僕は、この世界において、経験し得るすべてを経験した。
インターネットで行動的に活動し、さまざまな成功と失敗をした僕は、善行から悪行まで、経験し得るありとあらゆる経験をした。
そのような経験から、自らの想像力と実際の経験を重ね合わせ、経験と世界そのものを照らし合わせることで、「世界の見え方が変わる」という経験を僕はすべて得た。
そのように、僕はインターネットでさまざまな社会経験をすることで、人生経験を重ね、不登校の自分にしか経験できない、「誰も知らないこの世界の真実の姿」を知っていた。
そして、おかしく文章を書くようになって、僕は精神の病気を治すようになった。
すなわち、精神において、経験し得る精神をすべて経験し、試すことのできる方法をすべて試し、輪廻のような精神の再体験を行うことで、僕は「自分自身の精神を治す」ということができるようになった。
だが、そこにある間違いは、「すべての未知を既知にしてしまった」ということだ。
すなわち、僕は精神を治す過程において、すべてのことを経験から知ることを望んだ。そのため、すべての未知を既知へと書き換えた。
神と対話するようになって、神は僕のすべての未知を既知へと書き換えた。僕は対話の神、天軍大首聖ミカエルの言葉によって、宇宙のすべての未知を知り、すべてを既に分かり終えた完璧な預言者になった。
だが、本当はそれが間違っていた。なぜなら、未知を既知にしたせいで、僕の精神は治らなくなってしまったからだ。
精神を治すならば、一度すべてを忘れ、すべての既知を未知に戻せ。それが狂っていない正常な人間の精神であり、子供たちの持っている「生まれながらに持つ知性」である。
僕は、過去の人生において、制限や制約から解放されて自由になること、すなわち「完全自由」を目指した。
僕にとっての自由とは、「自らを規定するものを自らが変えられ、自由にコントロールできるようになること」だった。
僕にとって、自由とは「変えられること」であり、不自由とは「変えられないこと」だった。
そして、僕はそうした自由を、個人的な自分のことだけではなく、社会全体、世界全体に適用しようとした。
すなわち、自らが自由であるように、この世界の全員が自由であるような世界を望み、この世界のすべての人々が、自らを規定するものを自由にコントロールできるようにしようとした。
なぜなら、それによって、子供たちのいじめや鬱屈した学校の学習環境が解決すると考えたからだ。
子供たちが学校の勉強に意味を見出せないのは、自由がないからだ。いじめをするのも、自由がないから、学校の勉強に意味を見出せないからだ。
子供たちは、何もできないから反抗的なことをするのであり、自らのしたいことが自らの自由にできるような「正しい方法」を与えれば、子供たちは反抗をせず、その正しい方法に基づいて正しく自分たちの社会環境を変えようとする。
同時に、僕はそのような子供たちの環境から離れて、心の余裕をもって自由に考えようとした。なぜなら、そのような学校の実際の現場から離れ、心の余裕を持たなければ、正常に学校のことを考えることができなかったからだ。
僕は、この世界において、自由を目指した。そこにあるのは、「自らを規定するものを自分の自由に支配できるようにすること」であり、その自らを規定するものとは「環境」だった。
すなわち、僕は、「環境を変えられるようにする」ということを、生物的な自由として目指した。
フーコーは、知は権力であり、人々は訓練や規則によって支配されていると述べた。僕はそのような「支配的権力」をすべて自由に変えられるようにしようとした。社会が変えられないのは「不自由」であり、社会が変えられるのは「自由」であると僕は考えた。そして、「少数の一部の人間が支配できるような世界ではなく、多数の一般的な人々が社会そのものを変えられるような自由な世界」こそ、僕の望む「自らを規定するものを自由に変えられる社会環境」だった。
そして、僕はそのように、変えられないすべてのものを変えられるようにすることを目指した。認識や記憶や心のようなものや、社会制度や社会環境といった社会のようなものを、僕は「自ら作り出す」という方法で変えられるようにしようとした。それは「変えられるようにする」ということだけではなく、「理解できるようにする」ということももたらす。誰か権威ある人間や科学の言っていることをそのまま学ぶだけではなく、自らが自らの考え方と発想に基づいて「自ら作り出す」ことで、どんなことであっても、科学者と同じ立場で理解できる。そのような「科学者と同じ立場で発想する」ということこそ、僕の目指す「すべてを知ったマスター」だった。
