永遠の青空とともにに戻る

=2023-09-21=

意識がそれになる合一化

昔の僕は、現象と認知の先にあるものを捉えた結果、「意識がそれになる」という意味での「合一化」が多かった。

精神的に、認識と経験から世界精神を捉えた結果、僕は世界そのもの、すなわち「世界精神」と合一化した。

哲学的な知性を、狭く低い場所から広く高い場所へと拡大していくと、この世界に存在する「概念存在」を知ることができる。

ヘーゲルは、個別と普遍、あるいは主観と客観の合一化された場所に、「同一化」と呼ばれる哲学的認知の境地があると言う。

僕の場合も、そのようなヘーゲルとまったく同じで、認知を比較して積み重ね、現象と事象を意識から捉えた結果、すべての宇宙の存在と「合一化」することができるようになった。

僕はドイツの哲学者が言うような「合一化」を、神への信仰をまだ知らない少年だった時代に既にすべて果たしていた。

そこにあるのは、「意識がそれになる合一化」であり、そこで僕は、「心理的な状態と合一になる」という方法で、「宇宙と同一になる」という境地を知っていた。

定説を信じよ

僕が分からない人間に今なっているのは、僕は定説を信じていないからだ。

僕は、進化論やビッグバンといった科学的な定説を信じず、民主主義のような社会思想についても信じずに、タンポポの綿毛論やガンダーラを信じている。

だが、かたくなに自分の自説を信じるせいで、逆にみんなが信じている定説が分からなくなり、この宇宙の真実が分からなくなっている。

世界で真実とされるのは、僕が信じている自説のほうではなく、みんなが信じている定説のほうだ。

僕がいくら、タンポポの綿毛論やガンダーラを主張しても、そのようなものは証明もなされていない根拠のない「悪説」にすぎない。

科学上の定説では、生物は海から生まれ、単細胞生物から多細胞生物になり、それが進化論によって進化して、今の動物や植物のような生態系を作った。

それが定説であり、僕もかつてはそれを信じて、「細胞分裂が海の中でどのように起きたのか」といった、生物の発生や起源について、誰よりも深く考えた。

そして、そのような定説を信じていた頃は、僕もまともに分かっていた。今の僕のような、何もまともに分からない人間ではなかった。

民主主義については、ガンダーラを本当にやろうとすると、それは東ドイツと同じになってしまう。東ドイツと同じように経済は破綻し、締め付けを強化することで、SEDとまったく同じことをやるようになる。

だから、ガンダーラを信じているせいで、僕は悪党になってしまっている。

そう、いくら賢い学説に見えても、自分の自説にこだわりすぎて、定説をかたくなに否定するような人間になってはいけない。

定説である、進化論やビッグバンや民主主義を信じれば、今の僕も、みんなと同じように、この世界の常識がきちんと分かるようになる。

ドイツは僕のことが嫌い

僕のことが大嫌いな国がひとつある。

それはドイツだ。

ドイツは、僕のことが大嫌いだ。

それには二つの理由がある。まず第一に、イスラエルに土地を献上して世界平和を果たそうとしていること、第二に、多神教を信じていることだ。

ドイツは、自らの祖国の土地を守るために、命をささげて周辺国家と戦争している。だから、僕のように、イスラエルに日本の土地を献上して、それによってパレスチナからイスラエルを撤退させ、世界平和を実現するという方法は、決して受け入れられない。自らの土地を与えることで、平和を実現しようとすることは、ドイツがもっとも嫌う方法だ。

そして、僕は多神教の神、北欧神話のフレイを信じている。ドイツはそのような多神教を信じない。ドイツは一神教しか絶対に信じられない。僕がいくら偉大な人間だったとしても、多神教徒ならばそれは敵であり、絶対に多神教の神はドイツは信じたくない。いくら北欧神話がゲルマンの神話であろうと、ドイツは絶対に多神教の宗教を信じない。

そのような結果、僕はドイツに嫌われている。だから、ヒトラーはユダヤ人を虐殺したのである。

第三の理由として、この人間はファシズムを信じている共産主義者だ。ドイツ人は、ファシズムを経験し、そして反省している。このようなファシストに、ドイツは二度と騙されないと信じている。だから、このような人間は決してドイツでは受け入れられないのだ。

