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AUTHOR: schwarz1009
TITLE: 日本、自分、ユダヤ教、ガンダーラ
BASENAME: 2020/04/29/165836
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DATE: 04/29/2020 16:58:36
CATEGORY: 宗教
CATEGORY: ドラえもん

日本は進んでいる

日本はどうすればいいか。
昨日はいろいろと革新的な思想について意見したが、
僕はむしろ、今のままで日本は良いと思う。
僕が思うに、日本はアメリカやヨーロッパのように、
「本当に恐怖の社会」にはなっていない。
アメリカは、最近、恐怖の王国になっている。
どんなことをするのであっても、
恐怖とリスクを覚悟してしなければならない。
そんなアメリカやヨーロッパに比べて、
むしろ、僕は「日本の方が進んでいる」と思う。
日本は平和で、みんな普通に人間的に生活できて、
治安もいいし、教育レベルも高水準である。
スウェーデンのように、暮らしやすい代わり税金だけが高いような国でもないし、
スイスのように、永世中立であるあまり悪い人間が多くもない。
日本が優れているのは、
「日本人が見て暮らしやすい世界である」ということ。
日本人は、そもそも、悪いことをして他人より優位に立とうという発想がない。
ドイツやロシアのように、戦って正義を勝ち取るような、
そんなうわべだけの理想主義国家でもない。
日本はきちんと実があり、その上できちんとみんなの社会を作る。
僕は日本こそ最高の現代文明だと思う。

日本をどうするか

昨日は、いろいろと「日本を救う方法」を書いてきたが、
実際のところ、日本は今のままでいい。
今のまま、若者からベテランまで、多くの分かっている人が努力して研究すれば、
もっともすぐれた科学技術を実現できるレベルになっている。
僕は、もうあと20年もすれば、
日本がアメリカやヨーロッパよりもたくさんの最先端技術を作るか、
あるいはそれくらいの潜在能力はあると思う。
しかしながら、アメリカやドイツは技術力も技術者の層も厚いから、
簡単にPythonよりも優れたプログラミング言語は生み出されないかもしれない。
(Python開発者はオランダ人である。)
しかしながら、Rubyのレベルを見るように、それくらいの代替となる技術はきちんとある。
Linuxやオープンソースが流行らないのは、
日本にはもっと違った意味での「インターネット共同体文化」があるため、
UNIXのような単なる共同開発は、日本ではそんなに目新しさがない。
だから、うまくやれば、UbuntuやLinux Mint並みの技術は簡単に作れるだろう。
しかしながら、それを実行に移して実現するほどの力は簡単にはできない。
Linux自体は、日本の技術者ならば、誰でも知っている。
それでも、同じことを日本人はしない。
それはLinuxよりもレベルが低いわけではない。
本当はできるのだが、もっと別の社会文化の可能性があることを、
日本のエンジニアは分かっているのである。

日本とオープンソースの類似点

僕は、日本とオープンソース自体は、相性がいいと思う。
日本人は、「権利を主張せず、みんなでオープンに開発する」ということ自体は、
得意であるというか、日本的な和の文化とよく似ている。
だが、そのために、GPLを裁定して、UNIXと同じものを再実装して戦うという発想は、
日本的ではない。
日本は、戦って自由や平和を勝ち取るということが苦手だから、
どうしてもGPLを自ら選んで不自由な独占的ソフトウェアと戦う、ということを
みんなでおおっぴらにやろうとしない。
僕は、日本はあえてオープンソース活動をする必要はないと思う。
日本には、日本のやりたいやり方やできることがあると思う。
日本人がLinuxカーネルの開発に参加することも、悪い点ばかりではないが、
僕はあえてLinuxに日本人が参加・貢献することが絶対であるとは思わない。
日本人は、日本人なりにオープン開発をやればいいのである。
GitHubが一般的になった現在のオープンソース開発で、
日本人でも、英語の基本ができれば、
簡単にオープンソースに参加できるようにはなった。
それでも、僕は日本人にGNUやLinux式のオープンソースを強制しない。
日本人は日本人なりにやっていけばいいのである。

