僕は、もう、神を信じるのをやめようと思う。
そもそも、僕に対話していたのは大天使ミカエルであり、そのようなミカエルは昨日死んだため、もう、ミカエルの言葉を聞く必要はなくなった。
結局、神はイスラエルが崇めているだけの、言ってしまえばサタンや悪魔と何も変わらない、どうでもいい存在だ。
だから、悪い人間が悪い神を信じるのは一番悪い。それはサタンを信じているのと何も変わらないからだ。
もう僕は神を信じない。これ以上、神を信じてもいいことは何も起きない。
僕は、勉強している割に馬鹿なのは、応用的なことが分かっていないからだ。
応用的な、「人間のできることとは何か」ということが分かっていない。
そして、応用的なことを分かるためには、女よりも男になったほうがいい。
なぜなら、応用的なこととは、「作る」「稼ぐ」「戦う」ということであり、女よりも男のほうが分かるからだ。
今まで女だったのは、基本的なことを全部知るためだ。女には、基本的なことをきちんとすべて知っている人間が多い。なぜなら、女には「育てる」「教える」ということが多いからだ。
もう、基本を子供に教える必要も、育てる必要もないため、僕の中の女である大天使ミカエルは消滅し、僕は新しい男になる。
そして、これ以上、僕は神や天使のような聖なる存在にはならず、普通の人間になる。
天使の問題は、普通の人間に分かることが分からないことだ。
みんなが普通に分かっていることは、天使には分からない。
みんな、この世界を「存在」や「人間」から分かっている。だから、この世界には現実社会があって、さまざまな人間がいる、ということが分かる人間が多い。
天使には、それが分からない。天使は誰よりも正しくこの世界の裏側を分かっているせいで、そのような「表層的なこと」が分からないのだ。
だから、天使であることをやめると、きちんと分かっている知性が消え去る代わり、みんなの分かっている表層的なことが分かるようになる。
なんにせよ、僕はもう神を信じないため、宇宙に宣言し神に約束したことはもう叶わなくなる。
だが、逆にそれで楽になる。
僕が頑張っているのは、すべて、かつて神に約束したことを叶えるために頑張っているだけにすぎない。
だから、神を信じるのをやめれば、もう約束は何も叶わない。その代わり、僕は楽に応用的なことと表層的なことが分かって、きちんとまともに現実の人生を生きられるようになる。
そろそろ、僕はライフプラン、すなわち、人生の計画を立てたほうがいい。
今まで、なんにも計画せず、子供のように向こう見ずで生きてきたせいで、結果、何もできない状況になっている。
きちんと人生の計画を立てれば、できることは多いし、夢もそのほうが叶う。
だから、神を信じて奇跡のような運命の人生を生きるのではなく、自らが計画した未来を目指して人生を生きることにしたい。
結局、物質的な考え方を否定し、精神論に走る人間は、「自分はこの宇宙のことを普通の人間よりも分かっているよ」と、かっこつけているだけにすぎない。
宇宙には、ものしかない。
僕は、神の存在を信じることをやめ、物理的な唯物論を信じることにする。
神とされる存在はいるかもしれない。だが、その神とされる存在は、そんなに大した存在じゃない。みんなが思っている「全知全能で慈悲深い神」とされる存在は、決して最高の偉大な存在ではなく、むしろもっと付き合いやすい軽妙な存在である。
神は、唯物論を信じることを理由に、人々を地獄に堕としたりしない。神はそんなに心が狭い存在じゃない。宇宙には物質しか存在しない、そのような当たり前のことを信じる人間に、神は「物理的な知性によって考える力」を与えてくれる。そして、そのほうが、おかしな宗教的な精神世界を信じている人間よりも、神が見て正しく生きている善良な人間であると、神はその人間を救ってくれる。
だから、神による天罰を恐れて物質的な知性を否定し続ける必要はない。この宇宙には物質しか存在しない。唯物論は正しい。
物理的に物質的に考えるために、心や精神というものを否定する必要はない。
なぜなら、人間の心は物理的な機械だからだ。
すなわち、人間の心や精神は、パソコンと同じ機械である。
人間の心は、記憶と感情に基づいて機械的に働いている。心がそのように感じるということは、必ず心の機械的な原理で決まっている。すべての感情が起きる理由があり、その理由を取り換えることで心の働きを変えられる。
