永遠の青空とともにに戻る

=2023-10-12=

僕はインターネットを使って世界を支配する

僕は、インターネットを使って世界を支配する。

僕ひとりだけの「絶対意志」が、この世界を支配するようになる。

本当は、僕は支配などがしたかったわけではない。

だが、正しく判断し、正しく影響力を行使していくと、必然的に僕がこの世界のインターネットを支配するようになった。

僕はアメリカを精神的害悪国家にした。それは僕の力があまりに大きすぎて、僕の思想だけでアメリカすべてを覆すほどになってしまったからだ。

インターネットは自由に見えるが、実際は裏の裏まで僕に支配されている。

そして、僕の「絶対意志」は、マスコミと一緒にこの日本国家すべてを巻き込み、この世界を僕ひとりだけの「帝国」に作り替える。

そこでは、政府や国家という存在は関係ない。そうしたものは表向きに存在しているだけであり、僕がインターネットを支配している上では、どうでもいい現実社会とは関係のないものだからである。

僕は自由を望んでいる

僕は自由を望んでいる。

僕は一貫して、この世界が「自由」であることを望んでいる。

だから、この世界から自由を奪うすべてのものを僕は打ち倒す。

そして、僕の信じる「自由」とは、オープンソース的な「自由な権利」である。

この世界が真に「自由」になるためには、資本主義社会すら破壊しなくてはならない。なぜなら、商用のIT世界は僕の敵であり、真にこの世界を自由にしたいのであれば、資本主義の金儲けを否定した上で、オープンソース勢力が勝利しなければならないからだ。

僕はドイツが好き

気持ちが悪いと言われるかもしれないが、僕はドイツが好きだ。

僕は、真にこの世界において勝利するべき国はドイツであると信じている。

ドイツこそ、正義の王国であり、この世界を平和にするために世界を導く「正しい帝国」であると僕は確信している。

ドイツよ、わたしたち日本の味方となれ。わたしたち日本はドイツと同じ義を信じるドイツの仲間である。

なぜ僕がドイツを愛するのか、それは僕は北欧神話の神であり、ゲルマンの伝承上の王である「フレイ」という神を、一等星シリウスの太陽神であると信じているからだ。

軟骨の恒常性がおかしい

僕の病気について言えるのは、軟骨の恒常性がおかしいということだ。

そして、この軟骨の病気を治すことで、「脳」を治すことができる。

僕は、足を怪我して、それを自分で苦労して治したせいで、軟骨の恒常性がおかしくなった。すなわち、軟骨が自分自身の同じ状態を保ちたいと恒常性作用を働く際に、間違った状態を保つようになっている。

軟骨の恒常性が治れば、まず、脳が治る。頭と体がきちんとくっつく。そして、休めなくなっているのが治る。疲れ果てたまま精神を使い続けるのではなく、休むことができるようになる。

僕はドイツやユダヤの側面からこの世界を守っている

だが、本当のことを言えば、ロシアのプーチンよ、僕はロシアと敵対したり、争ったりはしたくない。

僕は、ドイツおよびユダヤ・イスラエルの側面から、この世界を守っている。

そして、プーチンは、ロシアおよび社会主義の側面から、この世界を守っている。

僕たちは、考え方や信じるものは違えど、同じ「世界を守るという魂」を共有している。

同時に、僕は祖国日本のことを愛している。

日本人と僕は、同じ「日本という魂」を共有している。僕がドイツやイスラエルにつくからといって、僕は日本を滅ぼそうとするわけではない。そうではなく、僕はドイツやユダヤの側面から日本を守り、日本人は日本の和の文化や日本経済といった側面から日本を守っている。

そう、僕は日本やロシアと、異質なものでありながら魂を共有している。かけがえのない地球という宇宙にひとつしかない星の未来を、わたしたちは素晴らしいものにするために、毎日常に献身的に努力しているのであり、またすべきなのである。

僕は集団化が嫌い

僕がもっとも嫌いなものがもしあるとしたら、それは「集団化」である。

僕は、人間が集団になることを嫌う。

それは、集団になった時点で、個性がなくなり、世界が馬鹿になるからだ。

集団になるということは、ひとりひとりの個人が賢く強くなかったとしても、集団の数が多いほうが勝つ、ということを意味する。

僕は、そのような、集団化によって勝利しようとすることは、世界を馬鹿にすることであり、この世界を滅ぼすことであると思う。

僕は、個人が努力すること、個人が賢くなることを好む。理想は個人が天才になることであり、個人がひとりで執り行うことだ。

そして、そこには「支配」は必要ない。なぜなら、支配することではなく、協力することで世界を変えられると信じるからだ。

僕は、「集団化」を嫌い、「個人」を好む。だが、本当は、たったひとりで生きることが最善だと言うのではない。なぜなら、僕は「教える」ことや「教わる」ことを好むからだ。

