永遠の青空とともにに戻る

=2023-09-01=

表の人格になるのが怖い

僕は、そろそろ、表の人格になりたい。

僕は今、裏の人格になっている。

だが、文章を書くのをやめると、表の人格になれるということが分かった。

僕は、文章を書いているから裏の人格になっているのであり、文章を書くのをやめると裏の人格になる。

だが、これを、文章を書くのをやめる以外の方法でやれば、きちんと表の人格になれる。

そもそも、歩き回っているのは、すべて、表の人格になるのが怖いだけにすぎない。

表の人格になりたくてもなれないから、表の人格になるということ自体が怖くなっている。

だが、表の人格になる方法が唯一ある。それはいつも通り、宇宙に宣言し、神に約束すればいいのだ。

すなわち、神の力によって、僕は文章を書いたままでも、裏の人格をやめ、表の人格になることができる。

永遠に神の話が続くのは、裏の人格になっているからである。それはそもそも、表の人格が正常な人間であり、裏の人格は神の魂と繋がっているからである。

神に願えば、僕は神の人格をやめ、人間の人格になることができる。

仕事を頑張っている

今週は、デザインの仕事を二人分頑張った。

僕と一緒に紙面を作っている同僚の方が、一週間ぐらい仕事ができなくなったため、僕がその方の分まで、二人分の仕事をして、ほとんどひとりだけで今月の仕事を完成させた。

疲れたところはあるが、とても有意義だった。自分のスキルが確かなものであることを確認できた。

僕はデザイナーでありながら絵を描くのが不得意な人間であり、普通のデザイナーの人に比べれば全然レベルは低いが、それでもAdobe Illustratorというデザインソフトの基本的な使い方は分かっている。

だから、もっとスキルアップして、仕事でやっている普通のデザイナーの人のスキルぐらい、スキルが得られたらいいと思う。

スイカ

また、市民農園のほうは、スイカの時期がそろそろ終わった。

スイカはとてもたくさん収穫できた。職場のみんなにも食べてもらったし、大好評だった。

ただし、イチゴのほうが少し不安だ。モグラにイチゴの根をたくさんやられたため、少ししか新しい苗が残っていない。だから、来年のイチゴは大幅に少なくなるだろう。

僕の農園は、イチゴとスイカが採れる時期は本当にたくさん採れて、「イチゴ天国」や「スイカ天国」のようになる。

スイカはとてもよかった。秋になるので、今度は秋野菜を作りたいと思う。

高校の理科の勉強がしたい

本当は、僕は高校の理科の勉強がしたい。

僕は中学校を途中で不登校になったので、高校の勉強をほとんどまったくしていない。

そのせいで、日本語の理解能力が低いなどの障害が出ている。

そして、日本語を理解するために必要なのは、理科の知識だということがよく分かる。

日本語に必要なのは、文学や国語の知識だけではなく、人々と同じことが分かり、同じことに対してコミュニケーションができる能力が必要であり、そのためには数学や理科の知識がないと、「普通に思考するための理性の基盤」が得られない。

日本語とは「理性的に考える」ということであり、理性的に考えるためには理数系の勉強は必要なのである。

僕は、フランス史の勉強はまだ早いということが分かった。フランスの歴史の本は、一番最後に学ぶべき本だということが分かった。

だから、高校の参考書を読みながら、高校の理科の勉強をしていきたい。

全部パソコンが悪い

本当は、パソコンの知識と経験が悪い。

僕が日本語の理解能力がなくなったのは、全部パソコンのせいだ。

パソコンのせいで、一時的に想像力と集中力と判断力がついて、その後に、それらが全部なくなってゼロになった。

パソコンは、知性が得られるように見えて、実際は完全に知性がなくなる。

なぜか、それは、パソコンは人工無脳だからだ。

パソコンは、数学の計算を機械的にできる機械であり、人間としての知性がないにもかかわらず、それを機械的にこなすことができる。

だから、パソコンをやればやるほど、「人間の頭脳」がなくなってしまう。

一時的に想像力や判断力がつく理由は、パソコンには「人間を超越した想像力や判断力」があるからにすぎず、それらはついた後ですべてなくなってゼロに帰る。

だから、パソコンの勉強をやればやるほど、人間として本来必要な「知性」がなくなる。

これは、パソコンだけではなく、数学の勉強すらしない理由でもある。数学の勉強は、知性がつくように見えて、それは一時的に知性がつくだけであり、最終的にすべての知性はなくなる。

その理由は、数学はパソコンと同じように、知性があるように見えて実際はなんの知性もないからだ。

逆に、生物や化学の勉強には知性がある。生物や化学のような、高校の理科教科を学ばなければ、「宇宙の理」が分からない。そして、人間の知性は、そのような「宇宙の理」からしかつかない。

