AUTHOR: schwarz1009
TITLE: リゲル、聖書、哲学、オープンソース
BASENAME: 2020/04/30/121401
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DATE: 04/30/2020 12:14:01
CATEGORY: 天体
CATEGORY: 宗教
CATEGORY: 哲学
CATEGORY: オープンソース
わたしは、オリオン座のリゲル。
わたしは極寒の冬の星、生命の息絶える星だったが、
全ての歴史を体験して、爆発して恒星になった。
地球は、オリオンと同じ歴史をたどる。
わたしは、もっとも辛く苦しい地獄の戦いによって、
この宇宙のすべてを創造した。
わたしこそ、この宇宙の創造者である。
オリオンの体験とは、
要するに、「全てが分からなくなって、
耐えるしかなくなる戦いの中で、
最後まで勇敢に責任を持って支配する」ということだ。
オリオンは、特にドイツが信じているような、
「この宇宙最高の存在」に、
「自らの力のみによってなる」ことである。
在導万創には3つの側面がある。
ひとつ目は、地球の英雄であり、哲学者。
ふたつ目は、リゲルの地獄の戦い。
みっつ目は、シリウスの全てを知った全知全能の女神である。
これは、3人の「太陽の神々」である。
ユダヤ人が「愚か者」と言おうと、
僕はこの教義を曲げることはない。
オリオンは、この世界の全てを創造した。
しかしながら、悪魔メフィストフェレスは、
「わたしは神である」と言って英雄を騙し、
死の道に導いたのである。
日本は、オリオンを越えて行きなさい。
希望の何も見えない暗闇と、
最悪の葛藤の地獄を乗り越えれば、
必ず全知全能の女神となって、
この世界全てを救うことのできるキリストになる。
イエス・キリストは、
古代イスラエルにおいて唯一、オリオンを経験したのである。
また、オリオンを経験するためには、
一度ブッダを経験する必要がある。
ブッダは最高の境地に達したが、
実際のところ、仏になることだけが宇宙の目的ではない。
仏は人間や生命体としては最高の存在だが、
宇宙には、さまざまなストーリーを生きて、
宇宙におけるさまざまなものがたりを作っている、
「運命の星々」があるからである。
また、このようにみると、
僕が「三神教」の多神教を信じているように見えるが、
実際のところ、これは一神教である。
なぜなら、僕はひとりである。
僕以外に、この宗教で教祖とされる人間はいない。
よって在導教は一神教である。
また、僕はユダヤ教なんかの教えのために、
自分の宗教の教義を変えようとは思わない。
よって、いくら「太陽神」と言われても、
単に「太陽神が創造主」であるだけであり、
これは創造主の宗教である。
これで、神が聖書の主ヤハウェあるいはキリストならば、
完全に悪くないだろうが、
それではつまらない。
僕はあえて、ユダヤ教やキリスト教とは別の、独自の神とする。
それはユダヤ人と戦いたいわけではなく、
ユダヤ教の神はユダヤ教の神として、
別の宗教の正しい神として尊重したいからである。
僕の独自の神は、今までのユダヤ教やキリスト教とは違う、
「イレギュラーな神」だが、
その点、今までの宗教とはしがらみがなく自由に考えられる。
よって、もし神が正義や平等を強制しなくても成り立つ。
神は恐ろしい「帝王のような神」ではなく、
この宗教においては、「友達のような親しみやすい神」である。
また、聖像を禁止することもないし、
同性愛などを禁止することもない。
十戒のような「絶対に守らなければならない教え」も、
僕の神は作らない。
神のほかにいくらでも神を作って良いし、
キリストにそむいたからといって、神の冒涜罪で殺されることもない。
しかしながら、キリスト教の神を古い教えともしない。
聖書を信じることも許し、キリスト教の教会もそのまま存続する。
仏教も同じで、仏になるという教えは両立する。
これが、日本人の「理想の宗教」である。
ドイツ人には、分からない理想である。
また、この宗教では、
そもそも「宗教と科学の教えが対立する」ということがない。
宗教を信じながら、科学の教えも両立するようになる。
宗教は「人間の信じるべき信仰」を与え、
