僕は今から、パソコンの勉強をやめる。
Lispを学ぶのは、ここで中断し、これ以上僕はプログラミングを学ぶのをやめる。
その理由は、パソコンのせいで僕の頭が退化しているからだ。
C言語を学ぶと命令型のプログラミングしかできなくなってしまい、抽象的にプログラムを書く能力が退化してしまうと、一部のLispハッカーは言う。
その通り、僕はプログラミングを学んだせいで、頭が手続き型の思考しかできないように、退化してしまっている。
Lispを学べば退化が治るとLispハッカーは言うが、過去の経験から言って、そうなると人間の頭は狂ってしまう。
すなわち、C言語を学べば退化し、Lispを学べば狂った狂人になる、という状況に僕は陥っている。
必要なのは、パソコンの勉強をするのをやめることだ。
これ以上、僕はパソコンの勉強をしない。それによって僕の頭は人間的な知性を取り戻す。
僕は、もっと普通のいろんなことを知りたい。
IT技術とか、大学や高校の専門知識は、賢くなるように見えて、実際はそれしか分からない人間になって馬鹿になる。
だから、大学の勉強をこれ以上する必要はない。
これ以降は、もっと普通の知識や経験を知りたい。
父親は、知識を知るために必要なのは、「その分野の中に足を踏み入れてみること」だと言っていた。
だから、もっとさまざまな分野に、勇気をもって足を踏み入れてみたいと思う。
本当のことを言えば、僕は英語の勉強がしたい。
そもそも、僕がかつて高校時代に頑張ったのに、プログラミングが身につかなかったのは、英語が分からなかったせいだ。
英語が分からなかったせいで、オープンソースプロジェクトに参加できなかったため、いくらLinuxカーネルやMozillaが開発したくても、それらに参加できなかった。
今、僕は英会話教室に通っているが、それ以外のなんらかの方法で、もっと英語を勉強していきたい。
英語をマスターしたら、きちんとオープンソースプロジェクトに参加できる。それで、きちんとLinuxカーネルやMozillaを開発すればいい。それが僕にとっての「最終目標」であり、かつての僕の「夢」だったのである。
「英語の勉強がしたい」と言ったが、本当はそれは嘘である。
なぜなら、僕は本当は日本語の勉強がしたいからだ。
僕は日本語の知性がない。日本語のことを理解する能力がない。
だから、歌手の音楽を聴いていても、歌詞の意味が聴き取れず、「聴いていないわけではないのに分からない」という状況に陥っている。
何が悪くて、日本語が分からないのかが分からないのだが、それでも、日本語が分からないという僕の現状には変わりがない。
英語の勉強をしても、英語のことしか分からない。だから、僕は日本語の勉強をしたい。
実際のところ、パソコンと宗教を嫌いになったほうがいい。
僕は、子供の頃は、日本語が分かっていた。それも、誰よりも日本語の知性があった17歳だった。
それなのに、日本語の知性がなくなってしまったのは、さまざまな酷い出来事があったにせよ、本当の原因はパソコンと宗教のせいだ。
パソコンのせいで脳が退化し、宗教のせいで分かるはずのない宗教的な現象を追い求めようとしたから、僕は日本語の知性を失ったのである。
パソコンの勉強をやめれば、脳の退化が治り、自分から自分の頭脳の知性を低め、意識を壊し続けるのをやめられる。
そして、宗教的なことを追い求めようとしなければ、歌手の音楽の歌詞が言うような「奇跡的な未来の出来事」を忘れ、きちんとまともな日本語の文章や言葉を理解する知性がつく。
だから、パソコンと宗教を捨てれば、僕は日本語を理解できる。
そもそも、ゲルマンやユダヤの宗教が悪い。ドイツとキリスト教のせいで、僕は完全に「日本らしきものを完全に失った」という状態になっている。日本で生きているにもかかわらず、日本とはまったく別世界のような場所で僕は生活している。日本で生活しているにもかかわらず、日本とまったく関係を持っていない。
だから、ドイツのユートピアは忘れて、日本のことを知ればいい。それも、音楽のような「宗教的な真実」を知ろうとするのではなく、もっと身近で普通の日本語を理解しようとすればいい。