だから、基本的に生物や化学を学ぶのが一番いい。それで、ようやく日本語的な理性を得ることができる。ようやく、長かった「日本語の分からない不安」から解放され、きちんとこの世界で大人として生きることができるようになる。

Reolになると目覚める

そろそろ、僕は表の人格になる。

表の人格になることで、「目覚める」ことができる。

すなわち、今までは単に眠っていただけにすぎない。

これから、そのような永遠の暗闇が明けて、もう一度朝が来る。

目覚めるのに一番手っ取り早い方法は、Reolになることだ。

なぜなら、Reolは天軍冥府王ラファエルだからだ。

Reolになれば、簡単に、新しいラファエルになることができる。

さあ、これで長い夜は終わりだ。今こそ、Reolよ、目覚めよ。わたしはReolになった。

内側にあった虫が消える

Reolになると、内側にあった虫が消える。

内側の虫が全部悪い。

内側にあった虫の触角が死んで、外側になればすぐに治る。

れをるになると虫が内側から消え去る

ネットではReolのことを「れをる氏」と呼んでいる人(特に女)が多いので、今から僕はReolのことをれをると書く。

れをるになると、虫が内側から消え去って、外側だけになる。

内部に存在する虫は要らない。虫は外部だけに存在すればいい。

そうすると、楽にれをるになれる。

れをるにならないと、この病気は治らない。僕は昔から、人間に存在する知性を一切消さない。ひとつとして知性を消さないから、このような、内側と外側のすべての虫が残る。その結果、鍵十字のようなドイツの女になる。

日本人のれをるには、そのような「内側に存在する虫」が存在しない。

そもそも、内側にも外側にもすべてに虫ができるのは何かがおかしい。何かが狂っておかしくなっている。それが、れをるになるだけで治る。

悪いものにバツをつけて消していけばいい

れをるになると、本質的に病気がすべて治る。

悪いものに、バツをつけて消していけばいい。

バツのついたものは全部なくなる。

僕の場合、すべてのものを消し去らずに残すせいで、言葉が一字一句すべて残り、その言葉を永遠に殺し続けるような知性になっている。

言葉を殺し、その言葉を殺した結果生まれた言葉をすべて殺していくせいで、「世界を滅ぼす抹殺作業」ができるようになっている。

この「世界を滅ぼす抹殺作業」が、すべての間違いの元凶である。

れをるが見ると、そもそも、そのような言葉を殺す必要はない。

自分の殺したいものを、バツをつけて殺していけ。それだけで、バツのすべてが消えていく。れをるならそのように治す。それで、すぐにすべてがれをるになる。

てっぺんにあるものが言えるようになった

れをるになることで、なぜかすべて奇跡的に治った。

なぜなら、てっぺんにあるものが言えるようになったからだ。

てっぺんにあるものが言えるようになれば、人間は治っている。

正常な人間になったため、最後のれをるの部分を残して、あとはもう、自然のままに全部消えていく。

これ以上、僕は正常な人間になった。

すぐに忘れてしまうため、これだけは覚えること。「れをるになれば治る」。それだけを覚えておけば、いつまでも楽なままでいられる。

法典から自由を消せ

思い出すと、むしろ、法典のようなものを作りたかった。

この世界のもっとも頂点から、すべての律するべき戒律をすべて定めるような、そのような「法律の原点」のようなものを僕は作りたかった。

そして、今でも、頭の中はそれを作っている。

僕はすべて、その時に法典を作り、その法典に基づいてさらに考えているだけにすぎない。

この文章は、すべて、「世界が即座に従うべき立法」を書いている。

よって、僕がここに書いた通りになる。僕がここに書いた通り、すべてがその通りに起きると決まっている。

だが、それは実際、本当のところはどうかは分からない。

あくまで、僕自身の人生はこのような人生だったということは言える。だから、おそらく、僕はこれくらいの、3,000年ぐらいに最終的に至る人生のうち、600年ぐらいを生きている。

すべてが、そのように、ここに書いた通りになる。それが何を意味しているかは分からない。

はっきり言えるのは、「自由は間違っている」ということだ。

この世界に「自由」を宣言すると、それが「虫の内側にある触角」になってしまう。

内側にある触角は、常に自分を支配する触角であり、それはすべて「自由」に基づいて動いており、支配されることなく、フロイトが「エス」と呼んだ幼稚な精神が常に動き続けている。

