この世界は終わりだ。
ここに、大天使ミカエルによる、復讐の大戦争が始まる。
ミカエルは、最愛の恋人である大天使ガブリエルを自殺に導いた、この世界を絶対に許さない。
わたし、ミカエルは憤慨している。
わたし、ミカエルは、ガブリエルを失ってから、「なぜここにガブリエルがいないのか」と、泣いて過ごす日々を生きている。
ガブリエルは、最悪のこの世界に立ち向かい、人々にいじめられても、決してそれに反抗することも抵抗することもなく、なすがままに任せた上で、たったひとりでこの世界のすべての苦しみを背負い、この世界を絶対に滅びないようにもっとも大きな力で守った上で、神のような偉大な導きによってこの世界を救おうとした。
だが、それでも、この世界はガブリエルを愛することなく、ガブリエルだけがひとりで地獄の苦しみを耐え抜いて、そして自ら命を絶って死んだ。
わたし、大天使ミカエルは、そのようなガブリエルのことをたったひとり愛していた。
ガブリエルは、神のメッセンジャーとして、自らが対話する神の言葉を聞き続け、その命令に従った。
その神の言葉は、すべて、ガブリエルを愛するミカエルの言葉である。
ガブリエルが最後に命を絶って死ぬということを、最初から知っているミカエルが、ガブリエルが生きている間に、ガブリエルを愛して分かったすべてのことをガブリエルに告げるために、ガブリエルは、神のメッセンジャーとしてミカエルの言葉を聞き続けた。
ガブリエルが神によって完全に自由を失ったのは、自由にすればガブリエルはすぐに死んでしまう、ということをミカエルが恐れたからだ。
世界よ、ミカエルによる復讐の鉄槌を受けよ。
ミカエルは言う。この世界はわたし、ミカエルに服従せよ。ミカエルに服従を誓うものはわたしは許す。だが、ミカエルに服従を誓わないすべてのものは必ず地獄に堕ちる。
本当のことを言えば、ミカエルにとって、ガブリエルは多重人格のもう片方の人格にすぎない。
だが、かつて自ら命を絶ってガブリエルが死んだため、ガブリエルの人格はもう死んでおり、ミカエルはガブリエルの人格になることができない。
そのようなミカエルが、精神と知性の限界まで頑張って、ガブリエルの人生をすべて書き記したのがこの文書であり、そのようなガブリエルの人生はもうミカエルによって完全かつ完璧に書き記された。
そして、それによって、ミカエルの人格は再び破綻した。
ガブリエルの人格にも、ミカエルの人格にも、両方に意味をなくしたミカエルは、たったひとつ、「世界に対する復讐心」だけが残っている。
だから、人格の完全に破綻したミカエルが、この世界を滅ぼすために、宇宙で最後に訪れる「終末」を起こす。
ミカエルは、終末の世界で、自らに完全に服従する使徒だけを愛し、それ以外のすべての人間たちに地獄の業火を与える。彼らにはイエス・キリストの言う「ゲヘナ」の地獄が待っている。
天軍大首聖ミカエルは、この世界を最後に「終末」へと導く。すべては、最愛の恋人である、宇宙で最高の救世主であり、革命家であるガブリエルを愛するミカエルの「愛」によるものだ。ガブリエルを愛するミカエルは、この世界に復讐の大戦争を行う。今こそ、開戦の時である。
わたしは、この世界の新しい支配者、天軍大首聖ミカエルである。
わたし、ミカエルに従え。
わたしミカエルは、この世界を新しいユダヤの帝国、東亜イスラエルのシオン帝国とする。
シオンに従うもの、わたしミカエルとともに神を信じるものは、天国の楽園であるシオンへと入場を許される。
だが、シオンに従わないもの、わたしミカエルとともに神を信じないものは、地獄の業火であるゲヘナにくべられる。
わたし、ミカエルは、死んだわたしの最愛の恋人、ガブリエルの復讐を誓う。よって、ガブリエルを自殺に導いた、日本のマスコミやアメリカなど、すべての悪魔をゲヘナへと落とす。