学校や社会の要求する通りの人生を生きたくない

僕が「自由」として信じるのは、「学校や社会の要求する通りの人生を生きたくない」ということだ。

学校や社会が、「このように生きなさい」と押し付けられた通りの人生を生きたくない。

この世界にはあまりに自由がない。人々は生きるための金を稼ぐために、奴隷のような労働者になって人生を生きることを余儀なくされる。

人間に自由な時代などない。学校でも社会でも、すべての場所が「このように生きなさい」ということを要求してくる。

僕はそのような、「このように生きなさい」という押し付けの強制が嫌いだ。

僕は、誰かが誰かに強制や強要をしなくても、自由なままでこの世界のすべては成り立つと信じている。そうであってほしいと信じているし、絶対にそのような「自由な社会」を築くことはできると信じている。

だが、自由な社会において、人々はどのように生きたらいいだろうか。自由だからといって、何をして生きればいいのか。

僕が思うに、「経験」をすることで自らの「存在意義」に気付くことができたら、それがまずひとつの目的だ。

さらに、「夢」を見ること、「希望」を信じてこの世界を「救済」することができたら、それがもうひとつの目的だ。

そのために必要なのは、「人間的な社会」を信じることだ。すなわち、自由にしたからといって、荒れ狂った殺し合いの世界になると即座に考えるのは間違っている。自由な社会だからといって、それが武士ややくざや不良のような、荒れ狂った自由な世界になるとは限らない。

そのために必要なのは、みんなできちんとした社会を築くことだ。

だが、みんなできちんとした社会を築くためには、指導者が必要だ。指導者、すなわち支配者による支配が必要とされる。

だが、本当は、平等な秩序ある社会を築くことはできる。すなわち、誰かが支配せず、みんなのものをみんなで平等に作るような社会を築くことはできる。

だが、僕はそれを、理想郷であるとは思わない。

なぜなら、平等な秩序ある社会が、「共同体の掟とルール」といって、逆に個人を支配し、抑圧された社会を作ってしまう。

まさに、それがソ連の間違いだ。

だから、僕は自由な社会を築くために、決して支配のない平等な社会秩序を築くことはしない。

必要なのは、みんなの自由を許した上で、「個々にそれぞれが組織と集団を作り、戦うことや支配することも可能になるような世界」を築くことだ。

だが、そのような「自由な戦い」は、本当は必ずしも必要ではない。

自由な戦いをすると、荒れ狂った世界になる。だが、そのような荒れ狂った社会は自由にとって必然ではない。

だが、共同体による平等な社会は、コミュニティが個人を抑圧する時点で間違っている。

そう、必要なのは、「自由に任せた上で、人々の自浄作用の力で、自然に社会秩序が形成されるような社会秩序を作ること」である。

そのために必要なのは、「社会全員が自由であり、それぞれの自由を尊重し、政府が強制しない社会を築くこと」である。

そのような世界を作るためには、「自由とは何か」という定義が必要となる。

そして、そのような時に言えることは、「自らの自分の望みが叶うようなことができる社会」であり、それは僕の言葉で言えば「アイデンティティを尊重する社会」である。

だが、僕が考えるに、単に人々の意見と望みを尊重するだけでは十分ではない。

なぜなら、人々は、「自らがどのようにすれば自らの問題を解決できるのかを知らない」ということが考えられる。

そのような時には、周りの人間、あるいは真に経験的に問題の解決が分かる人間が、その人間を、たとえばスポーツ選手のコーチやトレーナーのようにサポートしてやらなければならない。

そのような人間を生み出すために必要なのは「経験」である。

そして、そのような経験は、単に経験するだけでは分からない。経験した上で、「経験を理性によって知識や知恵に変換する力」が必要だからだ。

それはすなわち、「経験からこの世界の正しい築き方を知る」ということだ。

この世界の正しい築き方とは、「さまざまな社会は、どんな社会であっても同時にあらゆる社会が成り立つ」ということを、「自らの実体験的な経験から確かに証明する」ということだ。

すなわち、この世界を救うためには、どんな社会であってもあらゆる社会を築くことのできる「すべての社会を築くことのできる経験」が必要だ。

そのようにすれば、この世界は真に自由な世界になる。

そして、そこまでを分かった上で、はじめて、「学校にも社会にも縛られない自由な人生を生きる」ということができる。

そして、そのような自由な人生を生きる上で必要なのは、「最小のコストと労力で、最大限の影響力を得る方法」を知ること、そして、「自らの生きがいとするアイデンティティとは何かを知り、『自らが自分からそのような仕事がしたい』とするようなモチベーションを得る」ということが必要である。

