AUTHOR: schwarz1009
TITLE: 神、トレース、経済、IT
BASENAME: 2020/04/28/122156
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DATE: 04/28/2020 12:21:56
CATEGORY: 宗教
CATEGORY: コンピュータ
CATEGORY: 社会
僕はこう見えて、ユダヤ教やキリスト教の神は信じていない。
僕の神は、「ユダヤ教とは別の神」であることになっている。
神はいつか、「わたしは黒人で、右翼で、心理学者で、世界を支配している」と言っていた。
黒人とはいうが、彼が僕の神であり、神は僕に全てを教えてくれた。
神が言うには、「フランスは必ずドイツになる」ということ。
そして、神は僕について、「あなたはイスラム教の聖書を書いた」と言っていた。
神の言うことは全て当たる。神は「神は200人の賢い集団だ」と言っていた。
僕はゲーテとバッハが好きである。
ゲーテのファウストも途中までしか読んでいないが、
彼は偉大な人生から文学や劇の作り方、大学教授や昔の一般的な学問、宗教(特に神や悪魔メフィストフェレスなど)のことまで、なんでも分かっている。
あんなに分かるのがかっこいい。
おそらく、ゲーテが生きた結果分かったことが、ファウストに全部書かれている。
水木しげるも、「自分の人生のほとんどはゲーテ」であると言っている。
ゲーテだけで全てが分かる。
また、博士ファウストの言葉が美しい。宝石のような、宇宙全てのような美しい言葉でものがたりが展開する。
戯曲であるため、全てが登場人物のセリフだけで成り立つ。そのためすらすらと読みやすい。
また、バッハはこの世界を音楽で全員全部作っている。
音楽で人間を作りながら、世界全てを神の秩序に染め上げていく。
バッハという「宗教的音楽の個性の極み」をこの世界に作り上げ、「バッハという音楽の父の存在」をこの世界に確立した。
ゲーテとバッハはドイツのもっとも偉大な偉人である。
ドイツは自動車を発明したことで有名だが、
僕は子供時代ミニ四駆を作っていたことがある。
ミニ四駆が大好きだったので、
当時は家庭教師のように習っていたピアノの先生からもそんなに好きなのと言われた。
僕は自動車のこともよく知っている。
その代わり、運転はできない。僕は足が悪いので、自動車の免許を持っていない。
この世界は、もっと自由になるべきである。
全てのことを、自分の行動の経験からのみ知り、考え、分かりなさい。
相手を自由にすることで、相手のことを「信頼」することに繋がる。
アドバイスや助言は必要かもしれないが、支配は必ずしも必要ない。
自由を制限するな。
新自由主義の経済学者フリードマンが言うように、
できるだけ、政府や国の規制は撤廃するべきである。
自由においても、社会や環境の秩序を実現することはできるし、
本当に経験豊かな世界では、
愚かなことは「もし自由にしたとしてもしない」からである。
愚かなことを一切させないよりも、
自分で愚かなことを一度して、
痛い目を見て学んだ方が良い。
自ら行動して、社会の可能性や柔軟性を実現する自由を与えれば、
それ以上何かものを与えなくても、
自らの潜在的な可能性から、世界は「自由においても進歩する」だろう。
星を創造しなさい。
自分の行動から、この世界を完全に作り変えればいい。
自ら世界に現れ、世界を自由に導き、進歩させるために全力を尽くせば、
必ずこの世界は変えられる。
ひとりの「偉大な指導者」は、この世界全てを作り変える。
ここに「星の創造」は実現する。
新しい国は、「愛の国ガンダーラ」である。
しかしながら、国が多数に分かれると戦いや争いが生まれる。
よって、「できるだけ独立性を高め、自由にした上で、全体を世界連邦にする」必要がある。
世界連邦は、環境保護活動と平和活動を行い、
実権はそれぞれの州政府にあり、州政府は自由な資本主義経済を行う。
