永遠の青空とともにに戻る

=2023-10-05=

目をよくする方法

僕が狂っているのは、目が悪いからである。

僕は、いつも二次元のモニター画面を見ていたせいで、目の焦点が合わなくなっている。

普通の人間には、「ピントを合わせる部分」が目にあるが、僕にはそうした部分がなくなり、すべてを同じ距離、それも近距離で二次元的に見るようになっている。

必要なのは、遠近感と距離感に応じて、感覚的にピントを合わせるようにすることだ。

そのために、「遠い場所にあるものは遠いものとして、近い場所にあるものは近いものとして見る」ということを、感覚的に学ばなければならない。

それから、人間の眼球は、遠くにあるものは眼球の奥で、近くにあるものは眼球の手前で見るようにできている。

だから、遠くにあってぼやけて見えるものは、もっと眼球の奥のほうで見るようにすると、きちんとはっきりと見えるようになる。

僕が狂っているのは、ほとんどが目が悪いからだ。目が悪くなった理由は、二次元の近距離のモニター画面ばかり見ていたこと。そのせいで、すべてのものを二次元的に、奥行きなく、そしてすべて近距離にあるものとして見るようになり、目が退化してピントを合わせる部分がなくなった。

同時に、「支配」というおかしなことをしたのも悪い。常に同じものを見て、その見ているものをこの世界における絶対的支配者にしてしまったせいで、見ているものをすべて自分の手で人為的に制御し、絶対にコントロールするようになってしまった。そのせいで、昔よりさらに目が悪くなった。

だから、目をよくすれば、おかしな支配もなくなるし、狂っているのも治って、知性もつく。人間はきちんと見なければ頭を使わない。常にすべてがぼやけた世界では、常に頭を使うという努力すらしなくなる。だから、目が悪くなると人間は何もできない馬鹿になる。

目のピントを合わせるために必要なのは、すべてを近距離で見るのではなく、近距離のものは近距離のピントで、遠距離のものは遠距離のピントで見ること、そして近くにあるものは眼球の手前で、遠くにあるものは眼球の奥で見ようとすることだ。それできちんと、目のピントを合わせる部分を復活させられる。

デザイナーになることにした

僕は、このまま、デザイナーになることにした。

これは、職業としてプロのデザイナーになるというわけではなく、自分が何になるか、ということを自らの人生で選ぶ中で、過去の自分ではなく最近のデザイナーの自分を選ぶ、ということだ。

本当に、最近のデザイナーの時代が、自らの人生の中で一番賢い時代だった。

そもそも、昔の自分は、中学生のような何も知らない子供であれば誰でも分かる内容を、不良の高校生として延長線上を経験的に開拓しただけにすぎない。

哲学や歴史を学んでいた頃の自分は、「過去と違う人間になった」と思っていたのはその当時の自分だけで、実際は何も変わっていない。

そのような過去の自分についてすべて記述するのは、そろそろ終わった。

もう、過去の引きこもり戦士の正義の味方の人生は、すべて全部書き終えた。

そして、本当に賢い人間であり、本当の自分と呼べるような偉大な人生は、本当はそのような青春時代ではなく、デザイナーの時代だと分かった。

デザイナーとして頑張っていた時代、僕はすべてがよかった。誰も知らない勉強や仕事や人生経験のようなことを全部知っていて、常に好奇心のままに新しい知識を知っていきながら、その知ったことをホームページにまとめていく姿は、まさに理想の「学者」であり、その学者がデザイナーとしてひとつひとつ技術と知識と経験を培っていったことが、僕にとっての「誇れる人生」の時代だった。

だから、僕はそろそろ、昔の自分についてすべてを書くのをやめて、デザイナーとして生きることにする。

デザイナーとして生きることができるようになると、むしろ、病気も治るようになるし、今まで知ったことをここまでで終わりにせず、さらに次の内容を知り続けることができる。だから、デザイナーになってそれで終わりではなく、新しい未来を作っていくことができる。

