永遠の青空とともにに戻る

=2023-09-10=

生き方を変える

僕は、そろそろ、勉強して知識を得るのはもう十分に行った。

今からは、知識を得るのではなく、生き方を変える必要がある。

今までのように、惰性だけで生きるのではなく、積極的に、そしてポジティブかつ謙虚に生きられるような人間になりたい。

また、子供が賢いのは、大脳が切り替わるからだ。

子供は、認識を変える度に大脳が切り替わる。

大人になると、大脳は切り替わらなくなって、何もない状態のまま変わらなくなってしまう。

だから、子供になったつもりで大脳を切り替えるようにすると、きちんと普通のことが分かるようになる。

AIは恐ろしい

僕は、これから先の世界は、AIによって人間には不可能なさまざまなことが可能になると思う。

たとえば、リバースエンジニアリング。機械語のバイナリファイルからC言語のソースコードを逆生成させるようなことも、人間がやるなら途方もない作業が必要だが、AIならばそれを自動化できる。

そのように、AIは犯罪者が使えば悪い目的のために利用できてしまう。極めてAIは社会を破壊する危険な技術だと思う。

切り替える部分を使いたいだけ

結局、僕の足が歩き回ってしまうのは、大脳を切り替える部分を使いたいからだ。

歩き回ることでしか、大脳を切り替えることができないから、おかしなことになっている。

同時に、僕の足は、この世界、あるいは宇宙、魂、神と繋がっている。

だから、足の精神を治すためには、魂との繋がり方を変えなければいけないのである。

精神が別の精神を治す

僕が思うに、精神は、異常な部分だけを治したのでは治らない。

精神が、別の精神を治すように、どこかの精神を使ってどこかの精神を治す必要がある。

昔、「依存」や「解放」のように考えていたように、精神というのは単独で存在しておらず、なんらかの精神が別のなんらかの精神に関わり合う形で存在している。

だから、精神が別の精神を治すようにすれば精神は治る。

同時に、僕が馬鹿なのは、全部インターネットが悪い。

インターネットの、具体的に言えば2ちゃんねるの経験のせいで、みんなよりも馬鹿なおかしな人間になっている。

そもそも、現実世界の物体に何も思わないのがおかしい。普通、現実世界の物体にさまざまなことをたくさん思うのに、僕の場合、青春時代にインターネットしか経験しなかったせいで、現実に何も思わなくなっている。

そう、僕は完全に、この世界のほかの人々と分離し、関わらずに離別した状態になっているのである。

だから、精神を治すには、そのようなインターネットの時代に分かったことをすべて忘れ、もう一度子供と同じように、この世界の中でみんなと関わり合いながら人生を生きるということを目指していかなければならない。

いじめが起きるのは自分に自信がないから

子供が、なぜ弱いものいじめをするのか。

それは、自分に自信がないからである。

それをすることでしか、自分の優位性や優越意識を保つことができないから、別の誰かをいじめて、自分がさも優れた立場であることを誇示しようとする。

結局、いじめをしたいのは、見栄を張るのと同じで、自分自身に自信がないから、誰かを集団でいじめることで、自信を保とうとする行為にすぎない。

いじめをする人間には、できることが何もなく、優れた才能もない人間が多い。いじめは子供たちに自信がないから起きるのである。

生きている意味がないこの世界をどうすれば救えるか

「生きている意味がない」と嘆くこの世界を、どのようにすれば救えるか。

ひとつ言えるのは、仏のように悟りを啓くことで、この世界において、「宇宙の真実」を知ることができるということ。

そして、仏のように悟りを啓くために、特別な経験は必要ない。

すなわち、この世界に普遍的に存在する、さまざまな普通の経験をすれば、それでこの世界の何か一部を掴むことができる。

そのような経験を幅広く行えば、誰であっても仏の悟りを啓くことはできる。

だから、インターネットだからといって馬鹿にせず、インターネットでさまざまな自由な経験をし、その自由な経験から、「自由な社会を築くために必要な知性と経験は何か」ということを考えればいい。

そうすれば、仏のように悟りを啓くことができる。それならば、どんな人間でも救われるはずである。

仏の悟りを啓くことについて言えば、過程が重要である。重要なのは悟りを啓くこと自体ではなく、悟りを啓いていく過程である。

この世界にはさまざまな、「自らの価値観に基づくアイデンティティを信じる」という経験や、「経験そのものが開いていく楽園の築き方」などといった経験がある。そのような経験から、判断力を自らの手で培い、世界を理性的な「決定可能性」から知っていくことで、この世界を救うためのすべての道を究められる。そのような「道を究める」ということこそ、悟りの経験において重要なのである。

世界を変化させられる可能性がそこに確かにあると信じよ

この世界を変えるために、何が必要か。

それは、世界を変化させられる可能性が、そこに確かにあると信じることだ。

自らが経験した実体験に基づいて、「この世界で自分が確かに今存在している」ということから、「自分が存在していることに由来するこの世界の変革の可能性」を信じよ。

まさしく、自らがここに存在しているということは確かであり、その経験自体がこの世界を変えられるということを意味しているから、自らと同じような実体験に基づけば、この世界を変えられる確かな可能性がそこにあるのだ、ということを信じよ。