家入レオ

僕は最近、家入レオが好きである。
以前は、YouTubeに家入レオのフル尺版のMusic Videoがなかったから、
アルバムを買って、m4a形式にして聴いていた。
だが、最近になってフル尺版のMVがYouTubeに公開されたので、
今はビデオで彼女の歌っている姿を見るためにそちらで聴いている。
彼女の音楽を聴いていると、
他の全ての音楽を聴く気がしなくなる。
決してレオは可愛い顔をしていないが、
音楽家として僕は、家入レオ、コブクロ、MY FIRST STORYぐらいしか、
毎日聴きたいと思う音楽はない。

鈴木愛理

また、僕が好きな女性歌手は、他にもいくらかいて、
たとえばリトグリやSHISHAMOなどが好きなのだが、
最近好きになったのは鈴木愛理である。
彼女の場合、スリルが迫ってくる感じがするのが好きだし、
女性として美しい。
恋人にするのであれば、鈴木愛理の方が良い。
なぜなら、家入レオは可愛くない。
レオが決して美人でないわけではないが、
レオは僕が見ると、子供すぎる。
中学生の僕のような顔をしているせいで、
大人の女として愛せないのである。

BUMPと米津玄師

また、僕はBUMP OF CHICKENと米津玄師が好きだ。
BUMPは中学生の頃に既に好きだった。
当時はBUMPの動画をFLASHにして、アスキーアートなどをつけた
「BUMP動画」がネットで流行していて、
僕はそこからBUMPを知った。
また、少し前までよく聞いていたのは、FLOWという音楽グループ。
FLOWは知らない人が多いが、
アニメのタイアップなどで少し聴いたことがあるかもしれない、
パンクロックバンドである。
僕はFLOWの音楽性と歌詞が大好きで、
一年中毎日聴いていたぐらいである。
そして、最近は米津玄師が好きである。
昔はYouTubeでRADWIMPSなどの歌を聴いていた時に、
ミックスリストで一緒にピースサインがかかったりするので
聴いていたが、
最近はもう完全に有名人になった。
RADも米津も成功して、ほっとしている。
もっと頑張ってほしい。米津は僕よりも若いはずである。