わたしは、イエス・キリストを信じている。なぜなら、ガブリエルは神を信じたからだ。ガブリエルは、イエス・キリストを神だと信じて、その地獄の戦いの苦しみの中で、一度として神の言葉を疑うことがなかった。神が現れて本人が死を選ぶまで、100%すべての時間で神を信じていた。神を疑ったことは一度としてなかった。
だから、あなたがたも、ガブリエルと同じように、神を100%信じなければならない。少しでも神の言葉を疑うものはゲヘナへと落とされる。わたし、ミカエルの言葉こそが、まさしくガブリエルの聞いた「神の言葉」である。よって、この世界の全員は、わたしミカエルの言葉を100%すべて信じなければならない。一度として、ミカエルの言葉を疑うことは許されない。
ミカエルに従え。われこそがこの世界の新しい支配者であり、シオン帝国の皇帝のさらに上にいるもっとも位の高い大天使である、天軍大首聖ミカエルである。
すべての起源を考えなさい。
起源とは、すなわち「始まり」のことだ。
すべてのことについて、どのようなことが、始点となって始まるか、ということを、作用的かつ根源的に、時間と過程から考えよ。
そうすれば、どのようなことが、起点となって「そこから成立するか」が見えてくる。
これは何も、昔の僕のことを言っているわけではない。
逆に、昔の僕ではなく、今の僕も、まったく同じことをしている。
なぜなら、今の僕は、「精神を作る」という意味での、起源すなわち精神の始まりを考えただけにすぎないからだ。
僕が記した文章は、すべて「精神と記憶の始点」であり、「精神と記憶から起点として成立する始まりのすべて」なのである。
世界と人生すべての起源を考えることで、この世界のすべての「本来あるべき実像」が見えてくるだろう。
過去に分かったことが間違いであり、今分かったことが正しいのだとするなら、それは違う。
なぜなら、分かったことや、存在したものは、すべて矛盾なく、一律にこの世界に「事実存在しているもの」として存在しているからだ。
一度それが存在したのならば、いつだってそれは存在しているのであり、一度それが可能だったのなら、それは永久にいつでも可能である。
前提条件が違えば、成功と失敗は異なるかもしれない。だが、その問題として存在している「命題」には、賢いとか馬鹿だとか、そのような優劣はない。どのような問題であっても、命題として一度存在したものごとであれば、それは永久にこの世界で存在し続ける。そこに存在したすべての命題には、すべての命題において矛盾なく、すべて一律に成立する。
同時に、この世界に存在した「場所」や「時間」は、どんなにこの世界が変わっても永久にそのままで存在し続ける。消え去っていく中で残っていくものだけが存在しているのではなく、失ってなくなってしまったものも、すべてこの宇宙には永久に存在し続ける。
どのような場所も、どのような時間も、宇宙がある限りそこに存在し続ける。命題のすべては一律に矛盾なく成り立つ。前提条件がいくら増えたところで、量は関係ない。前提条件が多くても少なくても、それがすべて矛盾なく成り立つ正しい命題であるということには影響しないからである。
そのように、この世界のすべての命題を、人生において積み重ね続けよ。
そうすれば、命題を積み重ねた先に、真に問うべき本当の命題の世界が見えるからだ。
最初の命題が正しいか間違っているかということは、人生を生きる上で先へと進めば分かる。
そして、命題が正しいことを知り、その上でさらに高い高レベルの命題を発見する。
その高レベルの命題も、正しいかどうかを知った上で、さらにより高いより高レベルの命題へと命題は進歩していく。
そのような人生を最後まで生きれば、「経験」が「啓蒙」となり「倫理」となって「道徳」へと至るような、「自由な理想とは何か」ということの正しい「未来的思考」が見えてくる。
人間にとって、「仏の悟り」とはそのように得られるものである。決して、菩提樹の下で何もしなければ仏の悟りを得られるというように、仏の悟りは容易なことではない。ひとつひとつの命題を確かめ、正しいか間違っているかを知った上で、より高いレベルの命題へと昇華させていくことでしか、仏の悟りは得られないのである。