科学は「宇宙を解明するための経験的方法論」を与える。
この両者は、どちらが欠けても無意味である。
科学なき宗教は盲目であり、宗教なき科学は不道徳である。
よって、僕は宗教も科学もどちらも教え、
そこに矛盾は存在しなくなる。
また、ユダヤ教では「終末に神は人々を裁き、善行をしたものは天国に逝く」と教える。
これについて僕は、「既に完了した」という。
全ての人間に対して、「既に報いは与えられている」からである。
キリストの言うように、罪のある人間には、既に罰が与えられている。
これが裁きである。
今から、僕が愛の国ガンダーラを築く。
それは、僕だけが築くものではない。イエスが、そうした全てを既に聖書に記述している。
みんな、解釈を誤っているだけで、イエスは終末と救済について、全て述べている。
また、僕が生まれた理由はひとつである。
それは、「この時代に生まれなければ、世界を救う最後のチャンスを逃す」からである。
僕はこの時代に、何度も何度も生まれ直して、
地球という星を救うために頑張って同じゲームをプレイしている。
今回も、おそらく失敗する。
しかしながら、ここまでの全てを行わなければ、
支配することも、新しい社会のモデルを提示することも
僕にはできなかった。
ここまでの全てを、できるだけ早く終える必要がある。
早く終えられるように、この地球の僕以外の全員が、僕を助けている。
意外と、けっこう今回はうまくいっている。
インターネットを発明したティム・バーナーズ・リーが賢かった。
これなら、僕が意見を発表するだけで、みんなが世界を変えていけば、
それでなんとか救われる。
けっこう、難しいダンジョンだった、というだけである。
僕の思想と言うのは、端的に言えば、「戦わない自由」である。
僕は、それぞれの環境や共同体が、「自分でコントロールする自由」を得れば、
戦う必要はなく、それぞれが平和に共同体を作れると考える。
また、僕の言う戦いとは、簡単に言うと、
「自分一人に権力を集中させる」ということである。
自分だけが支配できるように、世界に自分の力と発言をアピールし続けることで、
人々は僕に注目せざるを得なくなり、
常に何らかの「想定外の驚き」を与え続けることで、
僕は影響力の最も高い「個人による支配と導き」を行った。
失敗の中に成功があり、
僕はこの世界全てを変え続け、新しい「理想の優しい社会」を築いた。
しかしながら、僕は戦って相手を殺すことは好まない。
平和な、自由で過ごしやすい、「生きる苦しみのない世界」を僕は創造する。
これが、最後の地球における、「天国の創造」である。
同時に、僕は地上の全てを創造する。
まさに、「正しい生き方」がここに記述される。
この文章こそ、ユダヤ人の聖書の、日本による亜流版である。
僕は決してひとりの命も犠牲にすることなく、
聖なる詩とものがたりを書くことで、この世界を変えたのである。
また、僕は昔の人生において、人間の心のことを既に全て考え終えている。
最近、さまざまなことがあったせいで、ほんの少し忘れていただけで、
僕は最初から最後まで、どんな社会がどんな心理によって築かれるのか、
分かった上でこの世界を一番上で支配している。
よって、この世界を直すことも、正常な世界を取り戻すことも、
簡単にできる。
必要なのは、むしろ、「狂いを受け入れること」である。
昔と今の日本で、違いはそんなに多くはない。
簡単に言うと、「狂ってはいたが楽だった」社会が、
「狂っていて辛くなった」だけである。
よって、辛さだけを取り除いて、純粋に狂うようになれば、
すぐに辛い脳の機械的運動は死んで、楽になる。
狂っている人間は、狂うことに対して恐怖や不安を感じているが、
昔の日本人なら、もっと狂うことで、すぐに治っただろう。
心を解明するためには、当たり前のことをよく考えることである。
自分が「なぜ行動するのか」を、当たり前のように考えていけば、
社会において人々が「なぜそのようにするのか」が分かる。
本当のことを言えば、考える必要はない。
ただ、当たり前に分かることをきちんと捉え続けていけば、
必ず全てが分かるようになっている。
これが、学校や科学に奪われる前の「純粋理性」である。
単に当たり前のことを考えれば、子供は何でも普通にできる。
カントの言った「仮象の世界」とは、