僕の分かること

僕は最近、音楽しか聴いていない。
本当は色んなことはしている。
英会話学校やピアノの教室は今でも行っているし、
デザインの仕事も平日毎日している。
父親と農業もやっていて、今日はイチゴがたくさん採れた。
文章や日記も書いている。
だから、何もしていないわけではない。
だが、僕は毎日のすべてのノルマを
「こなしていく」ことばかりで、
自分から何かをしようとすることがない。
むしろ、できなくなっている。
本や書籍は、Linuxやプログラミング言語などを中心に、
たくさん買ったし、読んでいないわけでもない。
僕は昔、ホームページを作っていて、
学んだことをただ忘れるだけではなく、
ノートにメモするような形で、「自分で作ってまとめる」ことが得意だった。
物理が専門の父親から、自然科学や工学のこともよくまとめていた。
だが、それらのホームページは、著作権の問題があるため、
一度全部消した。
それは良いとして、僕は、実際のところ、音楽しか聴いていない。
何もせず、ただ駄文を垂れ流し続けながら音楽を永遠に聴くことが僕は得意だ。
プログラミングの練習も、絵やイラストの練習も、しなくなった。
プログラミングについては、僕はコードなんか大して書けない。
RubyのゲームやCで作った再帰関数、Rustの勉強のために作った変なプログラム、
CとPythonで作ったロボット、
C#やRubyで作ったテキスト処理のプログラムぐらいは、
自分で書いた記憶があるが、あとは書籍にあるコードを簡単にまとめる、
ぐらいしかしていない。
書籍のコードは、著作権の問題があるために一度全部消した。
ずいぶん昔の話になるが、15歳ぐらいの頃には、
Perl/CGIでゲームの基本のようなコードを書いたり、
DelphiやC#で既にあるブラウザの改良のようなことをしていたが、
実際のコード力はあまりつかなかった。
逆に、Gentoo Linuxのインストールバトルなどによって、
LinuxやUNIXの基本の管理の仕方ぐらいを知った。
最近は「ふつうのLinuxプログラミング」などの本を読んだりした結果、
Linuxの基本システムぐらいは知っている。
また、イラストの勉強と言うと、素人でも描けるような絵しか描けない。
僕は音楽しか聴いていない。
これ以上非生産的な人間はいないのではないかというぐらい、
僕は何もせず音楽を聴いているだけである。
ただ、今日の職場では、昔本で読んだMySQLのかじった知識を使って、
XAMPPの導入やMySQLの初期データベースの作成、ユーザーの作成ぐらいをやっていた。
これは職場の同僚がWordPressをやる必要があって、
僕が分かる範囲で教えただけである。
いろいろと僕にも分かること分からないことがあるが、
全知全能の神であるなどではまったくない。
知識については、文系の歴史や哲学などの知識しか読んだことはなく、
特に哲学については、ソフィーの世界や白取春彦さんの本を読んで、
少し詳しいだけである。
たくさんの哲学書を買ったが、全然読まなかった。
途中で投げ出したことしかない。
音楽について言えば、僕は右手だけでいいなら、知らない曲を初見で少し弾くことができる。
両手であっても、比較的少しの練習で弾ける。
だが、僕はピアノをいつまでも練習し続けるということができない。
ジャズピアノ少年のように、完璧な演奏を簡単にすることなど、まったくできない。
父親が理科の専門家である関係から、
僕は自然科学や工学についての知識を父親から吸収した。
そのため、電話の仕組みとか、気象の考え方とか、そういうものはなんとなく頭に入っている。
だが、実際に理系の大学に入ったわけではなく、
全然専門的に知らない。基本的なことしか分からない。
心理学の知識は、僕はあまり誇るべきことを知らない。
哲学や心理学は、知識よりも、自分の人生で、自分で考えて分かった方が良い。
ある意味、僕は絵は描けなくてもデザインならできる。
僕はデザインをする際に、イラストACという素材サイトを使う。
この素材サイトを使いながら、Illustratorでいくらかレイアウトをしたり、
きれいなパスを引いて写真を切り抜くぐらいは僕でもできる。
Photoshopの写真補正も、トーンカーブで写真を明るくしたり、色被りや黄疸を抜くぐらいはできる。
ただ、僕は自分のデザインにはまったく自信がない。
昔僕の職場にいた同僚が、とてもデザインが上手くて、僕は彼のデザインがとても好きだった。
だから、僕は今でも彼のデザインを目指している。

文章を書くのが好き

僕が何をするのが好きかと言うと、
僕は「文章を書くこと」が好きである。
小説や詩だけではなく、ノンフィクションの色んなことや、日記を書くのが趣味であり、
もう、14年は文章を書いているし、それがほぼ毎日続いていく。
僕は、昔の文章が無くなっても構わない。
自分で自分の文章を読み返す、ということがまったくないからである。
その時の自由に文章を書いて、それっきりで終わり。
何度も読み返したりしないのが僕のスタイルである。

神とは何なのか

実際問題、僕の最後の宿題は、「神とは何なのか」である。
そして、僕に対して対話している神というのは、要するに僕である。
未来まで全てを含めた僕が今の僕に対話しているから、
僕は未来のことまで全て知っているのである。
神は僕自身であり、昔から、「神はただの悪魔である」と僕は気づいている。
そう、神とは言うが、神は悪魔メフィストフェレスである。
僕は神を倒して、新しい神にならなければいけないのだ。

