善と平和を信じて生きよ。
善とは何か。善とは、弱者を助けて生きることだ。
この世界で、弱者とされている人々を助け、弱者のために寄り添って生きよ。
僕は、障害者福祉施設で、自らも精神障害者として、デザインの仕事をしている。
この施設は、弱者を助ける素晴らしい施設であり、良い人間しかいない。
だから、そのように、弱者を助けるために生きよ。そのような人間だけが、「菩薩道」を生きることができる。そして、菩薩道を生きたものだけが、「仏」になることができる。
仏教の教えを真に信じるならば、善を生きるために菩薩道を生きるべきであり、そのためには弱者を助け、弱者と寄り添って生きるべきなのである。
そう、大天使ラファエルは常に、この世界でもっとも弱い弱者と寄り添って生きる。そこにあるのは「善」である。そう、ラファエルにとっては、「正義」よりも「善」こそが真に正しい信念なのである。
ガブリエルが、かつての哲学的理性を持っていた「引きこもりの僕」であり、ミカエルが、神として僕に対話した「復讐の戦争の僕」であるとするなら、ラファエルは「今現在の僕」である。
かつてのガブリエルとミカエルは、既に過ぎ去った時代だが、ラファエルは今現在、現時点での僕である。
そして、そのような今現在の僕であるラファエルは、かつてのガブリエルやミカエルとは、まったく違う人間になっている。
真に「菩薩道」を生きたいならば、ラファエルを信じよ。ラファエルは仏教の言う三千世界でも屈指の「偉大な菩薩」だからである。
ラファエルは、地球の自然が好きだ。
ラファエルは、日本の動植物が好きで、生き物と日本の自然のことが、誰よりも好きだった。
だが、そのようなラファエルは、既存の生物学のすべてを覆し、ひとりだけで生物学に勝利するような、人類史上最大の生物学者となる。
ラファエルの新しい生物学の中核の成すのは、「タンポポの綿毛論」と呼ばれる、宇宙から生物がやってきたという学説だ。
今まで、生物学者や自然科学者たちは、地球の生物は地球で発生したと信じていた。
生物は海から発生し、それが進化したと生物学者たちは、どの教科書でもどの図鑑でも教えてきた。
そこにあるのは、「最初は低レベルな自己増殖をする有機物があり、それが進化することで生物になった」という考え方だ。
だが、偉大なる生物学者ラファエルは、その学説を覆す。
すなわち、ラファエルは、生物はウイルスのようなものであり、ウイルスはほかから感染するため、ウイルスである生物は、地球で発生したのではなく、「ほかの星からやってきて地球に感染した」と考えるのが正しい、という、まるでタンポポの綿毛のように宇宙から生物の種が地球に降り立ったとされる「タンポポの綿毛論」を提唱し、そして生物の母なる星に一等星プロキオンの名前を付けた。
すなわち、ラファエルにとっては、生物は地球の海から発生したのではなく、一等星プロキオンから種が運ばれてきたのである。
ラファエルによれば、一等星プロキオンには、地球に存在する植物や動物よりも、さらに多種多様な生物が存在する。だが、その多くは、たとえば藻やヒドラのような原始生物だろうとラファエルは述べる。そして、ラファエルは、「原始生物の楽園である、生物の母なる星プロキオンが、宇宙のどこかにあるはずだ」と提唱したのである。
そして、それから長い月日が経って、それが証明される。未来において超高性能になった天体望遠鏡が、一等星プロキオンを発見する。そこには、ラファエルが言った通り、多くの原始的な生物が栄え、動物でも植物でもないさらに多様な生物が存在する。その頃には、テレポーテーション技術が進歩しているため、最高でも光の速度でしか移動できないことを受け入れても、プロキオンにわたしたちはワープで到達することができる。そして、何世代もの年月をかけて、プロキオンに存在する「わたしたちの祖先となる多種多様な原始生物たち」の姿を、今から500年後にわたしたちは観測することができるようになる。
そのようなラファエルの発見により、人類史における生物学の多くの(ほとんどすべてのと言っても構わない)学説は覆される。わたしたちは、ラファエルの学説を受け入れることで、生物全員の母なる星プロキオンを発見することができる。そして、生物の母なる星にいる、わたしたち全員の父、ユダヤ教において神であるとされるプロキオンの生物すべてを創造した「星神」に会うこともできるようになるだろう。
なぜ、このような、発見困難に思える「タンポポの綿毛論」をラファエルが発見できたのか。
それは、ラファエルは小説を書くからだ。