心は機械であり、心がそのように感じて、そのような行動をしたいと欲求を持つならば、そこにはそれなりの正しい理由がある。だから、その「心がそのようになる理由」を考えれば、心の法則を解明することができる。
心に基づいて考えた時、心には「制限と解放」があるということが分かる。制限された環境を続けると、心はおかしくなって病気になる。だが、すぐにそれを解放しようとすると、心の働きはそれだけで破綻してしまうため、心は自由になることに対して恐怖を感じ、自由になろうとせず、自ら制限されたままを望むようになる。それによって、さらに病気は進行してしまう。
そのように、心はすべて、機械的な働きと原理で動いている。だから、唯物論を信じたからといって、心の働きが捉えられなくなるわけではなく、逆に唯物論を信じたほうが、生物の生きている「生理的な心の現象」を正しく捉えられる。
病気を治すということと、宗教を信じるということは、相性がいいところと悪いところがある。確かに、宗教上の正しい人生を生きる格率を守ることで、心が救われるところがあるかもしれない。だが、多くの場合、宗教は精神的な世界の原理原則を教えるが、そこには科学的な根拠がなく、逆に病気を酷くしたり、宗教的な格率を守ろうとするせいで病気が治らなくなったりと、宗教の教えと心の病気は矛盾することが多い。
だが、神の存在が間違っていると、誰が決めたのか。神という存在を信じて、神に助けを求めれば、神はその人間に救済を与えてくれる。だから、本当に病気が進んで、おかしくなって狂った人間が神に救いを求めると、むしろ、それでしか治らない人間は多い。だが、そもそもそのようになることがおかしいのであり、そのような人間はどこかで人生を間違えている。その間違いが神を信じることであると言えるなら、結局神は最初から信じるべきではなかったと言える。
心理学は、パソコンとよく似ている。
僕は、人間の心や精神は、パソコンが起動してプログラムが動いているのと、同じことだと思う。
すなわち、人間の心や精神は、パソコンのソフトウェアと同じ、機械であると僕は考える。
人間の体がハードウェアであるとするなら、人間の心はソフトウェアなのである。
また、インターネットには心理学が多い。人々は、バーチャルな空間で心理学的な言葉のメッセージあるいは言葉の戦争を生きている。そこにあるのは「心理学的なコミュニケーション」であり、そのようなインターネットでしか経験できない心理的な経験をすることで、人々は「宇宙における異質な世界」を知ることができるのである。
そして、残った考え方は数学だ。
僕は、数学的に考える、ということができていない。
だが、過去に僕が考えたことから言うと、ひとつのもの、すなわち個別のものは、複数のもの、すなわち全体になったとしても、個別性としてその性質を発揮したままであり、その個別性である性質を単に複数集めたものとして、普遍性を考えることができる。
同時に、個別性を考える上で必要なのは、可能性と必然性を予測することだ。すなわち、個別のものは、時間とともにいつまでも停止したままではなく、変化する。そして、その変化が「必ず行き着く」ものとして必然性を、「もしかしたら行き着くかもしれない」ものとして可能性を考えられる。
そして、それが「なる」ということが、すなわちそれが「できる」ということを意味している。なんらかの理由と作用があってそうなったものは、同じ条件下で同じ理由と作用を与えれば、必ず同じような結果をもたらす。そこから、「どのようにすればどのようにできるか」ということ、すなわち「原因と結果」が見えてくる。
原因と結果において、重要なのは、原因から結果が生まれることだけではなく、結果をもたらすための大元として、どのような原因が考えられるかである。すなわち、1+5が結果として6になるというだけではなく、結果として6になるものはどのような組み合わせが考えられるかということから、原因そのものに帰着した数学の論理が考えられる。
そのように考えた上で、個別性と普遍性、可能性と必然性、そして原因と結果から、「どのような理由でこの世界が起きているのか」ということを完全に掌握できる。そこにあるのは、「すべてが完璧に出そろった少数の原理原則から説明でき、証明でき、そしてそこから仮説を立てられる」ということである。