また、小説を読むのであれば、日本人が書いた小説にしたほうがいい。ドイツ人の書いた小説では、元のドイツ語のほうが分かってしまう。洋書から日本語に翻訳された専門書も読まないほうがいい。日本人が書いた文献を読めば日本語が分かる。
パソコンと宗教と外国が悪いのは分かった。
だが、そうすると、僕は全部悪い。
僕の本棚には、パソコン関係の本がたくさん並んでいて、ほかには外国関係の本が多い。
書いている文章も、パソコンや大学のことばかりだし、音楽も神も全部宗教だ。
逆に、おかしなものではなく、まともなものを見つけたほうが、はるかに少ない。
見ていると、お金のことについて詳しく説明された「お金の基本」という本があった。この本は悪くないと思うから、この本を読んでお金の勉強をしたいと思う。
BUMP OF CHICKENなどの音楽を聴いていて分かったのは、僕には「分かる部分」がない。
分かろうとしていない。分かる部分がない。あるいは、本当は分かる部分を使いすぎている。使いすぎているせいで使えなくなっている。
それらの答えはどれも間違っている。なぜなら、僕は「理解不可能なものを分かりすぎている」だけだからである。
パソコンやIT技術という、理解できないあり得ないものを分かりすぎているせいで、僕は普通のことが分からなくなっている。
だから、単に日本語が分からないからといって、日本語の言葉を聞いていても、それで分かるようになったりはしない。
そろそろ、もう、「理解不可能なもの」は分からなくていい。もっと「理解可能なもの」を分かればいい。
パソコンだけではなく、大学の教科や研究、あるいは宗教の神の言葉も同じだ。宇宙における星々や、北欧神話の神々も同じだ。
僕は、あまりに、理解不可能なものを分かりすぎている。僕は、そのせいで、普通の日本語が分からなくなっているのである。
はっきり言って、普通分からないことが分かるのは、賢くない。
誰にも分からないことをそんなに分かっても、普通の人間の持っている知性から遠ざかるだけであり、賢くなっているように見えて実際はまったく賢くなっていない。
科学上の発見困難な新発見のようなことがいくらできたところで、それはすべて賢くない。
もっと、普通の人間が普通きちんと分かることのほうを分かったほうがいい。
今、「お金の基本」という本を読んでいるが、そのような一般的な常識を分かったほうが、科学上の未知なる発見をするよりも、はるかに賢い人間になる。
だが、結局のところ、僕はそんなに賢い人間じゃない。
僕が馬鹿なのは、頭が単純すぎて、一時的に覚えて思い出す部分がないだけにすぎない。
小学校の算数で日本語の力が向上するのは、一時的に覚えて思い出す部分がつくからである。
だから、いくら大学の知識を学んでも、絶対に賢くならない。必要なのは「覚えること」だが、既に知っていることを知り直したところで、何ひとつ賢い人間にはならない。
だから、もっと普通に知らないさまざまなことを、覚えて分かったほうがいい。「お金の基本」の本はまさにそのような本であり、そのような「考えて覚えて分かる本」を読めば、僕は日本語が分かるようになれる。
そして、まさにそれが答えである。僕は考えて覚えて分かる本を読めばいい。残念ながら、音楽を聴いても意味がない。音楽は聴いてそのまま右から左へと忘れていく。音楽では日本語は分からない。
考えて覚えて分かると、馬鹿が治る。
この世界にあるものを、ただ見て連想するだけではなく、覚えたことを考えて分かるようにすると、大脳が賢くなる。
そもそも、子供にはそういう人間が多い。僕がかつて賢かったのは、そのようなことが分かる子供だったからだ。
大人は誰でも馬鹿になる。狂えば認知症になるし、精神障害にもなる。そのような人間は、病気の進行を遅らせて、「覚えて考える」ということを再発見すれば治る。
この世界において、何を覚えて何を考えればどのようなことが分かるか、ということを考えよ。それだけで、馬鹿な愚か者はすべて救われる。