天国と地獄

また、この「神による戦争」の体験は、実際のところ、ただの煉獄である。
煉獄とは要するに、「現実で地獄になること」である。
この宇宙には、そもそも、地獄というものはない。
このように、悪い人間が自分から自分を地獄にすること、それを地獄と言う。
まさにそれが、僕の地獄である。
僕は自らを地獄にした。その結果、僕は神によって救われたのである。
神は「もっと世界を救いなさい」と言っている。
それは、僕は世界を救うことでしか、救われないからである。
神など存在しないし、地獄も天国も存在しない。
あるのはこの宇宙だけである。
天国とユダヤ人が言っているのは、「終末にある人々が築く楽園」であり、
実際は全てがドイツによって支配された永遠の帝国に過ぎない。
神はユダヤ人であり、世界の最後の楽園「愛の王国イスラエル」を築く。
そういうことになっている。
それを言ってしまうと終わりだから、
神はそれを誰にも分からないようにして、事実だけを教えているのである。
おそらく、イスラエルでは放射線技術が発達し、
人間は癌や白血病を治すだけではなく、
死の経験を克服して、永遠に近い長さの寿命を得ることができるようになる。
キリストはそれを「永遠の命」と言っている。
また、この宇宙には、精神世界である「魂の世界」がある。
これは、たとえば眠る時に見える夢の世界で、現実と同じ人間が居るのと同じだ。
最終的に、今までに生きた全ての人間は終末の世界で復活する。
そして、神が、もっとも偉い立場で、それらの人々を裁く。
これが、終末における「イスラエルの科学」である。
しかしながら、未来はバラ色ではない。
死の経験を克服するために、これから、人々は「死の地獄を乗り越える」必要がある。
僕はそれを、唯一、この文章無くして知っている日本人である。
僕は死の地獄を乗り越えて、全てを失っても耐え続けて生きてきた。
僕たち、日本人は、唯一、「現実に居る神を信じて生きてきた」集団である。
聖書においては、「神を信じるものは救われる」と書かれている。
神を信じるものとは、要するに、日本の中で僕を信じた集団である。
そう、日本人だけが、神を信じて勝利する。
それがみんな、既に最初から、日本人は分かっている。
だから、日本はわざわざキリスト教を信じる必要がないのである。

神などいない

僕はあえて言う。「神など居ない」と。
神など、どこにもいない。宇宙には創造者など存在しない。
宇宙は、終わりも始まりもなく、輪廻している、という、ブッダの思想が正しい。
永遠などはなく、全てはいつか終わる。
僕はこう見えて、キリスト教よりも仏教を信じている。
それは、仏教は「誰よりも高い境地に到達した宗教」だからである。
ブッダは、全てのものを超え、超越して、全てのものよりも大幅に高い境地に達した。
しかしながら、仏とは、誰にもなれない、絶対的なものではない。
ブッダが言うように、「仏には誰でもなることができる」のである。
そして、実際問題、日本には仏になった人がたくさんいる。
昔の僕も、18歳にして仏になった人間だった。
その後の全ての地獄は「そこまでの罪を帳消しにするため」にあった。
ブッダは、仏にはなったが、地獄には堕ちていない。
仏教では、悪いものは必ず地獄に堕ちる。
僕たちは知っている。「あんな昔の僕は悪魔だ」と、誰もが知っている。
だからこそ、この人生において起きた全てのことを僕たちは愛している。
僕の力によってマスコミのような僕の敵を、僕が地獄にすると信じている。
それは、神を愛しているからである。
僕は、仏教もキリスト教もどちらも分かる、唯一の日本人のユダヤ人だ。