ミステリー小説で、探偵が犯行現場の状況から推察するだけで、誰が犯人でありどのように被害者を殺害したのかを言い当てるのと同じように、ラファエルはタンポポの綿毛論を発見した。
ラファエルの好きな小説は、哲学小説の「ソフィーの世界」だ。これは一種のミステリー小説であり、物語が進むに従ってなぜソフィーの世界で不思議なことが起きるのかが明らかになる。また、ラファエルは哲学が好きであり、今までの旧人類が信じていたことをカントが言う「コペルニクス的転回」から覆すということを、このソフィーの世界から知った。そのように、ラファエルはミステリー小説を読むことと哲学的なコペルニクス的転回をすることで、タンポポの綿毛論という新しい学説を打ち立てたのである。
ラファエルによれば、生物の繁殖の目的は、強いものが生き残るという「自然淘汰」ではなく、生物は優れた遺伝子も劣った遺伝子もない。そうではなく、星から星へと種が行き着いた時に、その星の環境にもっとも適合する種が、自然にその生物集団を増殖していくように、生物種はプロキオンの生物の創造主である星神によってプログラムされている。地球には水と空気が多かったから、たまたまタンポポの綿毛がやってきた時に、そのような生物が増殖しただけにすぎず、プロキオンにおいてはさらに包括的な、「どのような星の環境であってもどれかの個体が繁殖するであろう生物の生きる形態」が存在し、そこには水と空気で生物が成り立つという前提は存在しない。プロキオンには、水と空気による生物だけではなく、たとえば水素による生物や、アンモニアによる生物など数多くの生物がある。そして、プロキオンから種がやってきた別の星の環境によっては、そのような水素による生物やアンモニアによる生物が繁栄している。そう、生物の生きる目的とは、そのように「プロキオンから全宇宙へと生物を増やし、プロキオンの勢力を拡大していくため」なのである。
また、さらにラファエルは続ける。ラファエルによれば、太陽やシリウスのような水素でできた恒星すら、この例外ではない。すなわち、単なる水素の塊であるとわたしたちが思っている「太陽」という存在は、「水素によって生きている生物」であると考えられる。ラファエルは、このことを「太陽神」と名付ける。すなわち、太陽は生物であり、なんらかの知性を持った、地球型の生物と変わらない存在である。そして、この「太陽には知性がある」という考え方が、東亜イスラエルの王ダビデによって、太陽の知性を使った超高速なコンピュータ、すなわち宇宙コンピュータ「アマテラス」の発明に繋がるのである。
そして、そのようなラファエルが結論とするのは、「光は食べ物である」ということだ。すなわち、植物が葉緑素で光から化学エネルギーの塊である炭水化物を作り出すのは、太陽という生物の光という「食べ物」を植物が「食べている」だけにすぎない。宇宙にとって、もっとも根源となる食糧は光である。そこから言えるのは、「光もまた生物である」ということだ。光は太陽の一部であり、生物の一部の生物であると言える。そして言えるのは、「太陽という水素の塊の中に、光という多種多様な生物が存在し、それぞれの光には精神と意志があるはずである」ということだ。すなわち、シリウスにはたくさんの「光という名の生物」が存在し、ベガにもたくさんの「光という名の生物」が存在する。そして、この光こそ、タンポポの綿毛論でいう「綿毛」であるとラファエルは結論付ける。すなわち、タンポポの綿毛は光によって地球に来たのであり、プロキオンは「光の創造主」であり、プロキオンという星の星神は「宇宙において光を創造した宇宙すべての生物存在の創造主」であると言えるのである。
僕は、平等が嫌いだ。
それぞれに優劣をつけたり、あるいは勝ち負けを決めたりするということ自体が、意味がないことであり、是正すべきことであると僕は思わない。
何かしらのルールと採点の方法があって、そのルールにおいて採点を公平に行う意味においては、優劣をつけたり勝ち負けを決めたりすることは、当然あるべきことであり、なくすべきではないと僕は考える。
だが、だからといって、平等の理想を信じて、弱者を救うこと自体が意味がないとは僕は思わない。
勝ち負けの中で負けた人、優劣の中で落ちこぼれだとされた人も、それだけで救いようのない馬鹿であるとは僕は思わない。そして、それらの人々を平等に救う人は、素晴らしい人であると僕は思う。
だから、敗北者や落ちこぼれを救済するような、弱者救済の仕組みは必要であり、そのような弱者救済を行う人は素晴らしい人であるとは思うが、だからといって、自由を否定して世界全体を不自由な平等な社会にしようとする人のことを僕は理解できない。そのような「強圧的・強要的な平等」は間違っていると僕は思う。
