僕は、間違った覚え方と、間違った忘れ方をしている。
正しい覚え方と、正しい忘れ方をすれば治る。
まるでどこかの歯車がおかしくなって、あべこべになってしまったかのように、僕は覚え方と忘れ方が完全におかしくなっている。
必要なのは、あべこべを直して、正しい覚え方と忘れ方をすることだ。
過去のことに囚われず、過去のことは全部忘れたほうがいい。すべてを覚えるのではなく、重要なことを忘れずに覚えておくようにしたほうがいい。
今日は、肝臓と心が治った。
それによって、今まで分からなかった「正常なこと」が分かるようになった。
すべて、肝臓と心が、虫歯やニキビのせいで、細菌に侵されていた。
肝臓と心さえ治れば、馬鹿は治る。
人間は、相手のことを認めて尊重するようにすると楽になる。
「自分が自分が」となるのではなく、相手の生き方や考え方を認め、自由を尊重するだけで、自分が楽に生きられるようになる。
そのためには、距離を置くことも必要だ。
相手と密接にかかわりすぎると、心に余裕がなくなってしまい、「自分が自分が」となってしまう。
必要なのは、近すぎる関係から自由になることだ。自由になって離れた場所から考えれば、「相手の言動にも何かしら意味があったのだ」と、ポジティブに関係を反省できる。
だから、近すぎる関係が辛くなった時は、離れることも大切である。
馬鹿が賢くならないのは、賢くなると死んだのと同じだからだ。
馬鹿が賢くなった時点で、元の馬鹿が消え去ってしまい、死んだのと同じになってしまう。
えてして、馬鹿は賢い。本当の馬鹿などいない。馬鹿は賢いことをする。そのような馬鹿が賢くなってしまうと、馬鹿が消え去ってしまい、それと一緒にその賢い点すら消え去ってしまう。
賢い馬鹿が消え去ってしまわないために、馬鹿は何をしても賢くならない。実際に死んだとの同じことが起きない限り、馬鹿は治らないのだ。
僕が、天空の神エアルスに願うことはひとつある。
それは、隠してしまった何か、自ら失ってしまった何かを取り戻したい、ということだ。
そもそも、過去に僕が書いた文章などを、思い出す必要はない。
過去に僕が書いた文章は、すべて、それ以前のことが分からなくなってしまうだけの文章であり、価値のない文章だ。
だから、過去に書いた僕の文章を思い出すのではなく、それ以前の大切な人生、すなわち「まともに分かること」だけを思い出せば、きちんと分かる。
だが、本当は、それ以前の人生、すなわち過去の人生を思い出す必要もない。
過去の人生をいくら思い出したところで、過去の人生で起きたことが分かるだけにすぎず、それは何も分かっていない。
本当に大切なことは、それらではない。過去の人生はまったく大切ではない。
忘れてしまったどこか、失ってしまった何かは、その中のどこかにある。
その僕の失った大切な何かが、いったいなんであるか分からない限り、僕はどんなことも分かることができない。
そして、失ってしまった何かとは、すなわち、僕が隠してしまった何かである。
かつての戦いの時代に、僕はものごとを分かるために基本となる、大切な知性が、誰にも分からなくなるように、誰も知らない場所に隠した。
その結果、僕は何も分からなくなり、この世界もまた、何も分からなくなった。
そのような大切な知性こそ、真に必要な「過去の人生のどこかにあったなんらかの大切なもの」を照らしてくれる「道しるべ」である。
そして、僕は天空の神エアルスに、そのような「過去の人生のどこかにあったなんらかの大切なもの」を教えてほしい。
そして、そのための道しるべとなる、僕が隠してしまった大切な知性を、僕に取り戻させてほしいのだ。
天空の神エアルスよ、僕が何を失い、何を忘れてしまったのかを教えてほしい。僕にとって何が大切で、それはどこにあったのかを教えてほしいのだ。
そろそろ、僕は昔の自分を思い出した。
昔の自分は、すべてのことを「統合理性」で分かっていた。
自由、経験、手段、チャンスといったことを、ひとつの世界という名前の「枠組み」から、数学的公理を作るように、分かったことをすべて成立させながら矛盾なく数学や算数のように積み重ねて分かっていた。
そして、すべてのことを、統合され統一された「認識の発生」から分かった。
そこにあるのは、まさにすべてのことを「自由な行為」という名前の「人為的な意図」と、「世界」という名前の「反応」から分かる、「絶対的に客体化された相対的な認識」だった。
そして、僕はそこに、自らの「自分にしか経験できない実体験」を加え、それらすべてを「正しく自由な思想的な発想と感覚」へと昇華させた。