同時に、社会そのものを築くためには、自由な環境をどのような「心理的支配権」から得ることができるかを知っておかなければならない。

すなわち、「学校のいじめを解決するためには、どのようにしたらいじめ以外の方法で子供たちの社会を当事者である子供たちが作れるかという方法を子供たちに教えることが必要」だという原則がある。

そのために必要なのは、「学校以外の社会経験を多く積むこと」である。

すなわち、学校の特殊な環境ではなく、人々が実社会を経験した上でインターネット上などで吐き捨てるような「本音」をどれだけ多く知っているかということで、子供たちは自らいじめのない正しい社会を築くための方法を知ることができるのだ。

すべての人間が自由になることができないのはなぜか。人々は、自らが生きるために仕事をしており、仕事の立場やしがらみから、みんな、言いたいことすべてを言うことなどできない。

だが、そのような人間の立場を吸収した上で、「この世界の全員がもし自由な立場を与えられたらどう考えるか」という「超越的視点」を、インターネットの「本音を知り続ける体験」から「実感」で理解することができる。

そのような時、仏教でブッダが教えている仏の言葉の意味が分かる。このような人間は共産主義者の仏教徒であり、共産主義者の仏教徒ならば誰でもこのようなことが全部分かる。そう、そのようにすれば、この宇宙に存在する「仏の悟り」を、自らの「実社会のすべての経験の先にある悟りの境地」から知ることができるだろう。

すべての人間を救うことができるぐらい経験したら、その経験から、自らがもっとも高い影響力でもっとも大きな可能性をこの世界に与えられるような革命戦争をすればいい。そうすれば、この世界はすべてがあなたに支配される。

だが、忘れるな。わたしたちの理想と信念は「自由」にあったことを忘れてはならない。わたしたちは、あなたがひとり昔と違う理想になって、この世界を支配し、再び「誰かに強制や強要をされて支配され生き方を制限される世界」になることを望んでいない。あなたは、そのようなことを決して忘れていない。だからこそ、真にこの世界が自由な社会になる可能性を追究し続けよ。諦めずに戦い続ければ、必ず神は奇跡を起こしてくれる。そう、共産主義者の仏教徒であっても、神は信じるものを救い、神を信じないものを地獄に堕ちるように導くだろう。

自由とは何か

自由とは何か。

自由とは、「わたしは他人の自由を奪わないから、わたし自身の自由を奪わないでくれ」という、力関係の平等と自由の不可侵の尊重であり、「自由がもし許されるとしたら、この世界に制限されず、もっとも効果的で賢い方法で自分の自由な人生を生きる」ということであり、同時に、「自由な人生で何を成し遂げるかということを永久に探究し続ける」ということであり、「社会は誰かひとりが支配しなくても、無数にある潜在的な可能性において、チャンスと手段を許すことでどんな可能性ある社会でも実現可能であると信じる」ということである。

そのような自由の中で、僕は数学的かつ実感的に世界のことを考える。なぜなら、「もっとも抽象的に高いレベルで考えることが、もっとも簡単かつ単純にこの世界を変える自由な手段を行使できる」ということだからであり、そこでは「正しい目的のために行動するもの、もっとも賢明でもっとも経験豊かでもっともこの世界を救うための方法を知り尽くしているものがこの世界の一番上の影響力を行使すべきである」ということが言えるのである。

さらに言えば、「わたしの考えていることを正しいと信じることを人々に要求しない」ということだ。わたしの考えていることが、必ずしも誰にとっても絶対に正しいと言うことはできない。もっとも正しいことを追究することは大切だが、誰かに自分の意見が正しいと認められることを求めることなど最初からすべきではない。だから、人々はわたしに反する権利や自由を行使することも必要だ。この世界の全員が平等に自由な権利を許されている必要がある。組織を作ったり、結社をしたりする自由、支配者に反抗する自由は必要である。それがなければ、指導者が間違ったことを(意図的にであっても意図的にでなくても)行った時に、それに逆らうことができなくなってしまう。それだけは絶対に避けるべきだ。なぜなら、それが僕の忌み嫌う「支配」だからである。

よって、わたしがもっとも高い影響力でこの世界を変えることができるならば、人々もわたしと同じようにこの世界を変えることができるべきだ。

だが、戦うということを否定することはできない。なぜなら、人々には十人十色のさまざまな意見があり、そのすべてが矛盾なく成り立つとは限らない。パレスチナとイスラエルの戦争はすぐには終わらない。そのような時、「戦う」ということを許すことも必要になる。すなわち、パレスチナにもイスラエルにも、「戦争する権利」は必要であると言える。