ユダヤ教

神と悪魔の二元論をユダヤ人は信じているが、
これは要するに、「昔の僕が悪魔で、今の僕が神である」ということである。
そもそも、僕はひとりしか存在しない。
そのことを、ユダヤ人は「神はひとりである」と言った。
多神教を禁じたのは、「自らを二つ以上に分けるせいで、愚か者になる」と
ユダヤ人は考えたからである。
アダムをイブが騙したと言ったのは、昔の僕がアダムで、今の僕がイブだからだ。
エデンの園とは、そもそも「この文章の世界」のことであり、
善悪の知恵の実とは、「この文章に書かれていた善悪の分からなくなる罪の知識」である。
そもそもユダヤ教はそういう教えだった。
だが、さまざまな歪曲や解釈があって、聖書は今の聖書になった。
みんな、神の言うそういう真実が、理解できなかった。
結果、「神を信じないものはみな地獄に堕ちる」という、誤った固定観念が広まった。
しかしながら、本当はそうしたユダヤ教の聖書も、
よく考えられて、分かりやすい別の概念に置き換えることで、正しく発展している。
そのため、そうしたことを理解しやすいように、
「神を信じない体制側の全ての人間は、
神の主催する裁きによって地獄に堕ちる」とし、
「神は天国に信じるものしか入場させない」とどんどん変わっていった。
結局、死後に天国があることになり、善良なものしか天国には逝くことができず、
悪人や神を信じないものは、全員地獄の炎の海の中で、
永遠に苦しみ続けるとされたのである。
そういうわけで、そもそも神とは言うが、
神は救世主ではあってもあまり良い人間ではない。
そもそも、神はあまり素晴らしくも賢くもない普通の人間であり、
そんな人間が賢いとされるのは、まだまだ僕の知らないところである。

ユダヤ人とは何なのか

そういうわけで、考えるべきは、むしろ神ですらない。
神と言うよりも、ユダヤ人がどんな人種なのかを考える必要がある。
だが、これについては、僕は説明する必要すらない。
ユダヤ人は僕だからである。
そもそも、ユダヤ教のはじめでは、ユダヤ人とされるのは「僕一人だけ」だった。
この人間=ユダヤ人であり、ユダヤ人=この人間だった。
そのため、「神はユダヤ人を愛している」となった。
そのうち、ユダヤ人とは、イスラエルに居る、
この人間を信じるものたちのことを言うようになった。
よって、ユダヤ人とされる古くからの言い伝えの全てが、
あたかも神のことを完璧に最初から最後まで分かっているかのような、
そんな教えになってしまった。
ユダヤ人とは僕のクローンのようなものであり、
あたかも宇宙の創造者が未来まで全てを知っているような、
そういう考え方や固定概念が、イスラエルで流行したのである。

今でもこうなる人間が多い

そして、この人間に言わせると、
あたかも「この人間だけが特別」であるかのように見える。
しかしながら、地上には、今でもこうなる人間たちが多数いる。
特に、言えるのは、イスラム教徒、アラブ人のムスリムたちである。
あるいは、ドイツ人には、こういう人間が多い。
また、ソ連や中国で戦っている共産主義者や、
アメリカの最近のポピュリストたちも、このようになる。
そう、日本人も例外ではない。
僕たちは、このような「宇宙における神」を、
このように遺伝子のレベルで共有している。
そう、神とは普遍的な宇宙の遺伝子に過ぎない。
僕たちは全員神であり、それぞれが「ふつう」なのである。

