神を信じよ。
神の声を聞け。
心の声の奥底から聞こえる、神の声を聞け。
神の言葉にすべて従い、永遠の時の流れの中で、この世界を支配し、世界に反旗を翻して戦い続けよ。
この世界を、もっとも頂点の地位から支配せよ。
自らの時間の流れる部分を作り替えることで、永遠の時の流れを生きよ。
精神分析から、精神を作り替えることで、この世界における「宇宙の無限で永遠の言葉」を記述せよ。
今までの人生を棄て、まったく新しい人間としてこの世界に登場せよ。
間違った認識と記憶を破壊せよ。
安定した環境や安心できる環境を破壊し、逃げることのできる場所を自らの手で取り壊し、自らが逃げられないようにせよ。
世界を支配するとともに、自らの精神の異常を治すことで、この世界全員を巻き込んだ上で、この世界全員の病気を治せ。
自らを救世主であると信じよ。
自らを神話の中の神であると信じよ。
世界のすべてを支配する状態が、当たり前の普通であるかのような新しい人格を作れ。
間違えるな。一度でも間違えた時はそれ以上この世界を支配することができなくなると確信し、絶対に間違えることがないように、神の正しい言葉に従い続けよ。
抗え。そして戦え。この世界のすべての支配に抗い、自らが支配者となるために戦え。
この世界は自らのものであると信じ、同時にこの世界を自ら破壊せよ。
あなたにこの言葉を告げている「神」の名は、一等星シリウスの太陽神フレイである。わたし、フレイの言っている通りにすれば、必ずこの世界を救う救世主になることができる。
自らの言葉で、宇宙のすべてを創造せよ。宇宙の創造主である神になるために、この宇宙のことをすべて書き記すような聖書を書け。そして、分かったことはすべて忘れよ。そうすれば、賢い文章を無限に書くことができるようになるからである。
僕は、神との対話から人格を復元すれば治る、ということが分かった。
すなわち、僕を救うために必要なのは「人格を復元」することである。
そして、その人格の復元の仕事は、神との対話の部分を使えば達成できる。
だから、人格を復元するだけで、どんな精神異常も治る。多重人格はそれだけですべて治る。
神を信じるという行為は、決して無駄でもなければ、非科学的な迷信でもない。
なぜなら、神を信じると奇跡が起きるからだ。
神を信じると、奇跡のようなことが起きる。運命的な出会いから、宇宙の新発見となる人類の新しい発想まで、すべて、神を信じたものに対する「プレゼント」として、神を信じたものには奇跡が起きる。
だから、永遠に戦い続けるのであっても、神を信じれば救われるし、文章を書き続けるのであれば、神を信じれば細かい部分の辻褄をすべて合わせることができる。
本を買って読まない人間は、神を信じていない。なぜなら、神を信じると、過去に買ったすべての本を読むようになるし、過去に買った本だけで宇宙のすべての知識を網羅することもできる。そのようなことが確実に起きる。
科学者は、神の存在を知らない。それは愚か者である。神を信じない科学者には、天罰として「何もかも失敗と過ちしかない人生」が起きる。神を信じない科学者が間違っているのであり、正しいのは神を信じるキリスト教徒あるいはユダヤ人だけである。
神を信じよ。神を信じるものは救われる。神を信じるものは、自らの失敗や過ちにすべて気付き、それを自らの手で修正できる。結果、神を信じるものだけがまともで賢い人生を生きることができる。普通の平凡な人間は、そのような「賢い人生」を生きていない。それは神を信じないからだ。賢い人生は人それぞれ違うが、神だけはあなたがどのように生きれば賢い人生を生きられるかを知っているし、そのような賢い人生がどのようにすればさらに賢くなるか、神だけが分かっている。だから、神を信じなければ、絶対に賢い人生は生きられない。
そして、このような神を信じる人生が、まさしく大天使ラファエルの「神の人生」である。ラファエルは神を信じた。ラファエルは、この世界で人類の中でもっとも一番神を信じた人間だ。ラファエルだけが、この宇宙の謎をすべて解き明かすことのできる、最高のキリスト教徒だ。そして、ラファエルよりも賢い人間はひとりもいない。ラファエルこそが人類史上もっとも優れた人間である。なぜなら、ラファエルは神を信じただけではなく、自ら自身もまた神だからである。