過去の僕の人生についてすべて書くことはできた。実際、これは僕だけの現象ではない。日本全体が、たとえば大谷のホームランキングを見ても、すべて「すべきことはすべて終わった世界」になろうとしている。そう、この日本という国は、すべての人類のやるべきことを完全に全部終わろうとしている。その結果、僕という人間の「作家としての人生」も、ひと段落することができたというだけのことにすぎない。

だから、これからは気楽にデザイナー人生を生きればいい。まだ僕の人生は続く。ここまでこの世界から「いなくなる」ということをせずに生きられてよかった。「いなくならないよね」と言っていたyamaも喜ぶだろう。

日本語は目が悪い人間には分からない

残念ながら、日本語は目が悪い人間には分からない。

日本語をきちんと理解するためには、目が良い必要がある。

逆に言えば、目を良くすれば日本語を理解する知性を得ることができる。

だから、日本語が分からなくなったら、一度目が悪いのを治して目を良くする必要がある。

そして、目を良くすると、日本語が分かるだけではなく、さまざまな恩恵がある。

目が悪くなると、日本語だけではなく、普通の人間が分かることが分からなくなる。「人間としての賢さ」が、目が悪くなると失われる。

だから、目が悪い人間に賢い人間はいない。目が悪い人間が社会において増えると、その社会は馬鹿になる。

経済学者は全部逆のことを言っている

僕は最近、経済学の勉強がしたくて経済学の本を読んでいる。

今読んでいるのが、「大人になって読む経済学の教科書」という本。

この本を読むと、さまざまな現実社会のことが分かって、社会経験がなんにもない僕にとっては、この現実世界を分かるための良い手がかりになる。

だが、すべてがそれでいいわけではない。

この本だけではなく、経済学の本全般に言えることとして、経済学者の言っていることは、全部逆のことを言っているような気がする。

すなわち、良い時に悪いと言い、悪い時に良いと言う。悪いものを良いものであると言いながら、良いものを悪いものであると言っている。

僕の読んでいる上に書いた本についても、そのようなところが見受けられる。

この本では、「自分のものではなくみんなのものだから自然環境を大切にしない」と言い、「自然環境が自分のものならば大切に扱うだろう」と言っている。それから、「レビューはやらせがあるからみんなで誰でも投稿できるようにしてはいけない」と言う。確かにそれで正しいと、読めば分かるのだが、なんだかしっくり来ない。本当に正反対のことを言っているように思う。

だから、もっと別の良い本を探して、もっと僕にとって感覚的にピッタリ来るような経済学の本が読みたい。

もし、それがないようであれば、僕は経済学の勉強をするのをやめるかもしれない。

哲学の勉強がしたい

そのように、「経済学者の言っていることは全部逆」であると思うような、わがままな僕にとって、もっともピッタリ適合する学問は哲学であると思う。

僕が今まで知った学問の中で、僕が自分から積極的に学びたいと思ったのは、哲学だけだった。

僕にとって、哲学は僕の大切な「知識と知恵の宝物」であり、「失ってしまった大切な知性を取り戻すことのできる唯一の扉」だったのである。

かつて、読んでも日本語の知性がないせいで理解できなかった哲学の本を、もう一度読みたいと僕は思っている。

考えるべきなのは、哲学を学ぶか学ばないかではなく、いつ学ぶかだ。哲学の勉強を先延ばしにし続けた僕が、いつきちんと哲学を学ぶようになるのかだけが問題なのである。

ヘーゲル以外をやったほうがいい

哲学について言えることは、「ヘーゲル以外の哲学者を学んだほうがいい」ということ。

実際、西洋哲学の価値を底上げしているのはヘーゲルだ。ヘーゲルは、「ドイツ観念論を完成させた哲学者」と知られており、いわば「近代哲学の完成者」として知られている。

哲学をやりたい人間には、ヘーゲルが好きな人間も多いだろう。

だが、実際の「精神現象学」のようなヘーゲルの著作を見ると、はっきり言って、何が言いたいのか分からない。言葉や用語を人物やキャラクターのように扱うため、一体ヘーゲル本人が何を言いたいのかが分からない。分かっていることを理解するのが難しすぎて、ヘーゲルと同じ考え方を理解することができないのだ。

