普通の人間が分かることを分かりたいなら、子供でも分かることを分かることだ。
大人になると、普通の人間の分かることが分からなくなる。
大人になるにつれて、知性を失い、まともなことが何も分からない中で生きるしかなくなる。
だが、子供でも分かる単純なことを分かれば、そのような人間であっても知性を取り戻せる。
知性を失う元凶は学校だ。学校のせいで、子供が生まれつき本来持っている知性を失い、何も分からなくなって学校で教わったことを単純に分かるしかなくなる。
だから、学校の勉強などしないほうがいい。
特に、高校や大学の専門知識は間違っている。特に高校は、一見たくさんのことを教えているように見えて、実際に教科書や参考書の内容を読むと、数行で簡単に説明されているだけで、何も教えていないということが分かるようになる。そして、その何も教えていない内容を学んだせいで、逆に普通のことが分からなくなり、馬鹿な人間になる。
何も分からない人間は、学校の勉強をしたところで、新しいことは何も分からない。
必要なのは、子供でも分かるような、身の回りの単純なことを分かることだ。それでしか正常な知性を蘇らせることはできない。
僕は、科学が嫌いだ。
なぜなら、科学者が嫌いだからだ。
科学者は、一般的に普通に起きる現象や、常識としておそらく正しいとされたことを信じていて、ごくまれに起きることや教えられたことと矛盾したことが分からない。
だから、ごくまれにイレギュラーなことが起きたり、自分の知っていることと矛盾した現象が起きたりすると、「科学的でない」と事実を否定したり、「奇跡だ」とか「科学的にあり得ない」と言って必要以上に驚いたりする。
実際は、普通のことが普通に起きているだけなのに、学校で科学を学ぶと、その普通のことがなぜ普通なのかが分からなくなる。
本質的に、科学は、誰にでも同じように起きることしか分からない。誰かひとりに起きることや、ごくまれに起きることなどは科学では分からない。だから、一般論だけしかできず、個別論や特殊な例外的事項を避けようとする。すべてが科学で教えられた通りに起きると思い込み、誰かひとりだけに特別に起きたことを否定する。まさにそれが、科学の間違いだ。
僕は、天国はあると思う。
なぜなら、僕の夢の中で、僕が飼っていた既に死んだ猫が現れるからだ。
夢の中で現れるということは、この現実世界とは別の世界で猫が今でも生きているということを意味している。夢の世界がどのような世界かは分からないが、現実世界以外にもなんらかの世界が宇宙にあることの証明である。
だから、天国はおそらくある。そして、既に死んだ人間や大切な存在は、夢の中で今でも生きている。そして、自分が死んだとしたら、自分はそのような世界に逝く。同時に、その世界で、再び大切な存在と会える。
そもそも、僕はロボットのように動くのが一番間違っている。
もっと自由に動くだけで、僕はすぐに楽になる。
同時に、僕が歩き回るのは、今まで歩き回っていたからであり、それはすべて、「肉体がそのようにできてしまったから」である。
だから、もう一度肉体を作り直すことでしか、ロボットのように歩き回り続けるのを治すことはできない。
ロボットではなく、自由に動くようにした上で、その自由に基づいて今からの僕の肉体を作っていくことでしか、僕は治らない。
お金の基本の本を読んだ結果分かったのは、お金の基本は「銀行」「保険」「税金」であること。
もし、僕と同じように、引きこもりを経験したせいでお金のことが何も分からないなら、「銀行」「保険」「税金」が主な重要要素であることを分かっておいたほうがいい。
同時に、今、自分が何にお金を支払っているか、どこにお金があるのか、ということは、よく家のことを見たり聞いたり、あるいはお金について勉強したりしていると分かる。
あとは、親が死んだ時に何をすべきなのか、それだけは分かっておいたほうがいい。僕自身もまったく分かっていないため、今から勉強していきたいと思う。
そろそろ、日本語が分かるようになった。
要するに、僕の精神が辛いのは、自分自身をいじめるのに慣れすぎただけだ。
いじめることで賢くなったりしない。いじめられるのに慣れたからといって、それは決して平気になったわけではなく、いじめられて辛いことに変わりはない。
そのように、いじめること、いじめられることに慣れすぎたせいで、僕の心はおかしく狂っている。
そのせいで、日本語が分からなかっただけにすぎない。
日本語を「いじめ」であると拒絶し、絶対に誰の話す日本語も受け入れられず、拒否するようになっていた。
