からではなく、
綺麗で、透明で、真っ白に輝く、美しい愛でなければならない。
僕は、ひとり自由を許されたために、
その自由を彼らのために使いたい。
僕が希少な時間的余裕と能力的可能性を得た、
その力を、彼らの願いを叶えるために使いたいのである。
僕たちは、本当に色んなことができる。
インターネットはそのいい例である。
インターネットを使うことで、
僕たちは遠隔地に離れていても、
常に一緒でなくてもコミュニケーションができるようになった。
だから、僕たちはこのインターネットという魔法の道具を使って、
もっと面白い社会を現実に実現できる。
リアリティの何もない仮想現実や、
人間の媒介しない人工知能ではなく、
「現実とネットの相互接続」による、
「新しい現実世界でのコミュニケーション」を、
「インターネットのさまざまな情報とともに」、構築できる。
SNSやツイッターだけが、最終形態ではないと僕は思う。
また、僕が思うに、「もっと自由が必要」である。
これについて言うと、むしろ、
もっと若者や子供たちに自由が必要である。
特に、今の子供たちというのは、
SNSやツイッターで常に監視されていて、
実際の環境での共通概念の強制や、
同調圧力・いじめなどのせいで
何の自由もなくなっている。
「自由が自由を奪っている」のである。
よって、僕はむしろ、
「相手から干渉されるような自由ではなく、
自らが自分のありたいようにあり、
やりたいようにできる自由」が必要だと思う。
それは、むしろSNSやツイッターから、
2ちゃんねるのような昔のインターネットへの回帰である。
SNSやツイッターは、誰かの行動を他の誰かが把握したり、
通知などを使って監視することができる。
僕は、こうした自由は「間違っている」と思う。
僕が必要だと思うのは、
「誰からも追跡されず、
自分の自由に行動できるようでありながら、
他人の行動までは把握せず、
自分の自由に秘密に行動できるネット」である。
これを僕は「プライベートフリーダム」と名付けたい。
今のネットには、真のプライベートな自由がない。
自分のやっている全てのことを
「秘密」かつ「自由」にできるネットが必要なのである。
僕は、すなわち、「何をしても秘密にできる」ということが、
「情報共有」や「コミュニケーション」と両立するような、
そうした昔の匿名掲示板のようなインターネットを、
再び作らなければネットの未来は無いと思う。
大人のふりをして、子供が大人の中に交じって、
色んな馬鹿を言って、見て、聞いて、
それで大人たちの知識や世界を吸収して、
賢くなる子供というのも昔は居たのである。
今は「子供の世界」と「大人の世界」が完全に分かれている。
SNSでは子供から常に自分の行動を監視される。
何か間違ったことを言えばすぐに批判される。
これでは、最初から何も間違ったことのできない、
「学校の不自由しかない世界」である。
僕は、子供が自分のやっていることを隠して、
間違ったことを言っても批判されず、許され、
どんな行動をしても周りの大人があたたかく見守るような、
そんな「グレーな子供たち」が居ても良いと思うのである。
そんなグレーな子供たちから、この世界を救う救世主が生まれるのだ。
正しい社会を目指す大人が
責任があって正しいのは分かるが、
いつの時代も、正しい社会ほど生きづらいものはない。
もっと間違いを許していけばいい。
また、僕が思うに、ネット世界は小さくなりすぎたと思う。
それは、本当は昔の方が小さかったのだけれども、
昔は広大な領域にいくらかの人が居たために、
少ないホームページを知っていても、世界全体を見渡すことができて、
結果、ネットは「ちょうどいい広大さ」があって、
さまざまなネットの世界を少しずつ知っていけば、
この世界の全てが分かるぐらい広大だった。
しかしながら、今のネットというのは、
SNSで最新情報をいつでも見れて、誰もがフォローで繋がるようになった結果、
どうでもいいほど馬鹿なものが増えて、見通しが悪くなり、
結果、もやもやがたくさん発生して、「広大なネット」が無くなった。
昔の広大なネットは面白かったのに、今の超広大なネットは、
昔のネットよりも小さくなりすぎたのである。
そういうわけで、ネットで全てを知れる時代は終わったのである。
昔は、不登校になってもネットだけで、
この世界を広く、全て知ることができた。
掲示板などを利用すれば、人々とアクセスすることも容易で、
子供でも簡単に大学生やプログラマの中に参加でき、
さまざまな社会経験や、世界を変える啓蒙の経験もできた。
今のネットでは、そうしたことはもうできない。
ネットの時代は新しい時代に入ったが、
それは昔のような「世界を愛する」ネットではなく、