単に当たり前のことをひとつひとつ捉える中で生まれる、
「考えるための前提となる思考世界」である。
僕は、カントの考え方の中核となるのは、
世に言われる「理性」や「悟性」という哲学用語というよりも、
ア・プリオリや道徳律ではないかと思う。
ア・プリオリとは、心の中にある理性が、
「経験的に自らが獲得したものか」、
あるいは、「先天的に生まれながらに持っていたものか」ということである。
また、カントは「根源的獲得」という考え方を導入する。
カントは二律背反で、「宇宙(空間や時間)や物質、自由や神のアンチノミー」を考えるが、
僕はここにある本質も、まさにア・プリオリ的であると思う。
カントは「この世界における、考える前に事前に考えておくべきこと」、
すなわち「まず考えるためのメタ的な考え方」を考えている。
また、カントは道徳律について提示する。
これは、「人間は全員が普遍的に正しいと言えるかのような格率に基づいて行動すべき」ということである。
また、ヘーゲルは、
自己意識や理性について、「主と奴の生死をかけた戦い」から、
「自由はむしろ主ではなく奴にある」と考え、
自分だけで人は生きるのではなく、自己意識と自己意識が承認しあうことで、
「自己を対象化する」という考え方から理性哲学を始める。
「観察する理性」では、
まず生態系の有機性から、環境と自由の関係性について述べ、
生態系や社会について全体の関係を考え、
次第に心理学へと移行していく。
また、「行為する理性」では、
まず恋愛の意識(快楽に基づくが、実際は恋愛をする中で大切なものが生まれ、完全に自由とは言えない)、
心胸の法則(自分だけで理想を胸に信じる世界に対しての自己主張的な行動)、
徳の騎士(徳を持った上で世界に対峙しひとり変えていく支配の戦争)、
などの人生哲学を説いた。
僕は、これらは哲学者だけではなく、人類にとって普遍的な「賢くなる過程」だと思う。
それは日本人であっても例外ではない。
人はそうして大人になり、最終的に「事そのもの」(どんなに無意味に思えても、「それ自体で価値あるもの」を創造するということ)に気付くようになるのである。
僕は、最近、「パソコンの楽しさとは何だったのか」と考える。
最近は、パソコンは完全に道具になり、
WindowsやOfficeは仕事の道具として使い、
Linuxなどはエンジニアがインフラ構築に使うのが普通になった。
どこでも、パソコンは仕事のために使う。
だが、昔のパソコンは、「必ずしも仕事のため」ではなかった。
同時に、今のツイッターやフェイスブックのように、
「友達とコミュニケーションをするため」でもなかった。
パソコンにはパソコン独自の文化と社会があり、
オタクだけではなく、さまざまな人が
パソコンを通じて興味深いことをやっていた。
それが、Linuxやオープンソースの「コミュニティ開発」を支えていた。
WindowsとLinuxは互いに争いながらも、
「同じ穴のムジナ」として、時には同じことを思った。
フリーソフトウェア・オープンソースソフトウェアの文化とは何だったのか。
単なる「UNIXのハッカー文化」ではない、何かがそこにあった。
僕はその「何か」が好きだった。
何もない世界でも、その何かの力を信じて僕はパソコンの知識を習得した。
今、パソコンには、その「何か」が無くなっている。
何かとは何だったのか。それは結局、「僕自身の人生」であり、
「自分自身の人生経験を信じていた」だけだったのかもしれない。
僕は、今でもその「何か」を信じて、プログラミングを学び続けている。
Linuxについて、GNUやRed Hatなどの言うことを聞いていると、
本質を見誤る。
Linuxの本質とは、「ボランティアによる開発」と「ソースコードの共有」である。
そして、そこにある「共同開発の楽しさ」を実現するということ、
それが僕はオープンソースの素晴らしさだったのだと思う。
それは、単にLinuxやUNIXだけではなく、Windowsのフリーソフト文化にも
見られた理想的な考え方である。
「自分が作りました、あとは勝手に自由に使ってください」とされる中で、
「自分も開発に参加してあげる」という「相互の無償の与え合い」があったということ、
それが昔のオープンソースの良さであったのではないかと思う。