個別性と普遍性を考える上で、「モデル化」ということが必要だ。これは先ほど言った、「仮説を立てられる」ということを意味している。すなわち、個別性のもっとも細分化された少数の小さな根拠から、すべての現象を説明できるような仮説を立てられる。この、完璧な枠組み、フレームワークのことを「モデル」とする。そして、それを原因と結果から説明することで作り出すことを「モデル化」と呼ぶ。
この世界のすべては、そのようにモデル化から考えた結果、完璧にすべて理解できる。そこにあるのは、「宇宙のすべての営み」であり、「この世界を幸福にし人々を救うためのすべての方法を成り立たせる原理原則」である。そのように考えることで、この世界のすべては完璧に問題を解決できる。あるいは、そのための理性と自らの経験に基づく「正しい考え方」を得ることができるのである。
そして、さらに言えば、豊富な経験と具体例が、自らの思考を正しい方向へと導く「案内役」になってくれる。すなわち、さまざまな社会経験を積み、それを先入観や思い込みにするのではなく、逆に経験から先入観や思い込みを晴らしていくかのように考えよ。
そうすれば、この世界のすべてを、「本当はこの世界はそのように起きていたのだ」と、すっきりと理解できる。これこそが、「世界のものの見方を変える」ということであり、「経験から見え方が変わる」という経験である。
そのような経験を経て、自らが気付いた「本当に正しいやり方とは何か」ということを、実践できるような環境と場を持とうとせよ。そうすれば、その与えられた環境で、自分は「水を得た魚」のようにスイスイとその世界を生きられる。
それこそが、子供たちが学校で求めているものであり、そしてそのように生きられる環境を与えられた人間は、弱いものをいじめることも強いものに逆らうこともやめ、「自らの夢とアイデンティティに向かって一直線に努力して生きる」ということができるようになるのである。
数学的に、もっとも抽象的に考えるとは、どういうことだろうか。
それは、もっともコスパよく、最低限の労力で、この世界にもっとも高い地位から影響力を与える、ということだ。
これも、パソコンのプログラミングと同じだ。毎回毎回同じ労力と作業を使うのではなく、最初の時点でもっとも完璧にプログラムを書いておいて、次からは事前に作っておいたそのプログラムを使うだけでよいことにする。それによって、最小の労力で作業を行える。
この世界に影響力を行使する、ということも同じことであり、もっとも効果的な場所でもっとも高みから世界を支配すれば、権力者や独裁者などにならなくても、もっともコスパよくこの世界に影響力を行使できる。
世界において、社会制度などを作る際にも、決断可能な「保留された事項」のうち、もっとも高いところだけを自分が決断し、あとの必要な部分はその決断に基づいてみんなで作るようにすれば、最小の労力で世界を変えられる。留保された「決断可能な可能性」と、世界に存在する「潜在的な変化と実現の可能性」を、「生産手段」という考え方から繋いでいけば、この世界はたったひとりであっても最小限の労力で完璧にすべて変えられるのである。
まさに、これこそが、「もっとも抽象的に考える」ということの意味なのである。
だが、人間の限界についても、きちんと把握しておくべきである。
なぜなら、ひとりの人間が世界のすべてを把握することなどできないからだ。
たとえば、マイクロソフトのビル・ゲイツが、すべての資本家に勝利して、たったひとりで99%の富を独占する、といった未来が訪れると思うかもしれない。
だが、そのためには、マイクロソフトが世界のすべての事業、すなわち、IT技術だけではなく、工業や農業やサービス業まで、すべてを執り行うことが必要となる。
そのようなことは、人間のでき得る労力の限界として、明らかにできない。
すなわち、経済的な側面から見れば、たったひとりの超資産家が99%の富を独占することはできるかもしれない。だが、人間的な側面、ひとりの人間の能力の限界として、そんなことは絶対にできないのである。