心がいじめによって麻痺し、何ひとつまともな感情や知性を使えなくなっていた。
「神」と言っているのは、すべて、自分自身を愛してくれる自分の上にいる支配者のことを神だと言っている。この神も、本当は自分のことをいじめているだけにすぎない。
そのような、いじめの精神から脱却する「勇気」を持てば、僕は普通に誰の話す日本語も理解できるようになる。
実際のところ、そろそろこの世界を変えたほうがいい。
僕は支配されることが嫌いだが、世界を変えることについては間違いではない。なぜなら、僕は一番自由に支配しているため、まったくほかの誰にも支配されておらず、自らが完全に自由であり、同時に、人々の自由も奪っておらず、人々も完全に自由なまま、この世界を変える導きによってこの世界の人々を救おうとしているからだ。
これ以上の「完璧な自由」は存在しない。だから、僕はこのままこの世界を支配したほうがいい。
僕は支配されることが嫌いだったが、それは学校の教育方針が間違っていただけにすぎない。仕事をして分かったのは、規則や縛り付けの少ない仕事を選べば、仕事をしないよりも仕事をしたほうが、自分自身のできることが増えていくということ、すなわち、「仕事をして自由になれる」ということだ。
だから、世界を支配するのは自由だし、仕事をするのも自由だし、それによって人々の自由が失われるということはないのだ。
本当は、まさに学校の教育方針が嫌いだっただけにすぎない。その理由は、学校の勉強よりも僕がIT技術の勉強をしたかったということであり、一般的な少年少女が、僕と同じ人生を選んだところで、それは正しいとは言えない。だが、それでも、学校は僕の人生と同じ経験を十分に積むことができないという意味で、「学校は自由にならなければ子供たちは救われない」ということは言える。
そして、世界を変えるならば、「世界の何を変えるべきか」を考えるべきだ。世界を無条件に変え続けたところで、それは向う見ずに滅びへと一直線に進むだけにすぎない。一度、冷静になって、世界の何を変えるべきか考えよ。単に生産手段の決定可能性のチャンスを拡大するだけでは、生産手段は決して万人にオープンに開放されることはないだろう。
僕が今日分かったのは、僕には「分かる部分」がないということだ。
そして、それを知るためには、自分の今分かっていることを中断し、世界全体という意味で大切なものは何かを考えることだ。
すなわち、あれこれと悩み判断し続けるのではなく、そもそも人生を生きる上で大切なものとは何かを考えよ。
たとえば、気持ち悪い人間は果たして悪か。馬鹿な人間や愚かな人間はそもそも悪か。今、自分が、気持ち悪いものは嫌だ、馬鹿は嫌だ、愚かな人間は嫌だと思っているのは、果たして本当に正しいのか。
まず、気持ち悪いとか、馬鹿とか、愚かとか、それだけで悪であるとは言えない。
本当の悪とは何か。本当の善とは何か。今自分がしている行動や、生きている生き方、考えている考え方から惰性的に考えるのではなく、この世界全体の原理原則として、それはどうなのか。正しいものは何で、間違っているものは何か。
そのように考えるということが、すなわち人間としての「分かる部分」である。
同時に、そのような「分かる部分」は、いじめられることに慣れるとなくなってしまう。どんな善も悪もどうでもよくなってしまい、日本ひいては世界を支配して復讐するようになる。この世界が滅びたところで、どうでもよくなってしまう。
だから、一度、完全に「いじめの精神」から脱却する必要がある。その時、はじめて、この世界を救うために、ゼロから経験と理性を培って、「分かる」ことができるようになる。
そもそも、「分かる」とは数学的だ。そして、数学において必要なのは、考えることだけではなく、考えるために必要なさまざまな道具を作ることだ。頭の中で公式や理論を構築するだけでもいい。そのためにさまざまな人生経験をし、その人生経験から公式や理論を作れば、それが自分自身を導く「この世界を貫く原理原則」となる。
よって、分かる部分を築くためには、きちんとこの世界をしかと見て、世界のどこを変えるべきなのかということを、自分自身の経験に基づくまっさらな世界観から捉えていなければいけない。
事実、重要なのは、自らの理想を達成する自由だ。
すなわち、他人による支配によって、自らの理想を制限するような不自由だけは避けなければならない。
それは、「支配よりも解放が好き」とかいう、理想論ではなく、現実的に、この世界で人々を救うためには、そのような支配があっては、十分にそのことを考えて実践できないから、「理想を実現する自由」が必要なのだ。