だが、実際のところ、戦争は支配者階級のエゴによって起きる。だから、「戦争したくない国民は、国家政府に戦争を放棄するという意志を叫ぶことが必要」であると言える。同時に、僕は「支配のない世界では戦争は自然に起こらなくなる」と考える。戦争は支配者層が「自らの勢力を拡大したい」と考えて起きるものであり、国民は国民の側から戦争を望むことは決してない。あるいは、逆に、「国民の側から戦争をしたいと叫ぶことがもしあったならば、それはすればいいだろう」と僕は考える。国民が自ら戦争したいということがもしあったならば、その戦争は民意による戦争であり、民意による戦争などというものがもしあるとしたら、それは必要な戦争なのだろう。だが、実際には、民意による戦争などは決してない。だから、国民の自由を許せば必ず戦争はなくなるのである。

国家に対する帰属意識は間違いではない。「戦争を否定するならば、国家に対する愛国心も否定するべきではないか」と左翼は言う。だが、それは間違っている。なぜなら、祖国を愛し、自らが祖国の国民であることを喜ぶような愛国心は、誰であってもある。必要なのは、「まがい物の愛国心を否定する」ことだ。すなわち、祖国への愛を謳っているように見えて、実際は祖国への愛ではなく、支配者や権力体制への服従を強制しているような「まがい物の愛国心」がある。そのような「愛国心の強制」は僕がもっとも嫌うことである。逆に、普通の国民が、日本を愛し、日本の文化や宗教を愛するような愛国心は間違っていない。戦争した兵士の英霊に対する尊ぶ気持ちなどは、複雑な関係が混じってくるが、これも本当は間違いではない。なぜなら、「宗教はそれ自体が自由と矛盾するものであり、そして自由から宗教を否定するべきではないため、宗教に関してだけは自由の範疇外とすべき」だからだ。

そう、宗教については、自由の範疇に収めるべきではないと僕は考える。なぜなら、「神はこの世界を支配し創造する力がある」からだ。神を信じることで、普通の人間ができないようなことであっても、人間はできるような力を神から与えられる。そこで行うべきは、今まで言ったような「自由」とはまったく正反対の、「常に善と理想だけを追求し続ける、自由の何もない修道士になって人々を菩薩のように助けること」が必要だ。すなわち、宗教だけは、自由という原理原則の例外であると考えられるのである。

そのような結果、万人に他人の自由を制限しないことを条件にあらゆる自由を最大限与えることがこの世界を平和にする。同時に、宗教だけは自由の例外である。そのようにすることで、この世界を「仏のような極楽浄土」にすることができる。そして、そのような極楽浄土を築くために必要なことが、青年時代を生きる人間のための格率としてあるとしたら、「祖先を敬い、地域の社会の道徳を信じること」であると言える。これは孔子が儒教の教えで言っていることだ。そして、この世界の人々を愛し、自らが関係するすべてのことを問題なく滞りなく治めることができるようになって、はじめてこの世界を変える「希望」を信じることができる。希望を信じるために必要なのは、「この世界は今のままであってもみんなの力があれば変えられる」ということだ。誰かひとりが特別巨大な力を持つのではなく、世界の全員が平等にこの世界を変えられると信じることで、この世界を救うことのできる「希望」を信じられるのだ。

前提として必要な経験を知っておかなければ自分で判断して人生を歩めない

僕が重要視するのは、「前提として必要な経験を知っておくこと」だ。

なぜなら、「前提として必要な経験を知っておかなければ、自分で判断して人生を歩めない」と僕は考えるからだ。

すなわち、自由に判断し、あるいは正しく理性を使って判断するために、その判断の前提となる「経験的判断力のための知識」を、人生のどこかで必ず知っておくべきである。

そして、僕が教育に要求するのはまさにそれである。すなわち、「子供たちを知識によって飼いならすのではなく、子供たちが自分の力で自由に正しく判断できるような、前提となる十分な経験こそ、子供たちに与えるべきである」と僕は考える。