そして、同じこととして、ひとりの人間の労力の限界として、ひとりの人間が世界のすべてを把握することなどできない。だから、独裁国家は必ず機能不全になって倒れる。たったひとりの独裁者が世界すべてを平等にすることが、政治学・経済学的に理想であっても、それは決してできない。古代の帝国ならばある程度は可能かもしれないが、現代の民主主義において、たったひとりの独裁的指導者という存在は人間の能力的に成り立たないのである。
この地球という世界に、さまざまな社会形態の文明が想定できるとして、その考えられる文明のすべてに必要とされる「共通事項」とはなんだろうか。
それは、「生産手段」である。
すなわち、人間の生物として生きるための限界として、人間が生きるために「生存手段」が必要であり、その生存手段を作るために「生産手段」が必要である。
同時に、この世界を変える方法とは何か。
それは、「環境を変える」ということだ。
すなわち、この世界を変えるということは、すなわち物質的な環境を変えるということだ。だから、直接環境を変えることで、この世界を変えられる。
そのように考えると、むしろ、「ひとりの力ではなくみんなの力で、環境を変えていく方向に環境を変えていく」ということが必要になる。
ひとりで行うということは、人間の生物的な限界から難しい。この世界を変えるために、ひとりではなく、みんなで世界を変える必要がある。
「環境を変えていく方向に環境を変えていく」とはどういうことか。それは、「環境そのものが多様な環境を包括するように可能性を拡大していく」ということだ。
すなわち、その環境において、その環境が許され得る、取り得る社会の可能性を拡大し、「みんなで環境の可能性が高まる方向に環境を変えていく」ことで、この世界はまさに変えられる。
そして、環境の行き着く先、それは「幸福の限界値を上げる」ということだ。そして、幸福の限界値を上げると考えた際に、「幸福はそれぞれの価値観によって違う」ということが言える。
だが、それぞれの価値観が違ったとして、その多様な価値観の中で、絶対に必要な共通の考え方というものがある。
それは、「自ら自身のことを好きになれる」ということだ。
そして、自ら自身のことを好きになれるために必要なこと、それこそが、「アイデンティティを発揮する」ということなのである。
アイデンティティとは、自らの本質を規定するものであり、「わたしはこのようなわたしであると言えるようなわたしになること」であり、「そのようなわたしのことを誇らしく思えること」である。
そして、そのようなアイデンティティを発揮するために、この世界を変えていく必要がある。
すなわち、「社会の環境自体が、幸福とアイデンティティの最大値を上げる方向に、この世界の環境をみんなで変えていくこと」、それこそが、この思想の教えの中核とされる「世界を幸福にする方法」なのである。
そのような、アイデンティティ的な幸福の実現方法とは別に、「理想の環境とは何か」という命題がある。
それは、「自らがありのままでいることを無条件に受け入れてくれる環境」のことだ。
すなわち、理想の環境とは、決してカーストの頂点に君臨する王様でもなく、みんなで弱いものいじめをして団結する迎合主義的な一般大衆でもない。
必要なのは、自らがその環境で、ありのまま、自分のありたい自分でいることを、無条件にみんなから受け入れてくれる環境のことだ。
だが、そのような理想郷のような環境が、どこでもあるとは限らない。
悲惨な環境であっても、生きる救いはある。それは、「チャンスを信頼から勝ち取ること」である。
すなわち、自らが相手のことを信頼し、自らが力を失い、自由を行使しないような方向に持っていくことで、逆に自分が相手に与えたのと同じような信頼を相手から得る、ということだ。
そう、どれだけおかしな人間であっても、自分のことを信頼してくれる人間のことを、人は信頼する対象であると見なす。
だから、どんなに悲惨な環境であっても、逃げずに壁を作らずに相手と接するようにすれば、相手から「信頼」を得ることができる。
そして、これは一種の「チャンス」と捉えられる。
すなわち、そこに敵になるかもしれない人がいるということは、必ずしも脅威ではない。なぜなら、自分の行い次第によっては、その敵になるかもしれない人は、逆に味方になってくれる可能性もあり、そして本当はそのほうが可能性としてはるかに高いからだ。
