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AUTHOR: schwarz1009
TITLE: 平和
BASENAME: 2020/05/06/201607
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DATE: 05/06/2020 20:16:07
CATEGORY: オープンソース
CATEGORY: 社会

平和がいい

平和がいい。
もっと平和な世界にしていこう。
今のまま、何も変える必要はない。
今のままの世界で、素晴らしい。
みんな今のままでいい。
このままを続けていけば、
必ずいい世界になるし、
日が当たらないような問題も、
みんなで見つけていけば、
そのうち取り上げられて解決される。
自由を奪ってはならない。
自由を奪って問題を解決することは
いいことかもしれないが、
誰にも見つけられない問題を解決するためには、
その問題を抱えている本人が
自由に行動し、活動して解決するしかない。
自由を与えることで、この世界は平和になる。
自由を奪わない方法で、この世界を平和にしよう。

要らないものは消せばいい

そもそも、要らないものは消せばいいのである。
アメリカが要らないなら、みんなでアメリカを消せばいいし、
ソ連が要らないなら、みんなでソ連を消せばいい。
どんどん消していけば、要らないものは全て消滅する。
そうすれば、正しい世界を
みんなで築いていける。
ドイツのような、戦う指導者は必要ない。
要らないものを積極的に消し、
今のままの日本を守っていけば、
自然に日本が勝ち、世界は負けていく。
変えるのは王ではなく、僕たちひとりひとりの取捨選択だ。

そもそも日本も悪い

また、言ってしまうと、「そもそも日本も悪い」。
アメリカやソ連を倒したからといって、
そもそも日本の文化や文明自体、大した文化でない。
米ソに支配される国が終わったからといって、
日本が素晴らしい国になるわけではない。
それなら、日本も含めて消すべきである。
アメリカやソ連を消すだけではなく、
日本も消さなければ、
本当の「愛の王国ガンダーラ」を築くことはできない。

米ソのせいで、そもそも生きている意味がない

また、言ってしまうと、
「米ソのせいで、個人が生きている意味がそもそもない」ということである。
学校に行って、勉強して、
仕事をして、お金を稼いで、
結婚して、子供を育てる、
そんな「普通の人生」には、今の時代、面白いことが何もない。
RADWIMPSや米津玄師は宗教のような音楽に戻ってしまった。
マイファスや欅坂46は最悪の音楽である。
漫画やアニメは、性愛の表現であふれている。
こんな世界で、青少年が健全に育つわけがなく、
多くの子供が心の病気にかかって、
治るわけがない最悪の地獄になる。
こんな世界で、個人が生きていく意味があるだろうか。
人間は終わりである。
「米ソをやめますか、人間をやめますか」という状況だが、
米ソに立ち向かう意味もない。
今の日本は最高のいい社会であり、
いい社会だからこそ、戦う必要も、変える必要も、
反抗する必要も、生きる必要もない。
それが日本である。
もし日本人が全員死んだとしても、ドイツ人が生き延びる。
日本人が生きる意味など、この世界には無いのである。

ソ連が悪い

何かのせいにするのは間違っているかもしれないが、
実際のところ、悪いのは全部ソ連だ。
なぜなら、ソ連はさらにいくらでも、悪いことをやっている。
ソ連と他の国のやっている悪いことを比べると、
犯罪者が全体で100悪いことをしていたとして、
他の国が1悪いことをやっていたとしたら、
ソ連は99悪いことをやっている。
なぜなら、悪い人間のほとんどは共産主義者である。
共産主義なんか死んだ方が良い。

アメリカは遅れた貧民国家

また、アメリカを進んだ富裕層の国だと思っている人が多いが、
実際のところ、どうかは分からない。
なぜなら、アメリカには貧民の方が多い。
たとえば、国の富が100あったとして、
その中の99を金持ちがひとりで持っていたとしたら、
ほとんど国の富が1しかないのと同じだからである。
アメリカは、そういう超格差社会である。
日本の方が良い。
日本は一億総中流だ。これ以上良い国がない。

ドイツがいい国なわけがない

また、言っておくと、ドイツがいい国と言う人間が日本に多いが、
ありえない。
あんな国がいい国だと思えるのがおかしいのが、
大学の文系教授である。
みな、ドイツを賢い国だというが、ありえない。
あれ以上悪い国がない。
本当に人を殺して問題を解決しようとするのはドイツだけである。
全ての人類を支配して自らの望み通りコントロールしようとするのも、
ドイツだけである。
ドイツには狂った人間が多い。
なぜか、狂っているのにいい人間が多いのがドイツである。
単なるまともないい人間が狂っている。
その代わり、ありえないほどいい人間を極める。
ドイツ人は「宇宙最高の善人」になるまで、善人の道を極め続ける。
それがいい人間だから、この地球上にいい人間なんかいない。

いい人間なのはユダヤ人も同じ

また、いい人間なのはユダヤ人も同じである。
ドイツ人とユダヤ人の戦いというのは、
要するに「どちらがもっとも善良か」という戦いである。
ドイツが最高の善良な民族なのか、
それともユダヤが最高の善良な民族なのか、
という戦いをしているだけで、
日本人には理解できない「神の境地」で戦っている。
そんなどうでもいい民族とかかわりあわない方が良い。
日本人はもう一度鎖国した方が良い。