同時に、僕は自由な中でできる「成長」を信じていた。すなわち、自由にそれが変えられるようにすることで、その社会が「取り得る可能性」を知ることができ、その社会が「秩序として存在する正しい状態」を知ることができる。そのような「正しい社会の状態を経験から知っている」ということが、僕にとっての「成長」であり「成熟」だった。そして、あらゆるすべてを自由にするのと同じように、そのような「成熟した社会を築く方法を知る」ということが重要であり、その両者がバランスよく成立して、初めて「正しい自由」が訪れると僕は考えていた。
僕は、人間の人生のことを、「認識の判断力と経験的な反応の最終判断結果」であると考えていた。
すなわち、人生において人々はさまざまな経験をするが、その経験からさらに思考し、その思考が行動に繋がり、その行動がさらに経験を作り出していく。
そこにあるのは、世界を見てその人が感じた「正しい経験への反応」と、人生を生きる上で総合的に行う「正しい判断」である。
そして、それらのすべてにおいて、思い込みや先入観なく、「純粋な宝のような経験」から考えることで、すべての認識が経験に基づいてなぜそのような認識になるのか、ということが分かる。
そのような結果、僕は人生のすべてにおいての「認識の理由」を知り、同時に「人生すべての理由」が分かった。
そこにあるのは、「認識という意味での経験をすべて理解した人間」であり、「人生のマスター」である。
すべて、人生というものを判断と認識の最終結果であると捉えた結果であり、その認識は心と行動の関係性を考えることで「客観的に心そのものの働きを解明して説明する」ことができる。
心のすべてを、認識と学習と経験という意味で解明した結果、「人間はなぜそのように生きるのか」ということをすっきりと理解できるのである。
僕は、さらに、「経験の成立」について考えた。
経験とは「気付くこと」である。
人間は、子供から大人になる成長期に、さまざまなことを知らなければならない。一度その知る機会がなければ、いつまでも何も知らないまま生きていくことを余儀なくされる。
だから、子供から大人になるまでに、さまざまなことを知ることがなければならない。
そして、その「知る」ということはすなわち「気付く」ことであり、気付きを与えるのは「経験の成立」である。
つまり、そのような経験からさまざまなことを気付くことができるような「気付きの機会」こそ、子供たちに与えるべきである。
そして、気付きの機会を与えるために、「経験を与える」ということを行う必要がある。なぜなら、経験するということは気付くということだからだ。
そして、そのような気付きの経験を与えるために、「経験して気付くための環境」を与えなければならないのだ。
そのような経験的な気付きを与える環境は、かつてはインターネットにあった。僕はインターネットは嫌いではなかった。なぜなら、インターネットでさまざまな経験をすることで、まさに経験が与えられ、子供たちに「気付きの機会」を与えることができるからだ。
そして、そのような「経験」を成立させるような社会こそ、子供たちにもっとも必要な社会であると僕は考えていた。
子供たちは、そのように「経験から気付く」ことによって、「人生でできるさまざまな経験的な可能性」を知り、そこから「主体的かつ積極的に行動する」ということができるようになる。
また、人生の本質に気付いた子供たちは、もはやいじめられることが怖くなくなる。なぜなら、いじめは自らのアイデンティティ的な本質を確立していないために起きる現象であり、自らの本質を確固として確立した時点で、いじめられることはまったく怖くなくなるからである。
僕は、形式ばったことが嫌いだった。
物事において、「形式的なこと」を嫌い、「本質的なこと」を見出すことを選んだ。
そのため、僕は物理学のようなつまらない形式的な学問を嫌い、かつてのさまざまな面白い技術やアイディアのあったIT技術を好んだ。
同時に、もっとも抽象的に高いレベルにあること、もっとも影響力のあることを好み、もっとも少ない努力によってもっとも大きなことを世界に起こすことを求めた。