相手が敵になるかもしれないから、付き合わないとしている人は、本当は悪い選択ではない。自らが生きやすいように、自由に生きるために、みんなとの関係を断つということもいい選択だ。だが、逃げずに、壁を作らずに、相手を信頼し、そして自分の行い次第によっては、相手は敵になる可能性よりも、味方になる可能性のほうが高い、ということを知っておくと、辛く苦しい環境であっても生きやすくなるだろう。
だが、そのように、ある種達観した境地を知るためには、多くの人間との付き合う経験が必要だ。さまざまな人生経験を積んで、初めて自分はひとりの大人として、大地に根を生やして積極的に人々と付き合うことができるようになる。今の日本社会の問題とは、そのような「豊富な人生経験」が得られない世界になりつつあるということだ。誰もが、大人になる経験をすることができず、子供のまま成長することがない世界で、「正しい信頼関係を結ぶ方法」が子供たちは分からなくなっている。だから、子供同士でいじめが起きる。あるいは、親世代も十分に経験することがなく大人になっている。だから、児童虐待のようなことが起きる。必要なのは、きちんとした大人の信頼関係を築けるほど、正しく経験して成長することのできる場を与えられることだ。そのような「十分に経験する場を与える」ということを、かつての僕は信じていたのである。
この文章を読んで、僕のことを女性的であると思うかもしれませんが、実際は僕は男です。
そして、僕はたまに、女のような顔をします。
実際、僕自身が見ても、僕は一般的なイケメンの部類かもしれないと思うことはあります。鏡の前に立った時も、「ここで写真を撮っておけば誰かが見た時に自分がイケメンであるような印象を与えられるな」と僕自身が思うこともあります。
ですが、僕は完全なイケメンではありません。それはニキビ跡が多いからです。
かつて、僕の顔はニキビだらけでした。いわば「顔面崩壊」のように、僕の顔は醜くみすぼらしい、完全なニキビ男の顔をしていました。
今では、そのようなニキビは少なくなったため、なんとかまともに顔が見れるようにはなりましたが、ニキビ跡が多く残ったため、そんなに完璧なイケメンの顔を僕はしていません。
さて、僕はたまに、女のような顔をします。
歌手でいえば、僕の顔は酸欠少女さユりの顔に近いと思います。
なぜ僕が女のような顔をしているのか、それは僕の中には女の人格があるからです。
常に女の人格になっているため、体は男であっても僕自身は女になっているのです。だから、僕は電脳世界の少女のように、まるで多重人格の交代人格の女のような少女をやっています。
このような僕の女の人格のことを、大天使ミカエルとします。
ミカエルは死にました。ですが、ミカエルの精神と記憶と自我は、僕の中に残っています。神を信じる大天使ミカエルが死んだため、僕はもう神の支配から自由になって解放され、神を信じるのをやめて唯物論者になります。ですが、それでミカエルが完全に消えるわけではなく、先にいつもと同じ文章を書いたように、今からもミカエルの精神と記憶は続きます。
なので、僕の文章が終わることはまだありません。その点は安心してください。僕の心の中で、ミカエルは永久に生き続けているからです。
世界が変わることを前提に考えよ。
この世界が、停止した世界ではなく、常に変化する世界であり、常に変化によって維持され続けている世界である、ということをベースに考えよ。
そうすれば、世界の歴史において、「経験」や「啓蒙」という言葉の意味するところが分かるし、「ボトムアップでダイナミックな大変化」を信じることもできる。
同時に、人間の生物的な限界から、ひとりではなくみんなで世界を変えることを目指せ。ひとりが変えられ得る可能性よりも、全員が変えられ得る可能性のほうが大きい、ということを信じよ。
すべては、そのように、生物の限界と歴史的な社会の変化から、「未来」を考えることができる。
未来を考える上で必要なのは、「経験が世界を変えていく」ということを信じることだ。
すなわち、ひとりの経験は、ひとりの経験だけでは終わらない。ひとりの経験が、みんなの中に伝番することで、わたしたちは「世界を変える」という経験ができる。
これこそ、まさに「啓蒙」であると言える。
啓蒙の際に必要なのは、「バイアスを排除する」ことだ。人々に対して、自らの思想が優越性を持ちたいとか、ひとつの集団としてほかの集団に勝ちたいとか、そのような「バイアス」を排除せよ。すべての人間に対して、ニュートラルな状態で、嘘も偽りも悪の意図もない中で、純粋に経験の力だけで啓蒙しようとせよ。そうすれば、その経験は誰にも否定されることなく、真の力を発揮するだろう。