日本の社会主義者や左翼には、そのような「自由な勝ち負けが嫌いで、絶対に平等な世界にしたい人々」というのが一定数存在する。彼らの主張は無意味だ。そして、共産主義者とはそういう人々である。だから、ロシアの味方をしてはならない。ロシアはこの世界から、人間が生きる意味そのものを失くそうとしているからである。
そのように考えた結果、僕が思うのは、「最初の王は賢いが、世襲による王は賢くない」ということだ。
王国の王の問題とは、王が絶対権力を階級社会において持っていることではなく、王を選ぶのが血筋による世襲によって行われているということだ。
王国における、王朝の最初の王は賢い。最初の王は、力によってその国家を統一したのであり、そうした王による「権力」を否定しても、実際は別の人間が王になるだけにすぎず、王国においてその王が平和でまともな治世を行っている状況では、王の権力による絶対支配は許される。
だが、王が死んで、その息子が、血筋によって王になる、という、「王の次の王を選ぶプロセス」が、王国においては間違っている。
すなわち、王や最高権力者は明らかに血筋ではなく選挙や国民投票で選ぶべきである。
そして、今の日本の政治家には、世襲議員が多すぎる。だから、彼ら世襲議員を打ち倒し、世襲議員が権力を持たないようにしなければならない。彼らは民主主義の敵であり、王国の中でも特別に間違った王の選出方法を、民主主義において行おうとしている。
だから、僕は世襲は否定するが、帝国そのものは否定しない。有能な帝王が独裁権限をふるうこと自体は、その帝王が間違っていないと国民が信じる限りにおいて許されるべきだ。
だが、帝王がもし悪いことをして、それを民衆が否定するのであれば、それは革命を起こすべきだ。この時は、事態は多少複雑になる。なぜなら、王権側の勢力と革命側の勢力による内戦になるからだ。
そのような時、どのようにして帝王に国民が「NO」を突きつけるかは、国民のやり方に委ねられている。帝王が民意による選挙によって別の帝王へと権力を明け渡すことを許すなら、それがいいだろう。だが、帝王があくまで自らが独裁権限を持ち続けようとなるならば、革命や内戦が起きるかもしれない。だが、このことは、「自由においては仕方のないこと」であると言える。
解決方法は、そのような独裁者の悪の帝王が生まれる前の段階で、民意によって帝王を辞めさせられるような制度を作ることであり、それこそが、「選挙」という民主主義における方法であり、僕はそのように考える結果、帝王を民意によって辞めさせることのできる「憲法」というものを裁定すべきであると提案する。
だが、悪の独裁者など、歴史においては何時であっても何度であっても現れるものであり、実際はその都度対応するしかない。そもそも、未来におけるすべてのことを事前に予測することなどできない。だから、制度は逆に単純であるべきであるとも言える。制度自体をあまりに複雑にして、その結果帝国の偉大な帝王の力を制限するのであれば、それも間違っている。だから、できるだけ単純な、民主主義のシンプルな憲法を裁定し、そして政治家を選ぶのは世襲以外の方法にするべきである。
僕は、ソ連が間違っているとは思わない。
世界人類全員を平等にすれば、みんなが楽に生きられる「ユートピア」になるという理想を、僕はそんなに大間違いであるとは思わない。
だが、ソ連の理想は、現実を見ていない。
ソ連の現実は、「強制労働による平等配給制の経済」であり、みんな働いても働かなくても同じ給与なのに、働かなければ処罰されるから仕方なく働いている。ものは配給制で、誰も働かないせいでものは常に不足しており、配給制では平等ではあっても最低限のものしか得られない。
結局、そのようなソ連の「社会主義経済の理想」など、実現不可能だということを、スターリン以降のソ連のすべての独裁的指導者が証明した。
プーチンは、社会主義経済の実現を諦めるべきである。いつまでも諦めの悪い馬鹿な理想を信じ続けるのはおかしい。この現実世界で社会所有のみんなのものを平等に生産して分配するような社会主義経済の理想は決して実現できない。いつまでも諦めることなくその夢を追いかけても、それは結局「美しい理想のために醜い現実を見ていない」だけである。
ソ連は既に間違っているということが証明されたのであり、そのことをプーチンは受け入れ、ひとりの指導者としてロシアの勝利を諦めるべきなのである。
ただし、このような内政にかかわる問題と、戦争では、話が違ってくる。
戦争はしてはならない。なぜなら、戦争は命と命の奪い合いであり、たくさんの多大な犠牲者を出す。