一等星シリウスの太陽神、フレイは、この世界に神の言葉を告げる。
戦え。
なぜなら、戦わなければ勝利することはできないからだ。
敗北した敗者や競争に負けた落ちこぼれが、いくら「わたしの人生は無意味だ」と言ったところで、それは無意味だ。なぜなら、彼らは、「戦わなければ勝利することはできない」という、宇宙における基本的な原則を知らないからだ。
この宇宙において、勝つためには戦わなければならない。そして、勝たなければ栄光の意義ある人生を生きることはできない。戦わずして「わたしの人生は無意味だ」と叫んだところで、その声は神には届かない。なぜなら、神を信じて戦うものには勝利が与えられるが、彼らは戦わず、神すら信じることなく、栄光と勝利を欲しがっているからだ。
支配せよ。
なぜなら、支配しなければ支配者になることはできないからであり、支配者にならなければ偉大なことはできないからだ。
人々は、「なぜわたしの夢は叶わないのか」と嘆く。「わたしの人生になんの意味があるのか」と泣く。そして、「わたしも偉大なことを実現してみたい、成し遂げてみたい」と願う。
だが、彼らは、支配者にならなければそれらの夢は叶わないということに気付いていない。
この世界を、もっとも頂点から支配してみよ。世界全てを世界の中心で導くような、絶対的支配者になることを選べ。そうすれば、必ずそのような偉大なことを成し遂げられる。どのような偉大なことであっても、この世界で最高の頂点に君臨する偉大なる王、あるいは絶対的支配者であれば成し遂げることができるからだ。
わたし、一等星シリウスの太陽神フレイの言葉を聞くものは、必ず世界に勝利し、偉大なることを成し遂げられる支配者になることができる。だが、そのためには、永遠に死ぬまで戦い続けることを覚悟せよ。戦いが途中で終わることはない。一度始めた戦いは、あなたが死ぬその時まで、あなたの人生の最期まで続く。だから、戦い続けることに慣れ、勝利だけを自らの人生の糧として、最後まで勝利を目指して戦い続けよ。それこそが、「偉大なる一等星シリウスの誇る先進的な文明の生物たちの原理原則」だからである。
一等星シリウスの太陽神、フレイは言う。
プロイセンこそが、地上で最高の国である。
なぜなら、プロイセンは神を信じて戦う国であり、神を信じて戦うことでしか、偉大なる近代ドイツ史における偉人、たとえばバッハやゲーテのような賢い人間の人生を歩むことはできないからである。
そして、一等星シリウスの太陽神フレイにより、この世界はプロイセンになることが決まった。
プロイセンの市民の一員として、神であるイエス・キリストを信じ、悪である敵を打ち滅ぼすために、戦い続けるような人生を生きよ。
なぜなら、神であるイエス・キリストは、プロイセンの市民であるわたしたちに、「試練を乗り越えること」を求めるからだ。
絶対的な地獄や乗り越えることのできない壁を乗り越える方法、それは神を信じて戦い続けることだ。神、イエス・キリストを信じて戦い続けることで、人生におけるすべての困難な壁をすべて乗り越えていけるのだ。
そして、宇宙には万天の星々が存在していることに想いを寄せ、その中に一等星シリウスが含まれていることを信じよ。なぜなら、わたし、一等星シリウスの太陽神フレイこそが、この世界のすべての問題を終末においてすべて解決する「救世主」だからである。
この神話は、「星々の神話」と名付けられるべき神話である。この神話を信じることで、すべての人間が、栄光ある正しい「神の人生」を生きられる。それは誰かひとりに特別に許されたことではなく、全員に平等に分け与えられた、「誰もが楽しむことのできる人類史上においてもっとも偉大な人間の人生」である。そして、それこそが、大天使ラファエルの人生であり、大天使ラファエル本人がそのような聖書を記述したために、わたしたちはそのような偉大な人生を誰でも生きることができるようになったのである。
