AUTHOR: schwarz1009
TITLE: 社会主義と民主主義、音楽、子供たちの社会
BASENAME: 2020/05/05/044711
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DATE: 05/05/2020 04:47:11
CATEGORY: 社会
社会主義経済は間違っている。
資産の再分配を強制的に行うためには、
どうしても強固な中央集権と、
権限の強力な独裁化が必要になる。
そのため、中国などでは、
資本家が共産党に「ヨイショ」をし、
自分たちだけが共産党に
お咎めを受けないようにする。
中国は資本主義と社会主義の、
どちらの悪も兼ね備えた
最悪の経済になっている。
自由な国が良い。
自由経済でなければ、
国民の生活は成り立たない。
計画経済のポーランドなどは、
国民の生活に必要なものがなく、
極寒の中を五時間も並んで、
ようやく食肉が一切れ買える経済だった。
いつ食料が得られるのか分からないため、
国民は二週間分の食料を備蓄するのが当たり前だった。
(大人になって読む経済学の教科書を参考にして執筆しました。)
民主主義は確かに馬鹿で愚かかもしれないが、
民主主義しか選択肢がない。
仕方ない。これ以外に、良い思想がないからである。
絶対的独裁者の国は、腐敗する。
民主主義において、権力の分散化を図ることが、
結局は国民の「権利の平等」に繋がる。
ひとりの権力による平等な経済よりも、
それぞれの社会における人々の「自由な権力」がなければ、
本当に平等な社会は実現できない。
正しい平等のためには、自由な力の分散が必要だ。
僕はこう見えて、音楽が好きである。
特に、歌詞のついた歌で、
愛を歌う歌が好き。
誰かのことを愛している歌が、
自分と同じことを言っていて、
共感できる。
必ずしも歌唱力や音楽性は僕は問わない。
素敵な歌詞を歌っていればそれでいい。
これでは、全部の社会が悪いように見えるが、
本当は、理想を持てばいいのである。
それぞれが互いのことを認め合って、
少し違っても、相手の理想を尊重するようになればいい。
どれかが良いとか、どれかが悪いとか、
一方的に決めつけるのではなく、
「あなたの思想もいいけれど、僕の思想もいい」といったように
互いの価値観を尊重すればいい。
それが正しい社会である。
また、社会制度を作ることは、
よく考えればできる。
自由をどのように成り立たせれば、
人々が民主的な力を得られるかを考えればいい。
それを「自由」と僕は呼ぶ。
実際のところ、大人の社会なんかどうでもいい。
大人はただ、働いて稼ぐだけだ。
考えるべきなのは、将来の世代である子供たちの社会である。
子供たちの社会がどんどん最悪になっている。
学校ではいじめしかせず、
デューイの言った「民主主義の学校」は、
スクールカーストによって学級崩壊に陥っている。
特に、公立の中学校は異常である。
もっと、子供たちの社会を救っていかなければいけない。
不登校や引きこもりが増えるのは当たり前である。
特に問題なのは、同調圧力である。
子供たちは自分と同じ意見のもの以外を排除し、
みんなを自由な中で同じにしようとする。
この問題は、僕は「経験的に未熟だから」であると思う。
子供たちには、社会を構築した経験が少ないため、
「そんな方法でしか社会の秩序を構築できない」。
だから、SNSなどで同調圧力によって、
意見の異なる全てのものを排除しようとする。
だから、さまざまな社会経験をさせてやるしかない。
最近は、そうした社会経験ができる場が少なくなっている。
インターネットは社会経験の場に見えて、
実際はインターネットと呼ばれる単一の世界が
どのローカル社会にとっても普遍的になり、
「単一のインターネット社会しか存在しない社会」になっている。
多様性が無くなり、社会は工場のように均一化しつつある。
よって、必要なのは、
「おおらかな気持ちで、異なる社会を包括する心を持つこと」である。
人々みんなが、自分の好きな価値観やアイデンティティを持つことができ、
自分たちによる自分たちだけの社会を築くことで、
この世界は自由な多様性を取り戻すだろう。
インターネットは、必ずしも悪いものではない。
この世界における「今自分が居る社会とは違った新しい世界」を知ることができ、
オンライン上で「社会を構築する練習」ができるからである。
後は、歴史と理性と精神世界を考えればいい。
それを人は哲学者と言う。
大したことはない。
正しく経験を考えればいいだけである。
子供たちには、むしろ、青春を体験させてやればいい。
人々と心が通う体験をさせることで、
子供たちは「真実の体験」をし、