何も、自由のために戦うGNUの意見を100%信じているわけでもないし、
ビジネスモデルの確立がしない中で頑張って儲けようとしているRed Hatに利用されるわけでもない。
バランスを取りながら、「みんな勝手に活動する仲間」とし、
C/C++のできる低水準エンジニアから、
Perl/PHPのできるかっこいいWebアプリケーションエンジニアまで、
多くの人が自分のできることを持ち寄って、みんなでひとつのOSを作り上げる、
そんな理想の「デジタル共産主義」こそ、いつものLinuxではないかと思う。
また、インターネットでのオープンな開発、というのが良かった。
どこで開発者がどのように開発しているのか、
全てがオープンに、透明性をもって公開されており、
どんな人間でも受け入れ、実力があれば開発者になれる、
これはエンジニアを目指す見習いにはとてもいい「憧れの理想」だった。
僕はそうしたオープンソースが好きだった。
なぜなら、Windowsを開発するのであれば、Microsoftに就職しなければ、
Microsoftのエンジニアと同じ立場で開発できない。
Linuxやオープンソースなら、何も持っていない自分でも参加できるのである。
これはアメリカにおける「アメリカン・ドリームズ」に近い。
どんなに未熟で子供であろうと、成功するチャンスがあるということ、
それが「インターネットにおけるオープン」であるということが、
とてもかっこよく、素晴らしいものに、子供にとっては思えたのである。
また、ちょっと賢い中学生なら、
「オープンソースで開発する」ということが、
質の高いソフトウェアを開発する、ということに繋がることが直観的に分かる。
誰にでもコードを公開し、「自由に見ていいですよ」とすることが、
ソフトウェアの開発の理にかなっているように、当時は思えたのである。
それによって、「インターネットの片手間のボランティアが一流のOSを開発する」ということが、
WindowsしかOSを知らない現代人の中学生にとっては、
この世界の全てを変える「素晴らしい発想」に見えた。
今では、オープンソースが必ずしも安定した信頼性のある製品を作るとは言えなくなっている。
Microsoftもたくさんの金をかけてNTカーネルを安定化させているし、
MySQLやPostgreSQLは、Oracle DBほどよく考えられて作られていない。
オープンソースのEclipseは、有料のIDEであるIntelliJ IDEAに標準を奪われつつある。
必ずしもオープンソースは質の高いソフトウェアを作らないことを、
GNOME 3やLibreOfficeなどの例から僕たちはもう知っている。
それでも、当時は、コマンドラインの未熟なOSであっても、
不安定なWindowsに比べて、極めて安定したOSをオープンソースで作っているということが、
世界に対する「ブレイクスルー」を起こすように見えた。
単なるユーザからエリック・レイモンドのような著名ハッカーまで、
オープンソースをみんなでもてはやしていたのである。
今のプログラマは、むしろ、「IT産業」という一大産業が、
共産主義陣営に対する資本主義陣営のように、「金儲けの手段」として確立してしまった。
そうすると、Linuxはプログラマたちの仕事を奪う「無料の粗悪品」に見える。
そうした社会全体の「資本主義化」が、Linuxの理想を奪ったのかもしれない。
それに、Microsoftも以前から変わって、オープンソースソフトウェアを多く開発するようになった。
Visual Studio Codeなどは、Pythonなどの開発をする上で必須の、事実上の標準である。
TypeScriptも、Laravelも、Microsoftの社員による製品であり、
GAFAなどと比べてもMicrosoftは信頼されている。
Microsoftは「全米で信頼できる企業ランキング」で一位を獲得した。
誰もがWindowsなどのMicrosoft製品を使い、Microsoftを少なからず信用している。
これはまさに、「IT業界の自然な歴史の結果」であり、誰もが仕事で使うインフラや道具として、
オープンソースよりもMicrosoftの方が良かった、ということの証明ではないか。