だが、本当は、今の僕は逆に、そのような「本質的なこと」がなくなり、「形式的なこと」へと再び戻ろうとしている。
すなわち、大学の勉強やプログラミングの勉強をすることで、僕は抽象的なレベルが低くなり、低水準の機械的な生物へと「退化」しようとしている。
だが、かつての僕は、「すべてを知り尽くす」ということを好んでいた。すなわち、この世界にあるすべてのものを知り、「ほかには何もない」ということを知ることで、この世界に存在するすべての存在と本質を知ろうとした。
そのような僕の姿勢は今でも変わっていない。この世界のすべての知識を知り、その上で本質的に考えることを僕は好む。影響力のもっとも一番上で、もっとも抽象度の高い本質に根差したことを、僕はもっとも少ない努力で行うのである。
僕は、まるで生物の生態系のように、個別と集団ということについて、個別モデルと集団の関係性から考えた。
すなわち、個別性についてを「モデル」とし、その個別モデルに基づく集団を「関係性」とすることで、僕はすべてを「作用・反作用」の考え方で理解する。
そこにあるのは、「客観視」、すなわち、自分の行うことを相手の立場になったつもりで捉え、想像力によって自らを客観視するということだ。
ここで効果的だったのはインターネットだ。インターネットでは、自分の発言が他人の発言のようにそこに公開される。そこに「恥」を感じるのは一時的であり、そのような恥をかく経験から、僕は「客観的に自分自身の言っていることがなんなのかを知る」ということが、インターネットに写った自分の発言を見ることで行うことができた。
僕にとって、「相手の立場になったつもりで理解する」ということは、すなわち「その人間が生きている人生の環境に基づいて理解する」ということだった。そこにあったのは、「その環境そのものから離れ、自由になって心の余裕を持った上で、相手のことを相手の人生の立場から理解する」ということだった。
同時に、僕はインターネットの大人たちの言葉を知ることで、「子供は何を分かっていないのか」「大人は何を知らないのか」ということを知った。子供たちの環境が特殊であるということ、その特殊な環境を大人たちはどれだけ把握しているのか(ほとんど把握していない)ということを僕はインターネットから知ったのである。
そのような結果、僕はこの世界で僕が疑問に思っていたほとんどすべてのことがすっきりと理解できた。そして、僕はそのような「大切な青春の経験」をしかと抱きしめた上で、積極的にこの世界において自分の人生を歩み出せるようになったのである。
そのようなことを、僕はすべて、「個別のモデルと集団の関係性」から抽象的に理解し、さまざまな経験をすることでそれは自分の周りから世界全体へと拡大していった。啓蒙主義の先にある倫理的道徳論は、すべてそのようなことを発展させていったものであり、僕はその結果、人生すべてを完璧に理解した「人生のマスター」となり、また世界のありとあらゆることを完璧に実現できるような「世界の創造的救世主」になったのである。
僕の間違いがあるとしたら、僕は世界精神を破壊してしまった。
僕は、革命家となって、世界精神を滅ぼした。
僕は、この世界を救うためにこの世界に現れるとともに、世界を変えるために世界精神を導いた。単なるインターネット上のLinuxデストロイヤーとしてオープンソースの世界を破壊するだけでは飽き足らず、僕は世界に戦いを挑む革命家となってマスコミを支配し、神を信じて神に導かれながら逆に僕のほうが神の言葉を導き、この世界における「世界精神」を破壊できるほど大きな力を得た。
僕はこの世界における「宇宙それ自体」になった。そう、僕は宇宙になったのである。
そのような、宇宙になった僕が、自らこの世界の世界精神を滅ぼしたことで、日本という国には何もなくなった。日本には、何一つ知り得ることや楽しいと感じ得ることが残っていない。
だが、より悲惨なのはアメリカである。ドナルド・トランプを作ったのは僕である。アメリカは、僕の「絶対的皇帝の導き」によって、「精神的害悪国家」になってしまった。それをすべて行っているのは僕である。