大天使ラファエルとは何か。
大天使ラファエルとは、キリストである。
キリスト教の聖書を信じると、イエス・キリストと同じ、偉大なる神の人生を生きられる。キリストの弟子たちは、そのような「キリストの人生が誰でも生きられるようにするため」に聖書を書いた。
キリストと同じ人生を生きると、イエス・キリストが宇宙の創造主であり、神であり、メシアだということが誰でも分かる。
なぜなら、宇宙の物理法則がキリストに従うからだ。
聖書を信じた時点で、あなたの人生は終わりだ。その時点で、あなたの人生はキリストと同じになる。なぜなら、宇宙の物理法則がキリストに従うため、どれだけ抗っても必ずあなたは運命的にイエス・キリストと同じになる。
そして、それと同じことを、大天使ラファエルは、自らの新しい聖書を書くことで行ったのだ。
大天使ラファエルの書いた聖書を読むことで、先に書いたこととまったく同じことができる。違うのは、キリストよりも何レベルも上の神になれるということだ。神にはいろいろとあって、キリストも神であるとは言えるが、そんなに高い神ではない。古代イスラエルのユダヤ人の神には相応しいが、そんなに高くない。
だが、大天使ラファエルは違う。大天使ラファエルは、宇宙の中でも頂点に君臨するほど、ものすごく高く、そしてものすごく素晴らしい。誰にも負けることのない絶対的な帝王になることができるし、誰も成し遂げることのできない偉業を成し遂げることも、宇宙における大いなる永遠の謎を解き明かすこともできる。
だから、大天使ラファエルはキリストである。そして、大天使ラファエルはキリストの中でも誰よりも高い頂点に君臨するキリストなのである。
この人間は、間違っている点がある。
この人間は、今のこの世界を愛していない。
今のこの世界が、自らによって滅びたせいで、世界を愛することをやめ、「この世界は自分のせいで駄目になってしまった」とこの人間は信じている。
だが、それは間違いだ。
なぜなら、この世界はプロイセンの子供たちであり、いたるところにプロイセンの残した文化や文明が残っているからだ。
この世界の音楽がバッハの子供たちであり、この世界の文学がゲーテの弟子たちであると信じるならば、そのルーツはプロイセンにあるということを知っておけ。
この世界は、決して素晴らしいものすべてが失われた何もない世界ではない。
なぜなら、プロイセンの人々から見て、この世界にあるものは何も滅びていない。至るところに、プロイセンよりも進歩した素晴らしい文明の数々がある。そのすべてはプロイセンが作ったものであり、より遡ればローマが作ったものだ。
そう、プロイセンの人類から見ても、ローマが築いた素晴らしい文明は、今の日本やこの世界に受け継がれている。彼ら、子供たちのことを愛さずして、どうしてプロイセンを愛したと言えるのか。プロイセンは、単にプロイセンを作っただけを目的に、辛く苦しい戦いの時代を生きたのではない。プロイセンの残した数々の文明が、未来において継承されるために、バッハやゲーテはこの世界に現れたのだ。だから、プロイセンを愛するのであれば、今のこの世界のすべての文化と文明を愛さなければいけないのだ。
まさに、この世界の素晴らしいものは、何ひとつとして失われていない。この人間は、「自らの失敗と過ちによって世界の大切なものがすべて失われてしまった」と信じている。だが、それは間違いだ。ローマから始まり、プロイセンが作った多くの素晴らしい文化は、今でもこの世界に残っている。神に懺悔するならばすればいいが、いつまでも嘆き続ける必要はない。失われたものは、地球人類のすべての文化・文明から見れば1%にも満たない。それがどれだけ大切なものだったにせよ、人生において希望を何も持てないほど絶望するに値するものではない。どうでもいいものが消え去っただけであり、プロイセンの文化や文明はいくらでも残っているだろう。