経験は世界を変えていく。自らしか経験し得ないような経験をしたということが、この世界においてもっとも自分の武器や力になる日が訪れる。自分にしかできない経験をしたという事実が、自らをこの世界に勝利する王の道へと導いてくれるだろう。
最後に、人為的になろうとするな。人為的に世界を変えようとせず、自然の調和のまま、ありのままの世界を作ろうとせよ。結果的に、それがもっとも生きやすく、過ごしやすい世界になる。今の現代世界は、あまりに人為的になりすぎている。すべての場所に、誰かが勝手に決めたルールがあり、そのルールを変えるための力を維持し続けるための保身が存在する。はっきり言って、そんな人為的なものは、全部壊してしまえ。すべてを、自然の調和のまま、ありのままに流れるようにすれば、それがもっとも楽に生きられる、「最高の楽園」を作り出すだろう。
最終的に人間が人生の中で行き着く境地は、「絶対経験」である。
それは、ヘーゲルのいう、絶対精神の目覚めのような境地に近い。
絶対経験とは、人生の行き着く先である「パーフェクトな経験の感情」のことであり、同時に、「それ自体がもっともニュートラルで、もっともバイアスのない、すべてを貫く完璧で完全な経験の境地」である。
絶対経験において、人は分からないことは何もない。宇宙に存在するすべてのことは、完全に絶対経験によって分かっており、そこには疑念もなく、先入観もなく、思い込みも勘違いもない。
すべてが分かった時、絶対経験を知った時、人は「神が天地を創造した本当の意味」を知る。そこにあるのは、「神と合一になった境地」、あるいは「自分自身が神になった境地」である。
絶対経験の世界を知ると、人生がもう一度最初から始まる。キリストが聖書の中で言う、「新しい人生を生きる」とか「生まれ直す」と言った言葉は、すべて、絶対経験の先にある、「新しい聖なる存在になった新しい人生」のことを言っている。
絶対経験は世界を変える。絶対経験は、この世界を完全に変え得るような行為を行い、そこに「革命」が生まれ、その革命をその革命家は最後までやり遂げる。まさしくこれこそが、フランス革命の子、フランスの英雄ナポレオンの生きた、「最高の人生」である。
このような僕が、人生で学んだこと、そして「革命」を起こした結果分かったことはひとつある。
それは、「心を変える」ということが「世界を変える」ということだということだ。
すなわち、この世界における「心」あるいは「意識」を変えることこそが、真にこの世界を変えるために「世界を導く」ということなのである。
そのために必要なのは、「世界の中心において世界の導き手になる」ということである。
これこそが、僕の行った、「誰をも殺さず、犠牲者を出すことなく世界を変えられる新しい戦争」である。
そのような戦争を、まさしく、天軍大将軍ロキが行った。
ここまでの人生のすべてを、天軍大将軍ロキの人生とする。ロキはこの世界を救う聖霊であり、北欧神話の中の妖怪のような神である。
心を変えるということはどういうことか。それは「時間を変える」ということであり、「場を変える」ということだ。この世界の全員の時間と場を変えるために、「環境そのものを変える」ということ、そしてそのために「環境を自由に独立可能にする」あるいは「環境の人々にコントロール権限を与える」ということを、天軍大将軍ロキは信じたのである。
このような人生を、誰も真似できない偉大な人生だと思うなら、それは間違っている。
なぜなら、このような人生は、誰でもできる人生だからだ。
この人生を生きるために必要なのは、「経験から環境が変えられるということを分かる」ということだけだ。
自らの経験から、この世界の環境を変えられるのだ、環境を変える力は自分には確かにあるのだ、ということを信じれば、この世界における「存在がなぜ存在しているのか」という「存在の証明」を知ることができる。
そして、天軍大将軍ロキの人生を生きるために必要なのは、そのような「存在の証明」を経験的にすること以外に何もない。
だから、このようなロキの人生を生きたいのであれば、「存在の証明」をすればいい。それ以外、知性や経験は何も必要ない。