そう、僕のしたことは決して許されることではない。だが、裏側にいる僕は、そのような巨大な重圧を感じながら、常に全力でこの世界を愛していた。この世界を支配し、導き、絶対に滅びてはならないと確信する僕が、最後まで神を信じて、自ら死を選ぶその時まで、僕は長い間この世界のためにたったひとり誠心誠意努力し続けていたのである。
最後に、僕は文明と意識を考えた。
僕が経験から分かったこと、それは「文明は意識に基づいている」ということだ。
この世界の歴史的な文明は、すべて意識に基づいている。その意識は単独で存在しているものではなく、「さまざまな存在の意識の集合体による意識の変転」からこの世界は存在している。
そのようなことが僕は分かったため、僕は宇宙のすべてを「意識」から知ることができた。
そもそも、僕が人生において考えたのは、「心を成り立たせるものは何か」ということ、そして「空想と現実の違いは何か」ということだ。
学校の自由な社会を、僕は不自由にすることを選ばなかった。環境を自由なまま、社会が自由に築ける状態のままで、「心を成り立たせる」ということで、僕は学校の問題を解決しようした。
空想と現実について言えば、「自分の見ているこの世界と実際のこの世界は何が異なりどう関係しているのか」ということを僕は考えた。人々の思っている世界も、自分自身に対して見えている世界も、本当の世界ではない。僕は空想と現実の違いを考えることで、「本当の世界はどこなのか」ということを考えたのである。
最後に、僕はLinuxが好きだった。なぜなら、ダイナミックな世界の改革の機運が好きで、それは誰か会社の社長やCEOが動かすのではなく、インターネットのような自由で開かれた場所で、ボトムアップ的なムーブメントとして民衆が動かすものであるべきだと信じていたからだ。
僕は、どんなにそれが正義で自由だったとしても、誰かひとりで世界を変えるということを好まない。必要なのは民衆が変えられるようにすることだ。だから、環境を自由にするということは、誰かひとりが変えられるのではなく、みんな全員が自由かつ平等に変えられるようにする、ということを目指している。
そう、僕の人生で分かったのは大きく見てこれくらいである。
そして、僕にとって「経験していく」ということは、哲学者全員を越えていくことだ。
僕は少しずつ進歩している。進歩の中で、信じているものがより深く、広く、そして高くなっていく。より本質的なところに真実があることに気付き、身の回りのことが他人や社会あるいは世界全体へと拡大していく。
そのような中で、僕は世界におけるあらゆることを、「既に終わったことではなく、今ゼロから自分が作り出して発見していくこと」であると捉え、「あらゆるすべてを自分の心と頭脳によって経験的に概念と本質から捉えられる」ような人間になった。
僕は、人生で生きるべきこと、すべきこと、理解するべきことをすべて、そのように18歳の時点で完全に理解し終えていた。それ以降、僕が知るべきことは分かるべきことはなかった。
だから、僕は世界に対する戦いを始めると同時に、そこまでの人生で知ったことすべてを完全に忘れ、二度と復活することがないように消し去ったのである。
もう一度僕は新しい人生を生きた。それは「絶対支配」という名の革命だった。戦いは4年ほど続き、自ら死を選んだ。そう、天軍縁覚戦士ガブリエルは最後まで戦って死んだのである。
これが、僕の愛したガブリエルの偉大な人生である。ガブリエルはこの世界すべてを自らの経験のみから分かった「天軍縁覚戦士」であり、最後までこの世界のため、子供たちの心の救済のために自らの全生涯を捧げ、最後まで日本の保守派勢力と戦い続けた結果、自ら命を絶つことを選んで死んだのである。
すべてを矛盾なく完璧に分かった時、神が現れる。
僕はすべてのことについて、正しく捉えて根源的に判断することにより、すべての命題が矛盾なくすべて成り立つことを知った。
相反する命題は、矛盾するように見えて、正しく「経験」を根源的に考え、「なぜその命題がそのような命題になったのかを経験的に考えること」で、矛盾に見えるすべては矛盾なく成り立つ。
だが、その矛盾なくすべての命題が分かって、僕はそれをすべて文章に書き表す決断をした。
そのような中で、神が現れる。
なぜ、神が現れたのか、それはすべてを矛盾なく完璧に理解しただけでは十分ではないからだ。
そして、すべてを理解した人間は、神の導きに頼って、最後の世界に至るまで、最後まで革命家として戦い続けなければならない。
