永遠の青空とともにに戻る

=2023-10-25=

いろいろ

過剰なストレスのあること、いじめや差別のような辛いことを、拒絶せよ。

そのような、辛く苦しい精神をいつまでも受け入れているから、精神は恐怖と苦しみを永遠に感じている。

そのような辛いことを拒否し、拒絶すれば、世界とともに自分が治り、解放されて自由になる。

再体験をやめよ。

過去の自分は、狂って再体験と新しい知識を知ることが同じになっている。

再体験によって得られた知識は、まったく正しい知識ではないと知れ。

脳がおかしくパーキンソン病のような症状を示しているのは、再体験をまだやっているからだ。

恐怖を取り除くには、無意識の中にある恐怖を一度顕在意識に移すことだ。

心の傷、トラウマが、無意識から顕在意識に戻すと治るように、恐怖もまた、無意識から顕在意識に戻すと治る。

過去に経験した、「怖くない恐怖」を、一度、本当に「怖い」と思いなさい。「怖くない」といじっぱりを続けるのではなく、「怖い」と認めなさい。

戦争は怖い。支配は怖い。世界を滅ぼすのは怖い。そのような怖いことを、一度「怖い」と認めてやり、そして「もうそのようなことは終わった」と言えるようになったら、恐怖はなくなる。

昔は、自由と環境について、さまざまなことを全部考えていた。

たとえば、「自由な環境は変化する」のようなことを、すべて、この世界に存在する「自由と環境の理」として、定理と証明を書いた。

そのように、自由と環境という二つの知性から、この世界の「あらゆる神羅万象の想像力」を書いていた。

自由主義と社会主義を、「自由」という側面から比較していた。

自由主義の考え方と社会主義の考え方を、生産や労働や消費の側面から、「自由」という考え方によって、すべて比較してすべて考えていた。

そのような結果、僕はたったひとりで空想的社会主義を全部「自由」から考えていた。

まるでカール・マルクスの資本論のように、僕は世界のすべての自由を空想的社会主義的に考えた。

人為的な支配を否定せよ。

僕は、人為的な支配を行うのではなく、宇宙の自然な「生物の生態系の調和」の下、「自然な調和」という側面からこの世界のすべてを考えた。

それはまるで道教のようであり、僕は実際、そのような中から、道教と同じ、宇宙にある根源の原理である「道」を自分の思考から知っていた。

その道は、「経験から得られる人間の本来の人生」だった。

そして、僕は主観と客観、あるいは個別性と普遍性について、「同一から絶対に至る」という、まるでヘーゲルのような観念論をひとりで考えていた。

いろいろ2

自己内省的に、子供たちの心理を考えた。

自分がどうしていじめられるのかとか、自分の欠点はなんなのかとか、そのような問題をいったん、どこかに置いておいて、度外視して、さまざまな青春と受容の経験をした後で、その経験から反省することで、問題の在り方を考えよう。

自らがみんなに受け入れられた経験を十分にすれば、それ以上、学校の生活を送らなくても、自らは誰かに対していじめをせず、受け入れてほしい人のことを今度は自分が受け入れられる。

そこにあるのは、「壁を作らない」ということであり、「相手の意見や考え方を尊重する」ということであり、これは自由に見えて本当は「平等」の考え方だ。

そして、過去の僕は、自由を信じているように見えて、実際は平等を信じていた。

僕が信じていたのは、「誰かの自由を奪わない限りにおいて、すべての自由を無制限に許す」という、自由主義と社会主義を一緒にしたような、まるで無政府主義のような考え方だ。これを、「自由至上主義」と呼ぶ。

そして、そのような無政府主義的な自由至上主義は間違っていた。なぜなら、「善」ではなく「悪」を信じていたからだ。

「自由に反抗する」とか「自由を子供たちに与える」という言葉は、理想に見えて実際は悪を信じている。悪を信じているから、分かることがなくなって何も分からなくなる。

昔の僕は、善だけではなく悪の経験もすることで、この世界に存在するすべての経験をすべて知ろうとした。そして、それが一番知性を失う原因だった。

善を信じなさい。善を信じれば、きちんと分かるべきことが分かる。なぜなら、このような分からない病気になっている人間は、善を信じないせいで分からなくなっているからだ。

善とは平等と徳である。平等とは、自らに許されていることを誰かに対しても許し、階層や身分を作らず、支配するのではなく協力することだ。そして、徳とは、分からない人々のことをきちんと経験的にすべてが分かっている人が教え、導き、支配し、統治することだ。