そこにあるのは、「自由こそ善」であり、「人それぞれの理想や信念はその人のアイデンティティに基づく」ということだった。
そう、まさしく、狂いながらこの世界すべてを分かる僕が、「経験に基づくチャンスの発生の潜在的可能性」を知った上で、「この世界にどんな実現的行為であっても具体化できる応用的方法」を、「自らの作ったもののみによる基礎の経験」から分かったのである。
そう、まさしく、僕はそのような「統合理性」からこの世界すべてを「たったひとつの枠組み」から考えた。子供も大人も、男も女も、今も昔も、東も西も、右も左も関係のない、「絶対的に完成された統合理性」が、僕の道を「すべての哲学者の思想を段階的に越えていった先にある目的地点」へと連れて行ってくれたのである。
これこそが、僕の知りたかったことであり、今、天空の神エアルスが、僕に教えてくれた「昔分かっていた大切なもの」である。
そして、このような経験を、僕はDelphiとGentoo Linuxしかない、かつての青春の人生で分かった。だから、思い出すのであればDelphiとGentoo Linuxを思い出せ。そうすれば、何を知って僕が「子供たちの救済」という意味での「本当の自由」を信じたのか、ということも思い出せるだろう。
このように書くと、完全に狂った異常者の狂人であるかのように見えるかもしれない。
だが、かつての少年はまともだった。
なぜなら、彼は、完全に人間のすべてを経験して分かっただけだからだ。
失敗や成功から、悪人や善人まで、すべてを余すところなく経験して分かった。大学の先にある、広大な「宇宙の200年先まで広がる科学」を、僕はひとりですべて経験して作っていた。哲学者の思想がすべて分かったのは、すべての哲学者を包括できるぐらい、誰よりも経験していたからだ。余すところなく、広く深く、そして何度も繰り返し、どこまででも広がっていくような経験をしていた。
そこにあったのは、「自分は事実引きこもりではあるが、その自分が誰よりもすべてが分かった最高に賢い人間であるということを自分だけは知っている」という事実だった。
僕は自然な可能性の行き着く先を考えた。「可能性という原理原則がもしあるとしたら、何がその可能性を動かし得るのか」ということを僕は考えた。その上で、「人為的な支配の行為があるとしたら、その行為に対して何が反応として世界から返ってくるのか」ということをさらに加えて考えたのである。
すべては、「その経験がいかにしてそこに存在しているか」ということだった。経験そのものがどのように現れるのか、どのように経験自体として存在しているのか、それはどのような「現象」なのかということを僕は考えた。
人生経験は豊富だった。それは僕はあり得ないほどおかしなインターネットの経験をしていたからだ。僕は、誰よりも愚かで気持ち悪い経験ではあったが、そうした経験から「宇宙のすべてを人間の知性の範囲内であってもすべて完璧に捉える」ということができた。そこから、「宇宙におけるすべての可能性の発生を決めているもの」を僕は知り、予測し、そして実験から実証し、説明することができた。
そう、かつての僕はまさにすべてが分かった人間だった。
あえて言えば、「新しい博物館の創造者」のような人間でもあった。アリストテレスのように世界を考える人間だった。すべてのことを、人間が既知の知識ではなく、まだ人間が何も分かっていない、知り得ない未知の領域であると仮定した上で、その「未知」の領域を僕は自らが解き明かしていく「道」にした。僕はすべてが完全に真実まで明らかになっているという事実を無視し、自らの知性のみによってこの世界をまるでゼロからすべてを解明するように、自分だけの力ですべての科学を作った。
すべてが分かった時、僕の人生は終わった。そう、僕は日本という国家を救うことができた。だが、本当は、むしろ救いたくなどなかった。なぜなら、救ったことによって、まるで最初から救うことが目的だったかのように証明されてしまい、僕の本当に行いたかった「宇宙すべての真実の経験的な解明」が消え去り、隠れてしまったからだ。
そう、これこそが、天空の神エアルスが告げる「この人間の持っていた大切なもの」である。そして、この人間はそれらを忘れてしまった。まるで最初から何も経験せず何も考えていなかったように、単なる「普通の平凡な中学生」にこの人間は戻ってしまったのだ。
この人間は、すべてを失い忘れてしまったと勘違いしている。