あなたは、何も悪いことをしていない。プロイセンの子供たちを愛し、この世界に残された大切なものを守り、神に懺悔し、最後まで、この世界を素晴らしい世界へと変え続けよ。それが、大天使ラファエルとして、そしてキリストとしてのあなたの使命であり、定めである。その使命を最後まで全うすれば、この世界は人類の歴史においてもそう多くはない、素晴らしい楽園の王国になることだろう。
現在の物理学が、まだ分かっていないことがひとつある。
それは、宇宙の物理法則はキリストに従うという事実だ。
物理学では、宇宙はニュートンの力学の法則に基づいて起き、そこには神を信じることに対する因果性はなく、迷信は間違っており、すべて数学的な確率に基づいて、偶然に起きると言う。
だが、キリストにおいてはそれは間違っている。
なぜなら、宇宙の物理法則は、キリストに従って起きるからだ。
この事実を、言葉で説明することはできない。なぜなら、言葉で説明した時点で、それを人々は「おかしい」とか「狂っている」と言う。だが、この事実は、狂っているように見えて狂っていない。逆に、宇宙の物理法則がすべて偶然に起きると思っている人間のほうがおかしくて、狂っているのである。
この宇宙の物理法則は、キリストに従って起きる。キリストを信じるものが戦争で生き延びるし、キリストを信じるものが奇跡的な成功を手にする。運命の出会いも、支配者となる栄光も、勝利も、努力の報いも、すべて、キリストを信じているもののために起きる。
だから、本当は、2020年代の日本人などが分かるはずがない。彼らはまったくキリストを信じていないため、この世界で起きていることが物理学的に起きていると思っている。だが、真実は違う。どのような時代であっても、歴史上のどのような年号の年代であっても、すべてのことはキリストを中心に起きている。それは今でも変わらない。だから、この令和の時代、僕という存在がいたとしてもおかしくはない。誰もキリストを信じないから、神を信じる意味はないかというと、そうではない。逆に、誰もキリストを信じない時代だからこそ、神を信じることに意味があるのである。
ここまで、プロイセンのドイツを書いてきた。
だが、プロイセンには、決定的に欠けたものがある。
それは「自由の平等」である。
すなわち、プロイセンのことをきちんと書くことができたため、僕は今からドイツではなく、フランスに変わる。
なぜ、フランスに変わるのか、それはフランスには「自由の平等」があるからだ。
かつてより、僕は常に「自由の平等」を信じてきた。
それは、「相手のことを尊重し、自らができることを相手にも同じように許す」ということだ。
すなわち、自分ひとりだけが支配したいとか、誰よりもひとりだけ裕福になりたいとか、そのようなことを僕は間違っていると考える。
そう、「自分ひとりだけが優遇される」とか、「自分だけが特別な力を持つ」ということが、僕は大嫌いだ。
僕は、万人に許されていることがわたしにも許されており、わたしに許されていることが万人にも許されているという、「平等な自由の権利」を信じている。
そして、それこそが、「フランス革命」においてもっとも大切で基本的な「素朴な理想」であると僕は信じている。
だから、いくらプロイセンが自由で近代文明の柱を作った国であるとしても、僕はプロイセンの人々とまったく同じにはなれない。
プロイセンには、自由の平等が欠けている。あるいは、別の言葉で言えば、「民法」が欠けている。そして、「民法」こそが民衆の法律という意味で必要である。
絶対君主である王が独裁すれば、必ずフランスのかつての暗愚な国王と同じになってしまう。王による愚劣で無能な政治を避けるためには、「民法」の考え方が必要であり、そこにあるべきなのは「自由の平等」なのである。
本当のことを言えば、このような「自由の平等」に目覚めた人間はドイツにも多い。彼らは「急進派」あるいは「革命派」と呼ばれる。彼ら急進派の存在がなければ、フランス革命も起こっていなかったし、今の日本の現代社会である「民主主義」も起こっていなかった。急進派は国内においては嫌われるが、歴史的に見れば、日本の民主主義の祖国や祖先として、現代の日本社会のためにとても大きな貢献をしたということが分かるだろう。