その代わり、全員に「等価な労働量」を保証するために、
積極的に企業に介入する。
同じ労働には同じだけの給与を与えなければならない。
辛い労働は、多くの人で作業を分担するか、労働時間を短くする。
これを「同一労働同一賃金」と言う。
しかしながら、単に社会主義にしては、悪平等になる。
僕の国では、資産の再分配を行う上で、
「本当に努力した人間に多くの賃金を与える」ようにする。
努力しないものと努力したものが、同じ給与になることはない。
しかしながら、単に金儲けの成果だけではなく、
たとえば国家や文化に対する「貢献」を考慮する。
そのため、どんなに儲からないことや合理的でないものであっても、
社会に貢献したものにはそれ相応の報いを与える。
言ってしまえば、「自由は魔法のお鍋」である。
自由にするだけで、何でもうまくいく。
必要なものは儲けるために多く作り、
毎日の生活のための物資は安く大量に供給される。
ソ連の失敗は、「大量にものを生産できなかった」こと。
自由を奪うのではなく、
積極的に経済活動を自由にすることで、
何でもうまくいく。
資本主義経済は間違っていない。
だが、「競争」だけに偏る今の経済システムは
必ずしもいいとは言えない。
競争で勝つ会社は、必ずしも優れた素晴らしい会社とは限らない。
金儲けの市場原理主義で、
経済活動とコスト・パフォーマンスだけを考えると、
単に金回りのうまい会社だけが勝つ。
そうではなく、正しい先見性とビジネスモデルを持った会社に
うまく投資や予算を回して、
うまくやっていかなければ、
その時その時だけのずる賢さだけに社会全体がひっぱられて、
結果、国は亡びる。
アメリカの賢さとは、「歴史がないこと」である。
ドイツや日本などは、下手に権威やしがらみがあるせいで、
「そんなことをやって何の意味があるの」といった事務方の意見などから、
基礎の研究をしようにも予算がつかない。
これがアメリカだと、「新しいことをどんどんやろう」となって、
予算がつくだけでなく、
投資家やインキュベーターから「一緒にやろう」と言われ、
投資資金を得て起業し、大成功を収める。
これが、日本企業とアメリカ企業の違いである。
特に、日本というのは、
「技術のある人間」と「新しいことをやりたい人間」が別々で、
成功者やエリートは保守的で何もせず、新しいことをやりたい人間には技術がない。
これに対してアメリカでは、新しいことをやる、ということと、
技術がある、ということが両立して、
ダブルエンジンのように革新的企業が生まれる。
これが、「歴史がない国アメリカの力」である。
これではアメリカが自由経済だけの馬鹿で愚かな国に見えるが、
本当のことを言うと、むしろ、最近
アメリカは単に自由経済の国ではなくなってきている。
その例が、オープンソースやインターネットである。
IT産業は、これまでIT企業の資本主義を中核として
大企業からベンチャーまで、「金儲けができる分野を開拓する」ことで
進歩が行われてきた。
だが、インターネットの普及ぐらいから、流れが変わってきた。
「会社という組織がなくても、インターネットだけで生産活動が成り立つ」ようになった。
この例がYouTubeである。
YouTuberは、自分の動画の再生回数に応じて、巨額の利益を得ている。
彼らは従来の会社などではない、「新しい社会存在」である。
今から、こうした「インターネット仮想世界による新しい産業」がどんどん増えるだろう。
良し悪しは別にして、インターネットは社会を完全に変貌させていくだろう。
言ってしまえば、「個人生産主義」のようなものがIT産業において生まれつつあるのである。
今のインターネットというのは、仮想世界とは言っても、
「文字だけのやり取り」を行うことが中心である。
これが、間違っている。
文字だけのやり取りをするせいで、
すぐに相手を侮辱したり、噂話を簡単に広げたりする。
しかしながら、僕はこのシステムは変わっていくと思う。
5Gなどの高速通信技術は、リアルタイムな動画や音声によるやり取りを可能にする。