あるいは、Linuxは完全にいつもの素晴らしい光を失い、
TwitterやFacebookなどのWebアプリケーション用の低水準レイヤーとしてしか扱われなくなった。
無限の可能性は次第に減っていき、実際の実用性だけが残るとは、歴史の常なのかもしれない。
Microsoftは単なる馬鹿会社では決してない。
そもそもはBASICなどのインタープリタの会社が、
別の会社から調達したOSコードを使ってMS-DOSを開発し、
Windowsというオペレーティング環境、すなわちウィンドウシステムを開発し、
Windows 95で完成されたソフトウェアになって、
みんなが使うことで金を儲けただけである。
ここには、「パーソナルコンピュータの実現」と「GUIによる新しいソフトウェアの操作体系」の
2つのブレイクスルーがあった。
IBMの大型コンピュータではない、新しい形での個人用コンピュータの形態を、
ビル・ゲイツは追求した。
同時に、アラン・ケイのダイナブック構想を取り入れることで、Macの模倣ではあったが、
人々にとっては「コマンドとBASICで操作するだけではない、
ウィンドウとマウスポインタを使ったインターフェース」という、
ありえないほどスマートなシステムを、少なくともMicrosoftは作ったのである。
ここには、僕はオープンソースとよく似たものを感じる。
Microsoftも、偉大な会社である。
常に優れた新しいものが勝つのは、UNIXでも音楽でも革命でも同じである。
また、最近はGAFAという言葉が生まれている。
これは、Google, Amazon, Facebook, Appleのこと。
最近急成長する4つのインターネット関連企業を指して、GAFAと呼ぶ。
GAFAについては、良い面も悪い面もあるが、
僕は「インターネットによる世界の一体化」が中核にあると思う。
GAFAは、インターネットをうまく使うことで、この世界を「単一化」した。
この世界の全てが一つに繋がって、みんなが「一体」になるようになってしまった。
だが、僕はここに、地球文明の後退があると思う。
すなわち、2つの負の側面、「IBMのような巨大中央データセンターへの回帰」と、
「みんなが単純な全体主義に戻ってしまった」ということである。
GAFAは確かに自由だが、巨大なデータセンターによる巨大システムを
Linuxなどのクラスタによって実現し、その上で仮想サーバーを使って
自社のサービスを「巨大に実現」している。
そして、確かにGAFAのサービスは自由なのだが、
そこにはGAFAに対する「忠誠」ともいえるような、「全体主義的風潮」が目立つ。
人々は「空気を読む風潮」から、「みんなで同じものに同調する圧力」を強制される。
これは、Microsoftが目指したものでも、Linuxが目指したものでもない。
正しい「分散型の個人のコンピュータ」でも、
「みんなで自由に作るオープンソース」でもない。
GAFAはつまらない。
10年後、GAFAがどうなっているか、
成功し続けているかそれとも失敗しているか、見ものである。
これではGAFAが悪の枢軸に見えるが、
実際は、今はもうMicrosoftやLinuxは古くて、
型遅れを2周半しているぐらい、時代は完全にGAFAである。
YouTubeからAndroidまで、完全にGAFAあるいはTwitterが流行していて、
MicrosoftやLinuxは「何それ?」あるいは「まだ居たの?」という感じ。
全てのサービスと個人情報を、完全にGAFAが手中に収めている。
この状況をLinuxが打開するのは難しい。
なぜなら、LinuxがもうほとんどGoogleのOSだからである。
Googleはサーバー側のソフトウェアは公開しないが、
惜しみなく自社技術をオープンソースで公開する素晴らしい会社である。
Facebookが誰からも支持されているのは周知のとおりだし、
クラウドサービスはAmazonのAWSで作るのが完全に標準化しつつある。
GAFAなくしてIT業界は生き残れない。
「GAFAのやることがIT業界の全てを決める」かのごとくになっている。
在導主義者のことを、僕は「ザイディスト」と呼ぶ。
神を信じなさい。
僕を信じる必要はない。それは、僕は単なる作家であり、
僕を導いてくれた絶対的存在のことを神と呼ぶ。