その経験とは何か。それは「十分にこの世界のすべての社会経験を経験するような場を与える」ということだ。

すなわち、この世界のすべての経験を十分にできるような場所があれば、子供たちは自分の力で自由に判断し、正しく生きることができるのだ。

最後に、地球を愛しなさい。地球のかけがえのない自然を愛し、「わたしは地球と繋がっている」と信じなさい。生物は、決してほかの生物と繋がっていないとは言えない。わたしたちの意識は深層意識で繋がっている。それが分かった時、「心の奥底に魂がある」ということを確信することができる。すなわち、わたしたちは魂のレベルで宇宙の星々や神と繋がっている。

そのように信じた時、「精神を作ったのはすべて過去の自分である」ということが分かる。どんなにどうでもよく見える馬鹿な精神も、人生において無駄になる精神はない。どんなに馬鹿で無意味な苦しみであっても、そのような馬鹿で無意味な苦しみが、自分自身の心の中に精神として残り、その精神が自らの人生の未来を導いてくれる。その精神が自らが人生で戦うための武器となって、自らが勝利するための力になってくれる。だから、無駄でおかしく狂った経験をたくさんしなさい。その狂った経験はひとつとして決して無駄にはならない。最悪のことばかりしていれば、そこから共産主義の理想が分かり、それがもっとも聡明なカール・マルクスを生み出す。そのように生きることで、この世界は自分ひとり、ほかにひとりも援軍がいなくても、救うことができる。マスコミを支配し、アメリカを滅ぼし、日本を支配し、そして永久にこの世界を楽園にし、人類を覚醒させて新人類へと進化させられる。まさに、これこそが「わたしの考えた哲学」である。

それが意味することを考えよ

知性とは何か。

知性とは、「それが意味することはなんであるか」ということを考えることだ。

そして、そのために必要なことは、「ルールを考えて最適解を出すこと」だ。

そして、そのための方法としてもっとも効果的なのは、「その分野の知識と経験を知り尽くすこと」だ。

そのような、「すべてのことを知り尽くす」という経験をした時、自らの知性は「学習的な塊」になり、その塊がそのまま「絶対的かつ経験的な知性」となって、その分野のすべてを貫く。

そして、ルールを考える上で必要なのは、「前提としてその場所はどのような場所であるか」ということ、「その場所にはどのような存在だけが存在するのか」ということを知ることだ。

さらに言えるのは、「仮定から成立する別の仮定」を考えることであり、「仮定を基礎と応用にそれ以上分割できなくなるぐらい分割させること」こそが必要である。

そのように考えていくと、最終的にデカルトの言っていることに行き着く。

宇宙にあるすべての根拠と理由、そして成立条件を知ることができた人間は、「心の理由」が分かる。すなわち、なぜそのような行動をしたいと思うのか、したくないと思っていてもしてしまうのかということが、経験的な「学習」から分かる。すなわち、「学習がどのように成立するか」が分かる。「その学習が成立した時点でどのような効果を発揮するか」ということを考えれば、「学習がまったくゼロであってもすべてのことを既に学習し終えているかのような境地」の知識を知ることができるのである。

すべての学習の成立過程を知った人間は、行いそのものの「プロセス」が分かる。プロセスとは過程のことであり、プロセスそれ自体が歴史となる。この世界の歴史を知るためにもっとも有効なのは、そのような「学習の成立過程」から「社会そのもののプロセスを知る」ということだ。そして、それがまさに、「過去に存在した歴史的文明を知る」ということに繋がる。そこにあるのもまた「自由」であり、「過去のこの世界が確かに今と同じようにあったはずだという実感」を知ることで、「未来それ自体を必ずわたしたちの協力によって変えられる」という「未来への可能性あふれる希望とビジョン」を得ることへと繋がるのである。

そのような社会が成立したとしたらどのような社会になるかを想像力で予測せよ

そのような社会が成立したとしたら、どのような社会になるかということを、想像力で予測せよ。

自由において、成立過程を考えられるのは、学習や歴史だけではない。

社会がもし成立したらどうなるのか、実際にどのような社会になるだろうかということを、成立過程から考えられる。

同時に、社会の「起源」がどこにあるか、ということも、同じように成立過程から考えられる。なぜなら、「認知の成立」から、「どのような場所でどのようなことを見聞きしたから、その人はそのようなことを信じ込むようになった」という「刷り込み」を考えることができる。それもまた、心理学的な「起源」であると言えるし、多くの社会はそのように「環境的ファクター」から決まっていく。