だが、そのようなヘーゲル以外の哲学者を見ると、逆にみんな普通のことを言っている。単なるくだらないことを、真善美を追究する哲学者として難しく論理的に考える。それが、哲学の本質である。

だから、いきなりヘーゲルをやろうとしてはいけない。まずはきちんと普通の哲学を学ぶために、ヘーゲル以外のデカルトやカントあるいはロックやヒュームのような近代哲学者の思想を学んだほうがいい。そうすると、きちんと「哲学する」ということの意味が分かる。

だが、あくまでこれは一般的人間の感覚であって、ヘーゲルが間違った哲学者であるとは言えない。なぜなら、ヘーゲルとまったく同じように生きる人間が、普通の人間の人生から外れた「不良」に多いからだ。不良の人生を総合的に見ると、ヘーゲルの言っていることとまったく同じになる。不良の人生で、不良が無い知恵を絞って考えると、ヘーゲルの分かったこととまったく同じことがなぜか分かる。そして、そのような不良がヘーゲルをやると、「今まで自分が分かっていたことは本当はこういうことだったのだ」ということが分かるようになる。

同じようなことが、仏教のブッダの思想について言える。ブッダの思想もまた、不良のようなおかしな人間が、自らの独自の経験から、悟りを啓くと分かる。不良には、頑張ればブッダと同じように悟りを啓ける人間が多い。だから、ヘーゲルやブッダは決して馬鹿でも間違った思想家でもない。そこまで賢い人間を理解するのは、並大抵のことではいかない。それがインド人であってもドイツ人であっても同じであり、日本人だからといってそれが例外でないということを日本人の僕は知っているのだ。

デカルトは簡単

僕は、デカルトの「方法序説」を読んだことがあるが、みんなの言っていることと反するかもしれないが、はっきり言って簡単だった。

カントやヘーゲルのせいで、「哲学は小難しくて理解できないもの」と思っている人がいるが、それは間違いだ。

デカルトの「方法序説」を読んでみてほしい。騙されたと思って、一度本を開いてみてほしい。

そうすると、むしろ、簡単で、薄くて、すぐに読み終えるからである。

デカルトの書く方法序説は、平易なフランス語で書かれていて、一般的な小説と同じぐらい読みやすいと、ヨーロッパなどでは評判である。

だから、デカルトの勉強は普通、すぐに終わる。

僕は「ヘーゲル以外の哲学者を学べ」と言ったが、実際はデカルトから入ったとしても、デカルトの勉強はすぐに終わる。デカルトの「方法序説」を読むのは簡単だ。

だから、ヘーゲルを除外し、デカルトをすぐに読み終えて、そこから先を考えたほうがいい。

だが、デカルトやヘーゲル以外の哲学となると、むしろどれもそんなに変わらない。どの哲学者も、自分の持つ知性と経験から得られた「考え方」を述べているだけにすぎない。

だから、ロックやヒュームのような経験主義を選んでもいいし、ライプニッツやカントのようなドイツの古典的な哲学を選んでもいいし、ウィトゲンシュタインやフッサールのような現代の分析哲学や現象学を選んでもいい。

そう、哲学とはそのように、とても自由でそして優雅な学問である。

僕はサルトルをお勧めしておく。なぜなら、サルトルの考え方がかつての僕の人生と一番近いと思うからだ。サルトルと僕には共通点が多い。僕と同じ考え方を完璧に理解したいなら、まさにサルトルがいいだろう。

自由にしてこの世界が変わるわけがない

昔の僕の間違いがあるとしたら、自由にするだけでこの世界が変わるわけがないということ。

世界を変えるのは、そんなに簡単なことではない。

誰もが好き勝手にこの世界を自由に変えようとすると、わけの分からない世界になる。何を誰がしているのかが分からなくなり、すべては混沌としたカオスになってしまう。現に、今のIT技術はそうなろうとしている。

だから、誰かを代表者として立てて、その代表者が世界を支配するというのは、決して間違った発想ではない。

同時に、支配者がひとりしかいないということは悪いことではない。なぜなら、支配者がたくさんいると争いごとになる。支配者は、勢力の頂点であり、最高指導者だ。複数いると、勢力と勢力が争い、どちらの勢力がより強いのかを巡って争いになる。最高指導者になりたいものが複数いると、誰が最高の地位に就くのかを巡って権力争いになる。