資本主義の方が良い

僕が思うに、本当に「資本主義の方が良い」。
戦ったり、世界を変えたりするのは愚かである。
このまま、今のまま平和で、資本主義社会を続けた方が良い。
生きる意味も、自分らしさも、何もない社会でもいい。
ここで社会を変えようとすると、
本当に日本は滅亡する。
変えるよりも、続けた方が良い。
日本はこれ以上何も変わらなくなる。

何もしなくていい

何もしなくていい。
そもそも、何もしなくていい。
今は、何かをすべき時期じゃない。
何かをダイナミックに変えるべき時ではない。
今はじっと我慢して、
賢いものが生まれるのを待つべきだ。
賢い人間が生まれるまで、
愚か者がアクションを起こすべきではない。

普通の社会が一番賢い

僕が思うに、平和で命あればそれでいい。
人を殺す必要はない。
みんなで仲良く、普通の社会で
「努力すれば生きられる社会」があれば、
人は自分から努力するようになる。
共産主義のように強制ノルマを与えなくても、
人は報いがあれば自分から働く。
そうした「自然なモチベーション」をうまく利用すれば、
世界は救われる。
普通の社会が一番賢い。

人がどうすれば働くか

僕が思うに、考えるべきは「人がどうすれば働くか」であり、
それは必ずしも金儲けだけがモチベーションではない。
たとえば、Linuxは個人の趣味のプロジェクトから始まり、
「PC-UNIXを使いたい」とする多くの開発者を集めて、
善意のボランティアによって開発された。
このように、「自らのやりたいことができる場」を与えれば、
人は金というモチベーションがなくても働く。
もっと、「自分のやりたいこと」が叶う場所を与えればいいのである。
お金が一切入らなくても、人は自分から働くことはある。
これはインターネット時代の新しい原則になると思う。
ホームページやブログを書いている多くの人は、
自分が書きたくて書いている。
広告収入で儲かっている人はごくわずかで、
ほとんどの人は「自分のホームページという作品を作りたい」。
そのために無償で働き、
場合によってはサーバー代などの費用を自分から払って
自分だけで必要なすべての仕事をしている。
これはソ連のような「強制ノルマの社会」では考えられないことである。
これこそ、「新しい共産主義」ではないかと僕は思うのである。

新しい自由

新しい自由とは何か。
それは、「自分から自発的に働く」ということである。
会社の上司に「これをやれ」と言われて働くのではなく、
自分の自由な意志によって、
「自分のやりたいことをやるために働く」ということである。
これは必ずしも、オープンソースではない。
たとえば、Googleの社員は、労働時間の20%を
自分のプロジェクトに当てることが推奨されている。
会社の仕事として、自分のやりたいことができる。
これはとても素晴らしい「新しい自由」ではないかと僕は思うのである。

自由なままで社会を築く

また、昔から僕が考えるのは、
「自由なままで社会を築く」ということである。
要するに、誰かが絶対的権力によって従えるのではなく、
それぞれの自発的な「自由意志」で社会組織を作る。
「そんなことができるはずがない」と思うかもしれないが、
実際、Linuxやオープンソースではそういうやり方をしている。
誰がいつ何をしてもいいが、その中できちんとプロジェクトをまとめる、
そんな働き方や組織の作り方が、きっと未来においてできるようになる。

IT技術の特徴

また、IT技術にはひとつの大きな特徴がある。
それは、「維持管理コストが要らない」ということ。
一度プログラムが完成すれば、
そのプログラムと同じものを作り続ける必要がない。
一度作れば、コピーして簡単に全員に分け与えられる。
これは新しい「平等分配」ではないかと思う。
GPLはその上で「コードをみんなのものにする」という
社会所有のようなことを行う。
僕はこれこそ「新しいデジタル共産主義の実現」だと思う。
また、プログラムというのは、
「きちんと考えれば誰でもコードを記述するだけで作れる」し、
「一度作ったコードが消えることも壊れることもない」のである。
一度作るのが難しいだけで、一度作れば、
どんなに巨大な規模のソフトウェアであろうと再利用できる。
そもそも、プログラムを巨大に作る必要は必ずしもなく、
既にあるモジュールやコンポーネントを使えば、
「ライブラリAPIを使うだけで簡単に動く」のであり、
すなわち、「そもそもコードを新しく書かないことを目的にしている」。
コードは一度しか作らない、それがIT技術の特徴であり、
最初からノイマン型コンピュータは社会主義と相性がいいのである。
オープンソースが成功した理由は、
「無償のボランティアが集まってみんなで作る」ということが、
コンピュータのこうした特徴ととても相性がいいからである。
適当に最初だけ作ってしまえば、
あとはインターネット上のみんなが好きな機能を追加していけばいい。
開発は自由に行い、自由な自発的意志で参加する、ということが、
「金儲けとは別のやり方をやる」という意味で、
オープンソースはとても面白く、新しく、画期的だったのである。