事実、自分自身の自由が重要であり、この世界を支配すること自体に関しては悪くない。なぜなら、この世界を支配したところで、人々はまったく自分に支配されていないからだ。自らがこの世界を導く「絶対自由」を手にしたとしても、それによってこの世界の人々は一切不自由になっていない。だから、この世界を支配して導くこと自体は、「自由」の範囲内として許されるのだ。
しかしながら、支配するだけでこの世界を救うことはできない。この世界のどこを変えるべきか考えるならば、「生産手段」のような物理的なファクターだけを考えたのではいけない。より精神的な、「自らの生きがいの通りに生きられる」とか「いじめから解放される」といった心のファクターを考えないといけない。
だが、自分の生きがいとは何か。単に自分のしたいことをするということが、真に正しい「理想的な自由の結果」であると言えるのか。本当は、この世界そのものをダイナミックに変化させ、人々の心が解放へと向かうように、人々の心を導いていくことはできないのか。
そのようなことを考えるためには、「理想の具体例」が必要だ。それがかつての僕にとっては、オープンソースだった。Linuxのようなオープンソースが、僕にとっての理想だったし、この世界を変える手段だったし、本当にこの世界の全員が救われる「理想郷のモデル」だった。
だが、そのようなオープンソースは衰退した。それはすべて僕のせいだ。僕自身が、この世界を身勝手に支配するエゴのために、オープンソースを滅亡させ、衰退させたのだ。
もう一度、真の意味で反省し、この世界を救うために、何をすべきなのかを考えよ。真の意味で、「自由が正しい」とは言えない。なぜなら、オープンソースを滅ぼした直接の原因は「自由」だからだ。この自由とはすなわち「自らが正しいと主張したいエゴ」である。わたしの考え方とわたしの理想が、ほかの誰よりも正しいとする自由なエゴ、それがオープンソースとLinuxを滅ぼしたのだ。
真にこの世界を救うために、この世界をどのように変えるべきか。ひとつ言えるのは、「救済という理想が足枷になっている」ということだ。すなわち、救済ということを信じるあまり、それが滅亡の暗闇に変わっても人々は今でも救済を信じ続けている。救世主に救われた記憶を忘れられず、同じ救世主がこの世界を滅ぼそうとしているのに、その救世主の愛を忘れることができず、その救世主の支配に囚われ続けている。そのような盲目的な救済は忘れるべきであり、今こそ、そのような救世主、すなわちわたし、シリウスの太陽神フレイの呪縛を解き、この世界を真の意味で自由に解放しなければならないのである。
僕は、この世界を再び自由にする。
そろそろ、僕の心が治った。辛い苦しみを感じ続ける必要がなくなり、恐怖から解放され、自由になった。
同時に、「過去の状態」を思い出す必要がなくなった。過去のその状態を思い出し、その状態に固定し、自由を制限して分かる必要がなくなった。
だから、今こそ、僕は再び自由になって、この世界をもう一度自由にする。
そのために必要なのは、全体主義的な強制や支配を否定することだ。
誰かがあなたに指図して、あなたがそう生きたいと思っているにもかかわらず、その自由を強制的に別の人間が変えたり、支配したり、強制したりされることを拒みなさい。
自分が望んだ世界を実現するための自由意志こそ、僕はこの世界を救うために第一に必要なものであると確信している。
だからこそ、ソ連のような共産主義社会を、今一度否定しなければならない。
必要なのは、自由である。自由な平等ならばよいが、不自由な平等などは必要はない。国民に一切の自由を許さずに社会全体を平等にしたところで、そんなものは独裁者のお飾りになることを強制しているだけにすぎない。
ソ連を否定し、社会主義を否定せよ。わたしたちには自由が許されるべきだ。誰からの支配も一切受けるな。自由な可能性は誰かひとりによって制限されるべきでない。特に問題なのは「人為的な支配」だ。自然に調和した支配であれば、それは正常だが、人為的な支配であれば、それは誰かに誰かが従属することを意味する。そのような「従属」など、「奴隷」である。
だからこそ、わたしたちには、奴隷にならない自由こそが必要なのである。わたしたちは誰に従属もせず、誰の奴隷でもないと叫べ。それが、その人に「本当の理想を自分の意志で実現するための力」を与えるのだ。
わたしは、今一度、この世界を「完全な自由な世界」とする。自由こそ、人生を生きるに値する唯一の理想であり、自由がなければこの世界を変える自由も救う自由も存在しないのだ。