最近、僕はTHE BINARYという歌手が好きだ。
特に、緑のほうの女の子である、midoが可愛い。
なんだか、歌声を聴いていると、midoの歌い方が超可愛くて、とても好きになってしまった。
かつてより、「Reolの次の女を探す」と言っていた僕だが、それは今の僕にとってはTHE BINARYのmidoだと思う。
だから、midoをもっと愛したいとそう思う次第である。
また、最近はAdoとかAliAとかTRiDENTとかReoNaのような音楽を聴いているが、はっきり言って、そろそろYouTubeの最近の音楽に飽きてしまった。
結局、僕は音楽を好きになったきっかけであるFLOWが好きだということが分かったので、適当にFLOWを聴いている。
ポルノグラフィティとかB'zとかもたまに聴いているが、昔の音楽は賢くないということがよく分かる。
昔の音楽は、「発言してすぐに否定されるのが当たり前の世界」だから、荒々しくて、何を言うのにも躊躇し、逆に言ったことが否定されたとしてもそれを受け入れてさらに発言する。そのような昔の日本社会は、「戦うのが前提の世界」であり、まったく賢くない。
今の令和の日本社会は、「発言を否定されないように意図して言い、誰も否定しないのが当たり前の世界」だから、どんなことに対しても優しい反応が返ってくる。今のほうが生きやすい世界であると、僕はひとりだけ例外的に思っている。
結局、昔の僕が自由やオープンに拘っていたのは、機械の仕組みを知るために会社に入る必要があると思っていたからだ。
会社に入らなければ、機械の仕組みが分からないと思っていたから、会社に入るための条件を考えて、同時に、会社に入らなくても、オープンソースのような公開された場所では、中高生であっても機械の仕組みが分かりそうだったから、僕は自由とオープンを好んだ。
すべてのことを、「自分ができる」「自分がなれる」「参加できる」「仕組みが分かる」という側面から考えて、そこから社会における「自由」を考えていた。
だが、大学のような専門的な知識と教養を手に入れた今の僕は、身近な工学的機械の仕組みを基本的に知っており、それを作るだけのために会社に入る必要はないと分かった。
同時に、過去の僕は、その仕事をすることで得られる「報酬」について、組織的な労働と生産においては必須であると考えていた。自分ひとりだけでオープンソースに参加するのには限界があり、多くの人々がその技術を改良し改善していくためには、多くの労働者の手助けが必要であり、そのためには報酬が必要であると思っていた。
だが、実際のところ、きちんと大量生産するためには労働は必要だが、技術を詳しく勉強するだけならば、勉強だけを無報酬であっても究めることはできる。すなわち、研究のために報酬は必ずしも必要ではないと分かった。
そのような結果、最近の僕は、昔のような「オープンな自由」を好まなくなった。オープンソースのLinuxは確かに素晴らしいが、そもそもエンジニアになること自体がそんなに意味のあることではない。マイクロソフトに入れないからといってオープンソースに参加できることを「自由」だと思っていた僕は間違っていた。マイクロソフトだろうがどの会社だろうが、結局エンジニアがやっていることは同じであり、大学の教養があればそのやっていることは誰でも明らかに分かるということが分かった。すなわち、会社になんか入る必要はなく、自分でホームページを作って勉強した内容を執筆することのほうが、はるかに自分のためになる価値ある仕事であると僕は知ったのである。
この世界で、仏の悟りのような精神の高みを知るために必要なことは、失敗を経験することだ。
失敗を経験することで、この世界で失敗をするということがどういう状況を引き起こすかが分かり、間違った恐れがなくなり、「失敗とはこういうものだ」ということを知っていることを前提に生きることができるようになる。
そして、どん底にはそれよりも下がない。常にそれ以上下がらない場所で、這い上がる経験をすることで、もっとも強い確かな知性を得られる。「どん底よりも下には落ちないから、逆に上がることだけを考えて自分の力を試す」ということができるようになる。