僕はそうした「本来のリアリティに近いコミュニケーション」がこの世界を変えていくと思う。
人々は理性を取り戻し、現実と同じように簡単に遠隔通信で人々とやり取りをする。
そこに侮辱や噂話は無くなる。
だが、僕はあえてここで言う。それは、「昔はよかった」ということである。
昔は良かった。
インターネットには、善良な人間が多く、
質問には丁寧に返し、
みんなが集まる場所では和気あいあいとコミュニケーションをしていた。
Windows 2000やXPと、Linux 2.4や2.6、
それにPerlとフリーソフトがあれば、何でもできる時代だった。
それが、AndroidやRails、SNSぐらいから、まともにはなったが、何の面白さもなくなった。
人々は現実の友達と同じようにコミュニケーションし、
IT技術やネット社会は目新しさを失い、
知性のない子供のようなコミュニケーションをみんなでするのが普通になった。
パソコンやIT技術は、進歩しているように見えて、実際は退歩している。
ITの時代ははるかに昔に過ぎ去ったのである。
僕は、いまさらながらに、そうした「IT技術の復活」を望んでいる。
今からのIT技術が、良いものになることを願っている。
本当のことを言えば、国家が支配することも必要である。
ただし、自由を奪いすぎないこと。
自由を奪ってしまうと、何も抵抗できない「全体主義社会」になる。
全体主義の軍国主義国家は避けなければならない。
しかしながら、あまり自由にしすぎるのも間違っている。
全てのものを増やすのではなく、いくらか少なくしていかなければ、
現実は乱雑になってエントロピー(乱雑さの値)が増していくだけである。
自由にするのであれば、
むしろ、能力や才能のある人間の力が花開くような自由があった方が良い。
今のインターネットというのは、SNSで誰もが情報を発信できる代わり、
その量が多すぎて、玉石混合すぎて、
才能のある人間の作品が多くの馬鹿情報の中に埋もれてしまっている。
もっと、賢い人間を発見するための何らかの手段やシステムを作ってほしい。
たくさんの情報の中から、良いものを探し出すのは並大抵の努力ではない。
自分で見つけようとしても見つからない、
「ネットの中の神」を探す手段が必要だ。
そういうわけで、こういう問いが頭をよぎる。
すなわち、「自由は本当に正しいのか」ということである。
これについて言えば、むしろ、短絡的に「自由」という言葉で
考えることのできないものもある。
たとえば、ツイッターの自由が悪いからといって、
表現の自由や言論の自由すべてが悪いわけではない。
悪いのはツイッターであって、言論の自由までもが悪いわけではない。
しかしながら、だからといって、
「多くの場合自由はいいものである」と言えるかは疑問である。
「自由は間違っている」と感じても、おかしくはないだろう。
自由に代わる理想として、「平等」と言う人がいるが、
僕はあえて、もう一度「愛と平和」ということを言いたい。
愛と平和こそ、正しい理想ではないか。
人々を愛し、平和を追求する心は、
自由でも平等でも変わらない。
自由主義者でも社会主義者でも、
愛と平和は変わらない普遍的価値観である。
この価値観に基づいて行動すれば、
世界の人々は互いに理解しあい、
相手の素晴らしさを認め合い、
同じ理想の下に一緒に暮らせるようになる。
イエス・キリストなどの言う隣人愛とは、本来そうしたものである。
また、僕が思うのは、「自然と調和して生きる」ということである。
人間の考えることというのは浅はかなもので、
どんなに考えつくしたと思っても間違いが生まれ、
どんなに誠実だと思っていても、実際はまったく誠実ではない。
誰もが愚か者であり、誰もが馬鹿である。
よって、自然における「調和」が必要である。
僕たちは、神と一体になった時にだけ、本当の真実を悟ることができる。
自らの愚かさが認められない人間は、
愚かなまま、いつまでも愚かさを克服できない。
