永遠の青空とともにに戻る

=2023-09-09=

生きる基本は数を数えること

生きるということの基本は、数を数えることだ。

現実の社会で生きていく中で、もっとも必要なのは、数を数えて計算するスキルだ。

たとえば、ものの値段と支払うためのお金の計算をしたり、量を計測するためにグラム単位の計算をしたり、時間や優先度を配分したり、土地の面積を測ったりするためには、数を数えて計算することが必要だ。

僕が馬鹿だったのは、そのような数を数えて計算しようとしなかったからだ。

数を数えて計算することができるようになると、スケジュール配分ができるようになる。その作業や仕事に必要な時間と日程を計画したり、優先度を考えたりできる。そこから、ものごとを成し遂げるために「計画」をすることができる。

そのように、生きる基本は計算することであり、数を数えることだ。

見えるものをまずは見よ

この世界において、見えるものをまずは見よ。

確かに、この世界において、見えないものの中で重要なものは存在する。

だが、パソコンや宗教のことばかり考えていると、現実世界の中で見えているものを無視し、存在しないものばかり仰ぐようになってしまう。

見えていないものは、まずは無視せよ。見えていないものを捉えることはできない。そのようなものは、宇宙の自然の流れに任せてしまえばいい。

だが、今の時代、インターネットというおかしなものがある。インターネットで人々はさまざまな人為的な影響力を与え合っている。それらすべてを無視はできない。

それでも、現実の見えている世界を無視して生きるのは、いいことではない。まずは、見えるものを見たほうがいい。

人間とほかの生物の違い

人間とほかの生物の違いは、数を数えることだ。

カラスや熊のような知性ある生物と、人間のどこが違うかと言えば、数を数えるかどうかが違う。

人間は数を数えるが、カラスや熊は数を数えない。

そして、人間が数を数えずに生きていると、ほかの生物と近くなってしまう。数を数えないと人間は動物的になる。カラスや熊と何も変わらなくなってしまうのだ。

生物学がつまらない理由は、そのように、ほかの生物が数を数えないからだ。生物はみんな平等とは言うが、決定的に、数を数えるという点においては、人間は優れているのである。

宇宙がいつまでも今のままだとは限らない

この宇宙が、200億年後も、今の宇宙のままであると言えるだろうか。

宇宙が、いつまでも今のままであるという保証はどこにもない。

200億年後に、今のこの宇宙が、まったく異なる宇宙になってしまう可能性はある。

僕が馬鹿なのは数の計算をしないから

結局、僕が馬鹿なのは、数の計算をしないからだ。

大人になってしまったせいで、子供のように算数ドリルのような数の計算をしないせいで、馬鹿になっている。

プログラミングは数の計算ができれば誰でもできるスキルだし、社会制度のことに詳しくならなくても、数の計算さえできればこの世界では生きていける。

逆に、数の計算ができないのであれば、どんなに賢くてもこの世界では生きられない。

だから、もっと数の計算を頑張ったほうがいい。それができると、未来の計画もできるようになるし、この世界で普通に生きるために必要な理性を得ることもできる。

プログラミングの知識のせいで数が計算できなくなった

なぜ、僕が数の計算をできないのか。

それはすべて、プログラミングの知識のせいである。

数学的な変数が、プログラミング的な変数によって上書きされ、数学的な関数が、プログラミング的な関数によって上書きされた結果、通常の数学の概念がなくなり、すべてが間違った概念になってしまっている。

これはまさに、プログラミングによる「退化」であると考えられる。

C言語の命令型プログラミング言語によって、数学的な知性が退化するのとまったく同じように、プログラミングの概念によって数学的な概念が上書きされ、僕の知性は退化してしまっているのである。

だから、一度、完全にプログラミングの概念を消してしまえばいい。

そうすれば、もともとあった数学の概念が復活する。

それがまさに正常な状態であり、「賢い中学生に戻った」ということが実現できるのである。

中学数学だけの世界が一番正常

だが、大学や高校の数学が、正しいわけではない。

大学や高校の数学は、現代数学であり、三角関数や微分・積分や行列・ベクトルを中心とした、「数式で定理と証明をするだけの数学」になっている。

そのような現代数学は、解析学が大好きな一部の数学者にとって意味があるかもしれないが、実際、プログラミングよりも正常な知性であるとは言えない。

結局、正常な数学とは何かと言えば、それは中学数学、あるいは小学校の算数であることになる。

だから、プログラミングの概念を消すのであれば、中学数学の時点に戻さなければならない。中学数学の時点に戻した段階で、はじめて頭脳は正常になり、まともな人間になるのである。

そう、結局、中学数学だけの世界が一番正常である。かつて僕が中学三年で不登校になったのは、それ以上の数学を学ぶ意味がそもそもないということを僕は知っていたからなのである。

神を信じればなんとかなる

このように、生きるために知っておくべきことは多すぎて、こんなに分かるはずがない、と思われるかもしれない。

だが、なんとかなる方法がある。

それは神を信じることだ。

神を信じれば、そのような人間であってもなんとかなる。神を信じれば、必ず救われる。

だから、絶対にこのようなことが自力で分からないからといって絶望する必要はない。そもそも、このようなことが自力で分かる人間はいない。神を信じることでしか、このようなことは分かり得ない。だから、神を信じれば、必ず未来において自らの人生はなんとかなる。それを知っていれば、たとえキリスト教徒でなくても、必ず救われる。

政府でない国家と人生主義

僕が考えていることのひとつに、「政府でなく国家を作る方法」というのがある。

国民を支配する政府以外の方法で、国家の機能を作ることができないだろうか。

国家は税金から予算を裁定し、その予算に基づいて行政機能を行う。だが、そのようにしかできないのはなぜだろうか。それ以外の方法で、政府なしに国家を築く方法はどこかにないだろうか。

僕は昔から、そのような「国家による支配のない自由な世界」を追い求めている。ソ連はその具体例ではあるが、理想的な例ではない。社会主義経済以外の方法で、国家を自由なまま政府なしに実現する方法を僕は考えている。

必要なのは「生産手段」であるということは分かっている。それを国家として平等に共有しようとは思わない。僕の目指すのは政府のない国家であり、決して平等な経済ではないからだ。僕は平等など目指していない。平等の実現はいいことかもしれないが、僕の目指す自由よりも、僕にとっての優先順位は低い。

なぜ自由を目指すのか、それは僕という個人の人生を社会的に成立させたいからだ。僕は不登校の引きこもりがインターネットを見て人生を生きた人間であり、素晴らしい最高の人生であったにもかかわらず、僕以外のほかの人間にはこの人生と同じ人生を生きることはできない。僕はそれを、僕だけに許された特別な人生ではなく、誰であっても同じように生きられる普遍的な人生にしたいのだ。

そして、そのためには自由が必要であり、自由な社会主義国家を築きたい理由はそうした理由にすぎない。僕と同じ人生を生きられる国家を目指して、僕は「人生主義」という新しい政治思想を作り上げたのである。

人生主義は、誰もが誰よりも偉大で聡明な人生を生きられるような社会制度を目指す思想である。人生主義は社会主義思想だ。なぜなら、そのような人生は、自由に許された自由意志に基づく状態での社会主義経済でしか実現できないということが分かっている。だが、人生主義は社会主義思想でありながら、不自由な平等な経済をもっとも間違っていると断ずる。なぜなら、そのような平等で普通の人生こそが、人生主義における「間違った人生」であるとされるからである。