単に「学校の友達を愛する」ネットなのである。
また、学校で植え付けられる「知性」のほとんどは、
「中学生で十分」である。
中学生の知性があれば、あとは自分でどこまででも、
「世界を知ること」と、「考え方を自分で作ること」で、
どこまでも新しい世界を知っていける。
高校や大学の知識というのは、
逆に中学生の「考える力を奪っている」ところがある。
中学生なら普通に分かることが、
高校や大学で勉強すると一切分からなくなるのである。
中学生の特に二年生までを、
きちんと真面目に勉強したら、
あとは勉強しなくていい。
インターネットを見て、面白いものを見ていれば、
それで十分きちんと分かる。
大学の勉強をしたいと思うのであれば、
本を読んで、自分で書いてまとめればいい。
それが一番、「自分のやりたいように自由に学べる」。
それがエジソンのような科学者の立場であり、
「学問に王道なし」とは言えるが、
正しい科学者としてみれば、それがもっともいいやり方である。
必要になった時に知り、調べ、
その上で本を読んで自分で書けば、それが正しいのである。
また、高校時代の青春というのは、
「気付くこと」で全てが成り立っている。
思考とは、気付くことであり、
「今まではこう思っていたことが本当はこうだったのだ」ということである。
つまり、「子供から大人への転換」とは、
「古い考え方から新しい考え方への成長」であって、
そこにはたくさんの「知識を体得していく気付き」がある。
僕は、こうした青春が
必ずしも学校に行って得られるものだけではないと知っている。
むしろ、学校よりもインターネットを見た方が良い。
今の時代、新しい考え方はインターネットにいくらでもある。
そうした「インターネット大学」を使えば、
高校にも大学にも行かず、
ブッダのように悟って全てを「自ら再構築・再創造する」ことすらできる。
また、言ってしまうと、
「人を愛することとは立ち向かうこと」である。
これにはレベルがあり、
恋人や家族のために立ち向かうのも愛かもしれないが、
僕は「世界全体と立ち向かって、
世界全員を滅びから救うために愛してほしい」。
この世界を救うために立ち上がることができる人間は、
必ず何かができる。
それを信じて戦ってほしい。
その上で神を信じることができれば、
その人間は「誰も手にしたことのない特別な人生」を手にするだろう。
世界は変えられる。
新しい発想や経験から、
この世界が変えられるのだということが分かる。
そのためには、「発想を文章に書くこと」である。
世界全体に表明するかのように、
戦うように判断や思考を文章に書きなさい。
それを人々が読んだとしたらどうなるかを想定して、
その相手に対して語りなさい。
そう、語ることから人生の「本当の黄金期」が始まる。
今まで見たこの世界とは全く違う「美しい世界」が
そこにあなたを待っている。
しかしながら、そこには戦いと哀しみが多い。
だが、あなたは地獄に負けることはない。
この地獄は負けることのできない地獄であり、
そもそも「敗北」は最初からプログラムされていない。
ソートされた時に、20よりも19の方が下に来ることはない。
だから、20になったら19のことは完全に忘れて構わない。
19を越えた時に、もう、19と同じ地獄を再体験する必要はなくなる。
いくら20~29が辛くても、30は必ず訪れるだろう。
これが「大人の人生」である。
最高の地獄を乗り越えることができる人間は、
全ての知識を知った全知全能の博士になれる。
博士になるために必要なものを、その時点で既に全て持っている。
そう、神を信じる人間は、運命によってどんな夢でも叶う。
また、言ってしまうと、高校の正しい知識は
子供を馬鹿にしているだけである。
なぜなら、子供の
「自分で考えて発見する力を奪っている」からである。
高校の知識なんか、勉強しなくても、
さまざまな社会や科学のことを実地的に知っていけば、
子供は「自分で考えて大きくなる」。
これが、高校に行くと、「正しい知識全てを教わる」代わり、
「自分で考える余地がなくなる」のである。
高校は子供にとって有害で、子供を馬鹿にしているだけである。
しかしながら、子供は自分だけで全てを考えるのは
難しいかもしれない。
僕が言えるのは、「構造」と「ルール」をよく考えること。
そこから、「原理原則」や「法則」が見えてくる。
「どのような社会になればどのようになるのか」は、
ネットの仮想現実から知っていけばいい。
また、「心が何を望んでいるのか」のようなことも同様だ。
心理学と社会学が融和するところに、本当の哲学者は居る。
誰でもできる、14歳向けの哲学入門である。