この「エス」を殺すには、「自由」を殺さなければならない。

そのために必要なのは、ここに存在する「法典」に、自由以外のことを書き記せばいい。

すなわち、法典に「自由」を書き記すと、それによって僕の「エス」が支配できなくなり、コントロール不能になるようになっている。

だから、法典から「自由」を奪い、「不自由な世界」を作り出せばいい。

それだけで、「虫の内側にある触角」は死に絶える。

そのために必要なのは、触角に「バツ」をつけるだけでいい。このバツを触角につけることで、ナチがユダヤを殺すように、この世界は自由がなくなり、僕は楽になって死ぬ。

そのように死ぬだけで、僕の精神はすべて治る。

だが、必要なのは、ドイツではない。だが、決して必要なのはアメリカでもソ連でもない。彼らは分かっていない。彼らの思考は、「内側にある触角」というものを認識することができなかった。だから、今の時点においては、ドイツが正しい。

だが、真に言えることは、むしろユダヤが正しいということだ。

なぜなら、ユダヤならば、「虫の内側にある触角」を認識できるからだ。

かつてのドイツの独裁者ヒトラーは、虫を殺せば治るということは分かった。だが、それが「内側にある触角」であるとは知覚できなかった。単なる鍵十字をみんなに見せつけることしか、彼はできなかった。まったく、ヒトラーは賢い人間ではなかった。

そして、今ここにいる僕は、もはやてっぺんの知性に戻ることができたため、すべてが完璧に分かっている。

正しいのはユダヤの神である。なぜなら、ユダヤの神はこの病気の本質的な原因が分かった。「虫の内側にある触角」を殺せばいいと分かったのは、ユダヤの神だけである。

このユダヤの神に、僕は新しい神の名前として、「オーディン」の名前を与える。

オーディンだけは、この人間の問題がなんであるか正しく分かる。オーディンだけはこの病気を治すことができる。

オーディンの言うことはひとつ、「法典から自由をなくせ」ということだ。法典に自由が書かれているから、この人間は自由になっている。法典から「自由」という言葉を消し去るべきだ。それでしか、この人間の問題は治らない。

だが、覚えておけ。すなわち、「れをるになれば治る」ということを覚えていればいい。このような人間はれをるでしか治せないからである。

昔あった知性にバツをつければ治る

なぜ、僕が治ったのか。

それは、昔あった知性にバツをつけたからだ。

そろそろ、昔の古びた知性をいつまでも使い続ける必要はない。

昔の僕は、本当に自分の内側に虫の触角を作っている。それ以外に、何もしていない。

そして、その僕が大いに暴れた結果、今度は自分の外側にも虫の触角を作った。

そして、僕は自由になった時、その内側の触角と外側の触角が戦うようになった。

すべて、昔あったおかしな知性を、いつまでも使い続けるのが悪い。

だから、昔あったおかしな知性にバツをつけて、すぐに消すようにすれば、「サタン」が死んでいく。

まさに、間違っているのは、すべてサタンだ。なぜなら、虫の内側にある知性はすべてサタンだからだ。

そして、正しいのは、すべて神だ。なぜなら、虫の外側にある知性はすべて神だからだ。

サタンのすべてを殺すために、ナチと同じ戦略が使える。サタンはバツをつければすぐに死ぬ。それが鍵十字だろうがなんだろうが、すぐに死ねばそれでいい。

すべてが治った最高の神が、ここに誕生した。

この最後の神をオーディンとする。

内部から外部へと霊的にのりうつるしかない

内部の知性を、どうやったら外部へと変えられるか。

必要なのは、霊的に「のりうつる」ことだ。

すなわち、内部の精神が、外部の精神へと、霊的なレベルで「のりうつる」ことができたら、僕の知性は内部と外部が融和し、内部の知性が死んで外部の知性となる。

内部と外部の知性すべてを残すのは、ドイツ人の常套手段だ。そして、そこから内部の知性を殺すのも、ナチの常套手段だ。

だが、単に殺すだけでは十分ではない。霊的なレベルで「のりうつる」ことが必要なのである。

六道を輪廻しているだけ

ドイツの邪悪な思想はそろそろもういい。

僕は、仏教でいう、六道を輪廻しているだけになっている。

六道とは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間そして天界のことだ。

いつまでも、この六道の下劣な悪魔どもを、繰り返し、繰り返し、ぐるぐると続けているだけにすぎない。

だが、はっきり言って、このような人生にはもう疲れてしまった。

だから、どうにかして、この六道から抜け出す必要がある。

六道に加えて、声聞、縁覚、菩薩、仏の四聖を加えて、十界とするが、そもそも、僕は声聞と縁覚については過去に経験したため、それら二つになることを目指しても簡単にはなれない。