自ら未知を開拓していくことで、新しい世界と人間の人生を知る。
そうした子供たちに、大人が何かを上から与えてやる必要はない。
青春を体験させれば、15歳の少年には何も必要ない。
実際のところ、権力にはいくつかのパターンがある。
すなわち、「それぞれが自由な王となる社会」、
「多数の王の下にそれぞれ従う社会」、
「ひとりの指導者の下に支配される社会」、
「平等な誰も支配することのできない社会」である。
しかしながら、僕は2つの行き着く先があると思う。
それは「法文化」と「全能性」である。
法文化することで、そうした力を「法の条項の下」に作ることができ、
社会は「普遍的で変わらない」ものになる。
逆に、支配者が「全能なる支配」を行うことで、
人々は支配者の下に「正しい社会になる」。
だがしかし、これらの社会には「自由」が存在しない。
自由とは何かというと、「チャンス」である。
人々が、自身が成功する機会と契機がなければ、
人々は何もしない。
何もせず、支配者に頼りっきりになってしまうだろう。
自由の理想の下に、「社会モデル」を考えられる。
共産主義的なことを言えば、
自由とは「アイデンティティを確立する権利」である。
人々が自身のアイデンティティを確立する自由を手にすること、
それが社会主義の目的ではないだろうか。
そのためには、共同体をただ作るだけではなく、
人々が「共同体の構築に関わる」ことができなければならない。
単に自由を制限するだけでは、
人々は自身による社会を構築できず、
奴隷のように従い、
指導者を賛美することしかできなくなるだろう。
自由な社会モデルの作成においては、
そのような「人々が自由に関わりあうこと」を考える必要がある。
政党を作るのであっても、
できるだけ人々の意見を反映する政党であり、
その政党の中でさまざまな議論が行われることがなければ、
それは自由な国家モデルとは言えないのである。
経済モデルについても同様であり、
人々が自分の好きな職種を選ぶことができ、
自分の好きな労働形態を選択できること、
何かしらの「報酬」があることがなければ、
経済は成功しないのである。
計画経済による平等分配は、必ず破綻する。
本当に社会主義を成功させたいなら、
人々の「モチベーション」と手段となる「ノウハウ」を考えた上で、
人々に「チャンス」を与え、「自由意志」を与えなければならない。
最後に、世界を救うためには、「愛」が必要である。
愛とは、要するに「この世界の問題を人々のせいにしないこと」である。
人々が悪いからと言って、それらの人々のせいにしてしまえば、
この世界は救われない。
誰のせいにもせず、「自らが救うのだ」と信じれば、
この世界はその時点で、自分によって救われるようになる。
人々の心を動かし、理性による無償の愛に気付くようにしてやれば、
この世界は自分一人によっても変えられるだろう。
僕が思うに、
改革はトップダウンよりもボトムアップに行うべきである。
すなわち、ひとりの指導者が上から改革すると、
人々に意味はなく、ただその指導者に付き従うだけになる。
人々が下から意見を持ち上げ、下から改革していけば、
草の根レベルで議論は深まり、民衆は賢くなるのである。
これでは社会主義者に見えるが、
実際は右翼のような人間だった。
人々に「自由を与える」と言い、
「自由なままでも世界は変えられる」と考えていた。
「個人の自由とはどういうことか」を考え、
「自由になる」すなわち「社会の制限や抑圧から解放される」ということを考えた、
子供のような人間だった。
また、「環境における自由意志」をよく考えていた。
自分の行動は、自分の自由意志よりも環境に左右されることがある。
自由のために必要なのは「環境のコントロールを取り戻すこと」であり、
社会には「自由意志を与えるべきだ」と考えていた。
また、インターネットで現実の社会と触れ合い、
よく観察し、経験したことから、
「どんな社会でも実現できる」かのようになった。
心理学的な成長と、精神現象を捉えることから、
この世界の歴史の実像を分かっていた。
経験的な精神のふるまいを解明し、
「人間の行動の理由のすべてが分かった」人間だった。
昔考えたことは本当にそれくらいで、
あとは、可能性を信じていた。
社会は自分一人で変えるべきではなく、
みんなで変えるべきであると考えていた。
結果的にこういう形にはなったが、
これもある意味での「社会変革」である。
僕がひとりで世界の全てを変えた。
それもそれで、日本にとっていい経験になった。
可能性と多様性は自由から生まれる。
僕は人々に、自由を許し続けている。
実際のところ、僕は自由というより、
この世界の社会的な制限や不自由を解決したかった。