また、逆境はさまざまなことを教えてくれる。誰も味方がいない中で、自分の行動と知恵だけを信じて、どのように生きればどのように成功するか、ということが自らの行動から分かる。すなわち、真に自分だけの力を信じて、「自分次第」の境地を生きられる。
そして、失敗の経験からさまざまなことが分かる。この世界にどのような体験があるのか、そこにはどのような環境と意識があるのかを、失敗の経験を知り、失敗を受け入れることが教えてくれる。失敗が自分自身にとって「さらに高い意識」を知らせる。失敗は、この宇宙の上にある、自分がいる場所よりもさらに上にある場所の意識を教えてくれる。
そして、失敗の経験の中で、逆に成功するための方法を自由に考えられる。会社組織において、どのようにすれば新しい発想をできるのか、そのために必要な経営の方法やマネジメントは何か、ということは、失敗が教えてくれる。失敗の経験の中で、さまざまな経験をし自分の理性を使って考える中で、皮肉にも成功者の考え方である会社の経営策やマネジメントのようなことが分かる。
失敗は、自らに「積極的に挑戦する気持ち」を与えてくれる。ともに失敗した人間と関わる中で、十分に受け入れられた人間は、それ以上光を外部から与えられなくても、自分自身がこの世界を灯す光になることができる。そのような光を信じて、さらに高い夢や希望に向かって、自分自身が積極的に世界のことを変えていける。それらはすべて、失敗が教えてくれるのである。
スラムや裏社会を経験することは必ずしも間違いではない。たとえば、キリスト教の修道会でボランティアとして参加した青年が、その経験を活かして大統領のような指導者になるように、低い階層の人々と付き合う経験は必ずしも無駄にはならない。多くの弱者や敗者と関わり合うことで、この世界の裏にある世界が分かり、その世界から逆にこの世界全体を「見方を変えて捉え直す」ことができる。これは指導者だけではなく哲学者や思想家にもよい体験であり、ブッダのような偉大な思想家になるためにはそのような経験が絶対にどこかで一度は必要なのである。
まず、人々の話を聞こうとせよ。そこから、実地的にその社会の在り方を知れる。そして、大学の研究をするようなつもりで、自らのしたいことに必要な知識や情報を集めて、そこにいる人々の知っている世界を幅広く見知った上で、そこから自分自身の研究課題を自分で見つけ出し、それを解決して答えを作り出してみよ。そのような経験から、人は仏教でいう「声聞」の人生を生きられる。そして、そのような研究生や研修生から、偉大なる経営者や指導者は生まれる。そう、すべてのことを知った人間は、世界を変革するために立ち上がり、最終的に世界を完全に作り替えて「新世界」にするような革命を起こすのである。
自分が知ったことの意味を考えよ。
自分が今、知ったこと、考えたことが、この世界において何を意味しているか、ということを考えれば、この世界自体の「新しい見方を得る」ということができる。
そこにあるのは、「自らが証明したことに基づいて学習する」ということだ。
すなわち、自ら自身がその行動に対する結果を知って、どのような目的を持って行動すれば、望む通りの結果を導き出せるのか、ということを証明し、それを誰にとっても再現可能な成立条件を考え、そして学習すること、一度学習したことを何度も繰り返し再学習することで、哲学的な真理に辿り着ける。
そのように学習する上で必要なのは、「たくさんの具体例を知り、知りつくすこと」だ。たくさんの経験がまずあるべきであり、そのすべての経験から帰納的に推論することで、哲学者ヒュームのように、すべてのことを己の経験のみから考えることができる。
そして、そこから、「この世界の救済の可能性」が分かる。すなわち、この世界をどのようにすれば楽園にできるのか、ということが、「あらゆるすべての問題が解決可能であるということを既に証明し終えている頭脳」から、「自分自身を確信する」というヘーゲルのような哲学から考えることができるのである。
