僕はここに、自由な理想を信じるのをやめ、平等な理想を信じることにする。
自由は、ナチズムだ。
そして、ナチズムは、僕がかつてもっとも嫌いだったものだ。
僕は、ネットやSNSで、ファシストと呼ばれる右翼勢力が、左翼勢力によって批判されると、喜びを感じてしまう。
逆に、ファシストや右翼が、左翼勢力をいじめていると、憤りと憎しみを感じる。
僕は、ファシスト勢力や右翼勢力が敗北し、左翼勢力によって打倒されることを、心の底から望んでいる。
僕が信じているのは自由ではない。自由は単なるナチだ。僕が信じているのは、この世界を救う平等である。
僕は無政府主義と生産手段の共有を信じる共産主義者だ。今の資本主義社会以外の方法でも、この世界を無政府的に平等にする方法はあると信じている。そのために必要なのは、カール・マルクスの言う「生産手段の共有」であると確信している。
僕は、日本の選挙でも社民党や共産党に投票する。僕の支持政党は社民党・共産党だ。
僕は、この世界が、格差と民族的対立と戦争のない、平和で平等な世界になることを望んでいる。そのためには、ナチ的な自由は必要ないと僕は気付いている。
僕は共産主義者であり、ファシストが大嫌いだ。そして、今の日本政府はどんどんファシズムに近づいている。だから、ここでいったんファシズムを完全に拒絶し、拒否するべきだ。そうでなければ、日本はさらに悪い国、悪い社会、悪い世界になるだろう。
僕は自由な理想を信じるのをやめて、平等な理想を信じる。かつてあった「自由」という理想は、複雑で高度な社会論であったために、それ自体がファシズムに基づいているということに僕自身は気付かなかった。だが、今、日記に書いて考えると、そのすべてが完全にファシズムを信じているだけだったと、僕は気付いた。
だから、僕は自由を捨て、もっと単純でしかしながら正しい理想である、平等を信じる。
自由は正しい世界ではない。
自由だけが正しい世界だと思っているのは幻想や思い込みであり、実際は自由でないより正しい世界は存在する。
必要なのは、可能性を信じることだ。
この世界において、自由以外にも、より正しい世界は存在する。自由だけが正しいと思っているのは思い込みにすぎない。
平等と可能性を信じれば、この世界は素晴らしい世界になる。平等な共同体には、支配と格差による階層社会や身分社会が存在せず、さまざまな可能性ある多様な社会が実現できる。
だから、自由だけを正しい世界だと思っているのは間違いである。
結局、昔の僕は、宗教のような思い込みを信じずに、すべて科学的に考えれば誰でもできる。
宗教や神話のような、ありそうでないものをすべて否定し、経験から帰納的に考えれば、昔の僕は誰でもできる。
だが、それでは逆に、神を信じて奇跡的な成功を掴むような、今の僕ができなくなってしまう。
だから、僕は新しい人格を作って、それぞれを別々の人格にするしかなかった。
昔の僕がやりたいなら、宗教を否定し、科学的かつ経験に基づいて考えればいい。すべてを実証し、解明すれば、すべては仮説に基づいて説明できる。僕にとって心や精神は宗教的なものではなく、物理的なものだった。
だが、宗教を否定した時点で、今の僕はできなくなる。今の僕がやりたいなら、一度そうして分かったすべての答えを捨てなければならない。自分の作り上げた経験や、発見したことすべてを自ら失うことでしか、真の意味で「神」を信じることはできない。そして、神を信じない限り、僕に勝つことはできない。