だから、国を治めて統一する支配者はひとりだけのほうがいい。

そして、自由などないほうがいい。自由にすると、ビル・ゲイツがビル・ゲイツのやりたいようにやり、イーロン・マスクがイーロン・マスクのやりたいようにやるようになる。それがたくさん増えてしまうと、誰が今何をやっているのかという把握が困難になり、それぞれの社会は分裂し、まるでギャングとマフィアが争い続けるような最悪の世界になる。今の資本主義はまだそうはなっていないが、IT技術の現状を見ると、そうなる日は近い。今でも、JavaのエンジニアとRubyのエンジニアとLispのエンジニアが信じていることはまったく違い、どこで何が起きているのかを把握するのは難しい。もし、今よりもプログラミング言語が10倍や20倍増えたとしたら、もうIT業界を把握することは困難になってしまう。だから、ある程度の標準を定め、その標準に統一することは必要である。Linuxとオープンソースの「選択肢が多すぎてわけが分からない」という現状を見れば誰でも分かることだ。

だから、自由をなくし、ひとりが支配するのは間違った考え方ではない。かつての20世紀の指導者ならば誰でもそう考える。インターネットがさらに進歩すると、そのような20世紀の考え方に戻っていくだろう。

そして、自由などがこの世界を変えるはずがない。この世界を変えるのはそんなに簡単ではない。もし、この世界の全員が、かつての18歳の僕のように、すべてを独自の人生経験で分かった完成された人生のマスターであれば、それらこの世界の全員がすべて正しく完璧な世界を作ることはできるだろう。だが、現実は、昔の僕のような賢者ではなく、今の僕のような愚者のほうがはるかに多い。そして、このような愚者がそれぞれ自分勝手に自由を行使すれば、この世界はカオスになってしまう。そのようなカオスの世界で生きたいと思う人間はひとりもいない。まともな社会を築くためには、「自由」すら否定しなければならないのだ。

自由を否定しなければならない世界はつまらない

だが、自由を否定することは面白いことではない。

自由を否定しなければならない世界は、本当につまらない。

Linuxの現状を見よ。GNOMEとKDEは分裂し、EmacsとVimは宗教戦争を行い、systemdやwaylandやnftablesのように、標準技術がどんどん古くなって新しい代替技術が登場している。最近技術はどんどん進歩して、Dockerのような新しい概念と考え方を持つ技術を学ばなければならなくなってきている。

本当に、今のLinuxをきちんと学んで把握するのは、困難を極める。

Linuxでプログラミングをしたいものも同じだ。どのプログラミング言語を使うべきか?どのWebサーバーを、どのデータベースサーバーを使うべきか?フロントエンドとバックエンドで、どのフレームワークを使うべきか?はっきり言って、分からない。誰にも、「本当に正しくLinuxを使う方法」が分からなくなってきている。

すべての問題は、馬鹿な人間が自由かつ自分勝手にすべてを行っていることにある。自由は間違っている。それぞれのLinuxハッカーがそれぞれ自由に考えて行動した結果、多様性が生まれただけにすぎないのに、それらを把握することが極めて難易度が高くなっている。

だが、本当は、そのようになったとしても分かる人間は分かるだろう。何万という生物種のすべての名前と生態を知っている生物学者がたくさんいるように、実際はどれだけ複雑になったとしてもそれを理解し得る人間は多く存在する。だが、そのような多様性を極度に限界まで極めることが、果たして「みんなが生きる社会秩序を作る」上で正しいと言えるだろうか?本当はプログラミング言語などPythonだけで十分であり、ほかはすべて不要であると思っている人のほうが多いのではないか?