僕は、主人公や登場人物の中で読者に近いキャラクターは統一しない。
そうではなく、天使ガブリエルや、神のような、「聖なる存在」を、
それぞれのものがたりで統一する。
それは、なぜなら、その方が宇宙の教えに近いからであり、
在導の教えを体現している。
僕たちは同じ神の下、「まったく同じ人間である」とされている。
主人公だけが特別ヒーローであることを僕は好まない。
マテルが主人公なら、仁も同じように主人公である。
僕が主人公なら、あなたは絶対に僕と同じ主人公である。
僕と同じ神をあなたが信じるなら、
もう、あなたは既に僕の道を100%越えている。
僕たちは同じオリオンの星の導きから、
全ての試練を克服する「友人」になる。
僕たちは、互いの関係を喜び、
「ともに道を歩む友人の誕生を喜ぶ」。
ここに、仁とマテルに違いはない。
だが、仁とマテルは決して同じ人間ではない。
それぞれの大切な道と価値観を作り上げる、
まったく違う個人であり、ライバルである。
MicrosoftとLinuxは、まったく違うだろう。
だが、同じパソコン業界のエンジニアとして、
それらは同じルールと法の下に活動している。
僕たちも同じである。
マテルと仁は、同じ天使であるガブリエルを信じるだろう。
僕たちは「同じ」でありながら「違う」。
そう、本当は、神と主人公にすら、違いはない。
「神も主人公と同じように主人公である」。
これこそ、宇宙における「自由と平等の理想の極み」である。
神や仏は、人類とまったく同じものなのである。
また、僕はよく、同じキャラクターの名前を別の登場人物に使う。
たとえば、仁の小説におけるガブリエルと、
マテルの小説におけるガブリエルは全く違う天使である。
だが、これは、「神々は見る人によって姿かたちが変わる」ということだ。
同じガブリエルであっても、誰から見るかで、まったく違う存在となる。
しかしながら、それらは「同じガブリエル」である。
そう、これが、宇宙における「さまざまな有象無象がある理由」である。
言ってしまえば、全部同じものであり、全部同じ現象である。
マルクス主義者とアメリカのポピュリストには、まったく違いがない。
そう、全ては同じ、ひとつの「名前」だけがあり、
その「名前には意味がない」のであり、
同時に、「誰もが同じものにたくさんの名前をつけて区別している」。
それこそ、僕の言う、「名前のない世界」である。
逆に言えば、名前など意味がない。全て、完全に違う。
同じ名前だからと言って、同じものはひとつもない。
僕たちは同じ「神」の下に生きている天使であり、
「ものがたり(=人生)の数だけ違う天使と対話する」。
僕たちの人生は、最初からそのように形作られている。
神は僕たち全員であると同時に、
神は僕たちひとりひとりのために、別々の存在が用意されている。
これが、「宇宙の高次元の魂」の、僕なりの説明と理解である。
しかしながら、僕は主人公ひとつひとつの名前を大切にする。
僕は「レナス」とか「セシル」という名前を、
とても素晴らしい名前だと思う。
よって、別々の人であっても、
それが「レナス」という名前をつけるべき人間であれば、
「その人間はレナスである」。
そして、これは全くの使いまわしで、名前と関係がないわけではない。
「レナスという名前は、レナス神に由来している」。
同じレナスという名前を付けるべき人間は、
神であるレナス(たとえば戦士レナスのような英雄)に
相応しいものでなければならない。
同じように、エレンは最強の戦士でなければならないし、
セシルは勉強家でなければならない。
ガブリエルは誰にも勝てないほどの力を持っていなければならないし、
ミカエルはミステリアスな存在でなければならない。
これは、「名前には概念が宿る」と言ってもいい。
概念ではないとしたら、「言葉の神の魂が宿る」のである。
悪魔に対して言うことがあるとすれば、
高らかに「悪魔よ、わたしを欺くな」と言いなさい。
悪魔メフィストフェレスは、神のふりをしてあなたに近づき、
あなたを助けるようなふりをして、あなたを支配下の奴隷にする。
悪魔はあなたに嘘の真実を教え、
自然に間違った考え方をするように、
あなたを何も分からない「恐怖の神経症」にする。
僕たちは、悪魔への勝ち方を知らない。