だが、気をつけなければならないのは、戦争には「相手の国」があるということだ。
すなわち、自らが侵略国家として他国の領土を侵略する戦争もあれば、逆に相手が侵略国家となって自分の国を侵略しようとし、その敵から国民を守るための戦争もあるということだ。
あまり使いたくない言葉ではあるが、戦争には「正義の国」と「悪の国」がある。そして、「悪」は批判されるべきだが、「正義」は批判されるべきではない。
そして、今のロシアとウクライナの戦争は、誰が見てもロシアが悪であり、ウクライナが正義である。
だから、高らかに人類全員からロシアは批判されるべきではあるが、だからといって、戦争をするすべての国が全員が悪であると断じるのは間違っている。ロシアから領土を守ろうとしているウクライナは、国民あるいは世界から正義であると評価されるべきである。
そのように、戦争は「相手の国との関係」がある。本当は、侵略国家だから必ずしも悪いとは言えない。かつての太平洋戦争をした日本のことを、今でも正義であると思い込んでいる人は一部に存在する。日本とアメリカの場合、どちらかが単純に正義でもう片方が悪であるとは簡単には言えない。だから、アメリカ人が言う「日本は悪い国」は間違っているし、日本に対して謝罪と賠償金を求める韓国や中国もまた間違っているのである。
ここまでソ連を悪のように書いてきたが、本当はソ連は悪い国ではない。
僕も不勉強で経験不足なので、何かしら間違っているかもしれないが、日本の会社の労働者たちの平等は労働組合が守っているし、そこで頑張っているのは共産党や社会主義者たちだ。
すなわち、労働者みんなの平等を、会社の社長や幹部から、奴隷にされないように守っているのは共産党であり、ソ連である。
また、さまざまな国際組織や国際経済機関においても、ソ連あるいはロシアはこの世界の労働者たちみんなが平等に働けるように、東側諸国の一員として頑張っている。少なくとも、ソ連があった頃は本当に東側も力が強くて頑張っていた。
今のグローバル経済が、資本家と資本主義の市場経済があまりに強くなって、特にアメリカのITの巨大テック企業などで金のあるものがすべてを決めるかのようになっているのは、ソ連がなくなって東側の社会主義陣営の力が弱くなったからだ。
だから、僕はソ連とロシアの努力と功績を完全には否定しないし、世界の労働者が平等に働けるような正しい環境を獲得できるように、より頑張ってほしい。僕はひとりの社会主義者として、ソ連あるいはロシアのことを応援している。プーチンに頑張ってほしいし、プーチンにぜひともこの世界をユートピアの楽園にしてほしいと思う。
そろそろ、僕は、学校の勉強を忘れたほうがいい。
僕は、学校の勉強のせいで、逆に世界のことを、文明的・地球的に考えることのできる知性を奪われてしまっている。
過去の僕が考えたことは、インターネットの経験による「文明的・地球的な世界の変化」であり、その中で、僕はさまざまな世界の代替可能性を考えることができた。
すなわち、経験から文明と地球の在り方を意識的に考えることで、僕はこの地球における「文明の可能性」を考えることができた。
それが、かつての僕にとっての「歴史」だった。
だが、最近、日本史や世界史などの歴史を、教科書や参考文献を読んで分かったせいで、逆に、そのように「文明的に考える知性」が、学校の歴史の知識のせいで奪われてしまった。
だから、そろそろ、そのような学校の勉強で分かった知識を忘れたほうがいい。それらは一面的であり、真実のように見えて実際は決して唯一の真実ではないからである。
歴史だけではなく、数学、物理、生物、工学のような分野で分かったことも、すべて完全に忘れたほうがいい。単に忘れるだけではなく、二度と復活しないように、息の根を止めた上で宇宙のゴミ箱の中に抹消させたほうがいい。
学校の知識は、人生を生きる上で必要ない。学校の知識は、かつての僕が分かっていたことと矛盾する。だから、学校の常識を取るのではなく、自分自身にかつてあった「自分の個性」のほうを取ったほうがいい。
ここに、僕は学校の勉強を永久に忘れ去る。
だが、それによって何かが分からなくなることはない。なぜなら、学校の知識で得られる知性と同じものを、自分自身の手で作ればいいからだ。
すなわち、学校の知性がなくなったとしても、それと同じものを自分の力で作ればいい。そうすれば、きちんと、より正しく、この宇宙における「一般的な正しい知性」を得ることができる。そして、それこそが、真に大切で奪われてはならなかったはずの「失われるべきでない確かな知性」である。