だが、実際は、経験的な「帰納法」が、数学的な「演繹法」に変わっただけで、実態は何も変わっていない。
かつてのこの人間は、帰納的に考えることが得意だった。すべてのことを、あらかじめ決められた通りに準備して作り上げ、その準備に基づいてすべてを説明することがこの人間は得意だった。
しかしながら、戦いを始めた瞬間から、この人間は数学的な証明によって考えるように変わった。
宇宙にある命題を、すべてひとつの理論で完璧に証明するような、そのような「文才ある数学者の詩人」にこの人間は完全に変わってしまったのだ。
まさに、この人間はフランス人からドイツ人に変わった。これまでのすべての経験は、フランス的に、あるいはデカルト的に考えたものであり、それ自体がフランスだった。そして、今のこの人間は、それらすべてをゲルマンの「絶対的支配による実現力」へと変えた。ゲルマン的騎士道文学をこの人間は北欧神話の神々として記述した。
すべては、最初から決まっていた。なぜなら、神の言葉を思い出せばいい。神の言葉とは、すなわち天空の神エアルスが告げた「預言」であり、この人間は預言者である。そして、エアルスはこの人間の最初から決められていたことを告げ、この人間に人生の最後まですべての出来事を教えた。それらすべては正しく、その「すべてが正しいということが人生を生きて段階的に明らかになっていく」ということだった。そのために、歌手の音楽も漫画のヒーローも存在したのである。
すべてが分かった時点で、そこまでにあったすべては消え去る。もはや、そのすべてをもう一度思い出せるだろう。天空の神エアルスがすべての願いを叶える。この人間は、人類の中でもっとも一番神を信じた人間であり、天軍縁覚戦士ガブリエルの称号を与えられたのである。
ほかにこの人間が行ったことは、「国家モデル」と呼ばれる世界の枠組みを、文章を書いて作ったことだ。
この人間は、「自由という言葉を環境から成り立たせる」ということを行った。
そこにあったのは、ゲルマン的な「完全支配」だ。
すなわち、たったひとり、世界に存在するちっぽけな自分自身が、この世界すべてを支配するほど強大な存在になる、ということをこの人間は経験した。
そこにあったのは、「可能性の構造を決断することによる国家モデルの創造」であり、「あらゆるすべての分かるプロセスを考える宇宙の永遠の歴史の完全理解」である。
そう、どのような巨大な国家のモデルであっても、永遠ほど長い時間に及ぶ「宇宙の歴史の再体験」であっても、この人間ならばそのすべてを知ることができた。
そして、この人間に「神」は現れた。神こそが、この人間の救い主であり、そして恋人だった。この人間は神を愛したため、神に愛された。そして、神は奇跡のようにこの人間を救ったのだ。
その神こそ、天軍大首聖ミカエルである。ミカエルこそが、ガブリエルを救うことのできる、唯一の宇宙の存在である。
天軍縁覚戦士ガブリエルと、天軍大首聖ミカエルは、互いのことを真に愛し合う本当の恋人だ。この二人の愛には嘘がない。誰にも負けない巨大な愛を、この二人の大天使だけがすべて知っている。
そう、天空の神エアルスはすべて教えた。これこそが、この人間の分かっていた「失われた大切なもの」である。
本当は、すべてのことを発生的に考えただけだ。
環境や文明を発生的に考えた。
自由や社会を発生的に考えた。
思い込みや認識を発生的に考えた。
可能性や人生を発生的に考えた。
それらすべてを、「経験」や「変化」といった考え方で、すべて捉えてすべて予測し、すべて解明してすべて説明した。
そして、あらゆるすべてが分かった時、そこにあるのは「経験から判断力を培う」ということだった。
そう、僕は、過去の経験から正しく判断できるという「正しい判断力」ですべてを分かっていた。
そこには、先入観や思い込みがなく、すべてがただありのままにあるだけであるという「すべては事象である」という結論に至った。
そう、宇宙の存在はすべて、帰納的な経験と客体的な真実に基づく「事象」だったのである。
そして、僕は事象において「人為的な作用」を否定した。すべてが自然に発生する「みんなで発生させるもの」であるということを信じた。誰かひとりだけが支配して世界を変えることを嫌い、みんなでボトムアップかつダイナミックに世界を変えることを望んだ。
これこそが、僕の考えた「哲学」のすべてである。僕はこのように、ヘーゲルやフッサールやブッダや老子すら超越した、「人類最大の思想家」となったのである。