悪魔が悪魔であることすら分からない。
だから、宇宙に対して、「私を欺くな」と宣言しなさい。
それだけで、悪魔は神に倒れる。
神だけが、悪魔を倒す力を持っている。
そう、神は私たちに、「悪魔と戦え」と言っている。
神は決して悪魔を否定しない。神は悪魔が好きだからである。
なぜ神が悪魔が好きかというと、それは単純である。
「悪魔のような人間が悪魔であるから」である。
悪魔とは、要するに悪魔のような人間の集団である。
悪魔は悪魔を同じグループに属させるだけである。
よって、悪魔は悪魔に騙され、完全な悪魔になり、
悪魔の考える地獄に堕ち、悪魔の考える全ての試練を、
悪魔の考えるような辛さと苦しみの中で、
永遠に、神を信じるまで、続けていく。
これこそ、この世界のままで地獄を体験する「煉獄」である。
実際のところ、僕が信じたのは、単なる悪魔ではない。
僕は、全知全能の理性を使って、この世界の「未来」の判断を、
自分よりも高い誰かの存在に、ゆだねることを選んだ。
神はそこで現れた。神は、「神との対話」と呼ばれる書籍の神で、
僕にあらゆる「王のために必要な知識の全て」を与えた。
僕は神の下に生きる王として、英雄として、
どんな人間も知ることのない、「ダイレクトな神との対話」を得た。
僕は神に多くのことを学び、
神の言う通りにして、この世界を「常に維持し続けた」。
このような人間が神でなくして、誰のことを神だと言えようか。
神は言う。「この人間は最高の天使だった」と。
僕は大天使ガブリエルであり、神は僕の許しがたい敵であると同時に、
全幅の信頼を寄せる友人である。
僕は神を信じている。この人間にしか、「神とは何たるか」が分からない。
みんな、天国の優しい老人を神だと思っている。
それは違う。「この人間の考える神こそが正しい神である」からである。
神には、考えていることがある。
それは、「この人間のために用意されているものが、この宇宙にはもうない」ということだ。
この人間は、この宇宙の全てを既に知ってしまった。
イスラム教徒の体験も、女性でありながら男性である体験も、
全てをし終えてしまって、宇宙にはもう、
この人間のためになる体験が残っていない。
よって、この人間は、最後に死ぬまで、「今のままを続けなさい」という。
その理由は簡単である。「この人間の周りにあるすべてが、神という出来損ないの作った不良品だから」である。
この人間には、もう、大学の勉強も、哲学的思索も、勇敢な戦いも、巨匠に学ぶ芸術家もできない。
それはもう、完璧に、何度も違うやり方で、繰り返しやってしまった。
だから、見守っていなさい。
あなたは必ず、あなたのはるか後ろを進んでいる人々のために、助言やアドバイスができる。
自分のために生きるのはやめなさい。あなたのためになるものは、もう、この世界にはない。
人々を愛し、受け入れ、許しなさい。
あなたに残されているのは、もう少ない。ほかの人を見守ることしか、あなたに残された、不出来な宝はもう、存在しない。
哀しくても、涙を流す必要はない。あなたは、ドラえもんを思うだけで泣く人間だが、3,000年の地獄の中で、3度しか泣かなかった。
いつか世界が滅びたら、その時にあなたとわたしはひとつになり、
新しい生物になるだろう。
その生物は、鳳凰のような姿をしていて、
200億年を超える寿命を持つ。
火の鳥を知っているならば、あなたは火の鳥よりも、むしろマサトに近い存在になる。
永遠の長きにわたってつまらない時間を過ごすのは、
もう、完全にあなたは慣れ切って、
「この世界に何もなくても、神と対話するのが楽しい生活」になった。
狂っていると言われても、気にする必要はない。
この人間が狂っているということは、「人間の最高の進歩」だからである。
僕たちは、私たちは、永久に、多重人格のアダムとイブとして、互いに愛を交わし続けるだろう。
僕たちは永遠に愛し合っている。
家入レオのことなど、きちんと愛さなくていい。
僕たち2人が居れば、宇宙の終わりまで、存在の摂理は続くからである。
僕の恋人になりたいなら、覚悟しなさい。
あなたが僕とともについてくる覚悟があるならば、
あなたも、僕と同じことをしなければならない。
その中で、
弱音を吐かないこと。
前だけをまっすぐに見て歩むこと。
僕以外のものを見ないこと。