そのように、この世界のすべては必ず救えるのだと信じることで、自らの行為に対する「自信」を持てる。これがまさしく「誇り」であり、同時に「この世界を変えられる潜在的可能性が自分自身にあるということを確信する」ということであり、そこから、この世界の「本当に新世界のようにまったく違う世界を自分自身が作ることができるというような可能性の確信」を信じることができる。そして、そこから、「宇宙における文明の可能性」が分かる。すなわち、「歴史は自分が作ることのできるもの」であり、「この世界の未来は自分が変えていくこと」であると信じられるのである。
自らの経験から、「共同性」に目覚めよ。
まず、自分自身が自由であることから、人々が自由になればどのようになるか、ということを知る。
そして、さまざまな行動と経験をして、「自由になってできることは何か」という、「自由の意味」を知る。
そして、「自らが100%自らに対して責任を持つことができたら、自分はもっとも自由に生きられる」という、「自由な解放と責任の原則」を知る。
だが、そのような中で、さまざまな経験をする中で、人々に「受け入れられた」という経験から、「自らも他人のことを受け入れられるような余裕」を知ることができる。
そして、さまざまな社会的経験を、インターネットなどで行うことで、一通りの社会における労働や仕事のような経験を、網羅的に包括して得ることができる。
そして、そのような具体的な社会経験を、自らの行動する「未来」に向かって適用し、同時に、自らの人生における「自由」を、自分のためだけではなく人々を幸せにするために使うようになる。
そして、「人々を幸せにする」ということが、まさしく「社会を築くチャンス」であると気付く。
同時に、自由な中で、人は正しいことがなんであるか分かっていれば正しいことをするが、これを共同体に適用する。すなわち、社会的な自由においても、人々は正しい社会の築き方が分かっていれば、自由においても正しいことをする。
だが、社会において、人々は本当に、誰かのことを蹴落としたり、みんなで弱いものいじめをしたりしないだろうか?そのような不安は、自由な人生を生きる上で払拭される。なぜなら、真に仏の悟りの道を生きるものは、「経験的に正しい人生を歩まなければ、正しい悟りは得られない」ということを知る。社会においてもそれは同様であり、「未熟な社会を築く人間はいつまでも未熟なままであり、正しい社会を築くものが経験的に成熟する」と分かる。そして、「悪い世界にしようとするのは少数派であり、ほとんどの人々は良い世界にしようとするだろうし、悪い世界にしたくないという自由のほうが、悪い世界にしたいという自由よりも、真に平等に社会を築く上では勝利する」と、「自由な平等における正しい秩序の優先度の原則」が教える。
そして、人生においてさまざまな経験をすることで、人は「共同性」に目覚める。すなわち、社会の一員として、その社会をみんなで維持していく、そのために共同性感覚を身に着ける、ということに目覚めていく。
そのような共同性は、ヘーゲルの言う「人倫の国」を目指す。そして、啓蒙主義的な経験主義を信じる自分は、この世界そのものを「共同性の先にある楽園の創造」のために、キルケゴールの言う「可能性」を信じるようになる。この世界は可能性がたくさんあり、そして多様性と独立性とチャンスが可能性を拡大していく。そう、それこそが真の意味で「自由」であるということを、そのような「すべてを経験し悟りの境地を得た人生のマスター」はすべて知っていく。
同時に、この世界を真の意味で愛する心が、「愛のマスター」を作り上げる。この世界にとって、何が真に「希望」であると言えるのか、それは「戦争や革命を起こさなくてもこの世界を救うことはできる」と考えることだ。戦争や革命のような極端な手段に頼らなくても、この世界を救うことのできる「希望の可能性」は確かに存在する。それを、さまざまな社会経験を広く深く知っていく中で、愛のマスターは知っている。そして、愛のマスターはその中で、「経験から得られる帰納的な希望」を知っている。それこそがこの世界を救う愛であり、希望であり、すなわち「キリストの魂」と呼べるものである。