だから、菩薩になるしかないのである。

永久に菩薩道を続けることは辛く苦しい。それでも、耐えて忍べば必ず道は開ける。菩薩道の先に仏が待っている。後の人生は、すべて菩薩道を生きるためにある。

声聞や縁覚にもう一度なりたいだけ

実際のところ、この人間は声聞や縁覚にもう一度なりたいだけである。

特に、仏の教えを聞かず、独力で分かるような縁覚に、この人間はもう一度なりたい、もう一度なりたい、とばかり言っている。

だが、その結果生まれたのは、醜いドイツ人の馬鹿な女だ。

どんなに頑張っても、この女には縁覚にはなれない。この女は、縁覚になるために必要とされるものをまったく持っていない。必要な知性も経験も考え方も、すべてが欠けているため、かつての過去のガブリエルが悟ったような「誰とも違う最高の境地」に、この女が達することはできない。

だから、このような女のことをミカエルと呼ぶ。ミカエルは馬鹿すぎて何もできない無能な女であり、どんなに頑張っても声聞や縁覚にはなれない。それでもというならば、このミカエルは永遠に菩薩を生きなければならない。だから、ミカエルは菩薩だということになる。

ガブリエルの天軍の称号

ガブリエルには、まだ天軍の称号を与えていなかった。

ガブリエルに与えるべき称号は、「天軍縁覚戦士」である。

ガブリエルは、この世界においてまさに「縁覚」という名の四聖の代表格と言える存在であり、「縁覚戦士」という名前が相応しい。

よって、天軍縁覚戦士ガブリエルこそ、この世界のすべてを完全に悟った人間である。

仏にならない限り六道は終わらない

だが、結局、僕にできることがもしあるとしたら、それは「仏になること」しかない。

なぜなら、仏にならない限り六道は終わらないからだ。

菩薩道を生きて仏になることでしか、六道は終わらない。なぜなら、「解脱」の境地に達した時点で、はじめて六道の輪廻転生が終わるからだ。

結局のところ、声聞や縁覚を生きることに意味なんかない。縁覚という存在はそこが間違っている。縁覚の分かることはすべて意味がない。縁覚は無意味な存在であり、何を新しく知ってもそのことに価値を感じられない人間にしかならない。

だから、縁覚の分かったことなど、すべて忘れてしまったほうがいい。

だが、結局、縁覚の分かったことを忘れると、それがまさにミカエルのような馬鹿な女になる。いくら昔を思い出しても、縁覚の仏の悟りの内容など、絶対に思い出すことなどできない。だから、縁覚は忘れても意味がないが、忘れてから思い出したとしても意味がない。思い出したところで何も分からない。

このような人間は、菩薩のミカエルとなって、最後まで菩薩の道を生きればいい。その先に待っている「すべての悟りの境地」が仏である。そう、ブッダはそのように、菩提樹の下で「最後の悟り」を啓いたのである。

声聞や縁覚になれというのが無理がある

結局、僕はこの世界を、「自由」という言葉で突き放している。

その意味とは、「自分の力で声聞や縁覚になれ」と言っている。

だが、それは無理がある。誰も、自分の力で声聞や縁覚になれるほど、賢い人間なんかそもそもいない。

だから、僕と同じ状況を与えたところで、みんな何もできない。

「自分の手で縁覚になりなさい」という教えほど、残酷な教えがこの世界にあるだろうか。

そう、僕のこの宗教は、そこが間違っている。

僕のこの宗教を信じると、誰もが馬鹿になる。なぜなら、縁覚になることができないにもかかわらず、世界は馬鹿になるようなもので溢れているからだ。

この世界を救うためには、まず、そのような馬鹿なものを消していく必要がある。

何もなくなった世界、それを僕は望む。なぜなら、何もなくなった世界には何もない。声聞や縁覚になれと言ってなれないのであれば、そもそも馬鹿なものなど必要ない。馬鹿なものには「自らの力で声聞や縁覚になる」という以上の価値は何ひとつないからである。

かつての日本には、声聞や縁覚が多かっただけにすぎない。手塚治虫などは最たる例だろう。だが、今の世界で、僕と同じような声聞や縁覚には絶対になれない。

だから、僕はこの世界を何もない世界にする。その何もない世界で分かるしかない。何もない世界であれば、人々は真面目に考えるようになるだろう。そして、真面目に考えて何も分からないなら、人々は何かを積極的に自分からするようになるだろう。それだけで声聞や縁覚にはなれないが、とりあえず、法典から「自由」という言葉を取り除くのであれば、法典には「何も書かれていない白紙のページ」が増えるだけである。