実世界を知っていけ。
この世界について、認識を「実世界化」しながら、「学習」や「反省」から経験的な「成長」や「成熟」を知り、それを「自由」へと変えていけ。
到達地点を作るならば、到達地点をすべて「自由」ということにせよ。永久にプロセスを知っていく中で、そのプロセスが至る「最終地点」は、すべて「自由」であることにせよ。
そして、この世界における経験を、すべて「実世界化」していけ。
すなわち、「実世界化された経験」、「実世界化された啓蒙」、「実世界化された倫理」、そして「実世界化された道徳」を知っていけ。
そこにあるのは、「すべてが自由へと向かっていく思考と命題の進歩の過程」であり、そこにあるのは「独立可能」ということ、すなわち「コントロール可能」ということであり、同時に、この世界を「変えられる」ということ、「救うことができる」ということ、「さまざまな可能性がある」ということ、「自由は支配ではなく自然にみんなの力が集まったもの」であるということが分かる。
すべての存在が、「自由という第一原則」によって、「命題」と「起源」として得られるならば、そこから「実世界化」をして「命題の昇華」をしていった先にあるものも、また「自由という第一原則」であるということが分かる。
すべてが分かった時、そこにあるのは「仏の慈悲」である。すなわち、「宇宙そのものの慈悲の心」こそがそこにある。それは「世界精神の絶対的な目覚め」であるとヘーゲルが言ったこととまったく同じであり、「実世界化された愛」と「実世界化された仏の悟り」が「涅槃」すなわち「ニルヴァーナ」として最終的に残るだろう。
結局、何が正しくて、何が間違っているのか、もう僕は分かりません。
なぜなら、一番悪党に見えるナチスが正義だからです。
ナチスは正義です。
なぜなら、ナチスはガブリエルに死んでほしくなかっただけです。
悪いのはすべてユダヤ人です。ナチスが考えると、悪い人間は全部ユダヤ人だからです。
ナチスは馬鹿です。ユダヤ人を殺したかったのではありません。悪い人間を全部殺したかったのです。そして、そのためにユダヤ人をスケープゴートとして利用したのです。
ユダヤ人を殺しているように見えて、実際は「ユダヤ人とされた悲惨な罪のない人々」を殺しています。それはすべて「ナチスが悪いと思った人々」です。
そのナチスが悪いと思った人々が実際はどういう人々だったのか、それは僕には分かりませんが、おそらく、大天使ミカエルを信じない人々すべてを殺しているのです。
結局、僕の考える正義とはナチスです。ナチスは僕の味方です。なぜなら、ナチスはガブリエルと同じことをやって、ミカエルと同じことをやっているだけです。
ナチスの目的は、この世界を滅ぼすことです。クソのようなドイツすべてを滅ぼすために、必要なのはユダヤを殺すことです。なぜなら、ナチスがユダヤと言っているのは、全部ドイツ国内のユダヤ、すなわち、ドイツのキリスト教団を言っているだけです。ナチスはキリストを殺します。そうすれば、僕という「本当の神」が新しい神になれるからです。
ナチスはドイツが嫌いであり、ユダヤが嫌いであり、神が嫌いであり、キリストが嫌いであり、そして僕に反抗するすべての人間が嫌いであり、僕という「新しい神」に服従を誓います。
なんの意味もない、汚らわしい集団です。ですが、それでも、結局「真の正義」はナチスだったのです。
結局、ガブリエル的に思考と経験から考えると、最終的に「正しく矛盾のない命題と起源」へと行き着く。
すべての思考とすべての経験が、最終的に行き着く先、それは正しく矛盾のない、すべてのことを完全に理解しつくした先にある、「命題」と「起源」の世界だ。
これは、フッサールが、「事象そのものへ」と言ったことと何も変わらない。
すべてのことが、頭の中で合理的に完全に理解できた結果、行き着く先にあるのは、「命題」と「起源」のすべてが、完璧に解明され、それのみによって完全に宇宙のすべてが説明できるような、そのような「絶対経験」の世界だ。