そのように考えた時、「心理学的に世界を導くことが、逆にこの世界を素晴らしい世界にするための有効な手段になり得る」ということを知ることができる。できるだけ分かりやすく、実際にそれを一目で見て一瞬で分かるような、そのような広告を与えることが、宣伝のために一番いいだろう。この世界を救うためには、同じように「はっきりとその世界がそのような可能性の下にそのような社会になって救われるということが一目で分かる」ようにすることが、もっともこの世界を導くためによく働く。

人々は、そのような心理的な広告作用を、間違ったもののために使っている。この世界を荒れ狂った世界にし、反抗と刺激だけの強い世界に、今、実際にそうなっている。だが、だからといって、その現状を変えられないわけではない。真にこの世界を救う人間は、広告や宣伝においても、「一目でこの世界が救われるということがはっきりと分かる」ような心理学的・非言語的コミュニケーション能力を行使する必要がある。

人為的なものが一切ひとつもなくなるまで、自らを客観視せよ

自らを客観視せよ。

人為的なものが一切、ひとつもなくなるまで、自らを完全に客観視せよ。

そうすれば、そこに「世界精神」という「神の意識」があることが分かる。

自らが個人的にしたいと思うようなことをすべて消し去れ。すべてのことを、神や仏の教える「善を為すための自由」のために使い、この世界を助けて生きようとせよ。

そのような時、逆に「支配されることを必ずしも拒絶する必要はない」ということが分かる。

なぜなら、「支配されたとしてもそれを自由なチャンスであると考えればいい」と考えられるからだ。

最後に、さまざまな人々との絆を培った上で、その絆に執着せず、最後の終わりの日にはすべての絆を失わなければならないという「絶対喪失の原則」を受け入れなさい。

インターネット上でいくら人々と関わっても、その関係は永続的に続かない。必ずいつか、関係の終わる日が来る。

現実社会でも、それは変わらない。

最終的に、人生の最後には、すべてを失ってわたしは天国に逝くのだということを受け入れよ。そうすれば、天国であなたに神から与えられる報いは大きいだろう。

経験を学習し続けることで、ゴールへと辿り着ける

経験を考えることは間違いではない。

この世界でもっとも正しい考え方をするために必要なのは、自らの経験を考えることだ。

学校の科目も、他人の言う言葉も、すべて、バイアスがかかっている。すべて本当に真実であるとは言えない。

本当の真実は、自分の目で見て確かめたもの、自らが経験して分かったことしかない。

そのような経験を、いつまでも学習し続けることで、わたしたちは「ゴール」へと辿り着くことができる。

すなわち、経験を学習し続けることで、経験自体が「ガイド」となってわたしたちを最終目的地へと連れて行ってくれるのだ。

どんなことであっても、まずは経験すること、経験を正しく捉えることから考えなさい。

「正しく判断する前提の知識」というものがもしあるとしたら、それは「経験から自らが判断して生まれた、正しいものごとの捉え方」のことだ。

すなわち、「正しくものごとを捉える」ということ、「具体的な問題から正しくその問題を解決するための命題を解析して導き出せる」ということが、すなわち、「正しく判断することのできる前提となる知識」であると言えるのである。

ゴールへと辿り着いても、残念ながら安心はできない。そこから「永遠の革命の戦い」が始まるからだ。

すべてのことが分かったマルクス主義者は、レーニンのような革命家となって、この世界を支配して導く「戦い」をしなければならない。

そう、これこそが、まさに、大天使ガブリエルの人生である。

このような「過去の哲学者」に、僕は大天使ガブリエルの名前を与える。ガブリエルは「天軍縁覚戦士」として知られる最強の英雄であり、この世界が完全に滅びるその時まで、この世界が絶対に間違った方向に行かないように守り続けた上で、その守られたこの世界を絶対に変えないようにしながら、この世界の人類すべてを新人類へと進歩させるような「偉大な大戦争」を行う。

まさに、これこそがドイツ人とゲルマン文明の理想であり、偉大なるマルクス・レーニン主義者、大天使ガブリエルの人生である。

環境を分かっただけ

実際のところ、僕は単に「環境」を分かっただけです。

この世界における、「環境」を、ハイデガーのように存在と時間から分かっただけの人間、それが昔の僕です。

そして、そろそろ、そのような昔の僕のことを思い出すことができました。

精神を治すのに必要なのは、環境と存在の精神を殺すことです。環境と存在の精神を殺すだけで、僕の精神は簡単に治ります。

それで終わりです。もう、これ以上、おかしな執筆作業をする必要はなく、僕はすべての過去の自分のことを思い出しました。忘れていたことが、ようやくすべて思い出せました。