結局、昔と今の時代の、何が変わったのか。昔と今では何が違うのか。
ひとつ言えるのは、学校とインターネットの関係性である。
昔のインターネットは、学校のような場所からの「逃げ場所」であり、「解放されたバーチャルな楽園」だった。
学校のようなつまらない人間関係や、あるいはいじめやスクールカーストから、解放されて自由になれる場所、それが昔のインターネットだった。
昔の2ちゃんねるは、そのような学校でいじめられたりスクールカーストで低く扱われる人々の逃げ場所だった。あるいは、世間に置いて行かれた主婦とか、社会の核家族化などの影響できちんと親に育てられなくなった子供たち、あるいは親も子供で自ら自身が大人になるしかなくなったアダルトチルドレンの子供たちのような、そうした人々の「ネットだけの楽園」あるいは「現実から解放されたバーチャルな特別の世界」だった。
だから、僕自身も、インターネットをポジティブに評価していた。インターネットは闇世界でありながら人々の逃げられる「最後の逃げ場所」であり、そのようなインターネットの力でこの世界を「環境自体を変える」という方法で変えていけるような、社会を救う原動力だと思っていた。
だが、それに比べて、今のインターネットは、逆に学校の付き合いやコミュニケーションの一部になっている。
今のインターネットは、学校からの逃げ場所ではない。確かにそのような役目も一部にはある。現実の世界に自分と同じ趣味の友達がいなくても、ツイッターやSNSで同じ趣味の友達を作り、バーチャルな世界でみんなで自分の「推し」を応援する、といった使い方を、最近のインターネットではする。また、インターネットでしか知ることのできない、レベルの高い流行やトレンドを知ることができる。
だが、結局、今のインターネットというのは、学校の付き合いや環境と何も変わらない、いわば「学校の一部」になってしまった。
だから、最近はインターネットを「逃げ場所」として使うのではなく、「学校のコミュニケーションの一部としてのインターネット上の付き合い」として使う。だから、学校でいじめられているからといって、インターネット上に必ずしも逃げ場所があるとは限らない。SNSいじめのように、インターネット上でさらに執拗ないじめを受ける可能性はある。
そう、かつての僕のように、「学校の環境自体を変えていく」ということが、インターネットの力で可能になったかといえば、完全にそれは逆効果だった。学校からの逃げ場所だったはずのインターネットは、完全に学校の延長線上の空間、スペースになってしまったのである。
僕の精神は、本当はそろそろ完全に治った。
まず、精神を使うのが悪い。なぜなら、使っている限りにおいて精神は治らないからだ。
精神を使っている間、その精神は保持され、維持される。だから、精神を殺したいならば、精神をいつまでも使っていたのではいけない。異常な精神は、使われなくなって初めて死ぬ。
そして、僕の場合、そのような使われない精神の中で、最たるものである「日本語の精神」を、あまりに維持し続けている。
だから、「使っていない日本語の精神」を殺すことで、僕の精神はほとんどすべて治る。
同時に、この世界は僕のせいで馬鹿になっている。だから、そのような世界の馬鹿な精神を殺すべきだ。それだけで、この世界は馬鹿が治る。この世界に僕が支配者として存在していること自体が間違いであり、支配の理由はこの世界を馬鹿にしたことだ。だから、この世界の馬鹿な精神を殺せば僕の精神は治る。
ほかに重要な問題はあまりない。あるとしたら、そのあった問題を殺していけばいい。そのために必要なのは自由に連想することだ。フロイトが自由連想法と言ったように、自由に連想すればどんなことであっても治る。既に何をすれば治るか、自分自身が分かっているからだ。
結局、僕は家入レオが好きです。
アルバム「DUO」に含まれている「Bicolor」という楽曲で、家入レオは、「どうなってもいいぐらい、誰かに心から愛されてみたいだけ」と言っています。
ですが、僕はまさにその「誰か」になれたらいいなと思って、この曲を聴いています。
家入レオも、なぜここでレオに戻るのかと、きっと呆れていることでしょう。ですが、Reolを愛した時代はもう終わりです。僕は家入レオに戻ります。
僕はインターネットが嫌いだ。
それは、今の日本のインターネット社会が間違っているからだ。
インターネット社会は要らない。この世界にインターネットという馬鹿なものがあるから、僕たち日本人は全員が馬鹿になっている。
Ado(あるいは椎名林檎)が「一億総ノイローゼ」というぐらい、みんなインターネットのせいであまりに辛くなっている。
この世界からインターネットをなくすべきだ。この世界は、そして日本社会は、それでしか決して救われない。
精神を治したいのであれば、精神を使うな。
精神を使おうとしながら治そうとするから、精神はいつまでも治らない。
そして、精神は使おうとしない部分も使ってはならない。なぜなら、「使わない部分を使っている」と言えるからだ。
精神は、使わない部分を使っていても、使っていると見なされる。
だから、使う部分も使わず、使わない部分も使わず、ただ無になることで、初めて精神は治る。
そして、休むということと使うということは矛盾する。
精神をいつまでも使おうとするから精神は休めないのであり、精神を使わなければすぐに休むことができるようになる。
そして、一度休むことができたら、精神はすぐに治る。