オープンソースの成功例と失敗例

また、オープンソースには成功例と失敗例がある。
たとえば、OSカーネルや言語処理系などは、オープンソースと相性がいい。
逆に、デスクトップやオフィスは、オープンソースの中でも失敗している。
僕は、これを、「ユーザーの技術力がどれだけあるか」ということだと思う。
OSカーネルや言語処理系は、
そもそもユーザーが「開発者」あるいは「管理者」であり、
使う人間が技術的スキルを持っている。
これとは逆に、デスクトップやオフィスは、
ユーザーが「一般ユーザー」あるいは「オフィスサラリーマン」である。
この違いは重要である。
なぜなら、ユーザーがプログラマであれば、何か機能が必要だったり、
バグが見つかったりした時に、ユーザーが開発技能を持っているため、
自分で修正したり、改良したりできる。
だが、これが一般ユーザーだと、プログラミング能力をそもそも持っていないため、
開発者として同じように開発するということができない。
これが、オープンソースの成功例と失敗例を分ける基準ではないかと思う。
一般ユーザーのことをきちんと考えられるのは企業のプログラマであり、
WindowsやOfficeはオープンソースでは成功しない。
そうした製品は金のあるMicrosoftにしか作れないのである。
要するに、「プログラマが自分で作ることのできるソフト」は成功する。
プログラマが遊びで作っても、
「遊びがたくさん集まる」ことでオープンソースは成立する。
だが、「ユーザーが仕方なく使わざるを得ないソフト」は失敗する。
オフィスユーザーが仕事で使うソフトウェアは、
オープンソースにはできない。
逆に言えば、
「オープンソースは分散したプログラマがネットで遊んでいるだけ」である。
企業が作るべきはそうしたプログラマが使うソフトウェアではなく、
一般の普通の人間が使うソフトウェアなのである。
よって、Linuxカーネルは進歩しても、GNOMEは進歩しない。
Pythonがいくら賢いものになっても、LibreOfficeはいつまでも馬鹿のままである。

選択肢があるということが開発を停滞させる

また、選択肢があるということが開発を停滞させるということがある。
たとえば、LibreOfficeなんか使わなくても、
UNIXにはLaTeXやEmacs/Vimというソフトウェアがある。
こうしたもっと優れた選択肢となりうるソフトウェアがあるから、
LibreOfficeは誰も開発しようとしない。
GNOMEについても、KDEからOpenboxまで、いくらでも別の選択肢がある。
ある意味、Linuxカーネルは「ほかに選択肢がなかった」から成功したのであり、
選択肢が増えれば増えるほどオープンソースは停滞する。
そう、オープンソースは必ずしも「IT技術と相性がいい」わけではない。
Linuxカーネルも、もっと別に優れたカーネルが実現すれば、
開発は停滞し、プロジェクトは失敗するようになるだろう。
オープンソースに必要なのは、
たとえば、LibreOfficeとLaTeXを融和して、TeXOfficeのようなものを作ればいい。
そうすれば、LibreOfficeの開発者も、LaTeXの開発者も一緒になって、
同じものを「選択肢のひとつしかない中で」開発するようになるだろう。
また、そもそもLibreOfficeを使う人間も作る人間も居ないのであれば、
そもそもそんなプロジェクトは必要ないのである。
Microsoft OfficeのようなOfficeスイートを開発するということに
囚われ続ける必要はない。
そうしたものは既存のMS-Officeに開発を任せて、
Linuxはもっと別の違ったソフトウェアを作ればいいのである。

選択肢は必ずしも悪くない

しかしながら、僕はあえて、「選択肢は必ずしも悪くない」と言いたい。
なぜなら、むしろ今のLibreOfficeに拘る必要はなく、
「もっと違った設計や実装の考え方で作られたOfficeスイート」が
誰かによって開発されるまで待てばいいからである。
LibreOfficeなんか無くなっても、誰も困らない。
誰かがもっといい製品を生み出すためには、
一度LibreOfficeの存在を否定してもいいだろう。
言ってしまえば、「馬鹿なLibreOfficeがあるだけ悪い」ということである。
馬鹿なOfficeスイートの開発を強制されるぐらいなら、
そんなものは否定して、誰かがもっと別のものを作ればいいのである。

PythonとLibreOfficeの違い

また、そもそもアンチMicrosoftがOffice互換ソフトを作るから、
おかしなことになるのかもしれない。
「LibreOfficeを作りたい開発者」という層がどこにもいないのである。
Pythonを作ることが好きな人間がPythonを作るのは成り立つ。
しかしながら、LibreOfficeを作ることが好きな人間というと、
「誰?」となるのである。
また、「開発する面白さ」というのもあると思う。
Pythonの設計や実装をハッキングするのは面白いだろう。
だが、LibreOfficeの設計や実装が面白いという人は少ないだろう。
また、Pythonの天才的な設計者やハッカーはたくさん居るだろう。
しかしながら、LibreOfficeには天才的なデザイナーが居ない。
LibreOfficeを天才的にデザインするハッカーになりたい人は希少だ。
また、Pythonに機能をつけると、楽しいことがたくさんできるだろう。
LibreOfficeに機能をつけても、そんなに楽しいことはできないだろう。