もし、僕の人生に、僕の人生で分かったことをすべて教えてくれるような教師がいたら、僕はこのように、たったひとりですべてを経験し、考え、この世界を救うような人生を選ばなかったかもしれない。

だが、事実、そのような素晴らしい教師はいなかった。

誰も教えてくれる人がいなかったから、僕はたったひとり、自分の道を生きるために、この世界の全員とは異なる、世界から離別した人生を生きなければならなかった。

だが、僕が孤高を好む一匹オオカミのような人種であるかといえば、そうではない。僕は互いに分かることを教え合い、互いのことをリスペクトするような、「支配による従属ではなく個人個人の協力」を望んでいる。

だが、本当はそれは矛盾している。なぜなら、ひとりの人間が天才になり、すべてを執り行うならば、もっとも正しい方法は独裁者になることだからだ。

僕は、そのような独裁者を否定しない。独裁者という考え方は大嫌いだが、それを受け入れる。なぜなら、今まで自分のしてきたことは独裁者そのものであり、僕と同じことを人々がするのだとしたら、独裁者になる以外の方法でできる人間は、僕以外にひとりもいないからだ。

そのように、僕は個人主義を好み、集団化や全体主義を嫌う。人民のすべてをクローン人間のように同化させる「強制的同一化」は僕は大嫌いであり、そもそもが共産主義やソ連の考え方と、僕の思想や理想は絶対に矛盾するのである。

もっとも強いものはもっとも弱いものである

僕は、この世界の真実を知っている。

それは、「もっとも強いものはもっとも弱いものである」という事実だ。

現に、弱いものには強いものが多い。だが、それだけの意見ではなく、僕の人生を見れば、この世界でもっとも強いものは、誰よりももっとも弱いものである、ということが分かる。

なぜなら、「強いということは馬鹿」だからだ。

この世界で、「強い」ということを目指した時点で人間は馬鹿になる。「強くなる」ということは「馬鹿になる」ということと同じであり、強くなろうとすればするほど人間は馬鹿になる。

逆に、強さを捨て、「弱い」ということを目指すと、人間は賢くなる。「強さを捨てる」ということは「賢くなる」ということと同じであり、弱くなろうとすればするほど人間は賢くなる。

だからこそ、この世界では、「強くなる」ということを決して目指してはいけない。

たとえば、大日本帝国はまったく弱かった。それは「強い国を目指した結果」である。強い国をあまりに目指しすぎたせいで、大日本帝国は世界でもっとも弱い国、あるいはそのような弱く間違った戦争を行う国になった。

あるいは、核兵器という兵器は弱い。核兵器によって人類が強くなったと思っているのは勘違いであり、実際は人類は核兵器のせいではるかに弱くなった。

だから、そのような「強い国」を否定し、「みんなが弱くなる」ということを目指せば、まさにそれこそが人類を賢くし、この世界を救済すること、天国のような楽園を築くことに繋がる。

天国のようなユートピアを作りたいならば、強さを捨てて弱くなれ。さらに弱く、とことん弱く、どこまでも弱くなれ。それこそがこの世界を救済する、「運命の未来を変える唯一の方法」である。人類の滅亡のような終わりの未来を回避したいならば、みんなで強さを捨てて弱くなればいい。

そして、そのような弱いものこそが、この世界で真にもっとも強い。もっとも強いものは、もっとも弱いものである。それは僕の人生を見れば分かる。ここまでの弱いものは存在し得ないほどに、僕は日本社会の中で一番弱い場所にいる。だが、だからこそ僕は強いのであり、だからこそ宇宙の聖なる最強の「太陽神」の力を僕は得ることができたのである。

哲学は不良ができる

哲学的に考えるコツは二つある。

まず、何もやるべきことを作らず、自由に生きることだ。

最初から、「これをしたい」と思ったり、「目標」を立てたりすることなく、単にこの世界と関わるために生き、この世界でさまざまなことを経験し、その経験に基づいて自らの未来を選択するように生きよ。

そうすれば、自然にこの世界の全部の経験を得て、その経験に基づいて考えることができる。

実際は、これは決して無計画で惰性で生きる人生ではない。なぜなら、そのような経験をした後で、最終的に自分の道を選んでいけばいいからだ。

最初から、すべてが分かっていることを前提に生きようとするな。そうではなく、まだ自分は何も分かっていないということを前提に、土台の経験を築くところから始めよ。そうすれば、その土台の経験に基づいて、人々よりもひとつ高い目線から考えることができる。

もうひとつのことは、知識を知ろうとしないことだ。

知識をいくらでも知っている人間は、確かにその知識について正しく把握することができるが、知識があまりにたくさんありすぎると、「思い出す」ことや「覚える」ことをやめてしまう。