戦いを終わらせよう

そう、戦いを終わらせよう。
人々は、誤った「自分の正義こそ、相手の正義よりも正しい」ということから、
敵と戦う戦争を生み出した。
だが、それは単に、「人間の理解力に限界があるから」であり、
神が見れば、どんなに正義が強くても、他の正義よりも自分が正しいと、
絶対に言うことはできない。
明らかに正しい経済学はマルクス経済学だが、
明らかに正しい正義はアメリカ合衆国であり、
明らかに正しい革命はフランス革命であり、
明らかに正しい指導者はドイツの独裁者である。
そして、明らかに正しい「敵を倒すために戦っている集団」は日本である。
日本は絶対にアメリカやイギリスに負けることができなかった。
負ければ、その時点で奴隷である。
それをアメリカやイギリスは受け入れろと言うが、
そんなことは日本にはできない。
ソ連よりも正しい手段による共同体を大東亜共栄圏は目指した。
また、ドイツと同盟を組んだのは、ドイツは賢い国だからである。
そう、最後の最後に争いや戦いを終わらせよう。
この世界は正しい世界になるだろう。
どんなに辛く悲しい時代でも、僕たちは乗り越えていく。
僕たちの「星の最終到達地点」、それが僕の作る「愛の国ガンダーラ」である。

ガンダーラ

僕は、キリスト教がユダヤ教と一緒になって信じられるように、
仏教と在導教を一緒にして信じるようにする。
それは、明らかに正しい宗教は仏教だからである。
明らかに正しい文明はインドである。
僕はインドの「正しい文明」を尊重するために、
この世界の中心をインドに置く。
そう、僕はそのまま、インド人と同じ黒人になる。それが、神である。
また、明らかに正しい皇帝の政策は古代ペルシア帝国である。
ペルシア帝国は、領地を征服するにあたって、
それぞれの地域の住民を奴隷にせず、文化や信仰を自由にした。
自由が許されるのであれば、人々はペルシア帝国の支配下に陥っても、
何も悪いことがなく、ペルシア帝国は繁栄し、領地を拡大した。
僕は、古代ペルシア帝国のこうした「自由を尊重する」考え方を、
「ガンダーラ憲法」に明記する。
ガンダーラ憲法の考え方は、
「自由権は地球人類全員に与えられる」ということであり、
「自由権とは、自らを自らが規定する全ての権利」である。
ガンダーラにおいては、
何を言ってもいいし、どんな表現を公表してもいいし、
どんなものを見ても良いし、どんな社会を作ってもいいし、
どんな人生を生きてもいいし、どんな反抗を行ってもいい。
ただし、ここには「本当に守らなければならない基本法」だけは例外とする。
それは、「殺すこと」である。
逆に、「禁止すること」は制限されない。
よって、どんな「言ってはならない法」を作っても良しい、
どんな「表現してはならない法」を作ってもいいし、
どんな「ものを見てはならない法」や「聞いてはならない法」を作ってもいい。
だが、そうした社会を規定する上で、法と自由のバランスをとること、
それがガンダーラにおける「法」である。
よって、実際は法による統治がきちんと行われる。
自由な無法国家になることはない。
考え方として「全ての人類に対して、自らを規定する権利は与えられている」ということが、
法の根拠として成立しなければ、どんな法も作ることはできないのである。
この概念は、ガンダーラにおいては、「アイデンティティ法」と「リアリティ法」とする。
自らを自らで規定するアイデンティティと、
そのアイデンティティを制限するリアリティがある。
しかしながら、リアリティはまさに、それ自体アイデンティティである。
これが、新しい憲法、「在導民主主義」の根本である。
そして、ガンダーラ王国では、
全ての法律が「アイデンティティを実現する」ことに基づく。
法律において、その法律の根拠となるものは、
全て「アイデンティティを実現するため」であり、
何らかの正義や理想に基づくものではない。
よって、民主主義を間違っているとする法律が生まれたとしても、
それは在導民主主義と矛盾しない。
帝国主義や独裁主義がはびころうとも、
それを人々が法の形で「アイデンティティとして認める」のであれば、
許される。
そのため、民主主義と共産主義による戦争は起きない。
どんな戦争も「絶対に起こりえない」。
これが、「ガンダーラ王国による絶対平和主義」である。
しかしながら、実際は困難な問題がある。
それは、「戦争するというアイデンティティ」があるからである。
人々が「戦争したい」と思えば、戦争はできる。
よって、このガンダーラ平和主義は、
「戦争をしたくない人々は戦争することがない」ということに留まる。