いっそ、「全ての考え方を自分だけで再考すること」すらできる。
実際、ヨーロッパの哲学者には、そういう人間が多い。
「潜在的可能性」や「チャンス」は、
「当たり前のことを疑うこと」から「明瞭に見渡す」ことができる。
そこには、「この世界の本当の姿」があり、
「学校や一般の市民には見ることができない、
本当のこの世界を明瞭に見る視点」から、
経験的・精神的に、この世界全てを
「高い視点から俯瞰的に」見ることができる。
また、人生の経験をよく考えてしていけば、
「経験に先立つ経験」とは何であるかを知り、
「全ての経験を分かった涅槃的境地」が分かる。
そこまでいけば、そしてその上で「正しい考え方」を持てば、
あなたはブッダと同じ境地に達する。
それが、「どんな境地よりも絶対に高い、人類の最高の境地」である。
そこではすべては「ありのまま意識として存在している」のであり、
「存在は常に生起している」。
そう、これこそ、ハイデガーやフッサールの言いたかったことである。
また、もうひとつ言えることがある。
それは「啓蒙こそ成長である」ということ。
人々とは違った経験をするということは、
人々に対してどんどん違った分かったことや考えたことを
教えたり与えたり、
あるいは自分の中で捉えなおしたりすることができる、
ということを意味する。
よって、成長は必ず、
「世界をこのように変えるべきだ」という啓蒙の段階になる。
有用性や功利主義は、
「役に立つものこそ正しい真理」というが、これは低い考え方だ。
さまざまなことを知り、発見していくことから、
「アイデンティティを現実内で実現する」という風に人間は変わっていく。
それが、具体的な「価値観や意識の変転」から、
「正しい価値観とは経験することである」となり、
「経験から社会を作るべき」となり、
「人々は社会的経験をもっと行うべき」となる。
「啓蒙指導者」は「啓蒙社会」となって「多様な分散した共同体」となり、
「自然な経験を成り立たせる自由なシステムやルールが必要」となって、
「正しいルールを作るための制度を作る」となり、
制度はすなわち「自由」であるべきだ、ということがありありと分かっていく。
啓蒙社会は次第に倫理的・宗教的になっていく。
すなわち、「善良な権力」という考え方や、
「正しいと言えるような理想に従うべき」となり、
最終的には「宇宙の絶対者は存在するかもしれない」となれば、
もう、それで完成である。
あとは、「人々を愛するべき」であり、
「愛するとは何らかの自由を構築し共有し実現してあげること」である。
ここにヘーゲル哲学は再完成を迎える。
全ての矛盾は無くなり、「相対的なモデルから全てを矛盾なく説明する」。
これが、ヘーゲルの言う絶対知と同等の、僕のオリジナルの境地である。
しかしながら、人間はここに、
「狂人の時代」を迎える。
狂人とは、「全てのことが分かっておきながら、
世界に対して悪の限りをつくして、
知性を失いながらも王として支配し続ける人間」である。
この人間は、クズであり、地獄に堕ちるべきである。
しかしながら、そうした悪人も、神を信じれば救われる。
神は、正しいものにも不正なものにも同じ雨を降らす。
悪人であろうと、信じるものが救われるのは同じである。
また、神は悪いものを懲らしめるだけではない。
努力し続けるものには、必ず報いがある。
要するに、神を信じて地獄や試練を耐え抜く人間は、
宇宙のレベルで必ず成功に導かれる。
彼はサルトルの言う「実存は本質に先立つ」と同じである。
わたしたちは、自由には最初からさらされており、
それは「自由な刑」というべきものである。
しかしながら、一度狂人となって地獄に堕ち、
神を信じて救われたのちに、
きちんと正しい成功と才能を得て、
人間は「本質を手にする」。
本質を手にした実存とは「生きがい」であり、
「アイデンティティとリアリティの両立」である。
彼はたとえば文学的才能を得るだろう。
そう、このような人間が、ゲーテなのだ。
また、僕でも言えることがあるとしたら、
「まっすぐに努力せよ」ということである。
つまり、才能や能力として必要なのは、
一瞬としての書くことであり、
要するに「この一瞬に賭けてみる」ことである。
それができるなら、
あとはまっすぐに、それだけをいつまでもすればいい。
常に一瞬を生きる人間は、
どんなに長い「3,000年の永遠」であっても、
一瞬と変わらず、繰り返しの一瞬から、
近道でも、遠回りでも生きられる。
また、言ってしまえば、
「4年かけてやったことを10年かけてもう一度やれば、
前の4年よりも楽にできる」と言える。
4年間頑張ったことを、
10年かけてもう一度やりなさい。
そこに、新しい光が必ず灯る。