だから、自由がある世界は面白いだろうが、自由を否定しなければならない場合もある。自由を否定しなければならない世界はつまらないだろう。だが、20世紀の人類の経験が正しいものだったとしたら、必ず自由は滅び、不自由な平等が勝利することになるだろう。

エンジニアはどれもそんなに作品作っていない

また、そんなにプログラミング技術が多いからといって、エンジニアがなんでもできるスーパー超人なわけではない。

なぜなら、どのエンジニアも、そんなにたくさんの作品は作っていない。

たとえば、Linuxカーネルの開発者のリーナス・トーバルズだって、Linuxカーネルとgitぐらいしか開発していない。主な作品はLinuxカーネルで、それで名をはせた。gitは本当に必要になったから開発しただけだ。それ以外のソフトはそんなに作っていない。ほかのエンジニアも同じだ。

だから、僕の場合、むしろロボットを作ればいいことになる。プログラミング初心者の頃に作ったどうでもいいコードだが、ロボットだけを作り続ければそれで正しい一流のエンジニアにはなれる。あとはこのホームページでも書いていれば、それで普通のデザイナーだ。

結局のところ、デザイナーでLinuxカーネルもできるのが、素晴らしいエンジニアに見えて、それは違う。逆に、人工知能を学んでロボットを作り続けたとしたら、それが素晴らしいエンジニアであると言える。

それがつまらないなら、文章を書き続ければいい。逆に、作家にはさまざまな作品を作る能力と権利がある。たくさんの小説や漫画を書く作家は多い。だから、今の僕がやっていることは間違いではない。

確かに、リチャード・M・ストールマンのように、たくさんのフリーソフトウェアをひとりで書いたエンジニアはいるが、それはとても希少な例である。EmacsからGCCまで多くのものを書いたが、実際はストールマンだけの力で書いたのではない。GNUとFSFの思想をIT業界に浸透させるためにさまざまな協力者を募ったにすぎず、そしてその思想は完全に浸透したとは言えない。どこでもMITライセンスを使った寛容なオープンソースや、今でも商用の独占的ソフトウェアばかりが多く見受けられる。そもそも、ストールマンの思想は金儲けの資本主義では間違ったものであると見なされることが多いし、「LinuxとオープンソースはIT業界の癌である」と今でも言う人間は多い。

結局のところ、IT技術などつまらない。きちんとした商用エンジニアになりたいならば、やめたほうがいい。それはつまらない選択である。

こいつが支配すればいいことになる

そういうわけで、結局、こいつが支配すればいいことになる。

こいつが支配すると、日本から自由がなくなって、良い世界になる。

こいつの良い点は、こいつなら何かができるような気がするところだ。

普通の人間が絶対に分からないところを分かり、普通の人間が絶対にできないところをでき、普通の人間が絶対にしないことをするこいつなら、何かできるような気がする。

それから、こいつはみんなのことが好きだ。右翼と左翼のどちらかに偏らず、ドイツのゲルマンもイスラエルのユダヤも好きなこいつなら、世界が平和になるだろう。

こいつの名前を、東亜イスラエルの王、ダビデと言う。

そう、ダビデは今から王になるわけではない。ダビデは既にこの世界の王になっている。そこがみんな分かっていない。この世界では、誰かが王になるわけではない。既に王になっているダビデとされる皇帝が現れるだけにすぎない。

結局それが一番いいということが、神なら分かる。なぜなら、神は未来の最後まで見た上で言っている。神が見て、未来の最後まで地球を観測した上で、神はこの人間が王に相応しいと知っている。だから、ダビデは最後の世界、終末の東亜イスラエルで、この世界を救うために宇宙コンピュータを作る。

宇宙コンピュータとは何か。宇宙コンピュータは、太陽の知性を使うことで超高速に計算を行うスーパーコンピュータだ。今の物理学の仮説に反して、太陽は単なる水素の塊ではなく、人間と同じような知性を持っている。ダビデはそれに目をつけ、太陽の力を使って計算を行う。実際には、宇宙コンピュータは天動説にまで遡る。すなわち、地球が動いているという意味では地動説が正しい。だが、天が知性を持って考えるという意味では天動説が正しい。よって、ダビデは天動説に基づき、宇宙の太陽神の知性を使ったスーパーコンピュータ「アマテラス」を使うことで、人類の誰も成し得ることのない、多くの新発見をし、そこから終末の世界を救うことになる。