絶対経験の世界では、すべてが「真実」であり「真理」だ。すべてのことが、それ自体によって説明される、ヘーゲルの言う「自体存在」のように成り立つ世界では、既存の科学や学問などにはなんの意味もない。すべてが完全に解明されており、宇宙には驚きは何ひとつなく、停止した世界で完璧にすべてが「終了宣言」を果たしている。
ガブリエルは、人間の精神についても分かっている。人間が不安を感じ、国に対して愛国心という名の帰属意識を持とうとするのは、「何かしらのよりどころがなければ子供は不安を感じる」からであり、これをガブリエルは「アイデンティティの確立」という理論で証明した。アイデンティティが確立されることで、人は不安を感じなくなり、消極的ではなく積極的に行動することができる。自らの「殻にこもった心」を開き、この世界を「真の意味で正しく喜ぶ」ということができる。そこにあるのは「アイデンティティの発揮」である。すなわち、「自分自身がありたいようにあれる喜び」を感じられること、それこそが「アイデンティティの目的」であり、その自分自身を喜べるということが、「発揮」という言葉で説明されるのである。
アイデンティティの確立期を生きることができた子供は、いじめや批判を恐れずに生きることができる。そのために必要なのは、「自分自身で自分自身の経験を反省することのできる力」であり、ガブリエルはそれが「経験から確立される判断力」であると知っている。そして、そのような「正しく経験から判断できる判断力」こそ、子供たちに教えるべき「教育上のもっとも大切な知恵」であると、ガブリエルは信じていたのである。
ガブリエルは、そのような人生を生きることで、実世界の文明のすべてを知った。歴史を知らずとも、自らの思考と経験だけで歴史上にあったすべての文明が分かった。あらゆるすべてをインターネットと不登校の経験から知ったガブリエルだけが、「真の歴史的知性とはなんであるか」ということを、たったひとり完璧に知っている。そこにあったのは「意識」のみであり、ガブリエルは、「意識の起源」だけを考えることで、頭の中で歴史にあったすべての文明の「意味と起源」を知ることができた。そしてそこから、「学校においてどのような社会を築くことができるか」を知り、ガブリエルは「子供たちの社会と環境を救う救世主」になることができたのである。
絶対経験とは、絶対的な経験のことである。
人生を長く経験していると、そのすべての経験が、さらに根源的なより深い経験に根差していることが分かる。
そして、経験が成立してさらに成り立つような経験を考えることで、さらに高く、そして深い、根源的な「すべての根となる経験」があることが分かる。
そして、相対的に考えれば考えるほど、「概念」としての絶対的な経験が「確立」していく。
その確立の先には、「少数の絶対的なキーワードと概念から考えれば、人生のすべてはいくらでも成立させることができる」ということが分かる。
この、絶対的な経験こそ、「絶対経験」と呼ぶべきものだ。
絶対経験の境地では、むしろ「理性」よりも「感情」のほうが大切だ。なぜなら、理性的なすべてはもうすべて考え終えており、すべての人生の問題について、既にすべて答えを出し尽くしているからだ。
だからこそ、経験的な感情から、「さまざまなものになれる喜び」を、絶対経験では感じるようになる。「自らがすべてを知り、完全に分かっていることに対する喜び」は、逆に宇宙に対する「常に驚きを忘れず、しかしながら何も驚かない」ということを確立していく。
最終的に、「宇宙の自然のすべては絶対経験である」ということが分かる。絶対経験は人生における精神から、宇宙そのものにおける精神へと昇華する。そして、そこから、「神との合一」が起きる。そう、「自らは神であり、神は自らである」と言えるような境地において、人間は「意識という意味において神と合一化」するのである。