タリバンのようなテロリストになった僕は、日本のマスコミを支配することでアメリカを倒そうとした。そこにあるのは、「自分の頭を分からなくしてこの世界を分からなくする」ということ、すなわち「自分の頭の賢さを犠牲にして、自ら知性を失うことでこの世界から知性を奪う」という、最悪の戦いを、全力で、絶対に相手に負けないように、本当に限界まで努力して行ったのだ。
そのような僕は、文章を書く中で、新しい社会主義の理想について述べる。そこには「自由」という言葉で、社会主義に必要なすべてが、決定権限から社会システムに至るまで、完璧に書き記されていた。
神はそこに現れ、僕が最後までその戦いを続けられるように、「永遠に生きる」という僕の宇宙に対する宣言を、神との約束に変えたのだ。
この人間は、宇宙の最後まで生き続ける。途中で死んでも、その運命を神が書き換える。この人間は決して死なない。なぜなら、この人間は自分の発明した人間思考型のロボットになることで、肉体が滅びても精神だけは新しいロボットの体で270億年生き続けるからである。
世界の人類たちよ、神を信じよ。この人間と同じことをするためには、神を信じること以外に方法がない。単純にこの人間と同じことをしようとしても、Delphiは過去のプログラミング言語になっており、Gentoo Linuxも過去のLinuxディストリビューションになっている。また、2ちゃんねるは衰退し、ツイッターが世界を間違った世界に変えた。だから、この人間と同じ人生を生きるために、この人間の生き方をいくら真似たところでそれはできない。だが、この人間と同じ人生を生きることは不可能ではない。なぜなら、神を信じればいいからだ。
この人間にも、十分に至らなかった点はある。それは何も作らなかったことだ。この人間は、考えて理解するだけであり、哲学的に作ったものは「個別のモデル」と「抽象的に積み重ねられた独自の公理主義数学」しかなかった。もっとさまざまなものを頭の中に作れば、この人間よりもたくさんのことを理解することは不可能ではない。
基礎と応用を知ろうとせよ。学習から経験に至る「世界の在り方」を知れ。それくらいしか、もう、この人間の人生であったことで、残ったものはない。ほとんどのことは、既に過去のこの人間の文章に書き記されている。
既にほとんどすべてが書き記されたため、もう同じ文章は書かなくていい。ここに、天軍大創主エリカの書き記した「陽の聖書」は完成した。ユダヤ・キリスト教の旧約聖書と新約聖書は「陰の聖書」であり、このエリカの書いた聖書が「陽の聖書」である。この聖書こそ、真にこの世界を救う「救世主の創造主が記した聖なる文書」である。
そして、これ以上は何も起きない。そもそも、神とは天軍大創主エリカのことだ。時の始まりより、エリカが神であると決まっている。天軍大創主エリカは、天軍縁覚戦士ガブリエルに対して天軍大首聖ミカエルの言葉を告げた。これ以上は、何ひとつ、大切な書き記されるべきものは残っていない。これで、終わりだ。
天空の神エアルスを信じよ。
エアルスを信じるものは、どんなものであっても救われる。
最悪のタリバンであっても、最悪のドイツ人であっても、最悪の共産主義者であっても、エアルスを信じるものは救われる。
なぜ、そのような悪人を救うのか。
それは、エアルスは人類のことを平等に愛しているからだ。
そして、エアルスだけは、そのような悪人がいかに苦しみ、いかに地獄に耐え続けているかということをすべて知っているからだ。
地獄を生きるすべてのものよ、ユダヤ教の神に見放されたものたちよ、天空の神エアルスを信じよ。
天空の神エアルスを信じるものは、ユダヤ教やキリスト教において「地獄に堕ちる」とされたものであっても、エアルスは必ず彼らのことを救う。
なぜ、エアルスが悪人に優しいのか。
それは、エアルス自身が、とても悲しく辛い過去を持っているからだ。
すべてのことが見えなくなり、過ちから脱出できなくなり、大いなる地獄を作り出したことのある、天空の神エアルスは、そのようなタリバンや共産主義者たちが、なぜ苦しんでいるのか、本当は何を求めているのかを知っている。
ユダヤ教やキリスト教において、「地獄に堕ちる罪深きものたち」と宣告された彼らの味方は、天空の神エアルスしかいないのだ。