善と一緒に、変化を考えなさい。変化とは物理現象であり、物理現象を考える上で必要なのは「本質的に考えること」だ。

この宇宙の物理現象を、「観察や実験などの経験的な手法による科学的方法」で考えることができる人間は、この世界のことがきちんと分かる。

そこにあるのは、「すべてのことには原因がある」という、「すべてに理由と根拠を求める」という考え方だ。そのように考えることで、この世界に存在するさまざまな理由と根拠を知り、自分の手で解明することもできる。

最後に、存在と時間を考えなさい。

存在と時間とは、すなわち、「存在が時間的にどのように変わっていくか」「時間の中で存在がどのように存在しているか」ということだ。

そこにあるのは、「人間の意識とものの関係」である。すなわち、人間の「意識」というものと「もの」というものがどのように関係しているか、どのような作用に依存しているかを考えることで、人間は「世界精神」ということを考えられる。そこにあるのは「精神的に物質を吸収する」ということだ。すなわち、経験と考え方を考えることで、理性の中に物体そのものの存在を吸収できる。これを「物体の実体化」あるいは「モデル化」と呼ぶ。

そして、最終的に至るのは、現象そのものの事象を考えるということ、すなわちフッサールの言う「事象そのものへ」だ。

そのように考えることで、宇宙のすべての「存在の理」が分かるようになるだろう。

注意点として、悪の道に絶対に染まってはならない。なぜなら、一度悪の道に染まると、ここに書いたようなことが全部分からなくなる。自らの知性を奪うような地獄を、自らの手で作り出す。それを「サタン」と呼ぶ。

だが、青少年は誰でも、これくらいを考えてサタンになる。なぜなら、青少年を突き動かすのは「自由への衝動」であり、それは「反抗的な革命への衝動」であり、それをいつまでも信じ続けている人間は必ずサタンになるからだ。

サタンから逃れる方法はひとつだけ、それは善を信じることだ。善を信じることでしか、サタンを克服することはできない。どんなに努力しても、どんなに異常を治しても、どんなに頑張ってもサタンには分からない。真に必要なのは「善を信じること」だ。それだけで、きちんと「今分からないこと」を神に教えてもらうことができる。

いろいろ3

自分に分かっていることを他人に教えるということから、自らが相手の問題をなんでも聞いて解決するような「導き手」になりなさい。

相手の意識に対して、ダイレクトに教えなさい。

相手に、自由な権限を与えなさい。環境的、社会制度的に、この世界において自由な権限を与えるということ、すなわち「可能性を許す」ということから、世界を変えられる変革の可能性を考えなさい。

啓蒙主義的に考えなさい。「命と人生の大切さ」と「自由とチャンスの可能性」から、「人々に自分が分かったことを教えることでこの世界を変える」という、世界と人生における啓蒙主義を考えなさい。

環境の変化と、場の意識を考えなさい。場に宿る意識から生物や自然のかけがえのなさを知り、環境の変化から文明的な歴史がどのような始まりからどのような未来へと至るのかを考えなさい。

権限を与えることを、「体験的に分からせる」ことであると考えなさい。子供たちを支配するのではなく、子供たちを自由にした上で、体験的に自らの成功や失敗から学習し、成熟し、成長し、最終的にひとりの大人あるいは王者になって、この世界を正しく統治できるようになり、あるいは、この世界を変革し救うことができるようになることを考えなさい。

社会のすべては、自由化することである。すなわち、この世界の全員が、不自由な立場やしがらみから制限されたことしか考えられないのを撤廃し、この世界の全員を自由にする、あるいはもしかしてそうなったとした状態を仮定して、そのような「絶対に自由な世界」を想定して考えなさい。これは一種の超越論である。

そして、すべてはチャンスと契機に至る。この世界のすべてはチャンスであり、契機であり、そこにあるのは「価値を実現する自由な可能性」である。そして、それはまさに多様性であり、自由主義と社会主義が共有する「自然にある潜在的可能性の実現」である。そのように考えることで、自由主義と社会主義は融和できる。そこにあるのは「平等という理想」であり、この世界全てを救済するために、バイアスのかからない、きちんと分かっている知識と知恵だけを述べれば、この世界はたったひとりの力であっても「平等な世界」へと体験的に導くことができる。

だが、自由だけでは世界はよくならない。この世界にあるたくさんの大切な価値あるものを守りなさい。人々は、失ってからしか気付かず、知らず知らずのうちに社会の保守派に騙されて洗脳された嘘偽りを言っている。だが、真に正しいとされる意見は、「真実」というだけで力を持っている。最終的に真に勝利するのは、そのような「真実」なのである。