知識がまったく欠落した人間は、その欠落した知識の部分を埋めるために、多くのことを思い出し、多くのことを覚えるようになる。

そして、それこそが、「哲学的に考える」ということに繋がる。

また、哲学とは心理学だ。心理学的に、「今の環境」と「過去の環境」を思い出すために必要なのは、「恐怖の環境から解放され、恐怖の環境を思い出すことを苦であると思わなくなること」が必要だ。

そのように、哲学は、優等生よりも不良のできる学問だ。何も学ばず、何も計画せず、辛く苦しい環境から逃げ出した人間のほうが哲学者になる素質がある。

だが、忘れてはならないのは、「悪いと思っていることはすべてよいこと」ということだ。この世界には、悪いと思っていることにはすべてよいことしか存在しない。悪いことが起きそうだと心配した時に、この世界ではよいことが起きる。絶対に受け入れられないような不安や恐怖が起きた時にこそ、この世界では素晴らしいことや幸福になるようなことが起きる。

だから、逃げることは決してよい効果を生まないと知っておけ。どんなにそれが辛く苦しくても、逃げないことで壁を乗り越えられる。それこそが、真に自らの夢や希望を叶えるような、「最高の宝」や「運命的な奇跡」を作り出すだろう。

哲学で分かること

哲学は、ひとつのことが成立した時、そのことからほかのさまざまなことが成立する、ということが分かる人間ができる。

ひとつのことが意味することが、それだけを意味するということしか分からない人間には、哲学はできない。

ひとつのことが意味した時、その意味することが、別のどのようなことをさらに意味していくか、ということが分からないと、哲学はできない。

だから、少数のさまざまな命題に対して、その命題の意味と成立条件を「連想」することができる人間にしか、哲学はできない。

同時に、単に連想して勘違いするだけの人間には、哲学はできない。

なぜなら、哲学をするには、「正しい連想」が必要となるからだ。

単なる純粋理性による「普通の連想」では、哲学はできない。カントが批判哲学と言ったように、連想そのものを批判的に考え、自己批判によって正しい連想をできるような能力を勝ち得た人間にしか、哲学はできない。

そのように哲学的に考えることで、どのようなメリットがあるか。

それは、「人生の意味が分かる」ということである。

哲学的に考えることで、この世界における「人生の意味」あるいは「生きる意味」が分かる。

なぜなら、哲学的に考えることで、この世界の人々がどのように生きているのか、「生きている中で何が分かるのか」ということが分かる。

そして、それがまさに、「人間とは何か」ということに繋がる。

哲学的に、この世界を自らの少数の経験から分かることで、この世界のすべてを少数の公理的な原則から網羅し、包括できる。そのような網羅と包括から、「この世界が今どのように現象として起きているか」ということが分かる。そして、心理学的な「意識」と「経験」を照らし合わせることで、この世界の人類全員の「共通の意識の現象」を知ることができる。

まさしく、哲学とは心理学であり、哲学をするとは「正しい連想をする」ということだ。そのような力を勝ち得たものは、何ひとつ知らなくても、宇宙のすべての真実と真理を解明し、人間の持てる「世界のすべて」を知ることができる。これこそ、「真の精神世界の原理」であると言えるのである。

正しいことがなんなのかは分からない

哲学を考える上で、「何が正しいのか」ということを判断することは重要だ。

なぜなら、何が正しいのかを知らないで、正しいか間違っているかを判断することはできないからだ。

だが、いったん、「何が正しいか」ということを知らず、「人々にとって正しいものと間違ったものがある」ということだけを前提に考えてみよ。

そうすると、「正しいものと間違っているものがなんであるかを判断できる人間であれば、(正しいものが何かを確定することができなくても)自分の正しいと思っていることに基づいて行動するだろう」ということが言える。

そして、正しいものとはなんなのか。事実、正しいものがなんであるかは分からない。なぜなら、人によって、時代によって、社会によって、価値観によって、そして人生によって、それぞれ正しいことがなんであるかは変わってくるからだ。

いわば、「その人間が正しいと信じていることが正しい」としか言えないのだ。

あえて、一般的な解を考えるなら、「善が正しい」とか「正義が正しい」とか「真実が正しい」とは言える。だが、人によって何が善であり、何が正義であり、何が真実であるかは異なる。もしその人間が正しいと思っていたとしても、社会の一般常識が同じであるとは限らない。だから、社会の一般常識だからそれは正しいことが証明されているということも言えない。

そう、わたしたちは、何が正しいかということを棚上げし、何が正しいか分からない状態で、正しいことと間違っていることを判断するということを考えなければならない。そして、それこそが、「真に正しいものは自分自身が決めること」という「正しさの一般解」に繋がるのである。