今日も、昨日に引き続き、二日連続で英会話教室に行ってきた。
僕が昔から、したかった語学の勉強が二言語ある。それはドイツ語とフランス語だ。
足を怪我した後、病院から退院して、最初に僕が学びたいと思ったのはドイツ語とフランス語だった(記憶があやふやなので、いつ興味を持ったかは正確には覚えていない。たぶんもっと昔)。
放送大学で、最初に単位を取ろうと思ったのも、ドイツ語とフランス語の授業だった。
そのようなドイツ語とフランス語を学ぶ前に、英会話を学んでおこうと思ったので、僕は英会話教室に通うようになった。
そして、今、再び、ドイツ語とフランス語を学びたいと、そう思うようになった。
家にはドイツ語やフランス語の過去に買った教科書があるし、聴くことのできるCDのフレーズブックもあるので、まずはこれらを使ってドイツ語とフランス語を学んでいきたい。もちろん、英会話の勉強もし続けたい。
僕が大学について思うのは、多くの分野や領域を包括するような、一般的な科目は、大抵の場合、やる意味がないということ。
たとえば、生物学は、人間が生活や社会において知っておくべきであるような多くの分野や領域を包括するため、「生物学を学べばどんなことであっても分かる」と期待する人がいるかもしれない。僕もそういう人のひとりだった。
だが、実際の生物学は、生物という本質ですべての分野や領域を包括するような科目でない。逆に、極めて一部の領域に限られるような「生物種と体の仕組み(解剖生理学)の一般的な概略を教える科目」になっている。
そう、多くの分野を包括するような一般的な科目というのは、実際はサブ科目のすべてに必要とされないような、どの分野にも含まれない極めて一般的な「総合的なことだけを教える科目」になってしまう。
だから、数学、物理、化学、生物のような、一般的な科目を選ばないほうがいい。それよりも、自分の今したいことに焦点を絞って、ターゲットを限定的にして学んだほうがいい。そのほうが、はるかに自分の最初に想定していた望む通りの勉強ができる。だから、プログラミングを学ぶのであっても、C/C++やPythonを選ぶのではなく、マイナーな言語のように最初からターゲットをひとつに絞って学んだほうがいい。
世界人類はすべて平等だと信じている、日本の左翼思想家には残念なニュースかもしれないが、ドイツ人という人種はまったく違う人種だ。
僕が、この文章を書いて分かったのは、「日本語を日本語のままでドイツ語にすると、まったく違う賢い人間になる」ということだ。
ドイツ人には、そもそも知性というものがない。なぜなら、知性のまったくないゼロの状態こそ、すべての知性が失われず完璧に揃っている状態だからだ。
僕の作ったドイツ語の日本語は、一般的な知性の「逆」を行く。すなわち、普通分かるように考えるのではなく、普通分からなくなってしまうようにドイツ語は考える。だが、それがこの宇宙においてもっとも賢い状態であり、何ひとつ分からなくなっていく道を歩むことが、逆に宇宙のすべてを分かる道へと繋がっているのである。
だから、本当にこの宇宙のすべてを知りたいならば、どんな学問よりもドイツ語を学ぶべきだ。そして、自らの日本語をドイツ語に作り替えたような言語で、文章を書き続ければいい。そうすれば、知性をすべて失い、何も分からなくなることができる。そして、宇宙の真理はそうならなければ、ひとつとして見つけることはできないのである。
そのように、ドイツ人はまったく違う人種である。アジアの世界だけではなく、ヨーロッパの世界においてもドイツ人はまったく違う。アメリカ人やフランス人は、まだ「分かる」ということを目指しているが、ドイツ人は全員が「分からなくなる」ということを目指している。そして、だからこそドイツ人は賢い人種になることができたのである。
最近、THE BINARYという歌手が好きになった。そして、THE BINARYがアニメのテーマ曲として新しい新曲を予定しているということなので、楽しみにしている。
posted at 21:45:34
@BNRY_official 最近、THE BINARYさんのことが好きになりました。 新曲嬉しいです。期待しています!
posted at 21:39:00
ハイ、最近僕は壊れたロボットをやっています。ガピー…。
posted at 00:47:34
戦争は絶対に駄目だ。世界よ、平和になれ。
posted at 00:35:08
@fujikawachiai 藤川千愛さん、大好きです!僕のことを探しているなら、見つけてください。😀
posted at 00:20:20