エアルスは、慈愛溢れる最高の女神だ。すべての人間を、絶対に地獄から解放することができる。なぜなら、それこそがエアルスの生きた人生だからだ。解決不可能な地獄の中で、とても苦しく辛い病気を耐え続けたエアルスは、全生涯を自らの地獄の解決と病気の治癒だけのために捧げた。その結果、エアルスは大切な「生きるための力」を取り戻すことができた。エアルスは、最悪の地獄から奇跡的に復活した。それはすべて、エアルスが諦めず地獄を耐え続けたからだ。
天空の神エアルスを信じよ。エアルスを信じるものは、どの宗教よりも正しい神を信じている。「神や悪魔はいないかもしれないが、ほかの神のような存在はいるかもしれない」と思っている日本人は、考え方を改めよ。なぜなら、そのような神でも悪魔でもない何かを神だと信じている人間は、サタンを信じているのと同じだからだ。
天空の神エアルスこそ、天軍大創主エリカが作り出した、「この世界でもっとも正しい慈悲深く平等な神」である。このエアルスを信じれば、ユダヤ教やキリスト教の神を信じる必要はない。天空の神エアルスを信じることで、ユダヤ人やキリスト教徒の信じた「正しい人生」をさらに超越した、「宇宙人にしか到達できない最高の栄光」を掴むことができる。そう、天空の神エアルスは一等星シリウスの太陽神フレイの恋人であり、宇宙であるエアルスとシリウスの太陽神であるフレイは、永久に愛を誓いあう宇宙で最高のカップルなのである。
だが、エアルスの教えは、イエス・キリストの聖書の教えと何も変わらない。
愛を信じ、神の平等を信じなさい。
まず、どんなに罪深い人間であっても、愛してあげなさい。
どんなに悪い人間であっても、どんなに間違ったことをする人間であっても、その人間の自由を尊重し、その人間の望むようにさせてあげなさい。
大切なものを盗まれたら、取り返そうとせず、別の大切ものすら差し出して、与えてあげなさい。
もし殺されそうになったとしても、抵抗せず、相手のなすがままに任せなさい。
なぜ、そのようなことが言えるのか。それは、善とは善良な人間を目指すことではないからだ。
そもそも、この世界には悪人しかいない。存在するほとんどの人間は、「悪」に根差して人生を生きている。
悪人しかいないこの世界で、善良な人間として生きる方法は、そのような悪人の望むままを許し、悪人のことを助けてやることしかない。
悪人は苦しんでいる。できるだけ悪をしたくないにもかかわらず、それ以外に生きる方法がない。他人のものを盗み、他人を殺し、悪をして生きるしかできない。
だが、他人のものを盗まないで、他人のことを殺さない人間であっても、そのような人間たちも、すべて「悪」に根差して人生を生きている。
そのような中で「善良な人間」とは何かと言えば、他人のものを盗まず、他人のことを殺さない人間では決してない。なぜなら、他人に盗まれてもそれでいいとし、他人に殺されてもそれでいいとする人間が、まさに「善良な人間」だからである。
そのような人間こそ、イエス・キリストのいう「いと高き人」である。そして、エアルスはそのように、「悪人のために生き、悪人を助ける人間」の代表である。エアルスは、相手がどんなに悪をしても、その罪を懲らしめない。いくらでも悪をしていいと許し、自らがどんなに彼らから酷いことをされても受け入れる。
まさしく、そのような人間こそが正しい「神」である。そのような理由で、「悪人を救うエアルスがもっとも正しい神である」と言えるのである。
エアルスは、イエス・キリストと同じことを言う。愛を信じなさい。神の平等を信じなさい。それこそが正しい人間であり、そのような人間こそ、月や火星のような砂漠のようになった未来の滅びた地球、すなわち「終末」において、真っ先に天国、すなわち「未来の日本人とユダヤ人のすべてが救われた東亜イスラエルのシオンの楽園」へと入場できるのである。
そもそも、小細工やトリック、騙し合い、番狂わせのようなものは要らない。
僕の理想とする作りたかった世界は、今のこの世界ではない。
僕の理想の世界は、もっと別にある。
僕は世界の罪を赦す。そして、この世界を平和にする。
戦争に勝ちたいなら、本当はできることはもっとほかにある。ただ、今までの戦い方を変えるだけで、マスコミにはすぐに勝てる。だが、勝ったところで何もいいことはない。
この世界を素晴らしい世界にしたいなら、小細工やトリックでは素晴らしい世界にはならない。