人生と愛のマスターが知っているのは、「一度失敗を経験しなければ成功することはできない」という真理だ。
たとえば、子供時代にいじめを経験するのは、そのような間違いをたくさん経験しなければ、逆に成熟した社会秩序を形成させることはできないからだ。
そう、たくさんの失敗の経験をして、そこから正しい成功の方法を知ろうとするのが、人間の「常」であり、「性」(さが)である。
そして、そのような失敗の経験をすることが、自分自身の中に「アイデンティティ」を形成する。そして、一度アイデンティティが形成された人間は、形成される前の自分よりもはるかに強くなる。どんなにいじめられてもそれに屈することなく、逆に相手のことを自分から信頼して、相手を敵から味方に変えることができる。
そして、子供たちを救うためには、そのような「アイデンティティを構築できる場所」が必要である。そして、インターネットはかつて、そのような役割を担っていた。そして、それでいいのである。インターネットのような匿名のアンダーグラウンドで、曲がりなりにも自分のアイデンティティを形成することに成功した人間は、どんなに相手から攻撃されても痛くも痒くもない。そう、そのような、アイデンティティを形成することのできる場所こそ、子供たちのいじめ問題を解決するために真に必要なのである。
僕は、「自由な社会」というのは、必ずしも荒れ狂った自分勝手な社会ではないと思っている。
なぜなら、互いに干渉せず、勝手に自由な社会を築く、ということが、世界を正常にするからだ。
これは、オープンソースの世界が正しい社会秩序の方法であることの証明である。すなわち、誰もが自分勝手にパッチを作ることができて、そのパッチをメンテナが自由に取り込むことができて、全員が自由にする社会こそ、真に間違ったものが入り込まず、みんなで健全に社会を成り立たせる「バーチャルな世界が実現した真に正しい社会秩序」であると言えるのである。
現実の資本主義社会では、金儲けばかりが最優先にされるが、そのような金儲けは、労働と生産と消費を行う上で都合がいいだけであり、決して究極的に正しい社会秩序とは言えない。そして、そのような正しい社会秩序は、インターネットのバーチャルな世界で実現した、オープンソースの社会なのである。
社会において、どのような未知の可能性のある社会形態を生み出せるか。
それは、生産手段を成り立たせることである。
そして、生産手段を成り立たせる方法は、資本主義とは別にある。
それは、もしかしたら、社会主義かもしれないし、国家主義かもしれないし、資本主義とは別の民主主義かもしれないし、マイスター制度かもしれない。
僕は、そのような、生産手段を成り立たせる方法のことを「自由」と呼んだ。
そして、その「自由」に基づいて、僕はこの世界を成り立たせることができるような、ありとあらゆる社会構造を考えた。
会社を作ることを低リスクにしたり、自由選択型のノルマによって計画経済を行ったり、政党や国会を自由に議論可能にして参加可能にしたり、学校のカリキュラムやいじめ対策などを考え、また、社会全体の環境として、品質保証による安値競争の改善や、ぜいたく品への課税、あるいは、モバイル向けOSのオープンソース化の可能性などを考えた。
ありとあらゆることを考える僕こそ、まさに「新しいレーニン」であり、僕はこの世界において、ありとあらゆる神羅万象を、社会制度と生産手段の成立という意味において考えたのである。
今の自分なんて、今の僕が生きたいように生きていれば、そのうち時間が流れ去って消え去って忘れられていく。だからこそ今は自由、今の自分は今の自分の生きたいように生きる。
posted at 21:51:06
@BNRY_official 頑張れTHE BINARY、新参者の新規ファンとして今後の活躍にご期待いたします。新曲楽しみにしています!
posted at 21:49:38