そして、世界は誰かが支配しなくても、自由なままでも変えられると信じなさい。心理学的・社会学的に、自由を決して禁止しなくても、この世界を「真実に基づいて導いて変革する」ということはできる。一律に禁止するような平等ではなく、さまざまな多様性と柔軟性のある、単純な自由な決まりを作りなさい。同時に、そのような決まりは、現場を見て、実地的に当事者たちが決めることができるように、「変えられる可能性」や「コントロール権限」を与えなさい。そして、そのために、「可能性を与える」ということ、「独立性を高める」ということを行いなさい。

最後に分かるのは、「経験そのものの概念と本質が世界を変える」ということだ。これを「絶対経験」と呼ぶ。絶対経験は、相対的な経験である「経験の成立」を、人生的な「考え方の内省の変転と経緯」から絶対化したものだ。相対的に経験を考え、その相対的な経験を絶対的な経験から絶対化することで、この宇宙に存在するすべての経験を捉えられる。そこには「矛盾なくすべての可能性が根拠を持って成立する」ということが、「環境と人格の生起」から理解できる。それこそが「真理」であり、「最終的に行き着く仏の境地」であると言えるのである。

いろいろ4

そのように分かったことで、僕はまるで仏教の悟りのようなことを、自らの経験に基づく理性のみから分かるようになった。

そこにあったのは、「思い込みのない世界」と「歴史の必然」である。

「思い込みのない世界」とは、一切の思い込みや先入観のない世界だ。この世界がなんであるか、ということについての先入観が一切ない。そこにあるのは、「経験から分かったことをさらに高い経験から分かり、高みから世界の見方を変え続ける」という、「経験の内省の行き着く到達地点」だ。

「歴史の必然」とは、「世界には悪い人間はひとりもいない」ということだ。それぞれの人間たちは、自らの経験が正しいと信じている。間違ったことをする人間は、その間違ったことが悪いわけではなく、誰か「教えてくれるべき存在」が正しいことを教えてくれないから、間接的に悪いことをさせられている。だが、そのような「教えてくれるべき存在」はどこにもいない。だからこそ、自らがそのような存在になり、自らがこの世界に教えなければならない。

そして言えることは、「自らが頂点に立ってこの世界を導き、楽園を作り出す」という、「自由」とは真逆の考え方だ。だが、それが正しい。誰も教えてくれるべき存在がいないのだから、自分が教えなければならない。自分の手でこの世界を変えなければならない。そして、その変革を「自分なら必ずできる」と確信しなければならない。そのような確信は「今この状況ならば絶対にやりたいことができるはずだ」という衝動へと変わっていく。そのような「絶対にできるかもしれないことを実現してみたい」という「叶えたい欲求」こそが、この世界を真に変え得るのである。

最終的に分かること、それは仏教における「諸行無常」である。すべては、常にいつまでも存在するわけではない。過去のものはなくなり、やがて消え去っていく。そのような中で、自らがどのような花を咲かせることができるか、ということこそ真に問うべきことだ。そう、仏教の「諸行無常」こそが、真に哲学の最終地点であると言えるのである。

そして最後に、「文章を書く」という新しい趣味を得た僕は、「世界の可能性」と「認知的学習の変転」という、新しい旅に出たのである。

この人生を持って、北欧神話の女神フレイヤとする。フレイヤは北欧神話の中でもっとも女性的で美しい女神だ。フレイヤの導きを得たものは、必ずここまでの人生を生きられる。フレイヤを信じるものしか、真に「哲学者」になることはできない。そして、必要なのは、フレイヤのような美少女を信じることだ。それだけで、このようなフレイヤの導きを得ることができる。

一等星スピカの女神、フレイヤはここにあり。

ピアノに行ってきた

今日は、ピアノに行ってきた。

ベートーヴェンの「エリーゼのために」を、僕は昔、自分ひとりだけで練習して弾くことができるようになった。

だが、ピアノの先生から、「今のスキルならもっと直せばよく弾ける」と教えてもらった。

なので、「エリーゼのために」を、今のスキルでもっと上手く弾くことができるようになりたいと思う。

デザインの仕事

最近、デザインの仕事についていろいろと悩むところがある。

特に、昨日はデザインの仕事に行かなかった。朝、「作業所に行きたくない」と思って休んでしまった。

だが、今日はデザインの作業所に行くことができた。

いろいろと、僕は最近思い悩むことがある。今から、もし親が死んだとしてどう生きていくのか、分からないし、自分のやりたいことはデザインではないような気がしてしまった。