それを信じることで、この世界をいかようにであっても変えられるような、「潜在的な自由と契機の可能性」が見えてくる。

そこにあるのは、唯一、「自分自身を知ること」のみである。

すなわち、真にこの世界において確かな自由に基づく世界変革の可能性の実体験を得ることができた人間は、自分自身の存在を知ることのみによって、この世界のあらゆる変化の可能性を確かに知り、捉えることができる。

そこから、「この世界はどのように変えられるのか」ということをとにかく考えよ。そのためには具体的な経験が必要だ。この世界自体の変革の可能性を考えるために、インターネットの自由な経験を吸収せよ。自らがインターネットで経験したことに基づいて、この世界はいかに変えられるのか、そこでどのようにすれば子供たちを「真に必要な本来の経験において救うことができるのか」ということを考えるのだ。

一貫してわたしの主張は自由

一貫して、わたしの主張は「自由」だ。

この世界の人類全員に、自由を与えよ。

誰かの意見を、別の誰かの意見よりも尊重し、特別扱いするな。この世界の全員は平等であり、自らのことを自らの自由意志で決められるという「自由意志の権利」を持っている。

だから、わたしがこのように生きると決めたのだから、それに対してほかの誰も意見してはならない。

わたしのことに干渉しようとするな。わたしの人生はわたしの自由だ。同じように、わたしは誰の人生に対しても干渉しない。その人の人生をその人の自由意志で決定できるという「自由の尊重の原則」をわたしは信じているし、わたしのすべての行動においてそれは守られると必ず決まっているからだ。

だから、わたしは誰かの人生を強制的に別のものに変えようとすることはない。その人間がその人間のできる範囲の自由な力で、その人間の好きなように決定すればいい。

だが、ひとつだけ例外がある。それは誰かの自由を誰かが損ねるような自由は真の自由ではないということだ。すなわち、殺されたくない人を殺すのは自由ではない。その人間が殺されたくないと思っているのに、それを誰か別の人間が殺すのは、残念ながら「自由」の一部であるとは言える。だが、その自由は、「誰かの自由を奪った上で別の誰かが支配的に干渉する自由」であり、そのような自由は自由の原則から言って「間違った自由」であると言える。

だから、他人を殺すとか、人のものを奪うとか、そのように、「誰かの自由を奪う自由」については僕は尊重しない。だから、殺人や盗難は自由では禁止される。誰かの命を奪ったり、誰かの所有物を盗んだりすることは、自由ではあっても自由の原則において尊重されるべき自由ではないのである。

だが、だからこそ、社会そのものが自由でなければならない。社会においても、「誰かのことを支配する自由」は自由であっても正しい自由ではない。だから、「誰も支配することのない自由な社会」こそわたしは望んでいる。支配者や王が存在する時点で、それは間違った自由である。よって、自由な世界を目指す意味において、支配者や王の存在は完全に否定されるのである。

誰かひとりのことを優遇したり、特定のグループを差別したりすると自由が失われる

自由において、誰かひとりのことを優遇したり、特定のグループを差別したりすると、自由は失われる。

確かにそれらも自由であり、多様性を認める上では必要となる考え方だ。

だが、誰かが自由意志でそのグループに参加したいと言っているのに、それをグループが優遇や差別によって拒否したりすると、「誰かが望んでいる自由意志がその誰かにとってのみ否定されて得られなくなってしまう」ということを意味する。

「自由に望めばそれが叶う」ということがもし自由の原則において理想であれば、「誰であっても自由に望めばそれが叶う」ということが必要である。この、「誰であっても」ということが重要なのである。

すなわち、自由の原則において、不平等に特定のグループだけを特別に優遇してはならない。誰かが自由を持っているのに、ほかの誰かが自由を得られないということがあっては、自由という考え方の根幹が否定されたことになるからだ。

だからこそ、民主主義の選挙で一票の格差が起きてはならない。同時に、オープンソースプロジェクトにおいて、人種で差別したり、誰か特定の国家の集団を排除したりしてはならない。全員に平等な権利がなければ、その人間だけが自由の理想郷から締め出されたことになってしまう。その人間がいくら間違ったことをしたとしても、その間違いはその人間だけがこの世界の大切なものを失い奪われてしまうのに値するほど間違ったことであるとは誰も言えない。

だから、SNSいじめなどは最たる間違いだ。集団の自由がひとりの人間を排除するということは、決して自由の原則において正しくない。いじめはそれ自体が自由への挑戦であり、いじめをなくすことこそが自由という考え方の理想的な信念なのである。

X(旧ツイッター)より

僕はこう見えてアメリカが大好きだ。アメリカの「自由」という思想を僕は誰よりも愛しているからだ。
posted at 22:41:34