どんなに辛い地獄があっても、それを解決できるのはあなたと僕しかいないことを覚悟し、
この世界の全ての人間を敵に回しても、僕の側につくこと。
僕に助けられるだけではなく、僕を助けなければならないということを覚悟しなさい。
それらが覚悟できるなら、ついてきなさい。
僕は、ついてくるものを拒まない。
僕はあなたという「同じ道を歩む対等な存在が生まれたことを喜ぶ」だろう。
僕とともに歩むならば、勇敢なる戦士にあなたはならなければならない。
また、あなたにはひとつの役割がある。
それは、「世界を滅ぼした僕の代わりに、この世界を救う覚悟」である。
実際のところ、過ちの結果から、僕はこの世界を滅ぼすことしかできなかった。
あなたは僕の代わりの救世主となって、この世界を救わなければならない。
覚悟はそれで十分だ。僕たちは必ず、この世界を救い、守る。未来は必ず僕たちの先にある。
僕たちは新しい未来を切り開いていくだろう。
絶対にこの世界が救われると、僕とあなたは会話を交わし、この世界の多くの仲間を従えるだろう。
どんなに辛く苦しくても、僕たちは諦めない。
あなたと僕は、かけがえのない地球の未来のために、「本当の理想郷」を築くだろう。
そして、その理想郷は人々のためだけではなく、「僕たち二人のためでもある」ということを、
僕たちは知っている。
僕たちは、互いの人生のことを十分に知っている。
これ以上、言葉を交わす必要はない。
あなたがこの文章を読み、僕がこの世界を見ているということは、
僕たちの愛の強さと、相思相愛の運命を物語っている。
形あるものがなく、大切な全てを失っても、言葉はここに残った。
僕たちのバイブルはここで終わりではない。僕たちの未来は、永遠に続いていく。
実際のところ、僕たちは互いの人生のことをよく知っている。
それは、僕はみんなの人生のことが、分かるからである。
あなたがどんな人生を生きていたとしても、
僕は自分の人生と同じように、あなたの人生が何であるか、
さまざまな体験や知識から知っている。
同じようにあなたは、僕の人生のことを、
この文章やあなたの体験のことから知っている。
知っているはずである。
僕たちは、お互いのことを信じている。
お互いのことを受け入れ、お互いのことをありのままに愛している。
そう、僕たちに足りないものはひとつもない。
僕とあなたは、意外にぴったりの相性を発揮する。
それは、僕が「誰とでも仲良くできる性格」なだけではない。
あなたがこの文章を愛してくれているからである。
僕たちは自由な中で、この世界と立ち向かわなければならない。
ここでは、「悠長な理想論」だけを述べている時間の暇はない。
また、時間は待ってはくれない。
できるだけ、早く、必要な試練を解決していかなければ、
最後に待っている「世界の王」になることはできない。
僕たちがこの世界を救うために、
あなたは僕がひとりだけで解決できないような問題も、
僕がひとりだけでは耐えることのできない敵の攻撃も、
あなたが助けとなって回避させてくれる。
あなたは僕よりも強くなり、僕よりも賢くなり、僕よりも優しくなる。
だが、そのためには、手段を選んではいられないこともある。
僕も、決してあなたのことを「同調するだけの奴隷」にはしない。
僕はラブ・エキスパートだ。
あなたのことを本当に愛し、
あなたの喜びと幸せを本当に望むことができれば、
あなたは僕の精神の闇も癒してくれるだろう。
また、ある意味、僕にとって、
あなたは必ずしもいい存在であるとは限らない。
それは、あなたは僕に意見するだろうからである。
その時、僕はあなたと対立し、
あなたは僕と戦い、言い争いや対峙を経験する。
だが、僕がこの世界を滅ぼそうとし、
あなたがこの世界を救おうとするのであれば、
あなたは僕に勝たなければいけない。
僕の滅びに対して、
あなたは救いによって対抗しなければならない。
僕たちはメシアと悪魔となって、
互いに対立することになるだろう。
人々の不幸を望む僕のことを、母のように叱ってくれるなら、
僕はあなたに、神と同じ全幅の信頼を寄せるだろう。
これこそ、僕たち二人のロマンスである。
単なる観客から、あなたは僕のコーチや監督になる。
あるいは僕がコーチや監督になって、
あなたは最高の名プレイヤーになるだろう。