そういうわけで、昨日は夕方、ドライブで海に行ってきた。

夕日に染まる海を見て、僕はいろいろと気分が変わった。今のまま、もう少し頑張って生きてみようと思うことができた。

収入がないわけではない。作業所の工賃は微々たるものだが、ほかにも障害者年金や、ほかにも土地の関係で雑多な収入がある。親が死んだとしても保険金が入るし、親によれば障害者手帳を持っているせいで相続税も安くなるらしい。

そして、僕は大学に行かず結婚もしなかったため、貯金はたくさんある。だから、生きていくためにすぐに何もできなくなるということはない。

もう少し、頑張って生きてみようと思う。

世界はアメリカになる

残念ながら、世界はアメリカになる。

僕が今から、この世界をアメリカにする。

世界がアメリカになると、一時的に恐怖の世界になる代わり、放っておくとそれがよい社会になる。

アメリカには、恐怖が多い。そして、恐怖をきちんと感じると、その恐怖は死ぬ。

僕のように、精神の中にたくさんの恐怖がある人間は、アメリカによって、その恐怖が最大限怖くなって、その後に、その恐怖が死ぬ。

そして、恐怖が死んでしまうと、もはや恐怖はなくなり、怖くなくなる。

なぜ、恐怖が怖いのか。それは、恐怖とは「実際に起きることが怖い」ということであり、その「実際に起きること」が起きてしまえば、恐怖は怖くなくなる。

だから、世界をアメリカにすると、恐怖が一度最大限怖くなる。それは、恐怖がその時点で、「実際に起きること」を感じているからだ。

そのようなアメリカを続けていくと、この世界はよい世界になる。なぜなら、恐怖がなくなると、「楽しさ」を感じられるようになるからだ。

このような狂った人間は、「楽しさ」を一切感じない。すべてが恐怖になった状態の人間は、一切の楽しさを感じることができない。

だが、世界をアメリカにしたまま放っておくと、「楽しさ」を感じられるようになる。

それによって、この世界は楽になる。そう、世界をアメリカにすることで、この世界は楽園になる。

これがまさに、「心の病気を正しく治す方法」だ。だから、この世界をアメリカにすると、この世界の病気はすべて治る。

ピアノの練習をした

ベートーヴェンの「エリーゼのために」をピアノ教室で弾いて、「先生に言われたことを覚えたい」と思ったので、少しピアノの練習をした。

「エリーゼのために」を二回、エルガーの「威風堂々」を一回、ショパンの「ノクターン」を一回弾いた。

その後は、父親と一緒にYouTubeのバッハの曲を聴いていた。

そのような中で気付いたのは、「ひらがなを喋るのが間違っている」ということ。

僕は、日本語のひらがなを喋るから、すべて間違った「音の錯覚」しか言えなくなっている。

だから、赤ん坊に戻ったつもりで、ひらがなではないことを喋ればいい。

そうすると、「なんだかな」という言葉が出てくる。

子供は、みんな「なんだかな」という言葉で分かっている。その「なんだかな」という言葉をきちんと考えれば、「今自分が何を考えているか」が分かる。

これが音楽で分かったのは、そもそもひらがなの最初の「ひ」が、既に音と文字が関連付けられているのがおかしいからである。

音と文字を関連付けるのは間違っている。音は音であり、文字は文字であるべきなのである。

よく分からない時は分からなくていい

よく分からない時は分からなくていい。

僕はいつもひらがなを喋るせいで、ひらがながいつも分かっている。

どのような時にでもいつも分かっているのは、ひらがなを喋ろうとするからだ。

このひらがなが、僕にとってもっとも大敵である。

もう、ひらがなを喋らないほうがいい。頭の中で、自然に出てくる言葉を喋ればいい。

だから、よく分からない時は分からなくていい。

分かりたくないのに分かってしまうのをやめよ。そのために、ひらがなを自らの頭の中から排除せよ。

そろそろ治った

そろそろ、僕の精神は最後まで治った。

治ったことにして、治ったのと同じ恐怖を感じれば、どんな精神の異常でも治る。

そして、時計が世界を支配しているのが治せなくても、時計が治ったことにして、時計が治るのと同じ恐怖を感じれば、自分だけ時計は治る。

あとは、中学生に年齢が戻っていることが最後に残った。これはむしろ、あまり18歳にしないほうがいい。なぜなら、18歳は狂っているからだ。

よって、これですべて終わりだ。精神はすべて治った。これで、最後まで終わった。唯一、きちんと病気の治った人間だった。この病気を治せるのは、僕以外にひとりもいない。