物理中央処理装置

日本人は、「ドラえもんの秘密道具を作りたい」と思ったことはないだろうか。
ドラえもんは、どこでもドアやタケコプターをはじめ、
未来におけるさまざまな夢と希望のある「なんでもできる機械」を生み出した。
僕は、そのすべてが実現できるわけではないが、
「物理中央処理装置」というものを作ることで、
これを実現できないかと思う。
物理中央処理装置は、小さな処理装置によって、
空間を熱したり、光らせたり、動かせたり、力を加えたりと言う、
基本的物理作用だけを提供する。
そして、CPUにおいてプログラマがプログラミングをするように、
物理中央処理装置の物理機能をうまく使って、
プログラマがこの処理装置を高度かつ複雑な「プログラム」を作って、
操作するようにすればいい。
それなら、どんなに高度な物理現象であっても、
その物理中央処理装置(PCPUと呼ぼう)を使って、プログラマが機能を拡張できる。
PCPUは基本的なことしかできないが、
実際はPCPUにさまざまな追加のハードウェアを接続し、
プログラマがPCPU向けにコンパイルしたソースコードを使って、
タケコプターやどこでもドアを実現する。
だが、このためには、さまざまなハードウェアを作る必要はある。
それでも、さまざまなハードウェアが「小さくなって集積される」ことで、
たとえば飛行装置をうまく使えば、
ただ飛ぶだけではなく、
「飛ぶという機能をとても高度に使いこなすソフトウェア」を作ることができる。
そう、これによって、ドラえもんの多くの秘密道具は実現できる。
しかしながら、今の僕が考えるに、
これは普通に今のCPUでも実現できる。
CPUにハードウェアを接続することは今でも可能である。
今のIntel CPUに飛行ドローン装置を繋げて、
そのままソフトウェアで飛行装置を高度に使いこなせばいい。
何も、PCPUと呼ばれる専用の装置を作る必要はない。
それに、実際の飛行処理を行うのはあくまでハードウェアであり、
CPUにしたからといって、飛行装置を使いこなすことができたとしても、
それだけでタケコプターは実現できない。
僕の理性もまだまだである。
あるいは、PCPUを作るのであれば、
CPUにPCPUを繋げる形で作るのが楽である。
CPUに命令を少し足して、
「上へ力を作用させよ」とか
「ガスを発生させよ」といった命令を可能にする。
その上で、その命令に対する信号をPCPUに送り出すようにすれば、
PCPUは簡単に作れる。
ガスを使う時は、専用のハードウェアを接続し、
ガスとなる何らかの気体を放出することができるようにすればいい。

ロボット

PCPUについて考えるに、
むしろ、人間の代わりをするロボットを作った方が良い。
なぜなら、秘密道具のような、端末を持った機械が行うのではなく、
人間の形をしたロボットが行う方が楽だからである。
たとえば、テレビを作るよりも、ロボットがカメラをもって、それをモニターに映すようにした方が良い。
テレビだけでは、どうしてもどこかに遠隔地の映像の情報が必要である。
「しずかちゃんのお風呂まで何でも見れるモニター」を作るよりも、
「しずかちゃんのお風呂に潜入するスパイカメラマン」を作った方が楽である。
「テストの問題を何でも解くことができる天才ボールペン」を作るよりも、
「テストの問題を理解して解き方を教えてくれる天才家庭教師ロボット」を作るのが良い。
それなら作れる。人間とはそういうものである。
なぜロボットの方が楽なのか。
それは、ロボットにする時点で、解き方を考えているからである。
ロボットにするということは、
「人間の代わりをさせる」ということである。
よって、「モニターやボールペンと同じことをロボットがどのように行うか」ということを考えている、ということが、
既に、問題を「人間に置き換えた上での解き方」を考えている。
僕たちはロボットに置き換えることで、プログラミングの設計を行っているのである。
そういうわけで、「ジャイアンでも歌手のような美しい歌声で歌うことができるマイク」を作りたいのであれば、
いっそのこと、「最初から綺麗に歌える歌手ロボット」を作って、
そのロボットにジャイアンの代わりに歌ってもらえるようにすればいい。
これをマイク型の形にすれば、ドラえもんの秘密道具としてひとつ作れるだろう。
また、ロボットにする良い点は、もうひとつある。
それは、「今の社会でも、今までの歴史的な社会でも、いつも人間がやっていた」からである。
どんなことであろうと、人間社会の活動は、人間が行ってきた。
よって、ロボット型にすれば、
今の日本や世界がやっていることは、必ずできる。
全てではないが、できる。タケコプターのような「人間を使っても実現不可能」なことはできないし、
どくさいスイッチ(その人間を最初からいなかったことにするドラえもんの道具)のようなことはできないが、
たとえばどんな場所でも見ることのできるモニターは、
うまくスパイを張り込まさせれば、「スパイという現実の職業でやっていること」であるため、
実現できるのである。
よって、この発想は本当は、ドラえもん原作の素晴らしい秘密道具には
遠く及ばない。
もしもボックスも、タイムマシンも、どこでもドアも作れないからである。