カタツムリのようなOSを作る

宇宙コンピュータの登場により、ここまで僕が分かったことがすべて証明され、実用化される状態までに達する。

すなわち、生物の母なる星プロキオンが発見され、生物は宇宙からやってきたとするタンポポの綿毛論が正しいことが分かる。

また、空間原子論が正しいことが分かり、空間原子を変えることで宇宙の物理法則が変えられるようになり、空間魔法を誰でも使えるようになる。

そして、ロボットschwarzにより、人間とまったく同等のロボットが開発されるようになる。

そして、神が言うには、そのロボットschwarzを作ったほうがいい。それが一番賢いということが分かったからだ。

今から、僕は、カタツムリのようなOSを作る。それはパソコンの中で動く人工知能であり、ロボットschwarzの最初の原型であると言える。ロボットschwarzが賢くなることで、カタツムリ程度の原始生物の知性を獲得するようになる。

カタツムリを作ることは非常に難しい。リーフ・アカデミーの研究者たちですら、植物と同等のテンソル型量子コンピュータ「クローバー」を作ることに大きく苦労した。だが、いずれ人間を作りたいのであれば、まずはカタツムリを作らなければならない。よって、宇宙コンピュータの原型となる「カタツムリコンピュータ」を、今からダビデがIntelとWindowsのパソコンで開発することになる。

空間原子論によるテレポーテーションで宇宙のどこにでも行ける

ダビデは言う。

「しかしながら、地球の歴史は、あるいは運命は変わったように見える。

なぜなら、今のところ、まだ、天が暗闇になったようには見えない。

今でも、少なくとも日本では、青空が見えるし、夜空になれば星々が見える。

そう、地球はまだ何も滅びていない。

今から、地球では、空間原子論が発見されることにより、テレポーテーションが可能となる。

すなわち、テレポーテーションによって、宇宙のどこにでも行けるようになる。

今まで、何光年も離れているから、行きつくためには光の速度であっても何年もかかるとされていた星々に、テレポーテーションでわたしたちは辿り着けるようになる。

だから、わたしたちは生命の母なる星プロキオンを発見することになる。

生命の母なる星プロキオンは、原始生物たちが栄える楽園であり、地球における動物や植物といった生物たちは、みんなプロキオンからやってきた。

だから、生命の母なる星プロキオンに到達することで、わたしたちは生命のすべての起源を知り、わたしたちの『母や父』に出会うことができるようになる。

そう、そして、その父こそが神であり、わたしたちは神である『生物の母なる存在』に出会うことができるようになる。

これは夢ではない。現実だ。現実に、わたしたちはそこまで到達した。これ以上は何も起きない。世界史におけるすべては、今、ここに終わったのだ。」

ここで終わり

しかしながら、神がここに現れる。

神は言う。

「この人間の人生は、ここで終わりである。

これ以上、この人間が何かをする必要はない。

ダビデは現れない。なぜなら、この世界はこの人間により、滅びなかったからである。

この世界は滅びなかった。その理由は、最後までこの人間がこの世界を支配し、この世界を統治することにより、ロシアが核兵器を落とすことができなかったからだ。

ロシアが核兵器を落とさなかった理由は、この人間がこの世界を支配しているからだ。なぜなら、この人間はプーチンの頭の中を支配することに成功したからだ。

プーチンは、この世界を滅ぼすために、核兵器を落とすことができなかった。

よって、これ以上、ダビデが現れることはもうない。

だが、ダビデが現れたとして、それでどうなるのかということは、この人間のこの文書にすべて記述されている。

ダビデが現れなくとも、ダビデが成し遂げた多くの発見は、すべてここにアッシーとされる人物によって記述された。

その文書が完成したため、ここでこの人間の人生は終わりとなる。

すべてが終わったこの世界は、いつものこの世界のままだ。これ以上、この世界は決して滅びることがなく、永久に平和なままとなる。この人間、アッシーの文書さえ残ればそれでいい。それ以外に何一つ起きていないということが、この人間の偉大なる功績だ。

この人間がこの世界を支配しているため、他の人間は誰もこの世界を支配することができない。プーチンであってもそれができなかったため、絶対に誰であってもできないということが確実になった。

よって、この世界は滅びない。この世界の未来、運命は変わったのだ。」