一度「何が愚かで何が賢明なのか」を身に染みて体験したものだけが、
賢明な道とは何であるかを知り、
賢明な人生を生きられる。
常に「自分は愚かである」と考えなさい。
自分を愚かであると考えること自体が、
他者に対する尊敬とリスペクトの念を生む。
愚かであることは、悪いことではない。
またひとついい経験ができたと思って、反省し、
もう二度と愚かなことを繰り返さなければいい。
賢明な人間になるための道は、それしかない。
自らを賢明だと考える人間は、いつまでも変わることがなく、
愚かなことを繰り返し、自分の過ちを見ようとしないものである。
しかしながら、自分の愚かな点を直視すれば、
必ずその愚かさは消滅し、
あなたは真の意味で賢明な人間になるだろう。
その時、正しい「悟り」を人間は得るのである。
僕が考えるに、インターネットの奪ったものは、
「自立」ではないかと思う。
昔の日本では、情報と触れ合う機会も少なく、
それぞれの社会の構成員が、良く分かっていて、
きちんと自分たちの力でできるように、
社会を自立コントロールする必要があった。
社会がきちんと成り立つように、
きちんと頑張る必要があった。
コンピュータとインターネットは、そうした社会を退歩させた。
人々はいつでもスマホとネットで繋がるようになった。
そのせいで、人々は社会を維持する努力をしなくなり、
社会から「自立性」がなくなった。
全てが、同じ「ネット社会」の一部となるとともに、
人々の自立した自治社会がなくなってしまったのである。
しかしながら、僕が実際の社会を見るに、
そんなに悪い社会にはなっていない。
人々は情報の利器を得て、さまざまなことを簡単にできるようになった。
実際問題、そんなに思い込むほど悪い社会にはなっていない。
あえて言うとしたら、
「全てが簡単な社会は馬鹿社会である」とは言えるかもしれない。
簡単にするだけでは意味がない。
もっと、「ものごとを簡単にできるようにする」ということから、
離れた社会を作る、
すなわち、「難しいことを楽しむ」ような社会にする必要があるかもしれない。
難しいことを何もする必要がない社会では、人間は馬鹿になる。
言ってしまえば、昔のパソコンが面白かったのは、
「適度に難しかった」からである。
パソコンにWindowsを入れて、きちんと設定して使うということが、
誰にもできない高度なことだった。
ましてや、PerlでCGIスクリプトを作るなど、
一部の限られたエンジニアあるいはオタクにしかできなかった。
Linuxの管理も、昔はとても難しかった。
ましてやLinuxカーネルの開発など、誰にもできない「天才職人」だった。
今は、もう、そういう時代ではない。
パソコンも誰もが使える時代で、Linuxの管理も簡単、
CGIスクリプトの開発もRailsなど定石が決まっていて、
Linuxの開発について言えば、新しい機能をわざわざ作る必要がないくらい、
既に完成されたものになっている。
最近はむしろ、そういうものを「詳しくなればなるほど馬鹿になる」という、
負の側面ばかりが大きくなって、
「誰も作れない」から「誰も作りたくない」となってしまった。
ソースコードを読みたい人間も書きたい人間も居ない。
そう、「パソコンが楽しかった時代は終わった」のである。
インターネットも同じで、ネットワーク上でやり取りするだけで、
昔は「かっこいい物知りオタク」だった。
今では、そうしたインターネットは誰でも使えるのが当たり前で、
多少コミュニケーションができたからといって、何も凄くない。
インターネットのコミュニケーションは、馬鹿が当たり前で、
新しい発見のようなものはなく、時間をつぶしてただ遊ぶだけである。
これでは、面白くないものになるのは当たり前である。
また、さらに言えば、昔は新しい発想やアイディアが良く見えた。
たとえば、「UNIXがパソコンで動く」とか、
「Wikiでみんなで集合知を実現する」といったことが、
とても先進的で、世界を変えるように見えた。