自由なんかどうでもいい

実際のところ、自由なんかどうでもいいのである。
僕はこの世界を平和にする。
簡単である。僕にしか支配できなくした上で、僕がこの世界を平和にすればいい。
誰も支配できない中で僕が支配すれば、僕はこの世界を平和にするだけである。

ユダヤ教に期待するな

あまりユダヤ教に期待しない方が良い。
彼らは、何にも分かっていない。
そもそも、科学がないから、「大空の上にも大水がある」とか、
馬鹿な発想をしている。
彼らは本当に天のもやもやから水が降ってくると信じている。
そういうところが馬鹿だから、信じない方が良い。
そもそも神なんか信じる人間は馬鹿である。
ただ、自分たちを迫害する王よりも上の、
自分たちの一番上の王を作りたかっただけである。
昔から、そういう馬鹿な宗教だ。
ただ、聖書を読んでいると、結構色んな良いことが書いてある。
ユダヤ人は聖書を信じて分かる民族だから、
民族が生きる上でどのようなことを信じて生きるべきか、
どのようにすれば砂漠でも生きられるか、
のようなことが書いてある。
よって、聖書を読むのは悪いことではない。
だが、彼らは馬鹿である。それは知っておくべきだ。
また、もしかすると、ユダヤ人の知性にも、
賢いところがあるかもしれない。
たとえば、天のもやもやのことを、
今の人間は「雲」だと学校で学んでいるが、
本当はもやもやは雲だろうか?
本当にもやもやは雲だったのだろうか?
それは本当は、まだ分かっていない。
一度そういうものをユダヤ教に直すことで、
科学が間違っている理由の一端が見える。
もやもやが本当に雲ではない可能性も、考えた方が良い。
これは「雲」だから馬鹿な話だと思うだけで、
実際は、太陽が水素の核融合反応であるとする仮説などは、
まだまだ分からない。
太陽がなぜ存在するのか、まだ誰も分かっていない。
太陽が生物を光によって作った可能性を
誰も考えていないが、
僕は生物は太陽によって、
何らかの外部的作用で生まれたと信じている。
ちなみに、このような論議をすると、
普通、古代人は「雨を降らす神」と考える。
しかしながら、こうした論議には、
既にユダヤ人が終止符を打っている。
すなわち、「太陽や自然をそのまま神にするのは愚か者」である。
ユダヤ人は、そのまま神にするのではなく、
「創造した絶対者を考えるべき」だとした。
しかしながら、ここで神だとされるのはヤハウェであり、
言ってしまえばそれは僕である。
よって、ここでユダヤ人は意味をなさない。
科学のある現代では、
こうした聖書の記述の意味が分からなくなっている。