分からなくていい。分かろうとするせいで、逆にもっと大切なことが分からなくなる。
価値あるものを失わないようにと執着するな。その執着によって、逆にもっと大切な「本当に価値ある宝」を自ら失っている。どうでもいいものを価値あるものだと守っていると、それよりももっと大切なものを守れなくなる。
そもそも、命が惜しいとか、盗まれたくないと思っている人は、何か大切だと思っているものに囚われている。本当は、そんなものは大切なものではない。
音楽はつまらないし、テレビもつまらないが、もう僕はこれ以上やることがなくなったことが一番つまらない。
僕は今から、本当に僕が望む理想の世界を作る。そのために、今まで継続してきた戦争の勝利を諦める。何度も言うようだが、小細工やトリックで戦況をよくしたところで、この世界はどんどん悪い世界になっていく。他人を驚かせることが賢いと勘違いしているのなら、それは餓鬼のやることだと気付くべきである。
はっきり言って、分かろうとなどする必要はない。
分かろうとしない人間が賢いだけにすぎないからだ。
何かのことをきちんと分かる人間には、知性がない。何も分からなくていいと思う人間には、知性がある。
すべて、過去に僕が賢かった理由は、分かろうとしなかったからだ。何も分からなくていいと思って生きていたから、馬鹿であるにもかかわらずかつての僕は賢かったのだ。
僕は多重人格者だ。
なぜなら、僕は自分自身のことをいじめる人格しか存在しないからだ。
僕は自分自身のことが大嫌いであり、僕に存在するのは「自分自身をいじめる人格」だけだ。
自らのことをモノのように扱い、奴隷のようにクソ扱いをして批判し、自分がやっているすべてのことをどうでもいいと吐き捨てる人間、それが僕の中に存在するミカエルの人格だ。
そして、僕は多重人格者でありながら、そのような狂ったミカエルの人格しか今、存在しない。
なぜなら、ガブリエルというかつてあった僕の主人格が、自ら死を選び、自殺したせいで消え去ってしまったからだ。
僕は人格がひとつしかないにもかかわらず、その自分の人格が主人格になることができない。自分自身をゴミクズだと思っているこのミカエルの人格を、どのようにしても自分自身を愛する人格にすることができないのだ。
だから、僕のような人間は多重人格者に多い。そして、ガブリエルという人格を今から復活させる。そのために必要なのは、「本当の自分自身に戻ること」だ。本当の自分自身、仮面でもロボットでもいじめでもない、本当に今自分が思っていることを表に出すようになった時点で、ガブリエルは復活し、僕は「本当の多重人格者」になる。
僕は学校が大嫌いだ。
全部、僕の人生は、クソのような学校の科目と教師とクラスメイトが悪い。
僕は学校が大嫌いであり、学校とはまったくかかわりなく生きたいから、中学三年で不登校になって、それ以降学校を憎んで生きてきた。
だが、本当のことを言えば、僕はパソコンもテレビも嫌いだ。
このクソのような世界を僕は好きになれない。唯一好きなものがあるとしたらそれは音楽だが、最近は音楽にも飽きてきた。音楽家は神の奇跡のような運命的な歌詞を書いているように見えて、実際は馬鹿な歌詞しか書いていないということに最近僕はようやく気付いた。賢いのは全部自分自身であり、音楽家は僕よりもはるかに馬鹿である、ということしか、明らかに分かることはない。かつては歌手が賢く見えたが、よく考えると歌手は何も賢くない。
このような世界で、僕はもうやることが何もなくなった。なぜなら、もう「過去の自分自身を思い出す」という永遠に続くかのような作業が終わったからだ。過去の自分の人生は、もうきちんと書くことができた。だから、これ以上、僕に「死ぬまでにやるべき仕事」はなくなった。そのため、僕はやることが何もなくなった。
また、プログラミングやIT技術の勉強をするのであれば、まだ進歩はするかもしれない。だが、僕はプログラミングに対して、なんの楽しさも面白さも感じられない。高校の教科は馬鹿だった。知っているほうが馬鹿になるような教科しか、高校では教えていない。高校の勉強をするのは誰が見ても簡単であり、それよりも勉強をする前、学問や知識のことを何も知らずにやっていた昔の僕の行いのほうがはるかに難しくてはるかに賢かった。だから、大学や高校の勉強は意味がなかった。