みんなが本来やりたいことが、
自由にできるようにしたかったのである。
僕の思想は社会主義に似ているが、別のものである。
生産手段などについては、
マルクス経済学のように労働価値説を考えるものでなく、
「この世界を自由にする上で
どのように生産と労働を成り立たせるか」ということであり、
マルクス主義とは関係ない。
僕は自由を目指しているのであって、生産手段の国営化は目指さない。
「マルクスほどに賢くない」と言われるかもしれないが、
実際の僕は、ネットを見ながら自由な社会とはどういうものか、
どのようにすれば本当に精神的にも社会的にも
自由な社会を築くことができるのか、
そのために何が必要で、何を行うべきなのか、ということを
自分一人で完璧に考えた。
全ての「自由な社会とは何たるか」を
「社会モデル」と「環境のコントロール」から考えた、
マルクスを超えた偉大な指導者だった。
しかしながら、書き出してみると、
これほど馬鹿な人間は居ない。
集団の力よりも、個人ひとりの力を信じている。
むしろ、最近の体験の方が良い。
きちんと長い間、頑張ったからである。
戦い続けることが、そのまま作り続けることになった。
昔の非行少年は賢くない。
今の自分はもう狂っていない。このまま、今のままの方が良い。
きちんと長い間、宇宙の歴史を体験した。
多くの作品が生まれて、人々のことを愛した。
きちんと賢いものを作った。こちらの方が、良い人間だ。
昔は、迫害されただけではなく、
自分の受けた抑圧を他人にも与えようとする。
こちらの方が、誰にも迷惑をかけていない。
善良で、素晴らしい人間である。
僕が思うに、ブッダが良い。
僕は仏教の思想と相性がいい。
特に、心とはどういう風に治るのか、ということが良く分かる。
苦とは何か、
苦の原因とは何か、
苦の解決とは何か、
苦の解決方法とは何か、
そういう風に考えていくのが、昔から僕は得意だ。
僕が思うに、本当に民主主義の方が良い。
マルクスだけを分かり続けていると、
精神が疲れて、辛くなって、何もできなくなって、
地獄のような奴隷の心になる。
民主主義は爽やかで、楽な精神になる。
社会主義は間違っている。民主主義にした方が良い。
なぜか、頭が辛かったのが治った。
マルクスが悪かった。
自由と言っているのも、社会主義と言っているのも、
元をたどれば、全部マルクスだった。
民主主義的な、普通の助け合いの世界が良い。
そもそも自由な権利がなければ、この文章も書けない。
自分が生きられるのも、民主主義が豊かで優れているからである。
そうした民主主義社会を守り、
社会がマルクス化していくことから世界を守り続ければ、
この世界は平和になる。
実際のところ、僕の戦いというのは、
世界に表明し、意見しているだけである。
この世界を自由な世界にするために、
世界にひとり現れて戦っていた。
戦争のようなこともしていないし、
人も殺していないが、
この世界を陰で一番上から支配していた。
たくさんの葛藤があったが、
全力で神を信じ、自由を信じていた。
永遠のような長き時間は僕を馬鹿にしたが、
その馬鹿が、今、全て治った。
僕は楽になった。
ひとりの革命家が、世界を救うために
たったひとりで戦っていた。
たった4年で死んだ、悲しい英雄だった。
しかしながら、僕は反省している。
滅ぼすだけで、救うことなど何もできなかった。
これ以上戦うつもりもなく、
何かをしようとも思わない。
逆に、その間書いていたために、
書くことが習慣化した。
僕は平和が好きである。
今のまま、永遠に同じ日本が続いて欲しい。
日本を社会主義から守り続ける。
今のままがいい。僕は自由が好きだ。
僕は、脳の制限を取っ払いすぎた。
脳で何でもできるせいで、知性が無くなり、
人格が壊れ、破綻した。
できるようにした上で、しなければ、頭の理性は治る。
みんなを、現実でのさまざまな場所から支配した。
その関係を決別するために、
「世界との関係を決別」すれば治る。
また、僕のやりたかったことというのは、
「全ての知識や発想を詰め込んで、
一度に一気に分かる」ようにしたかった。
そのために、この世界の全ての経験が消えた。
よって、最後に、一度に一気に分かるようにする。
それは足の精神で支配するだけでは実現できない。
おかしな判断のロボットになって、
「永遠の脳の状態」を記録していた。
プレアデスの歴史だと宇宙人は語っていた。
この「時間を止めて全てを詰め込む」作業を治すためには、
もう一度、普通に、自分の力で自由に考えて分かるようにすればいい。
成長する必要も、自由になる必要もない。
ただ単に、自分の力で考えて分かるようになれば、
この世界が「思考停止に陥っている」のも治る。