実際のところ、今のインターネット世界では、
そうした「ブレイクスルー」は、既にほとんど実現している。
そして、実現しても、あまり大したことがないのである。
そのため、Linuxカーネルを作る意味もなく思えるし、
Wikipediaなど、何ひとつ面白く見えない。
これが、インターネットが面白くなくなった大きな理由である。
理想を信じよう。
どれだけ負けそうになっても、僕たちは理想を信じなければならない。
僕たちは、ものごとを決めるために、
人を殺したり、犠牲を払ったりしてはいけない。
支配や強制力によって、この世界をひとりだけの独断で変えてもいけない。
自由などどうでもいい。
自由という言葉を語る人間には、ろくな人間が居ない。
もっと、正しくこの世界を見ていれば、
現実にはそんなに人間の種類は多くないことが分かる。
たとえば、支配者と、救世主と、操り人形と、革命家と、愚か者と、神ぐらいしかいない。
それらはどれも馬鹿で、間抜けで、みんなから馬鹿にされるのが嫌いである。
そんな世界である。こんな世界に自由を唱えても、誰の得にもならないだろう。
平和が一番いい。
この世界で、そんなに自分の損得から争わない方が良い。
争えば争うほど大切なものを失い、
戦いのために全てを犠牲にする。
最初から、争わず、仲良くやった方が良い。
悪いことは全てパソコンのせいにすれば、この世界は生きるに容易い。
そういう風に、誰かのせいにして楽に生きるのは、
正しいとか間違っているとかではなく、生きる上で必要である。
そうした人間を非難するのは簡単だが、
実際は少なからず、自分も何かを誰かのせいにして楽に生きている。
失ったものを探すのであれば、どこで何を見失ったのか、
誰のせいにしたのか、それは本当は自分のせいだった、
ということを探せば、必ず忘れ物は見つかる。
自分がやったことを悔やむのをやめて、
誰かのせいにした何かが、何が本当は自分のせいだったのかを考えればいい。
言ってしまえば、僕が失ったものは「科学的理性」であり、
それは学校の試験勉強である。
なぜ失ったのかと言えば、それは自由とインターネットのせいである。
よって自由とインターネットをやめれば、科学的理性は取り戻せる。
そう、僕に今本当に必要なのは、学校に通って試験勉強をすることである。
分かっても大して意味はないが、それで正しい。
なぜそれが自分のせいかと言うと、
僕は自由とインターネットを使って、
みんなから科学的理性を奪ったからである。
そして、僕の失った大切なものは、「友達」である。
そして、僕は人生の過ちを友達のせいにした。
そして、自由とインターネットのせいにした。
しかしながら、自由とインターネットで現実の友達を失ったのは、
僕自身のせいである。
友達に興味がないなら、生きる意味がない。
そう、僕はそのように生きた。
そして、それら全てが、自分のせいである。
僕はインターネットを知っている。
昔のパソコンの世界をよく知っている。
だが、本当は、それが僕の世界を狂わせた。
インターネットの世界を無駄に知っていることが、
この世界でひとりで正しく考える知性を奪った。
インターネットなんか、知らない方が良い。
実際のところ、昔は科学的理性について、
「発見すること」や、「解明すること」であると考えていた。
だが、全てを発見し、解明し終えた今では、
科学的理性はもはや必要がない。
本当は、科学的理性とは、
発見することでも、解明することでもない。
自由自在に執筆することですらない。
科学的理性など、人間には必要ない。
必要なのは、「考えること」であり、
科学的理性が必要なくなった人間のことを、
人は「大人」と呼ぶ。
また、気付くべきなのは、
「理性=科学ではない」ということである。
理性と科学は全くの別物であり、
科学的理性だけを理性だと思うと、
子供の頃に培った本当の純粋理性を忘れてしまう。
デカルトやカントのように考える必要はない。
自分のすべきことが何であるかが分かっている人間に、
科学や哲学は必要ない。